七音は、息が止まった。
今まで平和な距離を保ったまま続いていた文字だけのやり取りが、急に現実へと踏み込んできた気がしたのだ。
ノートに書かれていたのは、たった一行。
『君のことを、もっと知りたい』
率直で、まっすぐで、逃げ場のない言葉だった。
こんな言葉を、唯が書くとは思ってもいなかった。これは、もはや――恋愛的な興味を抱いている人間の言葉だった。
交換日記を始めたばかりの頃、名前を聞かれたとき、七音は正体を明かさなかった。
それ以来、互いの素性には踏み込まず、何気ない日常や些細な出来事を綴るだけの穏やかな関係が続いていた。
だからこそ、この一文は、あまりにも唐突だった。
好きな人がいるから相談に乗ってほしい。と、自分がそう綴ったあの日から、文字のやり取りの空気が少しずつ歪み始めていることに、七音は気づいていた。
自分に気づいてほしい。
けれど、幻滅もしてほしくない。
唯の気になる人の条件と自分は、正反対だと七音は分かっているから。
あのとき、様々な感情が混ざり合った勢いのまま打った一手。
唯のことが好きだと告げるためのきっかけを作る、軽い賭けのつもりだった行動が、こんなにも自分自身を締め付けることになるとは思ってもいなかった。
唯から「どんな子が好き?」そんな軽いノリで返事が来たら、「君が好きだよ」と書くつもりだった。
きっと「茶化さないでよ」と短い言葉が返ってくる。
そして、クラスで気になる子や仲のいい子はいないのかと聞き、天城七音と書いてもらうつもりだった。自分が一番仲がいいと思っていたからだ。
そうして徐々に天城七音のことを意識させ、少しずつ「もしかしたら」と思わせるような雰囲気を作る。
そして最後に、交換日記の相手が自分だったと打ち明ける――そんな計画だった。
けれど、物事はそう上手くは進まなかった。
唯は「好きという感情がよく分からない」と書いてきた。だから七音は、自分なりに、その気持ちを言葉にして説明した。
その結果が、これだ。
傍から見れば「知りたい」と言われる事は、ただの興味に近い一言に過ぎない。だが七音にとっては、胸の奥を重く押しつぶすような言葉だった。
唯が恋愛に関心を持ち始めたのは確かだ。だが、その関心の先にいるのは、実際の七音ではない。
文字の向こう側にいる、もう一人の七音。
唯の想像の中で形作られた人物だということが、はっきりと分かる。
男同士という壁は、唯には関係ないような気配が、文字から滲んでいる。
それはすでに、ノートの相手を意識しているからだろう。
七音が恐れているのは、唯が思い描いている相手が、きっと自分とは正反対の人間だということだった。
以前、唯が口にしていた「気になる人」は、誠実そうで、真面目そうな人物。
唯がそんな理想像をノートの相手に当てはめていることが、文字の端々から透けて見える。
もはや天城七音という男へ関心を持ってもらう、そのための軌道修正はできない。
「理想の相手」へと向けられた好意が、がっちりと固まっていることを、嫌でも思い知らされた。
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
それでも七音は、まだ希望を捨てきれずにいた。
唯が理想を当てはめていると、断定することはできない。これは、ただの興味なのかもしれないと。
まだ大丈夫かもしれない、と。
ならば、興味を失わせればいいのではないか。七音は、そう考えた。
『どうして? なんで今さら? 今まで、この関係に満足していたじゃないか』
そう書きつけた瞬間、自分でも驚くほど筆圧が強くなっていることに七音は気づいた。
インクがわずかに滲み、紙の裏側にまで文字の跡が浮き出ている。
言い過ぎたかもしれない、という思いが一瞬だけよぎる。
けれど、それを打ち消すようにノートを閉じた。
まるで、これ以上考えること自体を拒絶するような勢いだった。
机の中にノートを押し込んだあとも、胸の奥に残ったざらついた感情は消えない。
授業中、黒板を見ているはずなのに、頭の中ではさっき書いた一文だけが何度も繰り返されていた。
いっそのこと、返事が来なければいい――そんなことまで考えてしまう自分に、七音は小さく舌打ちした。
それからの数日間、唯の机の中にあるノートを、確認しないように意識して過ごした。
気にしていないふりをしながらも、登校するたびに、視線だけは無意識に机へ向かってしまう。
そして、三日後の移動教室。
机の中の、見慣れたノート。
それを取り出すまでに、七音はほんの数秒、手を止めた。
返ってきた返事には、こう書かれていた。
『そろそろ、どんな人か実際に会ってみたいなって。気分を害したなら、ごめん』
いつもより少し長い文章だった。そのせいか、胸の奥に落ちた失意の重さは、妙に大きかった。
会いたい。その言葉は、嬉しいはずなのに、素直に喜べない。期待されているのは、現実の自分ではない理想の人物と分かってしまったからだ。
『俺は、どんな人だと思う?』
ペンを持つ指先が、ほんのわずかに震えていることに、七音は気づいていた。
数日経って返ってきた返事。
『真面目そうな人かな。それか誠実そうな人。文字が、そんな感じ』
その一文を読んだ瞬間、「やっぱりか」と七音は落胆する。
文字の向こうの相手が唯の理想で塗り固められていく感覚に、七音ははっきりとした絶望を覚えた。
思わず、小さく笑いが漏れる。自嘲に近い、乾いた笑いだった。
「残念。俺は、そんな人じゃない」
そう呟くと、七音はノートを閉じた。
やるせない気持ちが、胸の内側から静かに七音を押し潰そうとしていた。
今まで平和な距離を保ったまま続いていた文字だけのやり取りが、急に現実へと踏み込んできた気がしたのだ。
ノートに書かれていたのは、たった一行。
『君のことを、もっと知りたい』
率直で、まっすぐで、逃げ場のない言葉だった。
こんな言葉を、唯が書くとは思ってもいなかった。これは、もはや――恋愛的な興味を抱いている人間の言葉だった。
交換日記を始めたばかりの頃、名前を聞かれたとき、七音は正体を明かさなかった。
それ以来、互いの素性には踏み込まず、何気ない日常や些細な出来事を綴るだけの穏やかな関係が続いていた。
だからこそ、この一文は、あまりにも唐突だった。
好きな人がいるから相談に乗ってほしい。と、自分がそう綴ったあの日から、文字のやり取りの空気が少しずつ歪み始めていることに、七音は気づいていた。
自分に気づいてほしい。
けれど、幻滅もしてほしくない。
唯の気になる人の条件と自分は、正反対だと七音は分かっているから。
あのとき、様々な感情が混ざり合った勢いのまま打った一手。
唯のことが好きだと告げるためのきっかけを作る、軽い賭けのつもりだった行動が、こんなにも自分自身を締め付けることになるとは思ってもいなかった。
唯から「どんな子が好き?」そんな軽いノリで返事が来たら、「君が好きだよ」と書くつもりだった。
きっと「茶化さないでよ」と短い言葉が返ってくる。
そして、クラスで気になる子や仲のいい子はいないのかと聞き、天城七音と書いてもらうつもりだった。自分が一番仲がいいと思っていたからだ。
そうして徐々に天城七音のことを意識させ、少しずつ「もしかしたら」と思わせるような雰囲気を作る。
そして最後に、交換日記の相手が自分だったと打ち明ける――そんな計画だった。
けれど、物事はそう上手くは進まなかった。
唯は「好きという感情がよく分からない」と書いてきた。だから七音は、自分なりに、その気持ちを言葉にして説明した。
その結果が、これだ。
傍から見れば「知りたい」と言われる事は、ただの興味に近い一言に過ぎない。だが七音にとっては、胸の奥を重く押しつぶすような言葉だった。
唯が恋愛に関心を持ち始めたのは確かだ。だが、その関心の先にいるのは、実際の七音ではない。
文字の向こう側にいる、もう一人の七音。
唯の想像の中で形作られた人物だということが、はっきりと分かる。
男同士という壁は、唯には関係ないような気配が、文字から滲んでいる。
それはすでに、ノートの相手を意識しているからだろう。
七音が恐れているのは、唯が思い描いている相手が、きっと自分とは正反対の人間だということだった。
以前、唯が口にしていた「気になる人」は、誠実そうで、真面目そうな人物。
唯がそんな理想像をノートの相手に当てはめていることが、文字の端々から透けて見える。
もはや天城七音という男へ関心を持ってもらう、そのための軌道修正はできない。
「理想の相手」へと向けられた好意が、がっちりと固まっていることを、嫌でも思い知らされた。
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
それでも七音は、まだ希望を捨てきれずにいた。
唯が理想を当てはめていると、断定することはできない。これは、ただの興味なのかもしれないと。
まだ大丈夫かもしれない、と。
ならば、興味を失わせればいいのではないか。七音は、そう考えた。
『どうして? なんで今さら? 今まで、この関係に満足していたじゃないか』
そう書きつけた瞬間、自分でも驚くほど筆圧が強くなっていることに七音は気づいた。
インクがわずかに滲み、紙の裏側にまで文字の跡が浮き出ている。
言い過ぎたかもしれない、という思いが一瞬だけよぎる。
けれど、それを打ち消すようにノートを閉じた。
まるで、これ以上考えること自体を拒絶するような勢いだった。
机の中にノートを押し込んだあとも、胸の奥に残ったざらついた感情は消えない。
授業中、黒板を見ているはずなのに、頭の中ではさっき書いた一文だけが何度も繰り返されていた。
いっそのこと、返事が来なければいい――そんなことまで考えてしまう自分に、七音は小さく舌打ちした。
それからの数日間、唯の机の中にあるノートを、確認しないように意識して過ごした。
気にしていないふりをしながらも、登校するたびに、視線だけは無意識に机へ向かってしまう。
そして、三日後の移動教室。
机の中の、見慣れたノート。
それを取り出すまでに、七音はほんの数秒、手を止めた。
返ってきた返事には、こう書かれていた。
『そろそろ、どんな人か実際に会ってみたいなって。気分を害したなら、ごめん』
いつもより少し長い文章だった。そのせいか、胸の奥に落ちた失意の重さは、妙に大きかった。
会いたい。その言葉は、嬉しいはずなのに、素直に喜べない。期待されているのは、現実の自分ではない理想の人物と分かってしまったからだ。
『俺は、どんな人だと思う?』
ペンを持つ指先が、ほんのわずかに震えていることに、七音は気づいていた。
数日経って返ってきた返事。
『真面目そうな人かな。それか誠実そうな人。文字が、そんな感じ』
その一文を読んだ瞬間、「やっぱりか」と七音は落胆する。
文字の向こうの相手が唯の理想で塗り固められていく感覚に、七音ははっきりとした絶望を覚えた。
思わず、小さく笑いが漏れる。自嘲に近い、乾いた笑いだった。
「残念。俺は、そんな人じゃない」
そう呟くと、七音はノートを閉じた。
やるせない気持ちが、胸の内側から静かに七音を押し潰そうとしていた。


