香具係の庫を出ると、廊下の空気が一段冷たく感じた。
湿った石床の上を、草履の音だけが小さく続く。早朝の後宮は静かだ。静かなぶん、遠くの気配がよく聞こえる。どこかで水桶を置く音。誰かの咳。衣擦れ。笑い声は、ない。笑い声は、上の方にしか許されない。
私は写し用の紙を抱えていた。抱えているのは紙だけなのに、腕が重い。あの空白――医官印のない眠り香の行が、手のひらに貼りついて離れない。
「小鈴」
背後から呼ばれて、私は足を止めた。振り返ると、同じ下女の芽衣(めい)が、廊の柱の影から手招きしている。顔が青白い。唇が乾いているのが、遠目にも分かった。
「……どうしたの」
声を潜めたつもりだったが、芽衣はさらに小さく言った。
「来て。早く」
連れて行かれたのは、配膳場の裏――炭と桶が積まれた狭い物置だった。ここなら耳が届きにくい。けれど、だからこそ言葉が怖い。
芽衣は扉を背にして、息を一度吐いた。
「名簿が……出た」
「……名簿?」
私の喉がきゅっと縮んだ。後宮で「名簿」と言われて、いい意味はひとつもない。人員の入れ替え。配置転換。罰。追放。――そして、処刑。
芽衣は頷いた。頷く動きだけで、答えが出てしまう。
「処刑予定者名簿。今日の昼、掲示板に貼り出されるって。……もう写しが回ってる」
「写し……」
私の手の中の紙が、急に薄く頼りなく見えた。写しは残る。残るから怖い。残るから、逃げられない。
芽衣は懐から折り畳まれた紙片を出した。粗い和紙で、端が少し破れている。誰かが急いで写したのだろう。墨の線が滲んでいる。
「見て……」
私は首を振りかけた。見たくない。見たら確定する。けれど――見ない方が死ぬ。
紙片を受け取る。指先が冷たい。紙も冷たい。
そこには、縦に並んだ名前があった。下女の名。小者の名。捨てやすい名。最後に、罪状が簡単に添えられている。読み慣れた文字なのに、目が滑る。
一番下まで辿って、私は息を止めた。
――小鈴。
自分の名が、墨で書かれている。いつも自分が帳面に書いてきた字とは違う。少し尖っている。けれど、間違いなく「小鈴」だった。
隣に小さく、罪状。
『御前香箱不正』
その下に、日付。
『三日後 巳刻』
喉の奥が、急に熱くなった。吐き気に似ているのに、吐けない熱。声も出ない。視界の端が、紙の白さに滲んだ。
「小鈴……」
芽衣が私の腕を掴む。力は弱いのに、逃がさない力だ。
「違う……」
やっと声が出た。自分の声が、遠い。
「私じゃない。私、触ってない。眠り香の……」
「言わないで」
芽衣が被せるように言った。声が震えている。
「“眠り香”って言葉、口にしない方がいい。……昨日の夜、香具係の上役、途中で倒れたって。配膳場でも、二人、急に眠ったって。変だよね。こんなの……」
言葉が胸に刺さる。
香が動いた夜。都合よく、目撃者が眠る。
空白の医官印。単位の違い。真似た字。
私は、あの空白を見てしまった。
「……私、見つけたの」
唇が勝手に動いた。芽衣の目が大きく開く。
「帳面に……印がない。空白が……」
「やめて」
芽衣は私の口元に指を当てた。荒い皮膚。炭の匂いがした。
「それ、言ったら死ぬ。……名簿に載った時点で、もう“決まった”んだよ。下の者の口で覆せない。覆そうとしたら、消される」
消される。
後宮では、その言葉は比喩じゃない。昨日までいた人が、今日いない。名前が消える。席が消える。噂が消える。何もなかったことになる。誰も覚えていないふりをする。
私は紙片を握り締めた。紙がくしゃりと鳴る。鳴ったのは紙だけではない。胸の中も、どこかが折れる音がした。
「……私、どうしたら」
芽衣は唇を噛み、目を伏せた。
「逃げるしか……ない」
その瞬間、体の奥がひやりとした。逃げる。逃げれば、罪が確定する。――そんな言葉が、まだ聞いてもいないのに、私の中にあった。後宮の空気がそう言う。逃げる者は、悪い者だと。
「でも、逃げたら……」
「生きる方が先だよ」
芽衣が珍しく強い声を出した。
「死んだら、何も残らない。小鈴、あんた、帳面を読む目があるんでしょ。だったら……残して。残してから、勝て」
残す。
写し。
紙。
さっき、自分に言い聞かせたばかりだった。言葉は消える。紙だけが残る。なら、残すしかない。証拠を、残す。残して、生きる。
けれど、名簿に載った今、私はもう自由に動けない。逃げようとした瞬間、捕まる。捕まったら、名簿の隣の空白が埋まるだけだ。『逃亡』と。
物置の外で、足音がした。二人の足音。近い。話し声。配膳の指示。平然とした日常。日常は、私の名が死ぬのを待っている。
芽衣が耳を澄ませ、私の肩を押した。
「今すぐじゃない。昼の貼り出しの前なら、まだ……」
「門が閉まる」
私が呟くと、芽衣は頷いた。
「……だから、朝のうち。荷の出入りに紛れて。炭の搬入の列がある。あの列なら――」
芽衣が言いかけたとき、物置の外で声がした。
「下女、そこにいるのは誰だ」
背筋が凍る。声は男の声だった。役人の声。呼び止められるだけで、足が重くなる声。
芽衣が私の腕を引いた。
「ここから出るな。返事もするな」
息を止める。心臓がうるさい。紙片を握り締めて、痛いほどに。
外の男は足を止めた。しばらくして、去る足音が遠ざかる。
――助かった。
私の肺に空気が戻る。戻った空気が、苦い。
芽衣が囁く。
「小鈴。紙は?」
私は握り締めた紙片を見た。名簿の写し。これがある限り、私は処刑される。けれど、これがなければ、私は“消される”。なかったことにされる。罪も、死も、全部。
私は紙片を折り畳み、胸の内側に押し込んだ。布の温度が少しだけ暖かい。
「持つ。捨てない」
芽衣が小さく息を吐いた。
「……あんた、怖いね」
「怖いよ」
私は正直に言った。怖い。震えている。けれど、震えは線になる。線は記録になる。記録は、嘘を暴く。
「逃げる」
声に出した瞬間、言葉が現実になる。現実は、足を動かす。
「芽衣、ありがとう」
「礼なんかいらない。……生きて」
芽衣の目が濡れていた。泣いている暇がない涙だ。
私は物置の隙間から廊を覗いた。いつもの朝。誰も、私が三日後に死ぬことを気にしない。後宮はそういう場所だ。
だから、私はここから外へ出る。
外へ出て、生きて――紙を残す。
廊の向こうで、鈴が鳴った。呼び出しの鈴。誰かの終わりの鈴。
私は胸の中の紙片を確かめるように押さえ、静かに物置の扉を開けた。
湿った石床の上を、草履の音だけが小さく続く。早朝の後宮は静かだ。静かなぶん、遠くの気配がよく聞こえる。どこかで水桶を置く音。誰かの咳。衣擦れ。笑い声は、ない。笑い声は、上の方にしか許されない。
私は写し用の紙を抱えていた。抱えているのは紙だけなのに、腕が重い。あの空白――医官印のない眠り香の行が、手のひらに貼りついて離れない。
「小鈴」
背後から呼ばれて、私は足を止めた。振り返ると、同じ下女の芽衣(めい)が、廊の柱の影から手招きしている。顔が青白い。唇が乾いているのが、遠目にも分かった。
「……どうしたの」
声を潜めたつもりだったが、芽衣はさらに小さく言った。
「来て。早く」
連れて行かれたのは、配膳場の裏――炭と桶が積まれた狭い物置だった。ここなら耳が届きにくい。けれど、だからこそ言葉が怖い。
芽衣は扉を背にして、息を一度吐いた。
「名簿が……出た」
「……名簿?」
私の喉がきゅっと縮んだ。後宮で「名簿」と言われて、いい意味はひとつもない。人員の入れ替え。配置転換。罰。追放。――そして、処刑。
芽衣は頷いた。頷く動きだけで、答えが出てしまう。
「処刑予定者名簿。今日の昼、掲示板に貼り出されるって。……もう写しが回ってる」
「写し……」
私の手の中の紙が、急に薄く頼りなく見えた。写しは残る。残るから怖い。残るから、逃げられない。
芽衣は懐から折り畳まれた紙片を出した。粗い和紙で、端が少し破れている。誰かが急いで写したのだろう。墨の線が滲んでいる。
「見て……」
私は首を振りかけた。見たくない。見たら確定する。けれど――見ない方が死ぬ。
紙片を受け取る。指先が冷たい。紙も冷たい。
そこには、縦に並んだ名前があった。下女の名。小者の名。捨てやすい名。最後に、罪状が簡単に添えられている。読み慣れた文字なのに、目が滑る。
一番下まで辿って、私は息を止めた。
――小鈴。
自分の名が、墨で書かれている。いつも自分が帳面に書いてきた字とは違う。少し尖っている。けれど、間違いなく「小鈴」だった。
隣に小さく、罪状。
『御前香箱不正』
その下に、日付。
『三日後 巳刻』
喉の奥が、急に熱くなった。吐き気に似ているのに、吐けない熱。声も出ない。視界の端が、紙の白さに滲んだ。
「小鈴……」
芽衣が私の腕を掴む。力は弱いのに、逃がさない力だ。
「違う……」
やっと声が出た。自分の声が、遠い。
「私じゃない。私、触ってない。眠り香の……」
「言わないで」
芽衣が被せるように言った。声が震えている。
「“眠り香”って言葉、口にしない方がいい。……昨日の夜、香具係の上役、途中で倒れたって。配膳場でも、二人、急に眠ったって。変だよね。こんなの……」
言葉が胸に刺さる。
香が動いた夜。都合よく、目撃者が眠る。
空白の医官印。単位の違い。真似た字。
私は、あの空白を見てしまった。
「……私、見つけたの」
唇が勝手に動いた。芽衣の目が大きく開く。
「帳面に……印がない。空白が……」
「やめて」
芽衣は私の口元に指を当てた。荒い皮膚。炭の匂いがした。
「それ、言ったら死ぬ。……名簿に載った時点で、もう“決まった”んだよ。下の者の口で覆せない。覆そうとしたら、消される」
消される。
後宮では、その言葉は比喩じゃない。昨日までいた人が、今日いない。名前が消える。席が消える。噂が消える。何もなかったことになる。誰も覚えていないふりをする。
私は紙片を握り締めた。紙がくしゃりと鳴る。鳴ったのは紙だけではない。胸の中も、どこかが折れる音がした。
「……私、どうしたら」
芽衣は唇を噛み、目を伏せた。
「逃げるしか……ない」
その瞬間、体の奥がひやりとした。逃げる。逃げれば、罪が確定する。――そんな言葉が、まだ聞いてもいないのに、私の中にあった。後宮の空気がそう言う。逃げる者は、悪い者だと。
「でも、逃げたら……」
「生きる方が先だよ」
芽衣が珍しく強い声を出した。
「死んだら、何も残らない。小鈴、あんた、帳面を読む目があるんでしょ。だったら……残して。残してから、勝て」
残す。
写し。
紙。
さっき、自分に言い聞かせたばかりだった。言葉は消える。紙だけが残る。なら、残すしかない。証拠を、残す。残して、生きる。
けれど、名簿に載った今、私はもう自由に動けない。逃げようとした瞬間、捕まる。捕まったら、名簿の隣の空白が埋まるだけだ。『逃亡』と。
物置の外で、足音がした。二人の足音。近い。話し声。配膳の指示。平然とした日常。日常は、私の名が死ぬのを待っている。
芽衣が耳を澄ませ、私の肩を押した。
「今すぐじゃない。昼の貼り出しの前なら、まだ……」
「門が閉まる」
私が呟くと、芽衣は頷いた。
「……だから、朝のうち。荷の出入りに紛れて。炭の搬入の列がある。あの列なら――」
芽衣が言いかけたとき、物置の外で声がした。
「下女、そこにいるのは誰だ」
背筋が凍る。声は男の声だった。役人の声。呼び止められるだけで、足が重くなる声。
芽衣が私の腕を引いた。
「ここから出るな。返事もするな」
息を止める。心臓がうるさい。紙片を握り締めて、痛いほどに。
外の男は足を止めた。しばらくして、去る足音が遠ざかる。
――助かった。
私の肺に空気が戻る。戻った空気が、苦い。
芽衣が囁く。
「小鈴。紙は?」
私は握り締めた紙片を見た。名簿の写し。これがある限り、私は処刑される。けれど、これがなければ、私は“消される”。なかったことにされる。罪も、死も、全部。
私は紙片を折り畳み、胸の内側に押し込んだ。布の温度が少しだけ暖かい。
「持つ。捨てない」
芽衣が小さく息を吐いた。
「……あんた、怖いね」
「怖いよ」
私は正直に言った。怖い。震えている。けれど、震えは線になる。線は記録になる。記録は、嘘を暴く。
「逃げる」
声に出した瞬間、言葉が現実になる。現実は、足を動かす。
「芽衣、ありがとう」
「礼なんかいらない。……生きて」
芽衣の目が濡れていた。泣いている暇がない涙だ。
私は物置の隙間から廊を覗いた。いつもの朝。誰も、私が三日後に死ぬことを気にしない。後宮はそういう場所だ。
だから、私はここから外へ出る。
外へ出て、生きて――紙を残す。
廊の向こうで、鈴が鳴った。呼び出しの鈴。誰かの終わりの鈴。
私は胸の中の紙片を確かめるように押さえ、静かに物置の扉を開けた。



