郵便受けを開けた瞬間、紙の匂いがした。印刷インクと、乾いた空気と、封筒の糊。どれも生活の匂いなのに、私はその日、妙に警戒してしまった。警戒したくてしているわけじゃない。体が先に反応する。手のひらが冷たくなる。

回覧だった。薄い封筒に、数枚の紙。管理アプリの通知は軽くて、指先ひとつで消せる。けれど紙は違う。紙は残る。残ってしまう。残るから強い。私は玄関の中で封筒を開き、立ったまま読んだ。

【回覧】生活音に関するお願い(理事会)
12階にて深夜帯の足音について複数のご意見をいただいております。
特に「12階・1203A付近」にて、ドア開閉音・走行音が目立つとの声があります。
お心当たりのある方はご配慮ください。
理事会(佐伯)

喉が鳴った。
また、そこにAがいる。

掲示板通知や宅配履歴なら、まだ“どこかの表示”だと言い訳ができた。けれど紙に印刷されてしまうと、言い訳が難しくなる。紙は、わざわざ刷る。わざわざ配る。わざわざ各戸の郵便受けに入れる。労力がある。労力があるものは、意図があるように見える。

私は回覧をもう一度読み直した。「付近」。この曖昧さが、いつも残る。付近という言葉は、責任の逃げ道だ。場所も、人も、言い切らない。言い切らないのに、対象だけは指す。「1203A付近」。Aだけは言い切っている。そこが嫌だった。

いてもたってもいられなくなって、私は廊下へ出た。エレベーター前の案内板を見に行く。案内板はいつも通りだった。12階:1201、1202、1203、1204、1205。Aはない。私はその場でスマホを取り出し、案内板を撮った。二回目だ。二回目の“ない”の記録。
自分でも分かっている。おかしい。ないことを、何度も撮る。けれど撮らないと、ないことがすぐに消えてしまう気がする。消えるのは現実ではなく、私の確信だ。

部屋へ戻りながら、私はドアのプレートに視線が行きそうになるのを止めた。見れば終わる気がする。終わる、というより、決まってしまう気がする。決まってほしくない。まだ四桁でいたい。まだ1203でいたい。

帰宅して、管理アプリの掲示板を開いた。回覧の内容はすでに転載されていた。紙がデータに変換され、同じ文章が画面に並んでいる。そこにコメントが付いている。私は見たくないのに、見てしまう。

【掲示板コメント(匿名)】
1203Aって前からあったよね。
12階の端の…あそこ。
いつも“いない”のに音だけする。

端。
12階の端は非常階段だ。そこに住戸はない。廊下は行き止まりで、壁で終わる。終わるはずの場所だ。そこに“端の部屋”があると言われると、廊下の形が変わってしまう気がする。私は頭の中で12階の平面図を思い浮かべた。内見のときに見た間取り。廊下は一本で、端は扉ではなく壁だった。
“前からあったよね”。
その言い方の軽さが、腹の底を冷やす。軽い言葉は確信の形をしている。

次のコメントが付く。

【掲示板コメント(匿名)】
1203Aの人、見ました。
いつも“いない”のに、いるみたいです。
🙃

絵文字が、冗談みたいに添えられている。冗談にしてしまえば怖くない、とでも言うように。冗談にした瞬間、怖さは“共有されたもの”になる。共有されると、誰も責任を取らない。責任がないのに、圧だけが残る。

私は反論を書こうとした。
「1203Aという部屋は存在しません。案内板にもありません」
指が動いた。入力欄に文字が出る。文字が出ると、少しだけ胸が軽くなる。言葉は武器だ。自分の現実を守る武器。私はそう思っている。

けれど途中で止まった。
存在しない、と言い切る根拠は何だろう。案内板は変わるかもしれない。管理アプリの表示は変わるかもしれない。台帳は――まだ見ていないけれど、台帳が存在するなら、それが“正しい”と言われるかもしれない。
「前からあったよね」と言う人たちは、何を根拠に言っているのか。根拠はないのに言えるのか。あるのに軽く言えるのか。

私は一度、入力した文字を全部消した。消すとき、指先が震えた。送らない。送れない。送った瞬間、私が“違う側”に立つ気がする。1203Aの話題に、私が加わってしまう。加わったら、もう逃げられない気がする。

回覧の紙がテーブルの上にある。掲示板の画面がスマホにある。宅配履歴のスクリーンショットがフォルダにある。
私の生活の中に、「A」という一文字が増殖している。増殖は静かだ。静かだから気づいたときには遅い。

私は玄関へ行き、ドアの外に耳を当てた。誰かの足音がする。遠い。12階のどこか。あるいは上の階。あるいは下。足音は方向を持たない。足音はいつも曖昧だ。
それなのに回覧は、掲示板は、足音の“付近”を指す。1203A付近。
私は息を止めた。息を止めると、耳が研ぎ澄まされる。研ぎ澄まされるほど、何も聞こえない。何も聞こえないほど、何かがいる気がする。

私は玄関の内鍵を確かめるように触った。鍵は冷たい。
冷たいものに触れると、まだ世界が固い気がする。固い世界なら、数字は揺れない。四桁は四桁のままだ。

それでも、掲示板の入力欄に残った空白が、私を責めていた。
私は何も書かなかった。
書かなかったことが、私の“参加”になってしまった気がした。

テーブルに戻り、回覧をファイルに挟もうとして、手が止まった。
残したいのに、残したくない。
残せば証拠になる。残せば現実になる。
紙は強い。だから怖い。

私は回覧をファイルに挟んだ。タイトル欄に小さく書く。「生活音/1203A」。
フォルダが増えた。
増えたのは、紙の居場所だけだ。そう言い聞かせながら、私はその夜、寝室のドアをいつもより静かに閉めた。