選ばれるはずのない姫でした― 期限をきられた恋と、騎士の真実 ―

■孤児院にて

「姫様!!」

弾むような声とともに、ミリナが家の中から飛び出してきて、私の体に勢いよく抱きついてくる。

「元気だった?」

私はその小さな背中を抱きしめた。

ミリナは、この王都にある比較的大きな孤児院に、二年前に引き取られた女の子だ。
魔物に家族全員を殺され、その光景を目の前で見たことで、当時の彼女は言葉も、表情も失っていた。

本当は、一人の子に特別な思い入れをしてはいけない。
それでも――私は、彼女のあまりに過酷な現実を見過ごすことができなかった。
彼女には、特別な愛情が必要だった。
そう思って、一年間だけ、一緒に過ごした時期がある。

今でも手紙のやり取りは続いているし、
月に一度は、こうして視察にも来ている。

完全とは言えないけれど、
それでもミリナは言葉を取り戻し、
こうして笑顔を見せてくれるようになった。

「今日は、いつもの騎士さんと違うの?」

ミリナはそう言ってから、
おそるおそる、私の後ろに控えているアディスへと目を向ける。

「テンレイとマナが風邪を引いちゃってね。ルーシーは今日はお休みなの」

普段、城外での警護をしてくれているのは、
第5師団に所属する女性騎士たちだ。

今日は、その代わりに――アディスが同行している。

第1師団副師団長という立場にある彼が、
本来、私の護衛につく余裕などないはずだ。

夜勤明けだった彼が、
たまたま第5師団副師団長と話していた時に事情を聞き、
引き受けてくれたのだという。

感謝している。

けれど同時に、
休みの日くらい、きちんと休んでほしいとも思ってしまう。

……それでも同行を願ったのは、
この視察が、私にとって何より大切なことだからで。

――そして正直に言えば。
アディスが護衛につく、という誘惑に、負けた。

「こんにちは」

アディスはそう言って、
ミリナの目線まで膝を折り、柔らかく笑った。

その瞬間、
ミリナの目がきらきらと輝いた。

……無自覚なたらし。

私は内心で、少しだけ苦笑する。

やがて、次から次へと子どもたちが外へ飛び出してきた。
私というより、ほとんどがアディス目当てだ。

男性の騎士が来るのは珍しいのだろう。

囲まれて押され、
さすがのアディスも困った顔をしている。

「はいはい、騎士様が困っているでしょ。お話しするなら順番にね」

孤児院を預かるトーラ院長が現れ、子どもたちを制した。

「いつもの方じゃないのね。そりゃ、騒ぐはずだわ」

そう苦笑しながら、
「ダリア様、少し騎士様にもお相手していただいてもよろしいかしら?」

私がアディスを見ると、
困ったようにしながらも、こくりと頷く。

「ええ。普段、子どもと接するお仕事ではないから……お手柔らかにお願いしますね」

そうして私は、院長とともに中へ入った。

――――――――

■馬車内の沈黙

帰りの馬車の中は、思った以上に静かだった。

車輪が石畳を踏む音と、
馬の蹄の規則正しい響き。
それだけが、途切れることなく続いている。

行きの道中で、差し障りのない近況は一通り話してしまった。
今はもう、思いつく無難な話題が、何もない。

……気まずい。

けれど、
アディスは別に気にした様子もなく、
馬車の外へ静かに意識を向けている。

――そうよね。
気まずいのも、緊張しているのも、私だけ。

私は膝の上で指先を組み、
胸の奥に溜まっているものを、何度も確かめる。

(……今、言うべきなんだろうか)

巫女になること。
期限が来たら、そうするつもりだということ。
お父様には、まだ話していない。
正式に決めたわけでもない。

それでも、私の中では――もう、ほとんど答えは出ている。

(言えば、楽になるのに)

そう思う。

言ってしまえば、
この曖昧な時間も、
この無駄な期待も、
きっと終わる。

でも――
言葉が、喉の奥で引っかかる。

もし、今ここでそれを口にしたら。
アディスは、どんな顔をするだろう。

「そうですか」と、
いつものように穏やかに頷くだけかもしれない。

それが、いちばん正しい反応だ。
分かっている。

分かっているのに、
それを聞いてしまったら、
私はもう、この人と昼食を共にする理由さえ、失ってしまう気がした。

――卑怯だ。
自分でも、そう思う。

決めたはずの覚悟を、
まだ言葉にできずにいる。

私は、ちらりとアディスの横顔を見る。
整った横顔。
無防備で、
それでいて、どこまでも遠い。

(……やっぱり、だめだ)

今は、言えない。
この沈黙が、壊れてしまうのが怖かった。

だから私は、
決意を胸の奥に押し込めて、
何でもないふりを続ける。

馬車は、変わらぬ速さで進んでいく。
私だけが、
この沈黙の中で、
一人、立ち止まっていた。

不意に、
馬車の揺れがわずかに変わった。

石畳を踏む音が、
ほんの一瞬だけ乱れる。

「――っ」

御者台のほうから、
息を呑むような音が聞こえた。

それに気づいたのは、
ほとんど同時だった。

アディスの空気が、
はっきりと変わる。

「トレロ、止めろ」

低く、迷いのない声。

次の瞬間、
馬車が急減速した。

「前方に魔物――!」

トレロの言葉が終わるより早く、
淡い光が走る。

馬車の周囲を包む、
防御結界。

私は反射的に息を止めた。

「動かないでください」

それだけ告げて、
アディスは立ち上がり、
扉に手をかけ、馬車を飛び出した。

扉が閉まり、
外の景色は結界越しに歪んで見えるだけになる。

次の瞬間、
空気を裂くような音が響いた。

魔力が解き放たれる音。
剣が振るわれる音。

そして――
魔物の、短い断末魔。

私は、
結界の内側で、
ただ両手を握りしめていた。

――――――――

■戦闘 (アディス視点)

――近い。

馬車の進行方向、左前方。
数が多い。

低く指示を出すと同時に、魔力を展開する。
薄く、しかし無駄なく、馬車全体を覆う結界。

完全防御はいらない。
守るべきものは、一つだけだ。

「結界の維持は?」

「俺の力だと、完璧には二分が限界です!」

十分だ。

剣を抜き、
刃に火の魔力を流し込む。

一体目。
距離を詰めてくる速度は速いが、軌道は単純。

踏み込み、
振り抜く。

炎をまとった刃が胴を断ち、
魔物は音もなく崩れ落ちた。

二体目は上空。
結界の縁に爪がかかる。

防御結界を自分の周囲に重ね、
同時に剣を投擲。

魔力で制御された刃が、
一直線に喉元を貫いた。

三体目は鈍重だが、力がある。
正面から受ける理由はない。

一歩ずらし、
関節部に火を集中。
切断。

巨体が地面に崩れ落ちる。

結界に衝撃。
かすり傷程度だ。

魔力を刃先に集束。
無駄に広げない。

踏み込みと同時に、
斬る。

音もなく、魔物は消えた。

剣から魔力を引き、
鞘に収める。

……終わりだ。

左腕に、遅れて熱。
衣服が裂け、血が滲んでいる。

――かすり傷。
治すほどではない。

まして、
彼女の力を使う理由にはならない。

一瞬、馬車の方を見る。
……無事だ。

それで十分だった。

――――――――

■事後処理

結界が解け、
外の空気がゆっくりと流れ込んでくる。

「……平気だ」

トレロに対する、アディスの声。

その左腕に滲む赤を見つけた瞬間、
私は息を呑んだ。

「今、治す――」

「やめてください」

強い声で、遮られる。

「この程度、怪我のうちに入りません」

そう言って、
彼は慣れた手つきで自分の腕を縛った。

ほどなく、
城から騎士たちが駆けつけ、
護衛は引き継がれる。

アディスは、騎士たちに指示を出し、
淡々と後処理を進めていた。

冷静で、正確で、
いつも通りの第1師団副師団長。

その間――
彼が一度もこちらを見なかったことに、
私はすぐ気づいてしまった。

声をかけるでもなく、
視線を向けるでもなく。

まるで、
最初からそこに私がいなかったかのように。

……ああ、やっぱり。

胸の奥に、
小さな納得が落ちてくる。

彼は、
私を「職務上での守るべき対象」としては見ていても、
それ以上の何かとして、
意識してはいない。

分かり切っていたことだと、
私は自分に言い聞かせる。

それが、
彼にとっていちばん安全で、
いちばん正しい距離なのだから。

新しく用意された馬車に乗り込む前、
私は一度だけ振り返る。

彼は、騎士としてそこに立っていた。
振り返られることは、なかった。

……やっぱりね。

私は小さく息を吐き、
その事実を、
静かに受け入れる。

馬車が動き出す。

結局、言えなかった言葉は、
胸の奥にしまわれたまま。