後宮処刑人は、眠り香の夜に私を逃がさない

処刑台の庭は、妙に静かだった。

ざわめきが消えたのではない。ざわめきが“飲み込まれた”のだ。公の場で、御前の名が記録された瞬間、誰もが息を潜める。息を潜めても遅い。紙はもう走っている。走った紙は戻らない。戻らないものほど怖い。

御簾付きの輿の周りで、女官たちが小さく動いた。動きは整っているのに、乱れが混じる。乱れは焦りだ。焦りは上ほど見せたくない。見せたくないものが見えた時点で、もう負けている。

調書係の筆が止まり、印係が朱印を押す音がした。ぺたり、と。赤が紙に残る。赤は血より軽いのに、後宮では血より重い。朱印は、人を生かしも殺しもする。

黎は台の前に立ったまま、誰にも視線を合わせずに言った。

「確認は終わった」

声が淡々としているのに、庭全体がその声に従って沈黙する。処刑人の声は、後宮の“終わり”を決める声だ。今日は、その声が私の終わりを消した。

「被告——小鈴」

私の名が、もう一度公の場で呼ばれる。昨日まで、その呼び方は鎖だった。今は、鎖ではない。存在の輪郭だ。消されない輪郭。

「前へ」

私は一歩出た。足がまだ震えている。震えを止められない。止める必要もない。震えは、私が下からここまで来た証だ。

台の下では、香頭の侍女が膝をついたまま顔を伏せている。使い走りの下女は泣き崩れている。御簾の内側の気配は、硬く固まっている。あらゆる視線が、私を測っている。下女が処刑台で生き残る瞬間は、見世物になる。後宮は見世物が好きだ。見世物にすることで、明日の自分を安心させる。

黎は私を見た。

目の奥に光はない。けれど、逃げ道を塞ぐ冷たさの中に、奇妙な“確かさ”がある。彼は私を慰めない。抱きしめない。代わりに、名を残す。

「罪状は成立しない」

一言で断定する。断定された瞬間、私は初めて「助かった」と認められる。自分の中で、やっと現実になる。

私は息を吐いた。吐いた息が白くなる。白い息が、冬の空へほどけていく。ほどけるのを見て、涙が出そうになる。出したら震える。震えたらみっともない。そう思った瞬間、私は自分がまだ“下女の癖”を持っていることに気づいた。下女は泣くのも許されないと思い込む。

黎は続けた。

「ただし、お前には役目がある」

役目。

下女に役目という言葉が降りるとき、それはだいたい罰か、使い捨てだ。私は一瞬だけ身構えた。身構えた自分を、黎は見抜いたようだった。

「記録を残す役目だ」

私は目を見開く。記録。紙。写し。私が握ってきた刃。

黎が調書係へ顎をしゃくる。調書係が一枚の紙を差し出した。薄い任命状のような紙。空欄があり、最後に朱印の枠がある。

「本日より」

黎の声が庭に落ちる。

「小鈴を、香具係の帳付けに任ずる」

帳付け。

香具係の中でも“文字を扱う”役。下女が触れてはいけないと言われた帳面に、触れる役。触れるどころか、書く役。

周囲がわずかにざわめく。ざわめきが声にならない。声にならないざわめきは、反対できない証拠だ。反対できない。なぜなら、任命が公の場で宣言されたから。

香頭の侍女が膝をついたまま、小さく首を振った。嫌だ、と言いたいのだろう。言えない。言えば自分の罪が確定する。後宮では、言葉は刃だ。握る手が震えれば、自分を切る。

誰かが、耐えきれずに漏らした。

「下女が……帳付け?」

「身の程を——」

声は途中で消えた。消えたのは、黎が視線を向けたからだ。向けただけで、声が凍る。

黎は淡々と、しかし明確に言い切った。

「下女ではない」

その一言に、庭の空気が張り詰める。

「名のある者だ」

名。

私は胸が痛くなった。名は鎖だった。名は牢だった。けれど、名は階段にもなる。名がある者は、消されにくい。消すには理由が要る。理由は記録される。記録は刃になる。

黎が続けた。

「小鈴の名は、今日ここで記録された」

調書係の紙の上に、私の名がある。朱印もある。紙がある限り、私は“なかったこと”にされにくい。

「この任命も記録する」

印係が朱印を押す。ぺたり。赤が残る。

私は息を呑んだ。赤は怖い。赤が押されるたび、誰かが決まる。生かされるか、殺されるか。今日は、生かされる赤だ。

黎が任命状を私に差し出した。

「受け取れ」

私は両手で受け取った。紙が薄いのに、重い。重いのは、紙の重さではない。私の今までの軽さが、ここで変わる重さだ。

「……はい」

声が小さく震えた。震えているのに、消えない。公の場の声は残る。残ることが怖いのに、今日は残ってほしい。

黎が、最後に私の名をもう一度呼んだ。

「小鈴」

呼び方が変わらないのが、逆にありがたい。甘くならない。甘くならないから、ここが夢ではないと分かる。

「記録を残せ」

命令。けれど、私にとっては贈り物だ。記録を残す者は、消されにくい。消される側から、残す側へ。シンデレラの階段は、ガラスではなく紙でできている。

私は任命状を胸に抱いた。胸の中の名簿の写しは、もう“処刑予定”ではない。逆転の証だ。

庭の隅で、冬の風が吹いた。香の匂いが流れ、石の冷たさが肌に触れる。それでも私は、今この場で、呼吸ができている。

――公の場で呼ばれた名は、鎖ではなくなる。

私はそう思った。
そして、その名を残したのは――処刑人の冷酷さだった。