ヒヒッ、といやらしく愉快そうに笑う近衛侯爵に、東郷屋伯爵は「一乗夫妻に迷惑は掛けないでくださいよ」と釘を刺したのだった。
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近衛侯爵家を出た後、レオンとも途中で別れ千代は雪人と二人、日本橋の大通りを歩いていた。
家を出た時は笑顔だったのだが、今、二人の顔に表情らしい表情はない。問題事は解決したはずなのに、二人の空気は微妙な重さを纏ったままだった。
二人の胸の内には、まだどっしりとした重石が残っている。
先に口を開いたのは雪人だった。
「融資の問題はこれで大丈夫だと思う。だが……これで終わりってわけじゃない」
『何が』終わりではないのか、言外に隠された言葉を千代も理解しており、無言で頷いた。
千代の様子を見て雪人は口を開くが、やはり一瞬躊躇をはさみ、しかし、向けられた千代の『大丈夫』だと言わんばかりのまっすぐな目に、やっと言葉を発する。
「きっと……茜さんは放っておくと、何度でも君を害しようとしてくる」
融資という、一乗家の『家』に絡む大きな問題は解決した。
近衛侯爵が後ろについてくれていれば、きっともう一乗家への妨害はできないだろう。茜も、もう手の打ちようがないといずれ気付くはずだ。
本来ならば、ここで幕引きとしても良いのだろう。
しかし、このままで茜が諦めてくれるとは、二人ともどうしても思えないのだ。
「矛先が私だけに向くなら良いんです。でも実際は、雪人さんやナリさん、一乗家という私の大切な方々に迷惑が掛かってしまいました。もし、この先も私と関わるすべての方々に茜の矛先が向いたら……っそう思うと、怖くて悲しくて仕方ないんです」
だから、このままで幕引きをしてはならないのだ。
「俺は横濱に戻ったら、彼女がいた店を探して訪ねるつもりだが……そうなると、おそらく花街の後ろについている者が動く」
花街に詳しくない千代でも、『後ろについている者』が何かわからないほど世間知らずではない。
花街はその特殊な不文律文化から、官警では手出しできない事案が多く、自警団という少々荒っぽい男衆を雇っていたりする。噂によると、彼らの行いは官警も見て見ぬふりをするらしい。
「血のつながりが半分とは言え、彼女は君の妹だ。もし、君がやめてほしいと言うのなら……」
「雪人さんは、いつも私の意思を聞いてくださるんですね」
彼は絶対に自分が嫌がるようなことはしない。どのような些細なことでも、必ず自分の意思を尊重してくれる。
こんなに、自分の言葉を聞いてくれる人は、世界のどこを探してもいないと思う。
「亡くなった母には、病床の上でいつも『自由に生きなさい』って言われてきました」
最初は、自由の意味がわからなかった。なんなら、不自由だと思ったこともなかった。
父に命じられるがまま離れへと入り、母の看病をして、女学校に通いながら家業の手伝いをし、皆が放課後に遊びに行くのを図書室の窓から眺め、ある日突然許嫁ができ、その許嫁が妹の婚約者になり、見ず知らずの老当主の後妻として嫁ぐ羽目になっても、不自由だとは思わなかったのだ。
それが当然だと思って疑ったことなどなかった。
父が言ったことに頷いているのは自分の意思だ。
だから、自分は自由なはずだとずっと思ってきた。
いや、もしかすると、そう思い込もうとしてきただけなのかもしれない。
「雪人さんと出会って、本当の意味での自由を知りました」
自由とは、頷くだけでなく首を横に振る権利もあるということだと知った。
嫌なら嫌と言っていいのだと、嫌ということは悪いことではないとはじめて知った。
「どちらかを選ばなければならないのなら、私は迷うことなく雪人さんや一乗家の皆さん……私を大切にしてくださった方を選びます」
血は水よりも濃いとは言うが、濃くとも毒であれば、水の清さに惹かれて当然だと思う。
「血よりも私は縁のほうが大切です。なので、遠慮は無用です。妹ももう女学校を卒業しますし、いつまでも子供ではいさせません。自分の犯した罪の責任は自分でとらせます。それが姉としての最後の役目だと思いますから」
雪人の手が伸び、千代の頬に触れた。
「強いな……千代は」
「雪人さんが絶対いてくれると思えるからです」
千代は頬を撫でる雪人の手に自らの手を重ね、少しかさついた彼の手に頬をすり寄せた。
冬の寒空の下でも、寒くはなかった。
胸の内がぽかぽかする。きゅうと心臓が縮み、トクトクと鼓動が早まる。
「雪人さん……私、生まれ変わってもまたあなたの妻になりたいです」
自然とそう思った。
この手を離したくない。自分以外の誰にも触れてほしくない。こんなわがままになってしまった自分を、彼はそれでも良いと言ってくれるだろうか。
目線を上げれば、涼やかな目元が梅が咲いたように赤く色づいている雪人の顔があった。
見開いた目は、旭光が朝霜を照らすように、キラキラと輝いている。
愛おしい――自分の言葉ひとつひとつに表情を変える夫が、とても愛おしかった。
「この結婚のはじまりは、自由なんてものとは違ったかもしれません。だけど、あなたを愛したのは間違いなく私自身です。きっと何度生まれ変わったって、私はまた絶対に雪人さんを愛するんだと思います」
千代の頬に触れていた雪人の手は、そのまま奥へと滑り千代の後頭部を抱き寄せた。同時に、もう片方の雪人の手は腰に回され、離さないとばかりに抱き締められる。
「……君と出会えて良かった、千代」
「私もです」
雪人の広い背中に、千代はそっと手を回した。
肩口にうずめられた雪人の顔を見たいと、首を捻ってみるが、しっかりと埋められた彼の顔は中々見えない。
「見ないでくれ……君の前では、格好いい男でいたいんだ」
「どんな雪人さんでも全部大好きですよ」
その後、二人は京橋区にある高島屋で買い物を楽しんで、横濱へと戻った。
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近衛侯爵家を出た後、レオンとも途中で別れ千代は雪人と二人、日本橋の大通りを歩いていた。
家を出た時は笑顔だったのだが、今、二人の顔に表情らしい表情はない。問題事は解決したはずなのに、二人の空気は微妙な重さを纏ったままだった。
二人の胸の内には、まだどっしりとした重石が残っている。
先に口を開いたのは雪人だった。
「融資の問題はこれで大丈夫だと思う。だが……これで終わりってわけじゃない」
『何が』終わりではないのか、言外に隠された言葉を千代も理解しており、無言で頷いた。
千代の様子を見て雪人は口を開くが、やはり一瞬躊躇をはさみ、しかし、向けられた千代の『大丈夫』だと言わんばかりのまっすぐな目に、やっと言葉を発する。
「きっと……茜さんは放っておくと、何度でも君を害しようとしてくる」
融資という、一乗家の『家』に絡む大きな問題は解決した。
近衛侯爵が後ろについてくれていれば、きっともう一乗家への妨害はできないだろう。茜も、もう手の打ちようがないといずれ気付くはずだ。
本来ならば、ここで幕引きとしても良いのだろう。
しかし、このままで茜が諦めてくれるとは、二人ともどうしても思えないのだ。
「矛先が私だけに向くなら良いんです。でも実際は、雪人さんやナリさん、一乗家という私の大切な方々に迷惑が掛かってしまいました。もし、この先も私と関わるすべての方々に茜の矛先が向いたら……っそう思うと、怖くて悲しくて仕方ないんです」
だから、このままで幕引きをしてはならないのだ。
「俺は横濱に戻ったら、彼女がいた店を探して訪ねるつもりだが……そうなると、おそらく花街の後ろについている者が動く」
花街に詳しくない千代でも、『後ろについている者』が何かわからないほど世間知らずではない。
花街はその特殊な不文律文化から、官警では手出しできない事案が多く、自警団という少々荒っぽい男衆を雇っていたりする。噂によると、彼らの行いは官警も見て見ぬふりをするらしい。
「血のつながりが半分とは言え、彼女は君の妹だ。もし、君がやめてほしいと言うのなら……」
「雪人さんは、いつも私の意思を聞いてくださるんですね」
彼は絶対に自分が嫌がるようなことはしない。どのような些細なことでも、必ず自分の意思を尊重してくれる。
こんなに、自分の言葉を聞いてくれる人は、世界のどこを探してもいないと思う。
「亡くなった母には、病床の上でいつも『自由に生きなさい』って言われてきました」
最初は、自由の意味がわからなかった。なんなら、不自由だと思ったこともなかった。
父に命じられるがまま離れへと入り、母の看病をして、女学校に通いながら家業の手伝いをし、皆が放課後に遊びに行くのを図書室の窓から眺め、ある日突然許嫁ができ、その許嫁が妹の婚約者になり、見ず知らずの老当主の後妻として嫁ぐ羽目になっても、不自由だとは思わなかったのだ。
それが当然だと思って疑ったことなどなかった。
父が言ったことに頷いているのは自分の意思だ。
だから、自分は自由なはずだとずっと思ってきた。
いや、もしかすると、そう思い込もうとしてきただけなのかもしれない。
「雪人さんと出会って、本当の意味での自由を知りました」
自由とは、頷くだけでなく首を横に振る権利もあるということだと知った。
嫌なら嫌と言っていいのだと、嫌ということは悪いことではないとはじめて知った。
「どちらかを選ばなければならないのなら、私は迷うことなく雪人さんや一乗家の皆さん……私を大切にしてくださった方を選びます」
血は水よりも濃いとは言うが、濃くとも毒であれば、水の清さに惹かれて当然だと思う。
「血よりも私は縁のほうが大切です。なので、遠慮は無用です。妹ももう女学校を卒業しますし、いつまでも子供ではいさせません。自分の犯した罪の責任は自分でとらせます。それが姉としての最後の役目だと思いますから」
雪人の手が伸び、千代の頬に触れた。
「強いな……千代は」
「雪人さんが絶対いてくれると思えるからです」
千代は頬を撫でる雪人の手に自らの手を重ね、少しかさついた彼の手に頬をすり寄せた。
冬の寒空の下でも、寒くはなかった。
胸の内がぽかぽかする。きゅうと心臓が縮み、トクトクと鼓動が早まる。
「雪人さん……私、生まれ変わってもまたあなたの妻になりたいです」
自然とそう思った。
この手を離したくない。自分以外の誰にも触れてほしくない。こんなわがままになってしまった自分を、彼はそれでも良いと言ってくれるだろうか。
目線を上げれば、涼やかな目元が梅が咲いたように赤く色づいている雪人の顔があった。
見開いた目は、旭光が朝霜を照らすように、キラキラと輝いている。
愛おしい――自分の言葉ひとつひとつに表情を変える夫が、とても愛おしかった。
「この結婚のはじまりは、自由なんてものとは違ったかもしれません。だけど、あなたを愛したのは間違いなく私自身です。きっと何度生まれ変わったって、私はまた絶対に雪人さんを愛するんだと思います」
千代の頬に触れていた雪人の手は、そのまま奥へと滑り千代の後頭部を抱き寄せた。同時に、もう片方の雪人の手は腰に回され、離さないとばかりに抱き締められる。
「……君と出会えて良かった、千代」
「私もです」
雪人の広い背中に、千代はそっと手を回した。
肩口にうずめられた雪人の顔を見たいと、首を捻ってみるが、しっかりと埋められた彼の顔は中々見えない。
「見ないでくれ……君の前では、格好いい男でいたいんだ」
「どんな雪人さんでも全部大好きですよ」
その後、二人は京橋区にある高島屋で買い物を楽しんで、横濱へと戻った。


