夜は、音が薄い。
薄いぶん、ひとつの足音がよく響く。布の擦れる音も、息の乱れも、心臓の鼓動も。後宮の夜は、聞かれたくないものほどよく聞こえる。
申刻を少し過ぎたころ、扉の鍵が回った。
黎は私を部屋から出し、廊へ出た瞬間に低く言った。
「声は出すな。顔は上げすぎるな。——だが、目は覚ましておけ」
矛盾した命令。矛盾は後宮の正しさだ。私は頷き、袖の内側の紙の束を確かめた。写しの重み。封紙の図。空白の印。これを守るために、私は今夜“見られる”。
廊は暗い。灯りは間引かれ、女官たちは各々の持ち場へ散っている。散っているように見えて、散っていない。後宮の夜に、真に独りになれる者はいない。
黎は私の二歩前を歩いた。歩幅は一定。迷いがない。私はその背に縋りたくなって、縋れない。縋れば目立つ。目立てば刺される。だから私は、影の中を歩く。
香具係の廊へ近づくにつれ、匂いが変わる。白檀の甘さと沈香の深さ。昼より濃い。夜の香は、隠すために焚かれる。匂いで匂いを消すためだ。
角を曲がったところで、黎が足を止めた。
「ここから先は、お前一人で歩け」
心臓が跳ねた。
「……ひとり?」
「近くにいる」
黎が言う。言うだけで、姿は見えなくなるような言い方だった。
「見える場所にいないと、噂にならない」
噂にならないと、敵が動かない。敵が動かなければ、眠り香は動かない。封紙の現物が生まれない。全てが繋がっている。冷酷な糸で。
私は唇を噛み、頷いた。
「……見られるだけ」
「見られて、戻れ」
黎の声が低く落ちる。
「戻るまでが生存だ」
生存。いつも彼はそこへ帰ってくる。優しさではなく、生存。私はそれに従う。従うことで、私の名が残るなら。
私は一歩、灯りの薄い廊へ踏み出した。
足音が、石床に小さく響く。自分の足音が、耳に痛い。私は顔を上げすぎないようにしながら、視界の端で人影を探した。香具係の庫の扉。鍵。封紙。現物。近づきたい。近づいてはいけない。近づけば疑われる。疑われれば、今夜で終わる。
角の向こうで、笑い声がした。女官たちだ。夜に笑える者。上の者の息の届く者。彼女たちは私を見るなり、笑いを止めた。止めた笑いが、刃になる。
「……あら」
ひとりが小さく声を漏らす。私の名を知っているかどうかは関係ない。下女が夜に歩いているだけで、物語になる。
「香具係の下女が、こんな時間に?」
「処刑の噂、ほんとうだったのね」
「可哀想に。明日だっけ?」
私は耳を塞ぎたかった。けれど、塞げない。聞かれているからだ。私はただ、足を止めずに通り過ぎた。通り過ぎるだけでいい。見られるだけでいい。
背中に視線が刺さる。舌打ちが聞こえる。笑いが薄く続く。噂の種が撒かれる音がする。
私は角を曲がった。
そこに、香具係の庫の扉が見えた。
扉の前に、影がふたつ。
ひとつは香頭の侍女。もうひとつは、使い走りの下女――昨日、帳面の前で私を睨んだ者とは別の顔だ。目が泳いでいる。口が固く結ばれている。急いでいる者の顔だ。
私は息を止めた。今だ。眠り香が動く。動かすのは敵。動かすために、私はここにいる。
香頭の侍女が小声で言った。
「早く。高位妃さまがお急ぎだ」
高位妃。
その名が出た瞬間、背中が冷えた。御簾の奥の声が耳に蘇る。下女の舌は眠らせておけ。——今夜、その手が動く。
使い走りが鍵束を持つ手を震わせた。鍵が擦れる音が、夜の廊にやけに大きく響く。
私は柱の陰に身を寄せ、二人の動きを見た。見ているだけで、私の存在が噂になる。噂が敵を焦らせる。焦れば手が乱れる。乱れは、証拠になる。
扉が開いた。庫の匂いが漏れる。甘く、粘る匂い。夜の香は重い。眠り香の匂いが、まだ焚かれていないのに舌に残る気がした。
香頭の侍女が言う。
「香箱は触るな。封紙だけ、剥がせ。すぐ貼り直せ」
封紙だけ。剥がす。貼り直す。
私は胸の奥で、音にならない笑いが生まれた。貼り直し。昨日、私が写した痕。今夜、現物が生まれる。
使い走りが庫の奥へ入り、漆塗りの香箱を抱えて戻ってきた。封紙が月明かりを受けて白く光る。白い紙の端が、ほんの少し浮いている。昨日の貼り直しの跡が、まだ残っている。
香頭の侍女の指が、封紙の端に伸びた。
その瞬間、私は柱の陰から一歩だけ踏み出した。
わざと、足音を鳴らす。
石床が「こつ」と言った。夜の静けさに、十分すぎる音。
二人が振り向く。
「誰!」
香頭の侍女の声が上ずった。上ずるのは、焦りだ。焦りは手を乱す。
私は顔を上げすぎず、でも逃げない位置で止まった。見られろ。戻れ。黎の命令が背中にある。
「……小鈴?」
使い走りが私の名を知っていた。名は鎖だ。名を呼ばれれば、私はここに固定される。
香頭の侍女の目が細くなる。
「何をしている。下女がこの時間に」
私は喉が乾くのを感じながら、言った。言葉は消える。でも、今は言葉が“場”を作る。
「……確認です」
「何の」
「眠り香の……出庫の」
言い終えた瞬間、香頭の侍女の顔が歪んだ。出庫。眠り香。許可印の空白。彼女も知っている。知っているから、殺したい。
「口を閉じろ」
香頭の侍女が低く言った。低い声は、命令ではなく脅しだ。
「明日の巳刻に消える舌だ。今、動かすな」
私は一歩だけ後ろへ下がった。下がって、逃げない。逃げれば罪が確定する。逃げないことで、相手に手を出させる。
使い走りが香箱を抱えたまま、目を泳がせる。香頭の侍女が苛立つ。
「早く! 高位妃さまがお待ちだ!」
その声に押されて、使い走りの指が封紙を剥がした。
――ぺり。
紙が剥がれる音。
糊が切れる音。
現物が生まれる音。
私はその瞬間を、目に焼き付けた。封紙の端。糊の色。折り目。剥がし方。剥がした指。指先に残る糊の光。
私は袖の内側で、薄い紙片を指先に挟んでいた。
昼に用意しておいた、無地の小さな和紙。封紙の“写し”ではなく、“痕”を取るための紙。触れたら終わる。けれど、触れなければ残らない。
黎は近くにいる。そう言った。私は、信じるしかない。
香頭の侍女が剥がした封紙を、机代わりの箱の上に置いた。その一瞬、私は前へ出た。出過ぎない。触りすぎない。必要なだけ。
「やめ——」
香頭の侍女が声を上げるのと同時に、私は和紙を封紙の端に“当てた”。
ぴたり、と。
糊の湿り気が、和紙に移る。糊の光が、紙に写る。ほんの一瞬。ほんの一瞬でいい。
「何を!」
侍女の手が私の腕を掴もうとする。
その瞬間、廊の暗がりから声が落ちた。
「そこまでだ」
低い声。短い声。刃のない声。
空気が凍る。
香頭の侍女の手が止まり、使い走りが息を呑む。後宮の夜に、誰が最も怖いか。答えは簡単だ。
処刑人。
黎が闇から現れた。影が濃い。目は光らない。なのに、全てが見えている目。
「黎……さま」
香頭の侍女の声が震えた。
黎は香箱と封紙、そして私の指先の小さな和紙を見る。見るだけで、状況を“記録”に変える。
「眠り香の出庫か」
声が淡々としているのが、逆に怖い。
香頭の侍女は慌てて言う。
「ち、違います。高位妃さまの命で——」
言いかけて、止まった。言ってはいけない名を言いかけたのだと気づいたのだろう。けれど、止めても遅い。言いかけた時点で“痕”が残る。
黎は短く言った。
「よく言った」
私は息を止めた。よく言った。褒めではない。自白を引き出した確認だ。
黎が私に視線を向ける。
「戻れ」
命令。
私はすぐに頷き、袖の内側に小さな和紙を滑り込ませた。糊の痕。指の痕。封紙の現物の痕。これが“現物”の代わりになる。
私は一歩下がりながら、香頭の侍女の目を見た。目の奥に、殺意がある。明日、巳刻まで待てない殺意。
怖い。
でも、怖いまま、生きる。
私は黎の影の方へ戻った。戻るまでが生存。戻った瞬間、足が少しだけ軽くなる。
廊の奥で、どこかの鈴が鳴った。誰かの呼び出し。誰かの終わり。
けれど今夜は、違う。
終わるのは、私ではない。
袖の内側の小さな和紙が、熱く燃えていた。
薄いぶん、ひとつの足音がよく響く。布の擦れる音も、息の乱れも、心臓の鼓動も。後宮の夜は、聞かれたくないものほどよく聞こえる。
申刻を少し過ぎたころ、扉の鍵が回った。
黎は私を部屋から出し、廊へ出た瞬間に低く言った。
「声は出すな。顔は上げすぎるな。——だが、目は覚ましておけ」
矛盾した命令。矛盾は後宮の正しさだ。私は頷き、袖の内側の紙の束を確かめた。写しの重み。封紙の図。空白の印。これを守るために、私は今夜“見られる”。
廊は暗い。灯りは間引かれ、女官たちは各々の持ち場へ散っている。散っているように見えて、散っていない。後宮の夜に、真に独りになれる者はいない。
黎は私の二歩前を歩いた。歩幅は一定。迷いがない。私はその背に縋りたくなって、縋れない。縋れば目立つ。目立てば刺される。だから私は、影の中を歩く。
香具係の廊へ近づくにつれ、匂いが変わる。白檀の甘さと沈香の深さ。昼より濃い。夜の香は、隠すために焚かれる。匂いで匂いを消すためだ。
角を曲がったところで、黎が足を止めた。
「ここから先は、お前一人で歩け」
心臓が跳ねた。
「……ひとり?」
「近くにいる」
黎が言う。言うだけで、姿は見えなくなるような言い方だった。
「見える場所にいないと、噂にならない」
噂にならないと、敵が動かない。敵が動かなければ、眠り香は動かない。封紙の現物が生まれない。全てが繋がっている。冷酷な糸で。
私は唇を噛み、頷いた。
「……見られるだけ」
「見られて、戻れ」
黎の声が低く落ちる。
「戻るまでが生存だ」
生存。いつも彼はそこへ帰ってくる。優しさではなく、生存。私はそれに従う。従うことで、私の名が残るなら。
私は一歩、灯りの薄い廊へ踏み出した。
足音が、石床に小さく響く。自分の足音が、耳に痛い。私は顔を上げすぎないようにしながら、視界の端で人影を探した。香具係の庫の扉。鍵。封紙。現物。近づきたい。近づいてはいけない。近づけば疑われる。疑われれば、今夜で終わる。
角の向こうで、笑い声がした。女官たちだ。夜に笑える者。上の者の息の届く者。彼女たちは私を見るなり、笑いを止めた。止めた笑いが、刃になる。
「……あら」
ひとりが小さく声を漏らす。私の名を知っているかどうかは関係ない。下女が夜に歩いているだけで、物語になる。
「香具係の下女が、こんな時間に?」
「処刑の噂、ほんとうだったのね」
「可哀想に。明日だっけ?」
私は耳を塞ぎたかった。けれど、塞げない。聞かれているからだ。私はただ、足を止めずに通り過ぎた。通り過ぎるだけでいい。見られるだけでいい。
背中に視線が刺さる。舌打ちが聞こえる。笑いが薄く続く。噂の種が撒かれる音がする。
私は角を曲がった。
そこに、香具係の庫の扉が見えた。
扉の前に、影がふたつ。
ひとつは香頭の侍女。もうひとつは、使い走りの下女――昨日、帳面の前で私を睨んだ者とは別の顔だ。目が泳いでいる。口が固く結ばれている。急いでいる者の顔だ。
私は息を止めた。今だ。眠り香が動く。動かすのは敵。動かすために、私はここにいる。
香頭の侍女が小声で言った。
「早く。高位妃さまがお急ぎだ」
高位妃。
その名が出た瞬間、背中が冷えた。御簾の奥の声が耳に蘇る。下女の舌は眠らせておけ。——今夜、その手が動く。
使い走りが鍵束を持つ手を震わせた。鍵が擦れる音が、夜の廊にやけに大きく響く。
私は柱の陰に身を寄せ、二人の動きを見た。見ているだけで、私の存在が噂になる。噂が敵を焦らせる。焦れば手が乱れる。乱れは、証拠になる。
扉が開いた。庫の匂いが漏れる。甘く、粘る匂い。夜の香は重い。眠り香の匂いが、まだ焚かれていないのに舌に残る気がした。
香頭の侍女が言う。
「香箱は触るな。封紙だけ、剥がせ。すぐ貼り直せ」
封紙だけ。剥がす。貼り直す。
私は胸の奥で、音にならない笑いが生まれた。貼り直し。昨日、私が写した痕。今夜、現物が生まれる。
使い走りが庫の奥へ入り、漆塗りの香箱を抱えて戻ってきた。封紙が月明かりを受けて白く光る。白い紙の端が、ほんの少し浮いている。昨日の貼り直しの跡が、まだ残っている。
香頭の侍女の指が、封紙の端に伸びた。
その瞬間、私は柱の陰から一歩だけ踏み出した。
わざと、足音を鳴らす。
石床が「こつ」と言った。夜の静けさに、十分すぎる音。
二人が振り向く。
「誰!」
香頭の侍女の声が上ずった。上ずるのは、焦りだ。焦りは手を乱す。
私は顔を上げすぎず、でも逃げない位置で止まった。見られろ。戻れ。黎の命令が背中にある。
「……小鈴?」
使い走りが私の名を知っていた。名は鎖だ。名を呼ばれれば、私はここに固定される。
香頭の侍女の目が細くなる。
「何をしている。下女がこの時間に」
私は喉が乾くのを感じながら、言った。言葉は消える。でも、今は言葉が“場”を作る。
「……確認です」
「何の」
「眠り香の……出庫の」
言い終えた瞬間、香頭の侍女の顔が歪んだ。出庫。眠り香。許可印の空白。彼女も知っている。知っているから、殺したい。
「口を閉じろ」
香頭の侍女が低く言った。低い声は、命令ではなく脅しだ。
「明日の巳刻に消える舌だ。今、動かすな」
私は一歩だけ後ろへ下がった。下がって、逃げない。逃げれば罪が確定する。逃げないことで、相手に手を出させる。
使い走りが香箱を抱えたまま、目を泳がせる。香頭の侍女が苛立つ。
「早く! 高位妃さまがお待ちだ!」
その声に押されて、使い走りの指が封紙を剥がした。
――ぺり。
紙が剥がれる音。
糊が切れる音。
現物が生まれる音。
私はその瞬間を、目に焼き付けた。封紙の端。糊の色。折り目。剥がし方。剥がした指。指先に残る糊の光。
私は袖の内側で、薄い紙片を指先に挟んでいた。
昼に用意しておいた、無地の小さな和紙。封紙の“写し”ではなく、“痕”を取るための紙。触れたら終わる。けれど、触れなければ残らない。
黎は近くにいる。そう言った。私は、信じるしかない。
香頭の侍女が剥がした封紙を、机代わりの箱の上に置いた。その一瞬、私は前へ出た。出過ぎない。触りすぎない。必要なだけ。
「やめ——」
香頭の侍女が声を上げるのと同時に、私は和紙を封紙の端に“当てた”。
ぴたり、と。
糊の湿り気が、和紙に移る。糊の光が、紙に写る。ほんの一瞬。ほんの一瞬でいい。
「何を!」
侍女の手が私の腕を掴もうとする。
その瞬間、廊の暗がりから声が落ちた。
「そこまでだ」
低い声。短い声。刃のない声。
空気が凍る。
香頭の侍女の手が止まり、使い走りが息を呑む。後宮の夜に、誰が最も怖いか。答えは簡単だ。
処刑人。
黎が闇から現れた。影が濃い。目は光らない。なのに、全てが見えている目。
「黎……さま」
香頭の侍女の声が震えた。
黎は香箱と封紙、そして私の指先の小さな和紙を見る。見るだけで、状況を“記録”に変える。
「眠り香の出庫か」
声が淡々としているのが、逆に怖い。
香頭の侍女は慌てて言う。
「ち、違います。高位妃さまの命で——」
言いかけて、止まった。言ってはいけない名を言いかけたのだと気づいたのだろう。けれど、止めても遅い。言いかけた時点で“痕”が残る。
黎は短く言った。
「よく言った」
私は息を止めた。よく言った。褒めではない。自白を引き出した確認だ。
黎が私に視線を向ける。
「戻れ」
命令。
私はすぐに頷き、袖の内側に小さな和紙を滑り込ませた。糊の痕。指の痕。封紙の現物の痕。これが“現物”の代わりになる。
私は一歩下がりながら、香頭の侍女の目を見た。目の奥に、殺意がある。明日、巳刻まで待てない殺意。
怖い。
でも、怖いまま、生きる。
私は黎の影の方へ戻った。戻るまでが生存。戻った瞬間、足が少しだけ軽くなる。
廊の奥で、どこかの鈴が鳴った。誰かの呼び出し。誰かの終わり。
けれど今夜は、違う。
終わるのは、私ではない。
袖の内側の小さな和紙が、熱く燃えていた。



