回覧をファイルに挟んで棚へ戻したあとも、紙の重みが手のひらに残っていた。薄い紙なのに、重い。重いのは内容ではなく、「印刷されてしまった」という事実だ。印刷されたものは、最初からそこにあった顔をする。あとから混ざった一文字でさえ、最初からの顔をする。

私は落ち着こうとして、入居時にもらった書類一式をもう一度広げた。契約書控え、鍵受領書、設備説明、避難経路、間取り図。紙の束は私にとって安全なものだ。安全なはずだった。
間取り図を取り出し、テーブルの上に平らに置く。折り目がある。内見のとき、何度も開いた折り目。私はその折り目を指でなぞった。紙は、私が触った回数を覚えている。だから紙は強い。だから紙が勝つはずだ。

【入居時にもらった間取り(原本)】
1203:玄関→廊下→LDK/洋室/洗面・浴室/収納1
(廊下の突き当たりは“収納”)

私は“収納”の文字を見つめた。突き当たりは収納。そこは確かに、収納だった。
そう思った瞬間、喉の奥がひゅっと鳴った。
“確かに”と言い切ったのは、誰に対してだろう。自分に対してだ。自分に対して言い切らないと、簡単に崩れる気がするからだ。

管理アプリを開き、住戸情報のページへ進む。間取りが表示される。最初は見比べるつもりではなかった。単に“安心”したかっただけだ。登録情報がまだ1203であることを確認して、少し落ち着きたかった。
ところが、間取り図を開いた瞬間、私は息を止めた。

同じはずの図が、同じではなかった。

【管理アプリ掲載の間取り(表示)】
1203:玄関→廊下→LDK/洋室/洗面・浴室/収納1
(廊下の突き当たり:扉表記「PS」ではなく「室」)

たった一文字。
「室」。

収納ではなく、室。部屋。人が入る場所。
私は指先で画面を拡大し、さらに拡大した。線の太さ、扉の位置、寸法表記。全体は同じだ。違うのは、突き当たりの小さな表示だけ。そこだけが違う。
違いが小さいほど、怖い。小さい違いは、最初からだった気がしてしまうからだ。

私はテーブルの原本を見た。原本は“収納”。
私はスマホの表示を見た。表示は“室”。
どちらが正しい? という問いが、最初から間違っている気がした。正しいかどうかではなく、どちらが“勝つ”か。
いままで、勝つのは紙だと思っていた。

画面をスクロールしていると、小さな表示が目に入った。更新情報。私はそれを見つけた瞬間、背中に汗が滲んだ。

【管理アプリ】間取りデータ更新:2026/2/12 03:03

三時三分。
私はその時間、寝ていた。寝ていたはずだ。
眠りは証拠にならない。眠りは穴だ。穴の間に、何かが差し込まれる。

私は椅子から立ち上がり、廊下へ出た。現場を見れば落ち着く。紙と画面は嘘をつくかもしれないが、扉は嘘をつかない。扉はそこにある。
廊下の突き当たりへ歩く。白い照明。薄い影。足音が壁に反射して、自分の歩く音が他人のように聞こえる。

突き当たりの扉は、いつも通り白い。取っ手、鍵穴、蝶番。普通だ。収納扉だ。
私は取っ手に触れた。冷たい金属。冷たい。冷たいことに少し安心した。
扉の向こうに光源はない。そう思った。収納の中に照明はない。普通はない。
私は鍵穴を見た。鍵は差し込まれていない。鍵穴は静かだ。静かな鍵穴は、まだ世界が固い気がする。

戻って、原本とアプリをもう一度見比べる。
原本は“収納”。
アプリは“室”。
私は原本の余白にペンを取った。紙の強さを、さらに強くしたかった。自分の手で固定したかった。

廊下突き当たり:収納(扉)
※原本に基づく

書きながら、少しだけ落ち着く。書くことで現実が固定される。文字は、自分の足場になる。
けれど同時に思った。
固定しなければならない現実は、すでに揺れているのだ。

夜、歯を磨き、部屋の電気を落とした。寝室へ向かう前に、私はもう一度廊下へ出た。確認したくないのに、確認したい。確認したいのに、確認したら決まってしまう気がする。
それでも足は動く。動いてしまう。

突き当たりの扉は、昼と同じ場所にある。
同じ場所にあるのに、昼と同じに見えなかった。

取っ手の位置が、ほんの少し高い。
鍵穴の形が、違う気がする。
扉の下の隙間が、昼よりほんの少しだけ広い。暗い隙間から、室内の光が漏れているように見えた。
見えた、だけだ。
暗い廊下で目が錯覚しているだけかもしれない。

私はスマホを取り出して写真を撮った。フラッシュは使わない。影が潰れてしまう。暗い写真が保存される。暗すぎて、何も分からない写真。
分からないことが、逆に怖い。分からないものは、いくらでも解釈できる。解釈は勝手に増える。増えるほど、現実は薄くなる。

写真を拡大しても、扉の隙間はただの黒だった。光など写っていない。
私は安堵していいのか、分からなかった。
写っていないのなら、見えた光は私の錯覚だ。錯覚なら安心だ。
けれど、私の目が“光を見た”という事実は残る。残ってしまう。残るものが増えるほど、私は“確認しなければ”に近づいていく。

私は扉に手を伸ばし、取っ手に触れた。冷たい。
なのに、昼よりも少しだけ、私の手の温度に似ていた。
似ているだけだ。金属は冷たい。
冷たいのに、似ている。

私は扉を引かなかった。
引けば、決まる。
何が決まるのかは分からない。でも決まる。そういう直感があった。
直感は、証拠にならない。
証拠にならないのに、直感が私を動かしている。

私は取っ手から手を離し、静かに一歩下がった。
暗い写真を、もう一度見た。何も分からない。
分からないまま、私はその写真を「1203A」フォルダに入れた。タイトルを付ける。
「扉/夜」。

増えたのは写真一枚だ。
そう言い聞かせて、私は寝室のドアを閉めた。
扉の向こうに“室”があるのか、“収納”があるのか、私は決めなかった。決められなかった。
決めないまま眠ることが、いまの私の精一杯だった。