後宮処刑人は、眠り香の夜に私を逃がさない

朝は、薄い。

冬の朝は光が淡く、後宮の石壁を白く撫でるだけで終わる。けれど、その淡い光の下で、誰かの運命だけがはっきりと輪郭を持つ。今日は、巳刻。今日が“終わり”だと名簿に書かれた日。

私は早朝から起こされ、髪を結い直され、粗末な衣を新しいものに替えられた。新しいと言っても下女の布だ。けれど、汚れのない布は、処刑の場では意味を持つ。汚れていない方が、よく見える。よく見える方が、よく裁ける。

「歩け」

黎の声が背後から落ちる。昨夜、眠り香の封紙に当てた和紙は、私の袖の内側で固い。糊の痕は乾き、光は紙に残っている。小さな“現物”。これが今日、燃やせない火種になる。

廊を進むにつれ、人が増える。増えるほど静かになる。静かになるほど重くなる。後宮の“公”はそうだ。誰も声を出さない。声を出せば、名が残る。名が残るのを恐れている。恐れているのは、罪があるからではない。関わったことになるのが怖いからだ。

処刑場は後宮の外れ、石を切り出した広い庭にあった。正面に高い台。木の柱。縄。刃を置く台。ここで多くの名が消えた。ここで消えた名は、誰の記憶にも残らないふりをされる。

台の前には、すでに役人たちが揃っていた。調書係、印係、記録係。手元には札と紙。彼らにとって、処刑は“作業”だ。作業に感情は要らない。感情が入ると、間違う。

黎が一歩前へ出た。いつもの黒に近い濃紺。刃のように硬い輪郭。けれど目の奥は相変わらず光がない。光がないから、揺れない。

「処刑手続きを開始する」

声が落ちるだけで、空気が締まった。誰も逆らえない。逆らう相手ではない。処刑人の声は、後宮の掟そのものだ。

調書係が咳払いをした。

「罪状の読み上げを——」

「その前に、召集だ」

黎が遮った。淡々とした声。けれど、いつもより一段、固い。

「関係者を揃えろ。手続き通りに」

調書係が眉を動かした。通常なら、処刑は淡々と進める。余計な者を呼ぶのは面倒だ。面倒は嫌われる。だから下女は静かに消える。

「……関係者とは」

黎は返した。

「香具係の責任者。出納帳の担当。医官。昨夜の巡回係。——そして、命じた者」

最後の言葉が、刃のように冷たかった。

役人たちの間に、小さなざわめきが走る。命じた者。誰が命じたかを、ここで問うのか。処刑台で。終わらせる場で。

「黎さま」

印係が遠慮がちに言った。

「本日は御前より……迅速な執行を」

迅速。高位妃の声の写し。終わらせよ。期待を裏切るな。

黎は印係を見ない。目を向けないことで、権限を叩きつける。

「迅速に“手続き通り”にやる」

淡々とした返答。反論ではない。訂正だ。手続きから外れない。外れないからこそ、誰も止められない。

「召集は誰が出す」

黎が問うと、記録係が慌てて紙を広げた。

「……処刑人殿の命で」

「なら書け」

黎の声が落ちる。

「『眠り香 出納不審 確認のため』」

その言葉が紙に乗った瞬間、空気が変わった。

眠り香。
処刑台。
確認。

本来、交わらないはずのものが交わった。交わった以上、誰かが裂ける。

役人たちが動き出す。走らない。走れない。公の場で走るのは不作法だ。不作法は罪だ。だから彼らは早足で散り、必要な者を呼びに行った。

私は台の脇に立たされながら、その動きを見た。見ているだけで喉が乾く。見ているだけで、今まで私を押さえつけてきた“掟”が、少しずつこちら側へ滑ってくるのを感じた。

「小鈴」

黎が私の名を呼んだ。公の場での呼び方だ。冷たく、短い。けれど、名を呼ばれるだけで私は“物”ではなくなる。名のある者になる。

「……はい」

私の声は小さかった。小さい声でも、今日は残る。公の場の声は残る。

黎は私の袖の内側を見る。見るだけで分かる。昨夜の小さな和紙の存在を。

「持っているな」

「……はい」

「出す刻は、私が言うまで待て」

命令。けれど、守りでもある。早く出せば奪われる。遅く出せば終わる。刻を決めるのは、処刑人の仕事だ。

私は頷いた。頷くことで、自分の足がまた少し戻ってくる。

やがて、香具係の香頭の侍女が連れられて来た。顔は青白い。次に医官。眠そうな目をこすりながらも、ここが処刑台だと理解した瞬間に顔色が変わる。巡回係。昨夜の足音の主。彼らの顔が揃うたび、空気が張り詰める。

最後に、御簾付きの輿が遠くに止まり、女官たちが列を作った。御前の者が“見に来た”。つまり、上も関わる。関わる以上、逃げられない。

調書係が小声で言う。

「……ここまで召集する必要が?」

黎が答える声は、低く、淡々としていた。

「必要だ。終わらせるために」

調書係が首を傾げる。

「下女の処刑を?」

黎は、初めて調書係を見た。目の光がないのに、逃げ道が消える視線。

「違う」

短く否定し、言い切った。

「罪を作った者の処刑をだ」

その瞬間、召集された者たちの呼吸が一斉に浅くなった。

処刑台は終わりの場所。
終わりは、予定どおりに起きる。

ただし――予定が変わったのは、私ではない。

私は袖の内側の小さな紙を指で押さえた。糊の痕が、熱を持っているように感じた。火種は揃った。あとは、燃やす場所だけ。

黎が台の前へ進む。

「確認に入る」

その一言で、処刑手続きの二枚目の札が、表を向いた。