朝、コーヒーを淹れていると、管理アプリの通知音が鳴った。軽い電子音。生活の端に引っかかる程度の音で、慣れてしまえば意識から外れる種類のものだ。私はまだ新しい住人だから、いちいち反応してしまう。画面に指を滑らせ、通知を開いた。
【管理アプリ通知】共用部のご利用について
2/10 08:12
近頃、廊下に私物を置かれるケースが見受けられます。
防災上の観点より、共用廊下への私物放置はご遠慮ください。
(対象:12階 1203A 付近)
管理室
「……A?」
声に出したのは、独り言の癖のせいだ。
A棟とB棟がある。昨日、エントランスで確かに見た。棟の記号としてのAなら分かる。けれど、住戸番号にAが付くのは見たことがない。1203は四桁で完結している。四桁は揺れない形だと、私は思っている。
“対象:12階 1203A付近”。
付近、という曖昧さが余計に気持ち悪い。1203付近ならまだ分かる。けれどAが付くと、急に地図の座標がずれる。私は通知文の「A」の部分だけを見つめた。視線がそこに吸い寄せられる。数字の横に付く一文字は、数字より目立つ。数字の世界に入ってきた異物だからだ。
誤記だろう、と頭では結論を出した。新築に近いマンションだ。管理室も慣れていないのかもしれない。
それでも私は、いつもの癖でスクリーンショットを撮った。証拠というほどのものじゃない。ただ、残しておくと落ち着く。記録は、私にとって“確認”だ。確認があると、世界が真っ直ぐになる。
キッチンから廊下へ出て、エレベーターの方向を見た。12階の共用廊下はまっすぐで、白い照明が均一に落ちている。影が薄く、壁と床の境目が曖昧になる。私物は何も置かれていない。廊下は空っぽだ。空っぽだから、どこかが“付近”になるのかもしれない。付近、という言葉は、空っぽに似合う。
私は気になって、エレベーター前の案内板を見に行った。案内板には各階の住戸番号が列記されている。12階の欄には、1201、1202、1203、1204、1205。いつも通りの四桁が並んでいる。Aはない。
私は案内板をスマホで撮った。これも癖だ。ないことを記録する。ないのに、わざわざ残す。その矛盾に気づくと、少しだけ自分が嫌になる。でも、嫌になるほどに、安心したいということだ。
部屋に戻る途中で、別の通知が来た。
【管理アプリ通知】定期点検のお知らせ
2/10 09:03
来週、消防設備点検を実施いたします。(12階含む)
※各住戸への立ち入りはございません。
続けてもう一件。
【管理アプリ通知】ゴミ分別の再周知
2/10 09:10
透明袋の使用/資源物の出し方について、改めてご確認ください。
普通の文面が並ぶ。普通の通知が続く。点検、ゴミ、周知。生活のルール。私が安心できる種類の言葉。
それなのに、さっきの「1203A付近」が、画面の中で突出して見える。普通の列の中に、ひとつだけ異物があると、異物は自分の存在を主張する。私は通知一覧をスクロールして、また最初の通知に戻った。そこだけ見たい。見たくないのに見たい。矛盾がまた増える。
“対象:12階 1203A付近”。
この文面、どこかで“コピペされた”ような硬さがある。誰かが一度作った文章を、機械的に貼り付けている感じ。誤記なら、誰かが気づいて直すはずだ。Aが余計だ、と。
私は管理会社に問い合わせた方がいいのだろうか、と一瞬考えたが、まだ早い気がした。誤記は誤記として放っておけば直る。直るはずだ。直る、という言葉は、私にとって安心の形だ。
昼過ぎ、作業用の机を組み立てていると、また通知音が鳴った。私はねじを持ったまま、反射的に画面を開いた。そこに、朝と同じ件名があった。
【管理アプリ通知】共用部のご利用について
2/10 12:44
近頃、廊下に私物を置かれるケースが見受けられます。
防災上の観点より、共用廊下への私物放置はご遠慮ください。
(対象:12階 1203A 付近)
管理室
文面が同じだった。句読点の位置も同じ。括弧の形も同じ。違うのは時刻だけ。
誤記が、再投稿される。訂正ではなく、再投稿。
私は指先が冷えるのを感じた。誤記なら、直して出し直すはずだ。けれどこれは、直していない。直していないまま、同じ文章をもう一度投げている。
私は二つ目の通知もスクリーンショットにした。画面の中に、同じ文章が二枚並ぶ。時間だけ違う。時間だけが、確かに違う。
私は案内板の写真も開いてみた。12階には1203がある。1203Aはない。
ない、はずだ。
廊下へ出て、もう一度周囲を見た。空っぽの廊下。白い光。薄い影。非常階段の扉は閉じている。誰もいない。
なのに“対象”だけは、はっきりと指されている。1203A付近。
付近、という曖昧さの中に、Aだけが妙に鋭い。
私は自分のドアの前に立ち、鍵に触れた。鍵はいつも通り冷たい。
鍵を回す音が、朝より大きく感じた。閉まる、という行為が、急に意味を持ち始める。
私は鍵を掛けたまま、しばらくドアを見つめた。
ドアの左上には、小さなプレートが貼られている。住戸番号のプレートだ。
私はそこを見なかった。見る必要はない。1203だから。
そう思うことで、自分を落ち着かせた。
けれど、スクリーンショットの中の「A」は、落ち着かなかった。
増えたのは、文章だ。
増えただけで、私の生活の端が、少しだけずれた気がした。
【管理アプリ通知】共用部のご利用について
2/10 08:12
近頃、廊下に私物を置かれるケースが見受けられます。
防災上の観点より、共用廊下への私物放置はご遠慮ください。
(対象:12階 1203A 付近)
管理室
「……A?」
声に出したのは、独り言の癖のせいだ。
A棟とB棟がある。昨日、エントランスで確かに見た。棟の記号としてのAなら分かる。けれど、住戸番号にAが付くのは見たことがない。1203は四桁で完結している。四桁は揺れない形だと、私は思っている。
“対象:12階 1203A付近”。
付近、という曖昧さが余計に気持ち悪い。1203付近ならまだ分かる。けれどAが付くと、急に地図の座標がずれる。私は通知文の「A」の部分だけを見つめた。視線がそこに吸い寄せられる。数字の横に付く一文字は、数字より目立つ。数字の世界に入ってきた異物だからだ。
誤記だろう、と頭では結論を出した。新築に近いマンションだ。管理室も慣れていないのかもしれない。
それでも私は、いつもの癖でスクリーンショットを撮った。証拠というほどのものじゃない。ただ、残しておくと落ち着く。記録は、私にとって“確認”だ。確認があると、世界が真っ直ぐになる。
キッチンから廊下へ出て、エレベーターの方向を見た。12階の共用廊下はまっすぐで、白い照明が均一に落ちている。影が薄く、壁と床の境目が曖昧になる。私物は何も置かれていない。廊下は空っぽだ。空っぽだから、どこかが“付近”になるのかもしれない。付近、という言葉は、空っぽに似合う。
私は気になって、エレベーター前の案内板を見に行った。案内板には各階の住戸番号が列記されている。12階の欄には、1201、1202、1203、1204、1205。いつも通りの四桁が並んでいる。Aはない。
私は案内板をスマホで撮った。これも癖だ。ないことを記録する。ないのに、わざわざ残す。その矛盾に気づくと、少しだけ自分が嫌になる。でも、嫌になるほどに、安心したいということだ。
部屋に戻る途中で、別の通知が来た。
【管理アプリ通知】定期点検のお知らせ
2/10 09:03
来週、消防設備点検を実施いたします。(12階含む)
※各住戸への立ち入りはございません。
続けてもう一件。
【管理アプリ通知】ゴミ分別の再周知
2/10 09:10
透明袋の使用/資源物の出し方について、改めてご確認ください。
普通の文面が並ぶ。普通の通知が続く。点検、ゴミ、周知。生活のルール。私が安心できる種類の言葉。
それなのに、さっきの「1203A付近」が、画面の中で突出して見える。普通の列の中に、ひとつだけ異物があると、異物は自分の存在を主張する。私は通知一覧をスクロールして、また最初の通知に戻った。そこだけ見たい。見たくないのに見たい。矛盾がまた増える。
“対象:12階 1203A付近”。
この文面、どこかで“コピペされた”ような硬さがある。誰かが一度作った文章を、機械的に貼り付けている感じ。誤記なら、誰かが気づいて直すはずだ。Aが余計だ、と。
私は管理会社に問い合わせた方がいいのだろうか、と一瞬考えたが、まだ早い気がした。誤記は誤記として放っておけば直る。直るはずだ。直る、という言葉は、私にとって安心の形だ。
昼過ぎ、作業用の机を組み立てていると、また通知音が鳴った。私はねじを持ったまま、反射的に画面を開いた。そこに、朝と同じ件名があった。
【管理アプリ通知】共用部のご利用について
2/10 12:44
近頃、廊下に私物を置かれるケースが見受けられます。
防災上の観点より、共用廊下への私物放置はご遠慮ください。
(対象:12階 1203A 付近)
管理室
文面が同じだった。句読点の位置も同じ。括弧の形も同じ。違うのは時刻だけ。
誤記が、再投稿される。訂正ではなく、再投稿。
私は指先が冷えるのを感じた。誤記なら、直して出し直すはずだ。けれどこれは、直していない。直していないまま、同じ文章をもう一度投げている。
私は二つ目の通知もスクリーンショットにした。画面の中に、同じ文章が二枚並ぶ。時間だけ違う。時間だけが、確かに違う。
私は案内板の写真も開いてみた。12階には1203がある。1203Aはない。
ない、はずだ。
廊下へ出て、もう一度周囲を見た。空っぽの廊下。白い光。薄い影。非常階段の扉は閉じている。誰もいない。
なのに“対象”だけは、はっきりと指されている。1203A付近。
付近、という曖昧さの中に、Aだけが妙に鋭い。
私は自分のドアの前に立ち、鍵に触れた。鍵はいつも通り冷たい。
鍵を回す音が、朝より大きく感じた。閉まる、という行為が、急に意味を持ち始める。
私は鍵を掛けたまま、しばらくドアを見つめた。
ドアの左上には、小さなプレートが貼られている。住戸番号のプレートだ。
私はそこを見なかった。見る必要はない。1203だから。
そう思うことで、自分を落ち着かせた。
けれど、スクリーンショットの中の「A」は、落ち着かなかった。
増えたのは、文章だ。
増えただけで、私の生活の端が、少しだけずれた気がした。



