その夜、私は眠れなかった。
眠れない理由は分かっている。眠れないのは“何かが怖い”からではない。怖いのは漠然としている。漠然としているものは、言葉にできない。言葉にできないものは、私の中で勝手に膨らむ。膨らむ前に、私はやるべきことがあった。
原本を集める。
紙の原本。最初からの形。四桁を固定してくれるもの。
私は寝室を出て、リビングの棚からクリアファイルを引っ張り出した。契約書控え、入居案内、鍵受領書、設備説明。紙を一枚ずつテーブルに並べると、部屋の空気が少しだけ固くなる。固い空気は安心だ。固いものは揺れにくい。
【契約書控え(原本)】
住戸番号:1203
棟:A棟
A棟のA。
Aはここにいる。最初からいる。
住戸番号の横に付くAではない。違う。そう言い聞かせると、胸の奥の冷えがわずかに引いた。
鍵受領書も取り出す。
【鍵受領書(控)】
住戸番号:1203
キーID:9F2-***
受領日時:2026/2/8 14:06
四桁。
私はその数字を指でなぞった。印刷された数字は、私の指先に負けない硬さを持っている。こういう硬さが欲しかった。
私は紙をまとめ、さらに引っ越しのときの控えを探した。段ボールの隙間に、引っ越し業者の控えと、貼り付けシールの台紙が残っていた。そこにも私の部屋番号が手書きで書かれている。
「1203」
手書きの数字は印刷ほど整っていない。だからこそ、そこに人の意思があるように見える。私はその控えもテーブルに置いた。
紙が増えるほど、私は“勝てる”気がした。台帳やログに負けない気がした。
勝つ、という言葉を自分が使っていることに気づき、私は苦笑した。生活を始めたかっただけなのに、いつの間にか勝負になっている。
私はふと思い立って、引っ越し初日に撮った動画を再生した。窓の外、段ボール、玄関。最後に、郵便受けの番号を撮った短いカットがある。私はその部分で動画を止め、スクリーンショットを撮った。
ポスト:「1203」。
Aはない。
安堵が胸に広がる。
やっぱり。最初から、四桁だった。私は間違っていない。私の部屋は1203だ。
私はそのスクショをアルバムに保存し、さらに自分宛にメールで送った。証拠を別の場所に置く。現実が揺れても、揺れない場所に残す。
メールの件名にはこう書いた。
「証拠:ポスト1203(2026/2/8)」
送信ボタンを押した瞬間、私は変な汗をかいた。
“証拠”という言葉を自分が使っている。
証拠を保全するという行為が、普通の生活から少しだけはみ出している。
けれど、はみ出してでもやらないと、私が消えてしまう気がした。消えるのは私ではなく、私の確信だ。確信が消えたら、私は自分の部屋番号すら言えなくなる。
テーブルの上の紙を見渡す。契約、鍵、引越控え、スクショ。四桁。四桁。四桁。
私は、やっと眠れるかもしれないと思った。
そのとき、インターホンが鳴った。
音は短く、乾いていた。
こんな時間に、誰?
覗き穴を覗くと、誰もいない。廊下は白い光の中で空っぽだ。空っぽなのに、インターホンの履歴には残る。画面に「応答なし」と表示されている。私はそれを見て、また記録してしまいそうになった。堪えた。記録は増やしたくない。もう十分だ。
翌朝、郵便受けに一通の封筒が届いていた。差出人は「管理組合」。駐輪場利用の案内。普通の紙。普通の文面。
私は中身を読む前に、封筒の宛名に目が吸い寄せられた。
【封筒の宛名】
A棟12階 1203A
緒方ミサキ様
私は玄関の中で立ち尽くした。
紙だ。
管理アプリでも、宅配でもなく、ログでもなく、紙。
紙が、私を1203Aと呼んでいる。
テーブルの上には、1203を固定する原本が並んでいる。
その横で、新しい紙だけが、私を違う呼び方で指している。
どちらが“原本”なのか。
原本とは何か。最初からの形とは何か。
私は封筒を裏返し、差出人をもう一度確認した。管理組合。
公的、とまでは言わない。けれど、私よりは強い。私よりは“正しい側”にいる。
喉が乾いた。
私は封筒を開けずに、ファイルへ挟んだ。タイトル欄に書く。
「管理組合/1203A」
フォルダがまた増えた。
増えたのは紙の居場所だけだ。
そう言い聞かせても、胸の奥の冷えは引かなかった。
その夜、寝る前に廊下へ出た。
突き当たりの扉が静かにそこにある。
私は扉を見た。見ないふりをした。
見ないふりをすることで、四桁を守れる気がした。
守れる気がするだけだった。
眠れない理由は分かっている。眠れないのは“何かが怖い”からではない。怖いのは漠然としている。漠然としているものは、言葉にできない。言葉にできないものは、私の中で勝手に膨らむ。膨らむ前に、私はやるべきことがあった。
原本を集める。
紙の原本。最初からの形。四桁を固定してくれるもの。
私は寝室を出て、リビングの棚からクリアファイルを引っ張り出した。契約書控え、入居案内、鍵受領書、設備説明。紙を一枚ずつテーブルに並べると、部屋の空気が少しだけ固くなる。固い空気は安心だ。固いものは揺れにくい。
【契約書控え(原本)】
住戸番号:1203
棟:A棟
A棟のA。
Aはここにいる。最初からいる。
住戸番号の横に付くAではない。違う。そう言い聞かせると、胸の奥の冷えがわずかに引いた。
鍵受領書も取り出す。
【鍵受領書(控)】
住戸番号:1203
キーID:9F2-***
受領日時:2026/2/8 14:06
四桁。
私はその数字を指でなぞった。印刷された数字は、私の指先に負けない硬さを持っている。こういう硬さが欲しかった。
私は紙をまとめ、さらに引っ越しのときの控えを探した。段ボールの隙間に、引っ越し業者の控えと、貼り付けシールの台紙が残っていた。そこにも私の部屋番号が手書きで書かれている。
「1203」
手書きの数字は印刷ほど整っていない。だからこそ、そこに人の意思があるように見える。私はその控えもテーブルに置いた。
紙が増えるほど、私は“勝てる”気がした。台帳やログに負けない気がした。
勝つ、という言葉を自分が使っていることに気づき、私は苦笑した。生活を始めたかっただけなのに、いつの間にか勝負になっている。
私はふと思い立って、引っ越し初日に撮った動画を再生した。窓の外、段ボール、玄関。最後に、郵便受けの番号を撮った短いカットがある。私はその部分で動画を止め、スクリーンショットを撮った。
ポスト:「1203」。
Aはない。
安堵が胸に広がる。
やっぱり。最初から、四桁だった。私は間違っていない。私の部屋は1203だ。
私はそのスクショをアルバムに保存し、さらに自分宛にメールで送った。証拠を別の場所に置く。現実が揺れても、揺れない場所に残す。
メールの件名にはこう書いた。
「証拠:ポスト1203(2026/2/8)」
送信ボタンを押した瞬間、私は変な汗をかいた。
“証拠”という言葉を自分が使っている。
証拠を保全するという行為が、普通の生活から少しだけはみ出している。
けれど、はみ出してでもやらないと、私が消えてしまう気がした。消えるのは私ではなく、私の確信だ。確信が消えたら、私は自分の部屋番号すら言えなくなる。
テーブルの上の紙を見渡す。契約、鍵、引越控え、スクショ。四桁。四桁。四桁。
私は、やっと眠れるかもしれないと思った。
そのとき、インターホンが鳴った。
音は短く、乾いていた。
こんな時間に、誰?
覗き穴を覗くと、誰もいない。廊下は白い光の中で空っぽだ。空っぽなのに、インターホンの履歴には残る。画面に「応答なし」と表示されている。私はそれを見て、また記録してしまいそうになった。堪えた。記録は増やしたくない。もう十分だ。
翌朝、郵便受けに一通の封筒が届いていた。差出人は「管理組合」。駐輪場利用の案内。普通の紙。普通の文面。
私は中身を読む前に、封筒の宛名に目が吸い寄せられた。
【封筒の宛名】
A棟12階 1203A
緒方ミサキ様
私は玄関の中で立ち尽くした。
紙だ。
管理アプリでも、宅配でもなく、ログでもなく、紙。
紙が、私を1203Aと呼んでいる。
テーブルの上には、1203を固定する原本が並んでいる。
その横で、新しい紙だけが、私を違う呼び方で指している。
どちらが“原本”なのか。
原本とは何か。最初からの形とは何か。
私は封筒を裏返し、差出人をもう一度確認した。管理組合。
公的、とまでは言わない。けれど、私よりは強い。私よりは“正しい側”にいる。
喉が乾いた。
私は封筒を開けずに、ファイルへ挟んだ。タイトル欄に書く。
「管理組合/1203A」
フォルダがまた増えた。
増えたのは紙の居場所だけだ。
そう言い聞かせても、胸の奥の冷えは引かなかった。
その夜、寝る前に廊下へ出た。
突き当たりの扉が静かにそこにある。
私は扉を見た。見ないふりをした。
見ないふりをすることで、四桁を守れる気がした。
守れる気がするだけだった。



