台の前の空気が、さらに薄くなる。
人が増えたのに、息が減る。誰もが呼吸を小さくし、目だけを動かしている。目は言葉より饒舌だ。目は「自分は関わっていない」と叫ぶ。けれど、処刑台に立った時点で、もう関わっている。公の場は残酷だ。残酷だから、公正に近い。
調書係が紙を広げ、読み上げを始めた。
「罪状。御前香箱不正。被告――下女、小鈴」
被告。私はそこに立っている。縄はまだ。刃もまだ。だが、言葉だけで首に縄がかかる気がした。
黎が一歩、台の中央に出た。
「確認」
短い声。刃の落ちる前の静けさ。
「本件は、香箱不正ではない」
調書係が目を見開く。香頭の侍女が一瞬だけ顔を引きつらせた。医官が眉を寄せる。巡回係が唾を飲む。
御簾付きの輿のあたりで、絹の擦れる音がした。高位妃の気配が動く音。
黎は淡々と続ける。
「眠り香の不正出庫と、それに伴う口封じである」
言い切った瞬間、場の温度が下がった。眠り香。口封じ。御簾の奥の声が一瞬止まった気がした。止まったということは、動揺だ。
香頭の侍女が声を絞り出す。
「処刑人。香の話は――」
「口を挟むな」
黎の声が落ちた。怒鳴りではない。だが、刃より鋭い。香頭の侍女は言葉を飲み込む。飲み込んだ言葉が、喉に刺さったのが見えた。
黎が調書係に命じる。
「罪状を訂正するな。手続き通りに確認する。——確認により、罪状を確定する」
調書係の手が震えた。後宮で罪状を“確定する”ことは、上の者の特権に触れる。だが、処刑手続きは公だ。公の場で、手続きを止める理由が要る。理由を言えば痕が残る。痕は証拠になる。誰もそれを望まない。
黎は視線を巡らせた。
「香頭。眠り香の出庫には何が必要だ」
香頭の侍女が唇を噛む。
「……医官の許可印です」
小さな声。出したくない答えほど、小さくなる。
黎は医官へ目を向ける。
「医官。昨夜、眠り香の許可を出したか」
医官が顔色を変え、首を振る。
「出しておりません。眠り香は……昨夜、記録上は動いていないはずです」
記録上は。つまり、記録が嘘なら動いている。嘘なら、誰かが書いた。
黎が調書係に言う。
「香具係の出納帳を出せ」
香頭の侍女が一瞬ためらい、役人が香帳を持って上がってきた。厚い帳面。朱印が並び、紙の端が毛羽立っている。私はその毛羽立ちを覚えている。昨日、指先で触れた紙だ。
黎は帳面を開き、該当箇所を示した。
「眠り香。出庫量二匁。担当者名あり。——医官印、なし」
場がざわつく。ざわつきは声にならない。声にならないざわつきが、処刑台の石に吸い込まれる。
黎が淡々と言う。
「許可印がない香は動かせない。動かせば、手続き違反だ」
香頭の侍女が反射的に言い訳を探す。
「……印は、後で——」
「後ではない」
黎が遮った。
「印は許可だ。許可が後なら、それは許可ではなく、隠蔽だ」
隠蔽。御簾のあたりで空気が揺れた。高位妃の怒りか、焦りか。
黎は次に、帳面の数字を指でなぞる。
「単位が一箇所だけ乱れている」
調書係が身を乗り出す。
「乱れている?」
黎が帳面の滲みを示す。
「匁で統一されるはずの香に、書き直しの痕。両と書きかけて戻している」
香頭の侍女の肩が跳ねた。書いた手が、癖を隠しきれなかった証だ。
黎が静かに言う。
「真似た字だ。筆圧が浅い。急いで書いた手だ」
私は胸の内側が熱くなった。私が見たことが、ここで“確認”になる。下女の目が、処刑手続きの中で初めて価値を持つ。
黎が私を見た。
「小鈴」
名を呼ばれる。公の場での呼び方。冷たく短いのに、鎖ではない。存在の宣言だ。
「出せ」
私は袖の内側の紙束を取り出した。わずかなざわめき。下女が紙を出すだけで、場が揺れる。私は震える指で、写しを両手で差し出した。両手で出すのは礼ではない。奪われないためだ。
黎は紙束を受け取り、調書係へ渡した。
「写しだ。昨日の時点で写している。——後から作ったものではない」
調書係が紙を確認する。空白の許可印、単位の違い、筆跡の指摘、封紙の図。私の震えが、線になって残っている。線は、嘘をつかない。
香頭の侍女が声を荒げかけた。
「下女の写しなど——」
「公の場で、根拠なく退けるか」
黎が静かに言った。
「退けるなら理由を言え。理由は記録される。——お前の名もな」
名。
その一言で、香頭の侍女は口を閉じた。名が残るのが怖い。後宮ではそれが最大の恐怖だ。名が残れば責任が残る。責任が残れば、上が怒る。怒りは、下を消す。
黎は次に香箱を求めた。
「香箱を出せ」
香頭の侍女が青い顔で鍵束を出し、役人が香箱を運び上げる。漆塗りの箱。蓋に札。封紙。
封紙を見た瞬間、私は昨夜の“ぺり”という音を思い出した。糊の切れる音。現物が生まれる音。
黎が封紙を示した。
「封紙が貼り直されている」
香頭の侍女が反論を探す。
「湿気で浮いたのです。昨夜は冷え——」
「湿気なら糊は白くなる」
黎の声は淡々としているのに、逃げ道が一つずつ消えていく。
「透明に光るのは、新しい糊だ」
黎は封紙に触れず、端の浮きと折り目の断線を示した。触れない。跡を増やさない。裁く手だ。
「小鈴」
再び名を呼ぶ。
「出せ」
私は袖の内側の、あの小さな和紙を取り出した。糊の痕が残る紙。光を受けると、薄く艶が見える。小さすぎる現物。けれど、火種としては十分だ。
「昨夜、封紙を剥がした直後に当てた」
私は声を絞り出した。言葉は消える。だが今日、言葉は記録される。
「糊が乾いていない時の痕です。——この艶は、貼り直しの糊です」
調書係が和紙を受け取り、光にかざす。周囲の息が止まる。止まる息の中で、艶だけが真実のように光った。
医官が小さく言った。
「……新しい糊の艶です。貼り直しにしか見えません」
その一言が、場を決めた。医官の言葉は、下女の言葉より重い。重い言葉が、私の小さな和紙を“証拠”にする。
黎は巡回係へ目を向けた。
「巡回係。昨夜、子の刻、香具係の廊に人影はあったか」
巡回係が顔を引きつらせた。答えれば燃える。答えなければ、もっと燃える。公の場は逃げ道を塞ぐ。
「……ありました」
絞り出すような声。
「二人。香頭の侍女と、使い走りの下女です」
香頭の侍女が息を呑む。使い走りの下女が膝から崩れそうになる。
黎は淡々と追い込む。
「巡回記録を出せ」
巡回係が震える手で紙を出す。時刻。場所。通過。記録。記録は嘘をつきにくい。嘘をつけば、筆跡が残る。残れば、また殺せる。
黎が記録を示し、香帳の出庫時刻と照合する。
「医官印のない眠り香が動いた時刻と、香具係の廊の人影が一致する」
一つの線が繋がる。
線は、刃になる。
黎が使い走りの下女へ視線を向けた。下女は震えながらも、口を固く閉ざしている。閉ざした口は、最後の砦だ。けれど、砦は揺れている。
黎は、冷たく言った。
「命じたのは誰だ」
沈黙。
沈黙の後ろで、御簾のあたりの空気が凍りついた。絹が、ぴたりと止まった。
使い走りの下女は唇を噛み、目に涙を溜めた。震えが喉に上がり、言葉になりかける。言えば燃える。言わなければ、もっと燃える。
香頭の侍女が叫ぶように言った。
「言うな!」
その叫びが、もう答えだった。隠したい者がいる。隠したい者が命じた。
黎は香頭の侍女を見た。
「公の場で口封じをするか」
その一言で、香頭の侍女は黙る。黙るしかない。黙ることも記録になる。
黎が最後に、御簾付きの輿の方へ声を投げた。目は向けない。目を向ければ“上”に触れる。触れずに、手続きを進める。進めれば、上は止められない。
「御前の者へ告げる」
低い声が、庭に落ちる。
「眠り香の不正出庫。封紙の改ざん。医官印の欠落。巡回記録一致。——以上により、被告の罪状は成立しない」
調書係が息を呑む。被告の罪状が成立しない。処刑が止まる。止まるはずがないと思っていたものが、手続きの中で止まる。
黎は続けた。ここからが、反転だ。
「そして、罪を作った者がいる」
声が冷たくなる。冷たくなるほど、確信が増す。
「罪を作った者を、同じ手続きで裁く」
役人たちがざわめく。ざわめきが声にならない。声にならないざわめきは恐怖だ。恐怖は正しい。恐怖があるから、手続きは守られる。
御簾のあたりで、女官が一歩前に出た。
「黎さま……御前は迅速な執行を——」
「迅速にやる」
黎が遮る。
「だから、今、確定する」
そして、最も冷酷な声で言った。
「処刑対象は——罪を作った者だ」
その瞬間、場の視線が一斉に動いた。
誰を見たか。
誰が目を逸らしたか。
誰が震えたか。
御簾の内側の気配が、ほんのわずかに乱れた。乱れは痕だ。痕は証拠だ。
使い走りの下女が、ついに崩れた。
「……高位妃さまが」
言ってしまった。言葉は消える。だが公の場では消えない。消せない。
「眠り香を……動かせって……口を……」
香頭の侍女が膝をつく。膝をついた時点で終わりだ。下は切り捨てられる。上は逃げようとする。だが、逃げようとした瞬間が痕になる。
黎は、その告白を“確認”として受け取った。
「記録する」
調書係に命じる。
「命じた者、御前の名。眠り香の不正。口封じの意図。——全て書け」
調書係の筆が走る。筆が走る音が、刃を研ぐ音に聞こえた。
私は膝が震えた。震えるのは恐怖だ。恐怖は、まだ生きている証拠だ。
黎が私を見た。
「小鈴」
名を呼ぶ。
「縄は、お前には要らない」
その一言で、私は初めて息を吐いた。吐いた息が震えたまま、冬の空気に溶ける。
処刑台は、終わりの場所ではなかった。
終わりを、ひっくり返す場所だった。
そして、その中心に立っているのは――冷酷な処刑人と、紙を残した下女。
私は袖の内側の写しを押さえた。紙は燃えない。燃やせない。燃やすなら理由が要る。理由は記録される。
記録は、今ここで、刃になった。
人が増えたのに、息が減る。誰もが呼吸を小さくし、目だけを動かしている。目は言葉より饒舌だ。目は「自分は関わっていない」と叫ぶ。けれど、処刑台に立った時点で、もう関わっている。公の場は残酷だ。残酷だから、公正に近い。
調書係が紙を広げ、読み上げを始めた。
「罪状。御前香箱不正。被告――下女、小鈴」
被告。私はそこに立っている。縄はまだ。刃もまだ。だが、言葉だけで首に縄がかかる気がした。
黎が一歩、台の中央に出た。
「確認」
短い声。刃の落ちる前の静けさ。
「本件は、香箱不正ではない」
調書係が目を見開く。香頭の侍女が一瞬だけ顔を引きつらせた。医官が眉を寄せる。巡回係が唾を飲む。
御簾付きの輿のあたりで、絹の擦れる音がした。高位妃の気配が動く音。
黎は淡々と続ける。
「眠り香の不正出庫と、それに伴う口封じである」
言い切った瞬間、場の温度が下がった。眠り香。口封じ。御簾の奥の声が一瞬止まった気がした。止まったということは、動揺だ。
香頭の侍女が声を絞り出す。
「処刑人。香の話は――」
「口を挟むな」
黎の声が落ちた。怒鳴りではない。だが、刃より鋭い。香頭の侍女は言葉を飲み込む。飲み込んだ言葉が、喉に刺さったのが見えた。
黎が調書係に命じる。
「罪状を訂正するな。手続き通りに確認する。——確認により、罪状を確定する」
調書係の手が震えた。後宮で罪状を“確定する”ことは、上の者の特権に触れる。だが、処刑手続きは公だ。公の場で、手続きを止める理由が要る。理由を言えば痕が残る。痕は証拠になる。誰もそれを望まない。
黎は視線を巡らせた。
「香頭。眠り香の出庫には何が必要だ」
香頭の侍女が唇を噛む。
「……医官の許可印です」
小さな声。出したくない答えほど、小さくなる。
黎は医官へ目を向ける。
「医官。昨夜、眠り香の許可を出したか」
医官が顔色を変え、首を振る。
「出しておりません。眠り香は……昨夜、記録上は動いていないはずです」
記録上は。つまり、記録が嘘なら動いている。嘘なら、誰かが書いた。
黎が調書係に言う。
「香具係の出納帳を出せ」
香頭の侍女が一瞬ためらい、役人が香帳を持って上がってきた。厚い帳面。朱印が並び、紙の端が毛羽立っている。私はその毛羽立ちを覚えている。昨日、指先で触れた紙だ。
黎は帳面を開き、該当箇所を示した。
「眠り香。出庫量二匁。担当者名あり。——医官印、なし」
場がざわつく。ざわつきは声にならない。声にならないざわつきが、処刑台の石に吸い込まれる。
黎が淡々と言う。
「許可印がない香は動かせない。動かせば、手続き違反だ」
香頭の侍女が反射的に言い訳を探す。
「……印は、後で——」
「後ではない」
黎が遮った。
「印は許可だ。許可が後なら、それは許可ではなく、隠蔽だ」
隠蔽。御簾のあたりで空気が揺れた。高位妃の怒りか、焦りか。
黎は次に、帳面の数字を指でなぞる。
「単位が一箇所だけ乱れている」
調書係が身を乗り出す。
「乱れている?」
黎が帳面の滲みを示す。
「匁で統一されるはずの香に、書き直しの痕。両と書きかけて戻している」
香頭の侍女の肩が跳ねた。書いた手が、癖を隠しきれなかった証だ。
黎が静かに言う。
「真似た字だ。筆圧が浅い。急いで書いた手だ」
私は胸の内側が熱くなった。私が見たことが、ここで“確認”になる。下女の目が、処刑手続きの中で初めて価値を持つ。
黎が私を見た。
「小鈴」
名を呼ばれる。公の場での呼び方。冷たく短いのに、鎖ではない。存在の宣言だ。
「出せ」
私は袖の内側の紙束を取り出した。わずかなざわめき。下女が紙を出すだけで、場が揺れる。私は震える指で、写しを両手で差し出した。両手で出すのは礼ではない。奪われないためだ。
黎は紙束を受け取り、調書係へ渡した。
「写しだ。昨日の時点で写している。——後から作ったものではない」
調書係が紙を確認する。空白の許可印、単位の違い、筆跡の指摘、封紙の図。私の震えが、線になって残っている。線は、嘘をつかない。
香頭の侍女が声を荒げかけた。
「下女の写しなど——」
「公の場で、根拠なく退けるか」
黎が静かに言った。
「退けるなら理由を言え。理由は記録される。——お前の名もな」
名。
その一言で、香頭の侍女は口を閉じた。名が残るのが怖い。後宮ではそれが最大の恐怖だ。名が残れば責任が残る。責任が残れば、上が怒る。怒りは、下を消す。
黎は次に香箱を求めた。
「香箱を出せ」
香頭の侍女が青い顔で鍵束を出し、役人が香箱を運び上げる。漆塗りの箱。蓋に札。封紙。
封紙を見た瞬間、私は昨夜の“ぺり”という音を思い出した。糊の切れる音。現物が生まれる音。
黎が封紙を示した。
「封紙が貼り直されている」
香頭の侍女が反論を探す。
「湿気で浮いたのです。昨夜は冷え——」
「湿気なら糊は白くなる」
黎の声は淡々としているのに、逃げ道が一つずつ消えていく。
「透明に光るのは、新しい糊だ」
黎は封紙に触れず、端の浮きと折り目の断線を示した。触れない。跡を増やさない。裁く手だ。
「小鈴」
再び名を呼ぶ。
「出せ」
私は袖の内側の、あの小さな和紙を取り出した。糊の痕が残る紙。光を受けると、薄く艶が見える。小さすぎる現物。けれど、火種としては十分だ。
「昨夜、封紙を剥がした直後に当てた」
私は声を絞り出した。言葉は消える。だが今日、言葉は記録される。
「糊が乾いていない時の痕です。——この艶は、貼り直しの糊です」
調書係が和紙を受け取り、光にかざす。周囲の息が止まる。止まる息の中で、艶だけが真実のように光った。
医官が小さく言った。
「……新しい糊の艶です。貼り直しにしか見えません」
その一言が、場を決めた。医官の言葉は、下女の言葉より重い。重い言葉が、私の小さな和紙を“証拠”にする。
黎は巡回係へ目を向けた。
「巡回係。昨夜、子の刻、香具係の廊に人影はあったか」
巡回係が顔を引きつらせた。答えれば燃える。答えなければ、もっと燃える。公の場は逃げ道を塞ぐ。
「……ありました」
絞り出すような声。
「二人。香頭の侍女と、使い走りの下女です」
香頭の侍女が息を呑む。使い走りの下女が膝から崩れそうになる。
黎は淡々と追い込む。
「巡回記録を出せ」
巡回係が震える手で紙を出す。時刻。場所。通過。記録。記録は嘘をつきにくい。嘘をつけば、筆跡が残る。残れば、また殺せる。
黎が記録を示し、香帳の出庫時刻と照合する。
「医官印のない眠り香が動いた時刻と、香具係の廊の人影が一致する」
一つの線が繋がる。
線は、刃になる。
黎が使い走りの下女へ視線を向けた。下女は震えながらも、口を固く閉ざしている。閉ざした口は、最後の砦だ。けれど、砦は揺れている。
黎は、冷たく言った。
「命じたのは誰だ」
沈黙。
沈黙の後ろで、御簾のあたりの空気が凍りついた。絹が、ぴたりと止まった。
使い走りの下女は唇を噛み、目に涙を溜めた。震えが喉に上がり、言葉になりかける。言えば燃える。言わなければ、もっと燃える。
香頭の侍女が叫ぶように言った。
「言うな!」
その叫びが、もう答えだった。隠したい者がいる。隠したい者が命じた。
黎は香頭の侍女を見た。
「公の場で口封じをするか」
その一言で、香頭の侍女は黙る。黙るしかない。黙ることも記録になる。
黎が最後に、御簾付きの輿の方へ声を投げた。目は向けない。目を向ければ“上”に触れる。触れずに、手続きを進める。進めれば、上は止められない。
「御前の者へ告げる」
低い声が、庭に落ちる。
「眠り香の不正出庫。封紙の改ざん。医官印の欠落。巡回記録一致。——以上により、被告の罪状は成立しない」
調書係が息を呑む。被告の罪状が成立しない。処刑が止まる。止まるはずがないと思っていたものが、手続きの中で止まる。
黎は続けた。ここからが、反転だ。
「そして、罪を作った者がいる」
声が冷たくなる。冷たくなるほど、確信が増す。
「罪を作った者を、同じ手続きで裁く」
役人たちがざわめく。ざわめきが声にならない。声にならないざわめきは恐怖だ。恐怖は正しい。恐怖があるから、手続きは守られる。
御簾のあたりで、女官が一歩前に出た。
「黎さま……御前は迅速な執行を——」
「迅速にやる」
黎が遮る。
「だから、今、確定する」
そして、最も冷酷な声で言った。
「処刑対象は——罪を作った者だ」
その瞬間、場の視線が一斉に動いた。
誰を見たか。
誰が目を逸らしたか。
誰が震えたか。
御簾の内側の気配が、ほんのわずかに乱れた。乱れは痕だ。痕は証拠だ。
使い走りの下女が、ついに崩れた。
「……高位妃さまが」
言ってしまった。言葉は消える。だが公の場では消えない。消せない。
「眠り香を……動かせって……口を……」
香頭の侍女が膝をつく。膝をついた時点で終わりだ。下は切り捨てられる。上は逃げようとする。だが、逃げようとした瞬間が痕になる。
黎は、その告白を“確認”として受け取った。
「記録する」
調書係に命じる。
「命じた者、御前の名。眠り香の不正。口封じの意図。——全て書け」
調書係の筆が走る。筆が走る音が、刃を研ぐ音に聞こえた。
私は膝が震えた。震えるのは恐怖だ。恐怖は、まだ生きている証拠だ。
黎が私を見た。
「小鈴」
名を呼ぶ。
「縄は、お前には要らない」
その一言で、私は初めて息を吐いた。吐いた息が震えたまま、冬の空気に溶ける。
処刑台は、終わりの場所ではなかった。
終わりを、ひっくり返す場所だった。
そして、その中心に立っているのは――冷酷な処刑人と、紙を残した下女。
私は袖の内側の写しを押さえた。紙は燃えない。燃やせない。燃やすなら理由が要る。理由は記録される。
記録は、今ここで、刃になった。



