「ハハッ! そんなに怯えなくていい。実は、あなたの挨拶状を心待ちにしている者は、私以外にもいてね。あなたを紹介したいんだ」
「そ、そんなっ、めめ、滅相も……!」
「まあまあ、気難しい老人達の会話の種になってくれ。ということで、一乗君。夫人を少々拝借するよ」
さあさあとばかりに背中には東郷屋伯爵の手が回されて、すでに足は雪人から離れていく。『どうしたら!?』と千代は雪人に目で助けを求めるが、彼は嬉しそうに「ええ、よろしくお願いします」と頭を下げていた。
「伯爵、あまりはしゃぎすぎないでくださいよ~」
「任せい!」
レオンも留める気はサラサラないようで、千代は諦めて腹をくくったのだった。
5
やっと東郷屋伯爵の挨拶回りから解放された千代は、ほうほうの体で舞踏ホールから廊下へと出た。最初は雪人の元へと戻ろうと思ったのだが、他の者達と歓談しており、入っていくべきではないとそっと出てきたのだ。
「き、緊張したわぁ……」
雪人の評判を落とさないためにとずっと気を張っていて、ほぼ動いていないというのに、足がぷるぷるしていた。東郷屋伯爵が紹介してくれた者達は、確かに挨拶状を送っていた者達でもあったのだが、改めて実物を目の前にすると畏れ多いやらなんやら。
また、連れられた先の人が、「おおっ、それなら」とまた別の人のところに案内してくれ、挨拶が数珠つなぎに続いたのだ。ありがたいことだったのだが、精神疲労のすり減り方がすごかった。
ホールを出た先には、長い廊下が左右に伸びていた。
右は外に繋がっている様子で、千代は左――屋敷の奥へと伸びる方へと足を進めた。少し歩いた先の壁際に、休憩用だろうか、ソファが置かれている。
千代は、深緑色の縦縞の座面にどっしりと腰を下ろした。
たっぷりと綿が詰め込んであり、実に身体に優しい座り心地だ。
「ふぅ」と千代は膝に向かって息を吐く。
(それにしても、茜は本当に何もする気がないようね。まあ、当たり前かしら。自分の婚約報告の場で、騒ぎなんて起こすはずないものね)
警戒してきたのに肩透かしをくらい、千代は深読みしすぎたかと少々自分を恥じた。
廊下には今のところ自分以外の人けはない。もうしばらくは休めそうだ。
(あと少し休んだら、中に戻りましょう)
しかし、これ幸いと全身から力を抜いた瞬間、「千代」と呼ぶ声が聞こえた。
瞬間、緩んでいた背筋もピンと伸びる。
(あー……)
これが雪人の声ならば喜んでいたのだが……。
「……勇一郎様」
ホールから廊下に出てきた者は、あまり会いたくない者だった。
「こんなところで何をしてるんだ」
「慣れない靴でしたので、少し休――」
「ああ、わかったぞ。茜の友人やご婦人方に比べ、着飾ってもやはり君はパッとしないからな。一乗に放置されたんだろう、憐れな」
ヒクッと口端が引きつった。
「いえ、雪人さんはそのような考えをされる方ではな――」
「仕方ないなあ、元婚約者のよしみだ。時間潰しに僕が付き合ってやるよ」
「いえっ、結構――」
むしろ一緒にいたくない、と両手を胸の前で思い切り横に振ったのだが、相変わらず人の話を聞かない勇一郎は、その手の前にずいっとグラスを差し出してきた。
「ほら、僕が持ってきてやったんだ」
持ってきてやったというか、そういえば最初からグラスを二つ持っていた気がする。ということは、彼は偶然廊下に出てきたのではなくて、自分を追って出てきたのか。
背筋がゾワリとした。
(今更何の用があるっていうの……)
「僕の酒がのめないのか」
まるで酔っ払いの台詞だ。いや、頬に朱が指しているし、いつも丸々と大きい目も今は半分くらいしか開いていない。
勇一郎は手にグラスを押し付けてきて、千代は受け取りたくはないが受け取るしかなかった。しかも、どうやら受け取るだけでは駄目らしく、彼はジッとこちらを眺めている。
(仕方ないわ。ひと口くらいなら……)
千代はグラスを傾け、ひと口分だけ飲む。とろりとした舌触りの後に強い甘みを感じ、酒が喉を滑り落ちると、胃の中がカッと熱くなった。
「――ッ!」
鼻孔に抜ける想像以上に強いアルコールの香りに、千代は咳き込んだ。
「ははっ、上等な酒など飲み慣れていなかったか」
勇一郎は、身体を丸めて咳き込む千代を気遣いもせず、ただ見下ろしながら自分も杯をあおっていた。
「どうだ? 平民との結婚は。苦しいんじゃないのか? 相手は実業家らしいが、銀行融資を断られる程度だろう? ハッ! 威勢が良いだけで情けない男だ」
息を整えた千代は身体を起こし、ソファの背もたれに身体を預けた。
頬や耳の先ががジンジンとする。目の奥が熱い。
酒に飲み慣れていない上、元々体質的に強くはない千代は、声を出して言い返す力も入らなくなっていた。
「なあ、千代。僕は器の大きな男だ。元婚約者が寂しがっているのなら、慰めてやることともやぶさかじゃない」
(はい?)
慰めるとはどういう意味だろうか。
千代は、ジンジンとする指先で自分の目元に触れてみたが、涙は流れていない。
では、何を慰めるというのか。
千代は傍らに立つ勇一郎を見上げた。照明の明かりを背負っており、顔に影が落ちていて表情がわかりづらい。しかし、見下ろしてくる勇一郎と微妙に目が合っていない気がした。こちらを向いているのだが、自分の顔ではなく別のところを見ている……と、そこで彼が自分の顔ではなく、広く開いた胸元を見ているのだと気付いた。
「――っも、戻ります!」
ショールをたぐり寄せて胸元を隠し、千代は勢いよくソファから立ち上がった。のだが、ぐらっと目眩がして、身体が傾いた。
不覚にも、「おっと」と腕を伸ばした勇一郎に支えられ、どうにか床に崩れ落ちずに済む。
「あ、ありがとうございます。もう大丈夫ですので、手を離して――ひっ!?」
「そ、そんなっ、めめ、滅相も……!」
「まあまあ、気難しい老人達の会話の種になってくれ。ということで、一乗君。夫人を少々拝借するよ」
さあさあとばかりに背中には東郷屋伯爵の手が回されて、すでに足は雪人から離れていく。『どうしたら!?』と千代は雪人に目で助けを求めるが、彼は嬉しそうに「ええ、よろしくお願いします」と頭を下げていた。
「伯爵、あまりはしゃぎすぎないでくださいよ~」
「任せい!」
レオンも留める気はサラサラないようで、千代は諦めて腹をくくったのだった。
5
やっと東郷屋伯爵の挨拶回りから解放された千代は、ほうほうの体で舞踏ホールから廊下へと出た。最初は雪人の元へと戻ろうと思ったのだが、他の者達と歓談しており、入っていくべきではないとそっと出てきたのだ。
「き、緊張したわぁ……」
雪人の評判を落とさないためにとずっと気を張っていて、ほぼ動いていないというのに、足がぷるぷるしていた。東郷屋伯爵が紹介してくれた者達は、確かに挨拶状を送っていた者達でもあったのだが、改めて実物を目の前にすると畏れ多いやらなんやら。
また、連れられた先の人が、「おおっ、それなら」とまた別の人のところに案内してくれ、挨拶が数珠つなぎに続いたのだ。ありがたいことだったのだが、精神疲労のすり減り方がすごかった。
ホールを出た先には、長い廊下が左右に伸びていた。
右は外に繋がっている様子で、千代は左――屋敷の奥へと伸びる方へと足を進めた。少し歩いた先の壁際に、休憩用だろうか、ソファが置かれている。
千代は、深緑色の縦縞の座面にどっしりと腰を下ろした。
たっぷりと綿が詰め込んであり、実に身体に優しい座り心地だ。
「ふぅ」と千代は膝に向かって息を吐く。
(それにしても、茜は本当に何もする気がないようね。まあ、当たり前かしら。自分の婚約報告の場で、騒ぎなんて起こすはずないものね)
警戒してきたのに肩透かしをくらい、千代は深読みしすぎたかと少々自分を恥じた。
廊下には今のところ自分以外の人けはない。もうしばらくは休めそうだ。
(あと少し休んだら、中に戻りましょう)
しかし、これ幸いと全身から力を抜いた瞬間、「千代」と呼ぶ声が聞こえた。
瞬間、緩んでいた背筋もピンと伸びる。
(あー……)
これが雪人の声ならば喜んでいたのだが……。
「……勇一郎様」
ホールから廊下に出てきた者は、あまり会いたくない者だった。
「こんなところで何をしてるんだ」
「慣れない靴でしたので、少し休――」
「ああ、わかったぞ。茜の友人やご婦人方に比べ、着飾ってもやはり君はパッとしないからな。一乗に放置されたんだろう、憐れな」
ヒクッと口端が引きつった。
「いえ、雪人さんはそのような考えをされる方ではな――」
「仕方ないなあ、元婚約者のよしみだ。時間潰しに僕が付き合ってやるよ」
「いえっ、結構――」
むしろ一緒にいたくない、と両手を胸の前で思い切り横に振ったのだが、相変わらず人の話を聞かない勇一郎は、その手の前にずいっとグラスを差し出してきた。
「ほら、僕が持ってきてやったんだ」
持ってきてやったというか、そういえば最初からグラスを二つ持っていた気がする。ということは、彼は偶然廊下に出てきたのではなくて、自分を追って出てきたのか。
背筋がゾワリとした。
(今更何の用があるっていうの……)
「僕の酒がのめないのか」
まるで酔っ払いの台詞だ。いや、頬に朱が指しているし、いつも丸々と大きい目も今は半分くらいしか開いていない。
勇一郎は手にグラスを押し付けてきて、千代は受け取りたくはないが受け取るしかなかった。しかも、どうやら受け取るだけでは駄目らしく、彼はジッとこちらを眺めている。
(仕方ないわ。ひと口くらいなら……)
千代はグラスを傾け、ひと口分だけ飲む。とろりとした舌触りの後に強い甘みを感じ、酒が喉を滑り落ちると、胃の中がカッと熱くなった。
「――ッ!」
鼻孔に抜ける想像以上に強いアルコールの香りに、千代は咳き込んだ。
「ははっ、上等な酒など飲み慣れていなかったか」
勇一郎は、身体を丸めて咳き込む千代を気遣いもせず、ただ見下ろしながら自分も杯をあおっていた。
「どうだ? 平民との結婚は。苦しいんじゃないのか? 相手は実業家らしいが、銀行融資を断られる程度だろう? ハッ! 威勢が良いだけで情けない男だ」
息を整えた千代は身体を起こし、ソファの背もたれに身体を預けた。
頬や耳の先ががジンジンとする。目の奥が熱い。
酒に飲み慣れていない上、元々体質的に強くはない千代は、声を出して言い返す力も入らなくなっていた。
「なあ、千代。僕は器の大きな男だ。元婚約者が寂しがっているのなら、慰めてやることともやぶさかじゃない」
(はい?)
慰めるとはどういう意味だろうか。
千代は、ジンジンとする指先で自分の目元に触れてみたが、涙は流れていない。
では、何を慰めるというのか。
千代は傍らに立つ勇一郎を見上げた。照明の明かりを背負っており、顔に影が落ちていて表情がわかりづらい。しかし、見下ろしてくる勇一郎と微妙に目が合っていない気がした。こちらを向いているのだが、自分の顔ではなく別のところを見ている……と、そこで彼が自分の顔ではなく、広く開いた胸元を見ているのだと気付いた。
「――っも、戻ります!」
ショールをたぐり寄せて胸元を隠し、千代は勢いよくソファから立ち上がった。のだが、ぐらっと目眩がして、身体が傾いた。
不覚にも、「おっと」と腕を伸ばした勇一郎に支えられ、どうにか床に崩れ落ちずに済む。
「あ、ありがとうございます。もう大丈夫ですので、手を離して――ひっ!?」


