朝、机に座ると、私はまずスマホのフォルダを開いた。
「1203A」。
そこに入っているのは、スクリーンショット三枚と送り状の写真一枚。たったそれだけ。たったそれだけなのに、見返すたびに胸の奥が冷える。冷えるから、確認してしまう。確認したい、が、確認しなければ、に変わっていく。

私は一度スマホを伏せ、深呼吸してからメールアプリを開いた。管理会社に問い合わせる。これ以上、私一人の中で増やしたくない。増えるのは“記録”だけでいい。答えは外から来るべきだ。

文章は淡々と。余計な感情は混ぜない。数字と事実だけ。そう決めて、キーボードを叩く。

件名:部屋番号表記「1203A」について(確認)

管理会社サポートご担当者様
1203号室の緒方です。
管理アプリ通知および宅配ボックス履歴、配送通知メールにて、宛先が「1203A」と表記される事象が発生しています。
当方の正式な部屋番号は「1203」で間違いありません。
「1203A」という表記が何を指すのか(A棟の表記等か)、ご確認いただけますでしょうか。

よろしくお願いいたします。
緒方ミサキ

送信ボタンを押すと、数秒で自動返信が戻ってきた。受付完了。あっさりした文章の中に、数字だけが妙に強い。

【受付完了】
受付番号:#MK-0211-1203
受付日時:2026/2/11 08:27
内容:部屋番号表記確認(1203A)

受付番号に「1203」が入っているのが、皮肉みたいだと思った。
私が“1203”として問い合わせていることを、仕組みはちゃんと認識している。なのに内容欄には「1203A」。四桁と末尾の一文字が、同じ行で共存している。管理アプリの履歴画面と同じだ。どちらもそこにある。どちらも否定されない。

その日の午後、真鍋と名乗る担当者から返信が来た。丁寧で、短い。いつもの箱。

(返信・真鍋)
件名:Re: 部屋番号表記「1203A」について(確認)

緒方様
お問い合わせありがとうございます。管理会社の真鍋です。
確認のうえ、改めてご連絡いたします。
恐れ入りますが今しばらくお待ちください。

管理会社サポート 真鍋

“確認のうえ”。
この言葉は便利だ。中身を後回しにできる。後回しにすることで、その場を終わらせることができる。
私は、終わらせたいのかもしれないと思った。けれど終わらない。終わらないから確認したのに。

私は返信を待つ間、仕事を進めようとした。画面に集中する。文字を読む。文章を書く。
それでも頭の隅に「1203A」が居座る。居座って、静かに呼吸をする。呼吸の音が聞こえるような気がする。

夕方、メールがもう一通届いた。差出人は真鍋。私は反射的に開いた。
件名を見て、眉が寄った。

(返信・真鍋)
件名:Re: お問い合わせ(共用部清掃)

緒方様
この度は共用部清掃に関するご意見をいただきありがとうございます。
清掃業者へ共有のうえ、改善に努めてまいります。

管理会社サポート 真鍋

私は一瞬、自分が間違えて別件の問い合わせを送ったのかと思った。送信履歴を確認する。清掃の話は書いていない。
件名も違う。内容も違う。なのに宛名は私で、署名は真鍋で、文面の丁寧さだけが一致している。

“噛み合わない”。

人が間違えたのだろうか。担当が複数件を処理していて、返信先を取り違えた。そういうことはある。あるはずだ。
それでも、胸の奥が冷えるのは、取り違えが“偶然”に見えないからだ。偶然だと言い切る根拠がない。私はもう、根拠が揺れることに慣れ始めている。

返信を書こうとした。
「清掃については問い合わせていません。部屋番号表記について確認をお願いします」
そこまで打って、手が止まった。

もし、私の問い合わせが“清掃”として処理されているのだとしたら?
もし、私が送った内容が、どこかで別のカテゴリに吸い取られているのだとしたら?
仕組みが私の言葉を理解しないなら、私がいくら言葉を足しても無駄だ。無駄、というより、余計に“記録”が増えるだけだ。

私は書きかけの返信を消した。
消した瞬間、背中に汗が滲んだ。消したのは言葉だけなのに、消せないものが増えた気がする。
“送れなかった”という事実が、私の中に残る。

私は管理アプリを開いて、登録情報を確認した。住戸番号:1203。
まだ四桁だ。
それでも私は、宅配履歴の画面を開いてしまう。宛先:1203A。
掲示板通知も見てしまう。対象:1203A付近。
回覧はまだ届いていない。届いていないことが、今は救いに思えた。

真鍋の最初の返信には、確かに私の名前があった。「緒方様」。
二通目にもあった。「緒方様」。
名前だけは、私を正確に指している。
その正確さが、逆に怖い。名前が正確で、内容がずれている。私という存在は合っているのに、私の言葉だけがどこかへ逸れる。

私は再び返信を書きかけて、やめた。
いま送るべきは感情ではない。証拠だ。
証拠を添付して、淡々と提示して、淡々と答えをもらう。
そう思うのに、指は動かない。

気づけば、私はメール本文の下書き欄に、たった一行だけ残していた。

「正式な住戸番号は1203です。」

送信できない一行が、画面の中で白く浮いている。
私はそれを見つめたまま、スマホを伏せた。
確認したい。確認しなければ。
その二つの間に、私はずっと立っている。