明治あやかし黄昏座



 何とか炎の勢いが強くなる前に、あさぎたちを助け出さなければならない。膝を付いていた佐奈が、再び何か心の声を聞いたらしく、立ち上がった。目を皿のようにして、声の主を探しているようだ。

「放火……あの、人……!」
 佐奈が、遠くに見えるスーツを着た男を指さした。あの男が黄昏座に火を放ったというのか。二人を中に残したままで。

「寧々さん! 追えるか!?」
「もちろん」

 万全ではないことは承知していたが、寧々以外にこの距離を追える者はいない。寧々に託すしかない。寧々は、一呼吸だけで息を整え、地面を蹴った。あっという間にその背中が見えなくなる。

 雪音が用意してくれた氷が底をつきかけている。桶には氷が溶けて水が溜まっている。花音もだいぶ消耗してきている。ふらついたところを、雪音が咄嗟に支える。

「大丈夫ですか、姉さん」
「問題ないですわ、これくらい」

 花音はそう言うが、炎の勢いが徐々に強くなってきている。雪も氷も追いつかなくなってきている。おそらく中は熱いうえに煙が充満して厳しい状態だろう。
 琥珀は、恐怖も躊躇いも全て飲み込んで、決意を固めた。

「――俺が、助けに行く」
「座長、本気ですか」
「ああ。その桶の水、もらえるか」

 琥珀は、桶の水を頭から被った。このまま炎の中に突っ込もうとは考えていない。座員の誰にも見せていない、規格外の変化が一つある。それなら、この炎の中でも可能性があると考えている。だが、他の変化とはわけが違う。琥珀だと認識されなければ、余計な混乱を生むことになるだろう。

「いや、あさぎなら、きっと」
 どんな姿でも、初めて見る姿でも、琥珀だと認識するあさぎの目を信じると決めた。

 変化をするには、この人だかりが邪魔だ。琥珀は、花音と雪音に耳打ちをした。この通りに叫んでくれ、と頼んだ。人々、特に妖の意識を逸らしたいと付け足して。二人は頷くと、大きく息を吸った。

「大変だー!! 逃げろー!」
「五区でも火事ですわー!! ここは危険ですわ!」

 さすが黄昏座の役者。声がよく通るし、緊迫した状況をきちんと表現している。声に先導されて、人だかりは、黄昏座から離れ始めた。五区へ様子を見に行こうとしたり、自宅に燃え移るのではと慌てたりする者も出てきた。江戸から明治になったとはいえ、火事は町の一大事に変わりはない。もちろん、火事の誤情報も褒められたものではないが、火事場で動転していたとしらを切るつもりだった。実際燃えていないのだし。あさぎを助けるためなら、どうってことはない。

「よし、行くか」

 琥珀は深呼吸をした。風が巻き起こり、琥珀を包んで耳と尻尾が生えた妖姿となった。そこからさらに、変化をする。ここからが本番。琥珀はぐっと拳を握りしめた。自分の体の細かな部分までが熱を持ち、新たに構築されていくような感覚になる。痛みはないが、体が軋む感覚はある。目を閉じ、奥歯を噛み締めて、それが過ぎるのを待つ。ほんの一瞬だが、とてつもなく、長く感じる。

 軋む音が止み、ゆっくりと目を開ける。琥珀の姿は、全身が黄金色の毛に覆われ、しなやかな手足は四つん這いになって体を支えている。ピンと立った耳に、つり上がった目、前に突き出した口からは、ガウと声が出る。そして、尾は九つに分かれている。古の九尾の狐、そのものの姿だった。そして何より。

「大きい……」
 雪音の思わず漏れ出た声が物語っている。通常の野良狐の四、五倍はあろうかという大きさ。腰が抜けた花音が、見上げるほどである。その姿は基本的には人間に目視出来ないのだが、妖には見える。多少の騒ぎにはなるかもしれない。

 大きい体も、身を屈めれば表玄関を通ることが出来る。一歩が人の姿とは桁違いなため、素早く入ることが出来るはずだ。琥珀が身を低くして、芝居小屋の中に突っ込もうとした、その時。

「あれは」
 芝居小屋の中から、桶の水を一気にひっくり返したかのような、一筋の水が流れてきた。琥珀が一体なんだと考えるより早く、雪音がその水を凍りつかせた。

「座長! 行ってください!」
 作られた氷の道を駆ける。表玄関、受付はまだましだが、客席内にはかなり火が回っている。体当たりするように、客席へ飛び込んだ。

「!?」

 客席には、あさぎと凪がいた。凪だけでなく、あさぎまで妖姿になっている。狐、のように見える。まさか同族だったとは。だが今は外で連れ出すことが先決。

 あさぎが凪の腕を肩に回して、必死に前に進んでいる状態だった。この巨大な狐の姿を見て、凪は驚きと恐怖に顔を引きつらせた。まずい。続けてあさぎと目が合った。

「琥珀……ッ!」

 目が合った瞬間、あさぎの表情が不安から安堵に変わり、涙と共にぐにゃりと崩れた。
 ああ、こんな姿でも、あさぎは気付いてくれた。誰もが恐れて気味悪がる姿にでさえ、あさぎは安心しきった顔を見せてくれるのだ。

 琥珀は、その場に屈み、背中に乗るように示した。あさぎは凪を先に背に乗せてから、自身も乗った。全身を使って、琥珀の背中に抱きついている。ありがとう、と細い声で言うのが聞こえた。琥珀は二人を落とさないよう、慎重に立ち上がり、溶けかけている氷の道を再び駆けた。

「座長!」
「座長!」

 外へ出て双子の声が聞こえた途端、緊張が解けて変化も解けた。三人まとめて炎の中から投げ出された。地面に転がったが、琥珀はすぐに起き上がった。あさぎと凪も同様に地面に横たわっている上、煤や土にまみれているが、どうにか無事のようだ。二人の変化も解けて、凪は完全に気を失い、あさぎも意識が途切れそうだ。

「あさぎ!」
「お願い、凪を、責めないで」

 自分のことなど後回しで、あさぎはそう言った。琥珀は間者である凪を助けることに迷いがなかったわけではない。正直躊躇った。だが、あさぎは自分よりも先に凪を背中に乗せたのだ。振り落とされないよう、しっかりと手を握っていた。それを無下にすることは出来ない。

「ああ、大丈夫。もう大丈夫だ。おかえり、あさぎ」
「ただいま」

 あさぎは、そう言って笑うと、気を失った。気力を使い果たしたのだろう。
 通りの奥が騒がしくなった。寧々を先頭にして、ようやく消防組が駆け付けた。使えるようになった水道栓から水を引き、雪音が火の強いところにかけられた水を凍らせたり、花音が消防組の頭上に雪を降らせて熱さを緩和させたり、懸命に消火が行われた。

 他に燃え移る前に消火は出来た。芝居小屋自体は半壊程度で、どうにか収束した。

「ともかく、全員が無事で、良かった……」
 これからどうするのか、という課題はあったが、琥珀は地面に体を投げ出して脱力した。