処刑台の庭を離れると、後宮の音が戻ってきた。
桶の水音。衣擦れ。遠い笑い声。遠い咳。どれも昨日までと同じはずなのに、今日は少しだけ違って聞こえる。私の耳が変わったのだ。名を呼ばれ、名が残り、命が残った耳。
任命状は袖の内側にしまった。紙は薄いのに、胸のところが少し重い。重いのは不安ではない。重いのは、これから残さなければならないものの重さだ。
黎は私の二歩前を歩いている。相変わらずの歩幅。相変わらずの背中。公の場で裁きを行った人の背中なのに、振り返らない。振り返って慰めたりしない。慰めは証拠にならない。そういう人だ。
廊を曲がり、いつもの離れへ戻る。鍵の音。硬い音。扉が閉まる音。今日も閉じ込められる音は同じだ。けれど、今日の鍵は“牢”ではなく“守り”に聞こえた。
黎が部屋の隅で立ち止まり、ようやく私に視線を向けた。
「怪我はないか」
初めて、そんな言葉を聞いた気がした。優しさではない。確認だ。道具が壊れていないかの確認。それでも、胸が痛むのはどうしてだろう。
「……ありません」
私は答えた。答えながら、自分がちゃんと息をしていることに気づく。処刑台では、息をしているのに息ができなかった。今はできる。
沈黙が落ちる。
沈黙は、終わった後の沈黙だ。終わった後ほど怖い沈黙はない。終わったはずなのに、終わっていない気がする。後宮では、終わったことが後から書き替えられる。だから私は、終わったことを紙に残さなければならない。
私は机へ向かった。机の上には、昨夜まで使っていた墨壺と筆。写しの紙。封紙の図。巡回記録の控え。全部が散らばっている。散らばっているものを整えるのが、私の役目になった。香具係の帳付け。記録を残す者。
私は任命状を取り出し、そっと机の端に置いた。朱印の赤が、薄暗い部屋で小さく光る。
黎はその赤を一瞬だけ見て、すぐに目を逸らした。朱印は、人を生かしも殺しもする。彼にとって朱印は、刃と同じだろう。
「今日の記録は、私がまとめる」
黎が言った。まとめる。自分の手で握る。握れば安全だ。握れば、私の名も守れる。
「……私も書きます」
私は言った。言ってしまった。言うつもりはなかった。けれど言わずにはいられなかった。書くのは私の手だ。私が書かなければ、私はまた誰かの紙になる。
黎の目がわずかに細くなる。
「必要ない」
「必要です」
私の声が少しだけ強くなった。強くなるのが怖い。怖いのに、止められない。止めれば、私はまた下女のまま戻る気がした。
「私の名は、今日ここで残りました。——でも、残るのは今日だけじゃない」
私は息を吸って、続ける。
「明日も、来月も、誰かが『小鈴は消せる』と思ったら、また消されます。だから、私が書きます。私の字で、私の線で」
線。線は嘘をつかない。線は私の階段だ。
黎は黙った。黙って、私を見ている。光のない目。けれど今日は、その暗さが怖くない。暗いから、余計な感情が混じらない。混じらないから、約束が残る。
私は筆を取った。墨をすった。墨の匂いが、香の匂いに混じる。後宮の匂いの中で、墨の匂いだけは嘘がない。嘘をつかない匂い。
紙を一枚、机の中央に置く。
香帳――新しい帳面はまだ支給されていない。けれど、書き始めるのに帳面は要らない。紙があればいい。紙があれば残る。残れば、消しにくい。
私は筆を落とす前に、黎を見た。
「黎さま」
名を呼んでしまった。呼んだ瞬間、背筋が冷える。ここは公の場ではない。けれど後宮は、壁に耳がある。名を呼べば噂が生まれる。噂は刃にもなる。
黎の眉が微かに動いた。
「呼ぶな」
短い。いつもの冷たさ。
「ここは公だ」
私は唇を噛んだ。公。公という言葉が、今は武器だ。武器なら、使うべきだ。
私は顔を上げ、声を整えた。
「だから呼びます」
言い切った瞬間、自分の心臓の音が大きくなった。怖い。怖いのに、言ってしまった。
「私の名を、あなたが公にしたから」
黎の視線が、初めてほんの僅かに揺れた気がした。気のせいかもしれない。けれど私は、その気のせいにすがらない。すがればまた下女の恋になる。私は下女の恋で死にたくない。
「あなたの冷酷さが、私を生かしました」
私は続けた。言葉は消える。けれど今、この部屋の中では、言葉が残る。残ってほしい言葉は、言わなければ残らない。
黎は一瞬、口を開きかけて、閉じた。言葉を選ぶ間。彼はいつもそうだ。慰めの言葉を探す間ではない。必要な言葉を選ぶ間。
やがて、低く言った。
「……なら、生きろ」
短い。冷たい。けれど、これ以上の祝福は後宮にはない。
「次の行を書け」
私は小さく笑ってしまいそうになった。笑ったら泣く。泣いたら手が震える。手が震えたら線が乱れる。私は笑いを飲み込み、筆先を紙に当てた。
最初の線は、まっすぐ引く。
――香帳、第一行。
私は字を書き始める。
『担当:小鈴』
自分の名を書く。自分の名を、自分の手で書く。書いた瞬間、胸の奥に何かが戻ってくる。私の骨。私の重さ。私の存在。
私は筆を止めずに、次の一行を書き足した。
『確認:眠り香 医官印欠落 封紙貼り直し痕 巡回記録一致』
今日のことを、今日のうちに紙にする。紙にすれば残る。残れば、消すには理由が要る。理由を言えば痕が残る。痕は証拠になる。
私は筆を置き、息を吐いた。
黎がその紙を見ていた。目の光はない。けれど、紙の上の字だけは確かに見ている。
私は最後に、もう一度だけ言った。
「黎さま」
今度は、さっきよりも静かに。挑むのではなく、呼び返すように。名は鎖にもなるけれど、呼び返せば、鎖は輪になる。
黎は短く息を吐き、目を逸らさずに言った。
「……小鈴」
たった二文字。
私の名。
私の選び返し。
私は胸の奥が熱くなるのを感じながら、紙をそっと折った。折った紙を、任命状の隣に置く。朱印の赤と、私の黒い字が並ぶ。
後宮では、言葉は消える。
けれど、紙は残る。
紙が残る限り、私は消されない。
そして、名を呼び返した限り――私はもう、ただの下女ではない。
桶の水音。衣擦れ。遠い笑い声。遠い咳。どれも昨日までと同じはずなのに、今日は少しだけ違って聞こえる。私の耳が変わったのだ。名を呼ばれ、名が残り、命が残った耳。
任命状は袖の内側にしまった。紙は薄いのに、胸のところが少し重い。重いのは不安ではない。重いのは、これから残さなければならないものの重さだ。
黎は私の二歩前を歩いている。相変わらずの歩幅。相変わらずの背中。公の場で裁きを行った人の背中なのに、振り返らない。振り返って慰めたりしない。慰めは証拠にならない。そういう人だ。
廊を曲がり、いつもの離れへ戻る。鍵の音。硬い音。扉が閉まる音。今日も閉じ込められる音は同じだ。けれど、今日の鍵は“牢”ではなく“守り”に聞こえた。
黎が部屋の隅で立ち止まり、ようやく私に視線を向けた。
「怪我はないか」
初めて、そんな言葉を聞いた気がした。優しさではない。確認だ。道具が壊れていないかの確認。それでも、胸が痛むのはどうしてだろう。
「……ありません」
私は答えた。答えながら、自分がちゃんと息をしていることに気づく。処刑台では、息をしているのに息ができなかった。今はできる。
沈黙が落ちる。
沈黙は、終わった後の沈黙だ。終わった後ほど怖い沈黙はない。終わったはずなのに、終わっていない気がする。後宮では、終わったことが後から書き替えられる。だから私は、終わったことを紙に残さなければならない。
私は机へ向かった。机の上には、昨夜まで使っていた墨壺と筆。写しの紙。封紙の図。巡回記録の控え。全部が散らばっている。散らばっているものを整えるのが、私の役目になった。香具係の帳付け。記録を残す者。
私は任命状を取り出し、そっと机の端に置いた。朱印の赤が、薄暗い部屋で小さく光る。
黎はその赤を一瞬だけ見て、すぐに目を逸らした。朱印は、人を生かしも殺しもする。彼にとって朱印は、刃と同じだろう。
「今日の記録は、私がまとめる」
黎が言った。まとめる。自分の手で握る。握れば安全だ。握れば、私の名も守れる。
「……私も書きます」
私は言った。言ってしまった。言うつもりはなかった。けれど言わずにはいられなかった。書くのは私の手だ。私が書かなければ、私はまた誰かの紙になる。
黎の目がわずかに細くなる。
「必要ない」
「必要です」
私の声が少しだけ強くなった。強くなるのが怖い。怖いのに、止められない。止めれば、私はまた下女のまま戻る気がした。
「私の名は、今日ここで残りました。——でも、残るのは今日だけじゃない」
私は息を吸って、続ける。
「明日も、来月も、誰かが『小鈴は消せる』と思ったら、また消されます。だから、私が書きます。私の字で、私の線で」
線。線は嘘をつかない。線は私の階段だ。
黎は黙った。黙って、私を見ている。光のない目。けれど今日は、その暗さが怖くない。暗いから、余計な感情が混じらない。混じらないから、約束が残る。
私は筆を取った。墨をすった。墨の匂いが、香の匂いに混じる。後宮の匂いの中で、墨の匂いだけは嘘がない。嘘をつかない匂い。
紙を一枚、机の中央に置く。
香帳――新しい帳面はまだ支給されていない。けれど、書き始めるのに帳面は要らない。紙があればいい。紙があれば残る。残れば、消しにくい。
私は筆を落とす前に、黎を見た。
「黎さま」
名を呼んでしまった。呼んだ瞬間、背筋が冷える。ここは公の場ではない。けれど後宮は、壁に耳がある。名を呼べば噂が生まれる。噂は刃にもなる。
黎の眉が微かに動いた。
「呼ぶな」
短い。いつもの冷たさ。
「ここは公だ」
私は唇を噛んだ。公。公という言葉が、今は武器だ。武器なら、使うべきだ。
私は顔を上げ、声を整えた。
「だから呼びます」
言い切った瞬間、自分の心臓の音が大きくなった。怖い。怖いのに、言ってしまった。
「私の名を、あなたが公にしたから」
黎の視線が、初めてほんの僅かに揺れた気がした。気のせいかもしれない。けれど私は、その気のせいにすがらない。すがればまた下女の恋になる。私は下女の恋で死にたくない。
「あなたの冷酷さが、私を生かしました」
私は続けた。言葉は消える。けれど今、この部屋の中では、言葉が残る。残ってほしい言葉は、言わなければ残らない。
黎は一瞬、口を開きかけて、閉じた。言葉を選ぶ間。彼はいつもそうだ。慰めの言葉を探す間ではない。必要な言葉を選ぶ間。
やがて、低く言った。
「……なら、生きろ」
短い。冷たい。けれど、これ以上の祝福は後宮にはない。
「次の行を書け」
私は小さく笑ってしまいそうになった。笑ったら泣く。泣いたら手が震える。手が震えたら線が乱れる。私は笑いを飲み込み、筆先を紙に当てた。
最初の線は、まっすぐ引く。
――香帳、第一行。
私は字を書き始める。
『担当:小鈴』
自分の名を書く。自分の名を、自分の手で書く。書いた瞬間、胸の奥に何かが戻ってくる。私の骨。私の重さ。私の存在。
私は筆を止めずに、次の一行を書き足した。
『確認:眠り香 医官印欠落 封紙貼り直し痕 巡回記録一致』
今日のことを、今日のうちに紙にする。紙にすれば残る。残れば、消すには理由が要る。理由を言えば痕が残る。痕は証拠になる。
私は筆を置き、息を吐いた。
黎がその紙を見ていた。目の光はない。けれど、紙の上の字だけは確かに見ている。
私は最後に、もう一度だけ言った。
「黎さま」
今度は、さっきよりも静かに。挑むのではなく、呼び返すように。名は鎖にもなるけれど、呼び返せば、鎖は輪になる。
黎は短く息を吐き、目を逸らさずに言った。
「……小鈴」
たった二文字。
私の名。
私の選び返し。
私は胸の奥が熱くなるのを感じながら、紙をそっと折った。折った紙を、任命状の隣に置く。朱印の赤と、私の黒い字が並ぶ。
後宮では、言葉は消える。
けれど、紙は残る。
紙が残る限り、私は消されない。
そして、名を呼び返した限り――私はもう、ただの下女ではない。



