「どうしたの!? 大丈夫!?」
「う、うん……ちょっと、か、階段で転んじゃって……」
「相当大胆な転び方したんだねえ、次から気を付けなね」
「そ、そうする」
サエは、横流しで後ろ髪と一緒に纏めていた前髪を、指でちょいちょいと引っ張り出して頬を隠そうとしていた。
サエとの出会いは、ひと月前に彼女が転んで、買い物籠の中身をぶちまけていたのに出会い、そこで一緒に荷物を拾ってあげたことからはじまった。
以前から時折生傷を作ってくることがあって、ちょっと鈍くさいのかもしれない。
会えば互いに声を掛け、今では商店街近くの神社の石段に並んで座って、話し込むくらいの仲である。
そして、今日も今日とて雑談の時間だ。
「ナリちゃんのお勤め先の主人って優しい?」
「うん、とっても良い方だよ。あたしら女中にも優しいし、威張ってないし、ちょっと恋愛音痴っていうか……それがまた可愛らしくて。おかげで、女嫌いだった旦那様もでろでろだよ」
「で、でろでろ……」
「うん、でっろでろ」
世間一般で言うでろでろとはまた雪人は違うし、少々誇張表現かとも思ったが、彼が千代に惚れ込んでいることは誰の目にも明らかだし、サエが雪人に会うこともないしいっか、とナリはひとり頷いた。
「そっか」と言うサエの声はどこか寂しそうで、彼女はゆっくりと視線を足元へと落としていた。
「サエちゃんところは? サエちゃんのご主人って、その家の娘さんだっけ? 確か、結婚して出て行ったお姉さんに意地悪されてたとかいう」
「う、うん、そうなんだ」
「もうお姉さんもいないし、ご主人はのびのびやれて良かったじゃん。あーけど、そういった意地悪なお姉さんをもらった婚家は、今頃後悔してるかもね。あっ! 下手したら、そのお姉さん離縁されて戻ってくるんじゃないの!?」
サエが以前話していたが、彼女の主人はとても美人で、姉は地味なのだとか。
それで妹の美しさに嫉妬した姉が、妹に意地悪とは……どこぞのお伽草紙にでもありそうな物語だ。そういった物語の最後は大抵、意地悪な姉は婚家で化けの皮が剥がれ、離縁されて助けてくれる人もおらずひとり寂しく消えていくというものだ。
しかし、もし家に戻ってきたら、妹をまたいじめるんじゃなかろうかと他人ながら心配になる。やはり、自分が仕える主人がいじめられるのは、女中であっても嫌なものだ。
それを思うと、実に一乗家は平和だ。むしろ、楽しいほどである。
最初は、大旦那である善路は千代を遠ざけていた。普通の者であればここで諦めたり、善路の態度に怒るだろう。しかし、千代は斜め上の根性を発揮して通い続け、しっかりと気難しい善路の心を掴んでしまった。
自分達女中も、最初は女中の仕事を手伝おうとしてくる千代に、正直なところ少々面倒だなと思っていた。もし、手伝ってもらっている最中に怪我でもされたら一大事だ。それに、士族のご令嬢と聞いていたし、家事などやれたものではないだろうと思っていた。それが今では、お使いを頼める程だ。
清須川家の長女という話だが、なぜ嫁に出されたのかわからない。以前、一度だけ祝言の時にチラッと千代の妹を見たことがあるが、姉妹とは思えないくらいに派手だった。その後一度だけ屋敷を訪ねてきたこともあったが、千代が対応していたからよくわからない。
ただ、自分とは合いそうにないな、とは感じた。
だから正直、姉だろうがなんだろうが、千代が嫁いできてくれて良かったと思った。
「それが、そのお姉さんの本性を婚家はまだ知らなくて……か、隠してるみたいなの」
意地悪な姉は、婚家ではまだ猫を被って良い嫁、良い主人を演じているということか。
「どのくらい?」
「ふ、ふた月くらいかな」
「えー二ヶ月も隠せてるなんてすごいね、そのお姉さん。詐欺師の才能あるよ」
かつて雪人目当てで訪ねてきていた女達は皆、玄関に入るときは猫を五匹くらい被ってきて、帰る時には全部脱ぎ捨てて、プリプリ怒りながら帰っていたというのに。雪人の脈なし極寒の態度に、誰ひとりとして猫を被り続けられなかったのだ。
「本当、私もその家の人達に伝えたいくらいなの。優しいふりして妹の婚約者と寝取るし、き、着物とかも本当は持ってるのに、わざと地味な着物だけ着てみせて同情を買おうとしたり、他にも結婚しても夜遊びしてるみたいだし」
「なんか、そこまで凄腕の性悪女だとちょっと興味わくなあ」
勤め先を聞かないのが女中達の暗黙の了解なのだが、興味がそそられる。
その婚家に『その嫁、本性隠してますよ』って手紙を送ってあげたい。
そうだ。手紙といえば、昼から千代が手紙を出しに行くと言っていた。日本大通のところにある郵便局だろう。であれば、帰り道で会うかもしれない。
そんなことを考えながら、ナリは軽い気持ちで「ねえ、その婚家ってどこ?」とサエに尋ねた。サエは少し迷うように視線を右に左にと揺らした後、口を開く。
「それはね、一――」
「あら、やっぱりナリさんだわ」
サエの声に重なって、聞き覚えのある声が頭上から降ってきた。見上げれば、そこにいたのはやはり千代だった。
「奥様、郵便局の帰りですか」
「ええ。この時間だし、もしかしたらナリさんも買い物に来てるかもって、探しながら歩いてたら本当に見つけちゃったわ」
「アタシも、もしかしたら帰り道で奥様と会うかもって思ってましたよ」
「あら、こういうのって以心伝心って言うのかしらね」
女中の行動を覚えて、さらに探してまでくれるとは。
クスクスと嬉しそうに肩を揺らして笑う彼女は、本当、変わった最高の奥様だ。
「って、ごめんなさい。話を遮ってしまったわね。あら、もしかしてこの間、チラッと見たご友人さんかしら?」
「そうです。サエって言って――」
紹介しようかと隣のサエを振り向けば、彼女は勢いよく立ち上がり背を向けた。なぜか顔が俯いている。
「ぁ、わ、私、もう帰るね!」
「う、うん……ちょっと、か、階段で転んじゃって……」
「相当大胆な転び方したんだねえ、次から気を付けなね」
「そ、そうする」
サエは、横流しで後ろ髪と一緒に纏めていた前髪を、指でちょいちょいと引っ張り出して頬を隠そうとしていた。
サエとの出会いは、ひと月前に彼女が転んで、買い物籠の中身をぶちまけていたのに出会い、そこで一緒に荷物を拾ってあげたことからはじまった。
以前から時折生傷を作ってくることがあって、ちょっと鈍くさいのかもしれない。
会えば互いに声を掛け、今では商店街近くの神社の石段に並んで座って、話し込むくらいの仲である。
そして、今日も今日とて雑談の時間だ。
「ナリちゃんのお勤め先の主人って優しい?」
「うん、とっても良い方だよ。あたしら女中にも優しいし、威張ってないし、ちょっと恋愛音痴っていうか……それがまた可愛らしくて。おかげで、女嫌いだった旦那様もでろでろだよ」
「で、でろでろ……」
「うん、でっろでろ」
世間一般で言うでろでろとはまた雪人は違うし、少々誇張表現かとも思ったが、彼が千代に惚れ込んでいることは誰の目にも明らかだし、サエが雪人に会うこともないしいっか、とナリはひとり頷いた。
「そっか」と言うサエの声はどこか寂しそうで、彼女はゆっくりと視線を足元へと落としていた。
「サエちゃんところは? サエちゃんのご主人って、その家の娘さんだっけ? 確か、結婚して出て行ったお姉さんに意地悪されてたとかいう」
「う、うん、そうなんだ」
「もうお姉さんもいないし、ご主人はのびのびやれて良かったじゃん。あーけど、そういった意地悪なお姉さんをもらった婚家は、今頃後悔してるかもね。あっ! 下手したら、そのお姉さん離縁されて戻ってくるんじゃないの!?」
サエが以前話していたが、彼女の主人はとても美人で、姉は地味なのだとか。
それで妹の美しさに嫉妬した姉が、妹に意地悪とは……どこぞのお伽草紙にでもありそうな物語だ。そういった物語の最後は大抵、意地悪な姉は婚家で化けの皮が剥がれ、離縁されて助けてくれる人もおらずひとり寂しく消えていくというものだ。
しかし、もし家に戻ってきたら、妹をまたいじめるんじゃなかろうかと他人ながら心配になる。やはり、自分が仕える主人がいじめられるのは、女中であっても嫌なものだ。
それを思うと、実に一乗家は平和だ。むしろ、楽しいほどである。
最初は、大旦那である善路は千代を遠ざけていた。普通の者であればここで諦めたり、善路の態度に怒るだろう。しかし、千代は斜め上の根性を発揮して通い続け、しっかりと気難しい善路の心を掴んでしまった。
自分達女中も、最初は女中の仕事を手伝おうとしてくる千代に、正直なところ少々面倒だなと思っていた。もし、手伝ってもらっている最中に怪我でもされたら一大事だ。それに、士族のご令嬢と聞いていたし、家事などやれたものではないだろうと思っていた。それが今では、お使いを頼める程だ。
清須川家の長女という話だが、なぜ嫁に出されたのかわからない。以前、一度だけ祝言の時にチラッと千代の妹を見たことがあるが、姉妹とは思えないくらいに派手だった。その後一度だけ屋敷を訪ねてきたこともあったが、千代が対応していたからよくわからない。
ただ、自分とは合いそうにないな、とは感じた。
だから正直、姉だろうがなんだろうが、千代が嫁いできてくれて良かったと思った。
「それが、そのお姉さんの本性を婚家はまだ知らなくて……か、隠してるみたいなの」
意地悪な姉は、婚家ではまだ猫を被って良い嫁、良い主人を演じているということか。
「どのくらい?」
「ふ、ふた月くらいかな」
「えー二ヶ月も隠せてるなんてすごいね、そのお姉さん。詐欺師の才能あるよ」
かつて雪人目当てで訪ねてきていた女達は皆、玄関に入るときは猫を五匹くらい被ってきて、帰る時には全部脱ぎ捨てて、プリプリ怒りながら帰っていたというのに。雪人の脈なし極寒の態度に、誰ひとりとして猫を被り続けられなかったのだ。
「本当、私もその家の人達に伝えたいくらいなの。優しいふりして妹の婚約者と寝取るし、き、着物とかも本当は持ってるのに、わざと地味な着物だけ着てみせて同情を買おうとしたり、他にも結婚しても夜遊びしてるみたいだし」
「なんか、そこまで凄腕の性悪女だとちょっと興味わくなあ」
勤め先を聞かないのが女中達の暗黙の了解なのだが、興味がそそられる。
その婚家に『その嫁、本性隠してますよ』って手紙を送ってあげたい。
そうだ。手紙といえば、昼から千代が手紙を出しに行くと言っていた。日本大通のところにある郵便局だろう。であれば、帰り道で会うかもしれない。
そんなことを考えながら、ナリは軽い気持ちで「ねえ、その婚家ってどこ?」とサエに尋ねた。サエは少し迷うように視線を右に左にと揺らした後、口を開く。
「それはね、一――」
「あら、やっぱりナリさんだわ」
サエの声に重なって、聞き覚えのある声が頭上から降ってきた。見上げれば、そこにいたのはやはり千代だった。
「奥様、郵便局の帰りですか」
「ええ。この時間だし、もしかしたらナリさんも買い物に来てるかもって、探しながら歩いてたら本当に見つけちゃったわ」
「アタシも、もしかしたら帰り道で奥様と会うかもって思ってましたよ」
「あら、こういうのって以心伝心って言うのかしらね」
女中の行動を覚えて、さらに探してまでくれるとは。
クスクスと嬉しそうに肩を揺らして笑う彼女は、本当、変わった最高の奥様だ。
「って、ごめんなさい。話を遮ってしまったわね。あら、もしかしてこの間、チラッと見たご友人さんかしら?」
「そうです。サエって言って――」
紹介しようかと隣のサエを振り向けば、彼女は勢いよく立ち上がり背を向けた。なぜか顔が俯いている。
「ぁ、わ、私、もう帰るね!」


