後宮処刑人は、眠り香の夜に私を逃がさない

香の匂いが、朝の冷えた石壁に染みついている。

香具係の庫は、後宮の奥、日が差しにくい廊の先にあった。扉を開けると、乾いた木箱と紙の匂いが先に立つ。そこへ、甘い白檀や沈香の残り香が薄く重なり、鼻の奥が少し痺れる。女たちはその匂いを「上の者の呼吸」と言った。下女の私がここで息をするのは、いつも少しだけ早い。

「小鈴、そこ。香帳、開いて」

香具係の上役――香頭(こうがしら)の侍女が、机を指で叩いた。指先には薄い香油が塗られていて、紙に触れるたび、光が滑る。

私は「はい」とだけ返し、帳面を引き寄せた。紙は厚い。綴じ糸は新しい。けれど、端はもう少し毛羽立っている。何度も開かれ、閉じられてきた証拠だ。目は自然に、行間の癖を追う。筆圧の強い日、急いだ線、墨が濃くなる癖。人は嘘をつく。けれど手は、癖を隠しきれない。

香帳――香箱の出納を記す帳面には、香の名、出庫の量、日付、担当者の名、そして印が並ぶ。医官の許可が要る香には、医官の朱印。高位の方に渡る香には、御前の印。ここが揃っていなければ、香は動かせない。動かしてはいけない。

私はいつものように、昨日の欄へ指を滑らせた。沈香、白檀、伽羅。どれも整然と揃い、朱印が赤く、同じ場所に押されている。

――その下で、目が止まった。

「……眠り香」

声に出すつもりはなかったのに、小さく漏れた。上役が眉を動かす。

「何?」

「いえ……確認です」

眠り香。後宮でそれが使われるとき、理由はだいたい二つだ。医官が処方する――眠れぬ方のため。もう一つは、口にされない理由。口にされた瞬間、誰かが消える理由。

私は項目を追った。

日付は昨日。出庫量は「二匁」。担当者の名は、香頭の侍女の字に似ている。けれど、似ているだけで――違う。線の入り方が、いつもより浅い。筆が迷っている。誰かが“真似た”字だ。

そして、さらに。

印が、ない。

医官印があるべき欄が、空白のまま白い。

私はもう一度、行の並びを見直した。見間違いではない。朱印の赤が欠けているだけで、紙の温度が変わったように感じた。空白は、冷たい。

「小鈴。ぼんやりしない」

香頭の侍女が苛立ちを隠さずに言った。私は息を吸い込み、声を整える。

「こちら……眠り香の欄ですが。医官の印が――」

言い終わる前に、上役の視線が鋭く刺さった。机を叩く音が一つ。紙がわずかに震えた。

「下女が帳面を覗くな」

低い声だった。怒鳴りではない。怒鳴る必要がない人の声。

「でも、帳面は……」

「帳面は“上の者”のもの。お前は写しを取るだけでいい。読むな。考えるな。気づくな」

最後の言葉だけ、少し強かった。まるで釘を打ち込むみたいに。

私は喉の奥が乾くのを感じながら、それでも指先を帳面から離せなかった。空白は空白のまま、そこにある。ないものほど、目立つ。

そのとき、もう一つ。量の単位に目が行った。

「二匁」のすぐ横に、微かに滲んだ墨があり、上から何かをなぞった痕がある。まるで、「両」と書きかけて引き戻したような。香は匁で量る。両は、金の単位だ。香帳に両が出ることはない。出るはずがない。

私は胸の奥が小さく鳴った。

数字は嘘をつかない。嘘をつくのは、書いた手だ。

「小鈴」

香頭の侍女が、名前を呼ぶ。呼ばれるだけで、私は下へ引き戻される。

「見なかったことにしな。後宮で長生きしたいならね」

視線で帳面を閉じるように命じられた。私はゆっくりと帳面を伏せた。紙が閉じる音が、妙に大きく響いた。

庫の奥から、薄い香の匂いが流れてくる。甘く、舌に残る匂い。眠り香の匂いだ、と私は思った。まだ焚かれていないのに。

空白は、消えない。印のない白さは、目の裏に貼りついて離れない。

私は机の端に置かれた写し用の紙を見た。今日の作業は、いつものように“写す”ことだけのはずだった。けれど――写せば残る。残せば、紙は嘘をつかない。

後宮では、言葉は消える。人も消える。

だから、私は紙に残す。

胸の内でそう決めた瞬間、廊の向こうで鈴が鳴った。誰かの呼び出し。誰かの終わりの合図みたいに。

私は目を伏せたまま、写しの紙に筆を置く。手が震えているのが分かる。けれど、震えは線になり、線は記録になる。

空白の行に、私はまだ何も書けない。

――まだ、書いてはいけない。

それでも、私はその場所を覚えた。印のない白。単位の違和感。真似た字。

その夜、眠る誰かのために。
そして、眠らされる誰かのために。