【メモ】2026/2/8(日)
入居完了。鍵2本、ICキー1枚。
ポスト:1203/表札:OGATA
“いい生活を始める”。
玄関のドアが閉まった瞬間、空気が切り替わる。外の匂いが薄まり、室内の静けさが一段濃くなる。私はこの感覚が好きだ。誰にも邪魔されない、自分だけの箱を手に入れたような安心。段ボールが積まれたリビングの真ん中で、私は小さく息を吐いた。今日から、ここが私の生活になる。
カーテンはまだ付けていない。窓の外は冬の薄い光で、遠くの道路を走る車が米粒みたいに流れている。私はスマホを取り出して、窓の外と部屋の中を短い動画で撮った。誰かに見せるためじゃない。自分のための確認だ。いつか振り返って、「確かにこの日が始まりだった」と言えるように。こういう“証拠”があると、心が落ち着く。
冷蔵庫の前に立ち、買うものを箇条書きにする。牛乳、卵、洗剤、ゴミ袋。生活が整う音がする。メモは私を静かにする。頭の中のざわつきが、文字に吸い取られていく。
マンションはA棟とB棟に分かれている。エントランスのプレートにそう刻まれていた。私はA棟の12階、1203号室。四桁の番号は簡潔で、数字だけで世界の端が揃う気がする。番号は、現実の輪郭だ。だから私は、番号が好きだ。
荷ほどきを始める前に、入居時にもらった書類をまとめて棚にしまうことにした。こういう紙が散らばっていると落ち着かない。紙は“最初からの形”を覚えている。人の記憶よりずっと強い。クリアファイルを開くと、鍵の受領書がいちばん上に入っていた。
【鍵受領書(控)】
住戸番号:1203
キーID:9F2-***
受領日時:2026/2/8 14:06
受領者:緒方ミサキ
私はそこを指でなぞった。「1203」。印刷された数字は、やけに頼もしい。これがある限り、私は迷わない。契約書控えにも同じ番号があり、入居案内には「住戸番号(4桁)を各種登録に利用」と書かれている。四桁。余計なものが付かない、揺れない形。私はそれらを同じファイルにまとめ、棚のいちばん取り出しやすい場所へ置いた。
段ボールを開ける。食器を出す。キッチンの引き出しにカトラリーを揃える。たったそれだけで、部屋は“住む場所”になる。私は小さな達成感を覚え、もう一度メモを開いた。今日やること、明日やること。自分の生活が、目に見える形で増えていく。増えていくのは、いいことだ。増えていくほど、私は安心する。
夜、シャワーを浴びて、髪を乾かし、ベッドに横になった。部屋は静かで、遠くの換気扇の音だけが規則正しく空気を切っている。私は眠る前の癖で、玄関の内側を確認した。チェーン、覗き穴、サムターン。どれも新品の光沢。鍵は回る。ドアは閉まる。世界の端が揃う。
ドアの左上に、小さなプレートが貼られているのが視界に入った。住戸番号のプレートだろう。そこに「1203」とあるのは分かっている。確認する必要はない。私は目を逸らして、スマホのメモを開いた。
1203。
いい生活を始める。
そう書いて、画面を閉じた。四桁の数字が、私の心を少しだけ重く、そして確かにしてくれる。私は目を閉じた。静けさの中で、私だけが呼吸をしている。ここは私の部屋だ。1203号室。間違いない。
眠りに落ちる直前、ふと、エントランスで見た“棟”の文字が浮かんだ。A棟。Aは棟の記号。四桁とは別の場所にある、ただの区分。だから安心できる。余計なものは、番号には付かない。
私はそう思い直して、深く息を吐いた。
いい生活を始める。
今日の私は、ちゃんと始まっている。
入居完了。鍵2本、ICキー1枚。
ポスト:1203/表札:OGATA
“いい生活を始める”。
玄関のドアが閉まった瞬間、空気が切り替わる。外の匂いが薄まり、室内の静けさが一段濃くなる。私はこの感覚が好きだ。誰にも邪魔されない、自分だけの箱を手に入れたような安心。段ボールが積まれたリビングの真ん中で、私は小さく息を吐いた。今日から、ここが私の生活になる。
カーテンはまだ付けていない。窓の外は冬の薄い光で、遠くの道路を走る車が米粒みたいに流れている。私はスマホを取り出して、窓の外と部屋の中を短い動画で撮った。誰かに見せるためじゃない。自分のための確認だ。いつか振り返って、「確かにこの日が始まりだった」と言えるように。こういう“証拠”があると、心が落ち着く。
冷蔵庫の前に立ち、買うものを箇条書きにする。牛乳、卵、洗剤、ゴミ袋。生活が整う音がする。メモは私を静かにする。頭の中のざわつきが、文字に吸い取られていく。
マンションはA棟とB棟に分かれている。エントランスのプレートにそう刻まれていた。私はA棟の12階、1203号室。四桁の番号は簡潔で、数字だけで世界の端が揃う気がする。番号は、現実の輪郭だ。だから私は、番号が好きだ。
荷ほどきを始める前に、入居時にもらった書類をまとめて棚にしまうことにした。こういう紙が散らばっていると落ち着かない。紙は“最初からの形”を覚えている。人の記憶よりずっと強い。クリアファイルを開くと、鍵の受領書がいちばん上に入っていた。
【鍵受領書(控)】
住戸番号:1203
キーID:9F2-***
受領日時:2026/2/8 14:06
受領者:緒方ミサキ
私はそこを指でなぞった。「1203」。印刷された数字は、やけに頼もしい。これがある限り、私は迷わない。契約書控えにも同じ番号があり、入居案内には「住戸番号(4桁)を各種登録に利用」と書かれている。四桁。余計なものが付かない、揺れない形。私はそれらを同じファイルにまとめ、棚のいちばん取り出しやすい場所へ置いた。
段ボールを開ける。食器を出す。キッチンの引き出しにカトラリーを揃える。たったそれだけで、部屋は“住む場所”になる。私は小さな達成感を覚え、もう一度メモを開いた。今日やること、明日やること。自分の生活が、目に見える形で増えていく。増えていくのは、いいことだ。増えていくほど、私は安心する。
夜、シャワーを浴びて、髪を乾かし、ベッドに横になった。部屋は静かで、遠くの換気扇の音だけが規則正しく空気を切っている。私は眠る前の癖で、玄関の内側を確認した。チェーン、覗き穴、サムターン。どれも新品の光沢。鍵は回る。ドアは閉まる。世界の端が揃う。
ドアの左上に、小さなプレートが貼られているのが視界に入った。住戸番号のプレートだろう。そこに「1203」とあるのは分かっている。確認する必要はない。私は目を逸らして、スマホのメモを開いた。
1203。
いい生活を始める。
そう書いて、画面を閉じた。四桁の数字が、私の心を少しだけ重く、そして確かにしてくれる。私は目を閉じた。静けさの中で、私だけが呼吸をしている。ここは私の部屋だ。1203号室。間違いない。
眠りに落ちる直前、ふと、エントランスで見た“棟”の文字が浮かんだ。A棟。Aは棟の記号。四桁とは別の場所にある、ただの区分。だから安心できる。余計なものは、番号には付かない。
私はそう思い直して、深く息を吐いた。
いい生活を始める。
今日の私は、ちゃんと始まっている。



