後宮処刑人は、眠り香の夜に私を逃がさない

朝の門は、まだ開ききっていなかった。

後宮の外へ通じる搬入口は、炭と米俵と水桶の匂いで満ちている。下働きの列が細く伸び、荷を背負った男たちが無言で歩く。彼らの足元だけが忙しい。顔を上げると、すぐに目が合う。目が合えば、何かが始まる。だから私は顔を伏せたまま、炭俵の陰に身を寄せた。

胸の内側が、紙の角で少し痛い。

名簿の写し。
『小鈴』の二文字。
『御前香箱不正』。
『三日後 巳刻』。

紙があるだけで、私の命は数えられていく。三日。巳刻。太陽の高さまで決められている。逃げなければ、死ぬ。逃げれば、逃亡の罪が加わる。それでも――ここにいれば確実に終わる。

芽衣の言葉が背中を押した。

生きて。残して。勝て。

私は炭俵の縄を握り、列の隙間に入り込む。炭の黒が手につく。黒は目立たない。下女の色だ。目立たないことは、ここでは武器になる。

荷の列が門へ近づく。門番の男が、ぼんやりと欠伸を噛み殺しながら、札を確認している。開ききっていない門の隙間から、外の空が見えた。冬の薄い光。後宮の壁の向こうの光。あそこへ出れば、私は“名簿の内側”から、“外”になれる。

一歩。
もう一歩。

そのときだった。

空気が、変わった。

炭の匂いと米の匂いの向こうから、冷たい鉄の匂いが混じった気がした。誰かが刃を磨いた後の匂い。石と油と金属。私は思わず足を止める。

前の男が振り返る。眉を顰める。通せ、と言いたげに顎をしゃくる。私は小さく頭を下げ、もう一度足を出そうとして――出せなかった。

影が、門の前に落ちたからだ。

背の高い男が、門番の横に立っていた。衣は黒に近い濃紺。派手ではない。飾りもない。けれど、その場の全てが、その男を中心に静まっていく。荷を担ぐ男の足が止まり、門番が背筋を伸ばす。誰も声を上げない。声を上げる必要がない。声を上げたら終わる。そういう空気だ。

――処刑人。

私は、名簿に載った瞬間から、彼の顔を想像していた。誰もが恐れる後宮処刑人。命乞いを許さず、泣き声すら切り捨てる男。刃のような目をしているという噂。人の名前を、ただ“消す”ために生きている男。

けれど、目の前の男は刃のようではなかった。

刃は光る。彼の目は光らない。深い水の底みたいに、冷たく、暗い。

彼が、私の方を見た。

見られた瞬間、胸の内側の紙が重くなる。紙が私を裏切る。紙が私を叫ぶ。私は反射的に炭俵の陰へ身を引こうとして――

「止まれ」

声は低く、短い。命令だけの声。

足が止まる。止まること自体が、もう捕まったように感じた。

私はゆっくりと顔を上げた。上げなければならない。上げない者は、もっと疑われる。

男――黎は、門番に何かを告げるでもなく、荷の列を止めるでもなく、ただ私を見ている。視線だけで、私の逃亡を終わらせている。

「……何の用ですか」

声が震えないように、唇を噛んで言った。私の声は、炭の匂いの中で小さく消えそうだった。

黎は、瞬きひとつしない。

「小鈴」

名を呼ばれた。

呼ばれただけで、私は後宮の中に引き戻される。名は鎖だ。名簿に載った名は、牢だ。

「……違う」

私は言った。言ったつもりだった。声が掠れて、自分の耳にも届かない。

「私じゃない。私は、触ってない。眠り香の――」

「口にするな」

黎の声が、同じ温度で遮った。叱責ではない。警告でもない。事実を告げる声だった。口にしたら、何かが確定する言葉を、彼は知っている。

私は息を飲む。舌が冷える。

黎は一歩だけ近づいた。距離が詰まるだけで、周囲の人間が息を止めるのが分かった。門番の喉が鳴る音まで聞こえる。処刑人が動くとき、空気が動く。

「逃げるな」

再び短い命令。

「逃げれば罪が確定する」

――その言葉は、私の中にあった言葉と同じだった。なぜこの人は、私がまだ言っていない恐怖を、先に言えるのだろう。

「でも……」

私は胸の内側を押さえたくなった。名簿の紙がそこにある。証拠がそこにある。私の死刑判決がそこにある。

「私には……紙が」

黎の目が、私の手元に落ちた。布の膨らみ。名簿の写し。見抜かれた気がして、喉が詰まる。

「帳面は言い訳ではない」

彼は淡々と言った。

「帳面は――証拠だ」

その言葉が、私の胸の奥に刺さる。証拠。言い訳ではなく、証拠。下女の私にも持てる唯一の刃。

黎は続けた。

「お前はそれを持っているか」

私は一瞬迷った。持っていると言えば奪われるかもしれない。持っていないと言えば、終わる。終わる方が早い。

私は唾を飲み込み、頷いた。

「……あります」

「何が欠けている」

問いが具体的だった。人は普通、“何が起きた”を問う。彼は“何が欠けた”を問う。欠けたもの。印。単位。空白。彼は最初から、そこを見ている。

私は口を開いた。

「眠り香の出庫欄に……医官の印がありません。……空白です」

言い終えた瞬間、周囲の空気がさらに冷えた気がした。眠り香という言葉は、やっぱり危険だ。危険な匂いが、口から漏れた。

黎は、表情を変えない。

ただ、ほんの少しだけ顎を引いた。それが肯定なのか、確認なのか、私には分からない。

「……分かった」

言葉はそれだけだった。冷たいのに、なぜか足元が少しだけ固くなる。頼るつもりはないのに、支えが置かれたような感覚。

「なら生きろ」

黎の声が落ちた。

「生きて提出しろ」

「提出……誰に」

私は思わず問う。下女の私が提出した紙は、握り潰される。掟がそう決まっている。

黎は私を見たまま、言った。

「私に」

その一言が、刃より怖かった。

後宮処刑人。名を消す男。
その男に、証拠を渡す。

助かるのか。殺されるのか。分からない。分からないのに、選択肢がそこしかないことだけが分かる。

私は震える指で、胸の内側の紙に触れた。紙の角が指先に当たる。痛みが現実を繋ぐ。

「……どうして」

私の声は、掠れていた。

「どうして、私を……」

“助けるのか”と言いかけて、飲み込んだ。助ける、なんて言葉は、この男には似合わない。似合わない言葉を口にした瞬間、私はまた殺される気がした。

黎は少しだけ目を細めた。細めたというより、光の入る隙を消した。

「理由は要らない」

そして、冷たく付け足す。

「お前が死ねば、真犯人が笑う」

――優しさじゃない。正義でもない。
ただ、真犯人を殺すために、私を生かす。

その冷酷さに、私は喉の奥が熱くなるのを感じた。泣きそうになって、歯を食いしばる。

黎は門番に向けて、初めて視線を流した。

「通すな。……この女は私の管轄だ」

門番が瞬時に頷く。誰も逆らわない。逆らえない。権限が、声の背後にある。

私は、門の隙間の光を見た。外の光が、遠くなった。

逃げ道が閉じる音がした気がした。けれど同時に、別の道が開いた音もした。

処刑人の影の中に。
私は、戻る。