翌朝、私は目覚めてすぐにスマホを開いた。
よくない癖だと分かっている。目覚めの一番やわらかい時間に、硬い文字を入れると一日が歪む。けれど歪んだのは私の一日ではなく、私の住戸番号だ。歪んだものを、私は確認しないといられない。
管理アプリのトップに、セキュリティ更新のお知らせが出ていた。件名は無害だ。「重要:入館システムのアップデート」。私はそれを開いて、説明文を流し読みした。最後に「入館ログの確認はこちら」というリンクがある。
便利だと思った。便利は信用できる。
そう思う癖が、まだ私の中に残っていた。
リンクを開くと、日時と通過地点とキーIDが並んだ一覧が表示された。数字が整然と並ぶ画面は、いつもなら落ち着く。数字は嘘をつかない、と思いたいからだ。
私は自分のキーIDを探した。鍵受領書にあった「9F2-***」。一覧の中にそれがあり、私は一瞬、安心しかけた。仕組みは私を認識している。私は存在している。
けれど、その安心は、次の一行で切れた。
【入館ログ(抜粋)】
2/14 02:18 キーID: 9F2-*** 通過:12F 共用廊下(東)
2/14 02:19 キーID: 9F2-*** 通過:12F 共用廊下(東)
2/14 02:20 キーID: 1C8-*** 通過:12F 共用廊下(東)
※個別住戸前の通過ログは保安上の理由により記録対象外です。
二時十八分。
私は寝ていた。寝ていたはずだ。
“はずだ”という言い方がもう弱い。眠りは証拠にならない。眠りは穴だ。穴の間に何があっても、私は見ていない。
共用廊下(東)。
東?
12階に“東”なんて表示はない。エレベーターを降りた廊下は一本で、左右に曲がるだけだ。東西南北の概念を持ち込むのは、図面の中だけだ。私の生活の中にはない。
私はログの画面をスクリーンショットにした。指が勝手に動く。記録癖が、もう自動になっている。
2:18、2:19。二回。しかも同じ場所を連続で通過している。何をしていた? 私は?
その直後、別のキーIDが同じ場所を通っている。追いかけた? 追いかけられた?
馬鹿げている。馬鹿げているのに、数字が馬鹿げさせてくれない。数字は冷たく、正確にそこにある。
私は部屋を出た。パジャマのまま、上着だけ羽織って、廊下へ出た。確認したい。確認しなければ。
エレベーター前の案内板を見る。12階の住戸番号はいつも通り。Aはない。東もない。
非常口表示を見る。矢印。番号。
東はない。
廊下を歩く。白い照明。薄い影。足音が反響して、誰かが後ろを歩いているように聞こえる。私は振り返らない。振り返れば、音が“誰か”になる気がする。誰かになったら終わる気がする。
廊下の端まで行く。非常階段の扉。扉には「非常口」とあるだけだ。方角はない。
反対側も行く。行き止まりまで。壁で終わる。終わるはずの場所の手前に、あの収納扉がある。廊下突き当たりの扉。
私はそこで立ち止まった。
“共用廊下(東)”。
この場所が“東”なのか?
そうだとしたら、東は、私が知らないだけで存在する。存在するものを、私は知らされていない。知らされていないことが、怖い。知らされていないことは、いくらでも増える。
私はスマホのログ画面をもう一度開いた。通過地点の「(東)」が、括弧の中で妙に小さく光る。括弧は補足のはずなのに、補足が主役になっている。
私は括弧の意味を探した。リンクを辿ると、セキュリティページの下部に「保安報告」という項目があるのに気づいた。タップすると、文章だけが出た。映像はない。音もない。文字だけ。
【保安報告(抜粋)】
2:18頃、12階共用廊下にて人影を確認。
ただし映像上、顔の識別は困難。
当該時刻の照明は自動調光モード。
※入居者様の安全のため詳細は開示できません。
顔の識別は困難。
私の顔も識別できないのだろうか。
識別できないなら、私が通過したことも、私ではないことも、同じ扱いになる。ログはただ「キーID」でしか人を見ない。キーIDは私のポケットにある。
鍵はここにある。
鍵があるなら、私が通過した。
そういうふうに、仕組みは現実を決める。
私は収納扉の取っ手に手を伸ばした。
冷たい。冷たいはずだ。
けれどその朝も、金属はほんの少しだけ、私の手の温度に似ていた。触れた瞬間、誰かが先に触れていたような気がした。気がしただけだ。気は証拠にならない。
証拠にならないから、私は怖い。
扉を開ければ、確かめられる。
収納なら収納だ。室なら室だ。
けれど私は開けなかった。開けた瞬間、“東”が固定されてしまう気がした。固定されれば、2:18が固定されてしまう気がした。固定されれば、私が固定されてしまう気がした。
私は取っ手から手を離し、そっと一歩下がった。
廊下の白い光の中で、扉はただの扉の顔をしている。
ただの扉に触れただけなのに、私は自分がどこかへ通過してしまったような気分になった。
戻りながら、私はログのスクリーンショットを「1203A」フォルダに入れた。タイトルを付ける。
「入館/2:18/東」。
増えたのは画像一枚だ。
そう言い聞かせる声が、だんだん小さくなっている。
よくない癖だと分かっている。目覚めの一番やわらかい時間に、硬い文字を入れると一日が歪む。けれど歪んだのは私の一日ではなく、私の住戸番号だ。歪んだものを、私は確認しないといられない。
管理アプリのトップに、セキュリティ更新のお知らせが出ていた。件名は無害だ。「重要:入館システムのアップデート」。私はそれを開いて、説明文を流し読みした。最後に「入館ログの確認はこちら」というリンクがある。
便利だと思った。便利は信用できる。
そう思う癖が、まだ私の中に残っていた。
リンクを開くと、日時と通過地点とキーIDが並んだ一覧が表示された。数字が整然と並ぶ画面は、いつもなら落ち着く。数字は嘘をつかない、と思いたいからだ。
私は自分のキーIDを探した。鍵受領書にあった「9F2-***」。一覧の中にそれがあり、私は一瞬、安心しかけた。仕組みは私を認識している。私は存在している。
けれど、その安心は、次の一行で切れた。
【入館ログ(抜粋)】
2/14 02:18 キーID: 9F2-*** 通過:12F 共用廊下(東)
2/14 02:19 キーID: 9F2-*** 通過:12F 共用廊下(東)
2/14 02:20 キーID: 1C8-*** 通過:12F 共用廊下(東)
※個別住戸前の通過ログは保安上の理由により記録対象外です。
二時十八分。
私は寝ていた。寝ていたはずだ。
“はずだ”という言い方がもう弱い。眠りは証拠にならない。眠りは穴だ。穴の間に何があっても、私は見ていない。
共用廊下(東)。
東?
12階に“東”なんて表示はない。エレベーターを降りた廊下は一本で、左右に曲がるだけだ。東西南北の概念を持ち込むのは、図面の中だけだ。私の生活の中にはない。
私はログの画面をスクリーンショットにした。指が勝手に動く。記録癖が、もう自動になっている。
2:18、2:19。二回。しかも同じ場所を連続で通過している。何をしていた? 私は?
その直後、別のキーIDが同じ場所を通っている。追いかけた? 追いかけられた?
馬鹿げている。馬鹿げているのに、数字が馬鹿げさせてくれない。数字は冷たく、正確にそこにある。
私は部屋を出た。パジャマのまま、上着だけ羽織って、廊下へ出た。確認したい。確認しなければ。
エレベーター前の案内板を見る。12階の住戸番号はいつも通り。Aはない。東もない。
非常口表示を見る。矢印。番号。
東はない。
廊下を歩く。白い照明。薄い影。足音が反響して、誰かが後ろを歩いているように聞こえる。私は振り返らない。振り返れば、音が“誰か”になる気がする。誰かになったら終わる気がする。
廊下の端まで行く。非常階段の扉。扉には「非常口」とあるだけだ。方角はない。
反対側も行く。行き止まりまで。壁で終わる。終わるはずの場所の手前に、あの収納扉がある。廊下突き当たりの扉。
私はそこで立ち止まった。
“共用廊下(東)”。
この場所が“東”なのか?
そうだとしたら、東は、私が知らないだけで存在する。存在するものを、私は知らされていない。知らされていないことが、怖い。知らされていないことは、いくらでも増える。
私はスマホのログ画面をもう一度開いた。通過地点の「(東)」が、括弧の中で妙に小さく光る。括弧は補足のはずなのに、補足が主役になっている。
私は括弧の意味を探した。リンクを辿ると、セキュリティページの下部に「保安報告」という項目があるのに気づいた。タップすると、文章だけが出た。映像はない。音もない。文字だけ。
【保安報告(抜粋)】
2:18頃、12階共用廊下にて人影を確認。
ただし映像上、顔の識別は困難。
当該時刻の照明は自動調光モード。
※入居者様の安全のため詳細は開示できません。
顔の識別は困難。
私の顔も識別できないのだろうか。
識別できないなら、私が通過したことも、私ではないことも、同じ扱いになる。ログはただ「キーID」でしか人を見ない。キーIDは私のポケットにある。
鍵はここにある。
鍵があるなら、私が通過した。
そういうふうに、仕組みは現実を決める。
私は収納扉の取っ手に手を伸ばした。
冷たい。冷たいはずだ。
けれどその朝も、金属はほんの少しだけ、私の手の温度に似ていた。触れた瞬間、誰かが先に触れていたような気がした。気がしただけだ。気は証拠にならない。
証拠にならないから、私は怖い。
扉を開ければ、確かめられる。
収納なら収納だ。室なら室だ。
けれど私は開けなかった。開けた瞬間、“東”が固定されてしまう気がした。固定されれば、2:18が固定されてしまう気がした。固定されれば、私が固定されてしまう気がした。
私は取っ手から手を離し、そっと一歩下がった。
廊下の白い光の中で、扉はただの扉の顔をしている。
ただの扉に触れただけなのに、私は自分がどこかへ通過してしまったような気分になった。
戻りながら、私はログのスクリーンショットを「1203A」フォルダに入れた。タイトルを付ける。
「入館/2:18/東」。
増えたのは画像一枚だ。
そう言い聞かせる声が、だんだん小さくなっている。



