一乗家のかわいい花嫁

「ありがたいご教示、胸に留め置きいたします」
「して」と伯爵は、視線を雪人から千代へと横へと移動させる。
「清須川と聞いて少し気になったのだが、もしかして、清須川製糸の挨拶状を出していたのは、茜さんではなくあなただろうか?」
「えっ」と、千代は口を手で軽く塞いだ。
「はい。嫁ぐ前までは、お世話になった方々に、会社の名でお手紙を出させていただいておりましたが……」
 たちまち伯爵の目元がクッと持ち上がり、「そうかそうか」と柔和な弧を描く。
「私は東郷屋公信という。盆や正月、時候の折々に届く清須川製糸からの手紙が、私の楽しみのひとつなんだよ」
「東郷屋、公信……様……って、ああ!」
 千代は目をパチパチさせ、東郷屋伯爵を凝視した。
 母親が倒れてから、千代が清須川製糸に関わる業務も引き継ぐことになった。
 内容は、書類整理が主だったが、取引先や大事な顧客への挨拶状を送るというのも含まれていた。母は盆と正月のみ挨拶状を送っていたようだったが、千代はそれに加え誕生日がわかる者にはその月や、何か祝い事があったと風の噂で聞いた時には、加えて送っていたのだ。
 そして、東郷屋伯爵も、千代が手紙を送っていた相手のひとりであった。
 千代は再び腰を折った。
 しかし、今度は挨拶ではなく謝罪の深さだ。
「その節は大変お世話になりました。それですのに、東郷屋様には大変不義理なことを……っ。父に代わり謝罪申し上げます」
 東郷屋伯爵は、かつて清須川製糸に取引先を紹介してくれた恩人だ。
 関係の端緒は祖父の代まで遡るが、祖父はそれからもずっと東郷屋伯爵に感謝していたと、母に聞いたことがある。その取引先とは今もまだ続いており、彼は清須川製糸にとっての恩人である。
 しかし、父はそうは思わなかったようだ。
『確かに紹介はしてもらったが、最初だけだろう。今も取引が続いているのは私の力なのだし、恩なら父の代で充分返した。そろそろやめ時だろう』と、それまでは東郷屋伯爵の屋敷を訪ねて挨拶をしていたのに、父は足を向けなくなったのだとか。見かねた母が挨拶状だけは送り、千代がそのまま引き継いでいた。
「頭を上げなさい。あなたが謝ることではない」
 ゆっくりと顔を上げた先には、微笑みをを浮かべた東郷屋伯爵がいた。
「しかし、どうして私が送り主だとわかったのでしょう。会社名でお送りしていたはずですが」
「元より会社の人間、ましてやあなたのお父上が送っているとは思っていなかったんだよ。きっと清須川夫人だろうと思っていたが、亡くなってからも届くので驚いていたんだ。だから、先ほど茜さんにその話をしてみたんだが……どうやら彼女は会社のことに関しては、何も知らないようだね」
 東郷屋伯爵の声音が、僅かに曇った。声音だけでもなく口角も下がっている。
 やはり、情報に敏い者には、清須川製糸の業況はとうに伝わっているのだろう。
「先ほど、反対側でチラッとお父上の姿を見たのだが、色々な者にひとりで声をかけているようだったよ。あまり、芳しくないようだったがね。それこそ、今日の主役のひとりである茜さんを連れていれば、もう少し相手も軟化すると思うのだが……やはり、彼は少々社交が苦手なようだ」
「父は、仕事に妹を関わらせることを好みませんので」
「茜さんは跡取りの奥さんだろうに」
 これからは自分が担っていたことを彼女が引き継がなければならないと、父に名簿も渡していたのだが、東郷屋伯爵の言い様だと父は茜には引き継がせていなかったようだ。
 父が自ら書くとも思えないし、ため息が出る。
 一方、東郷屋伯爵はマジマジと千代の顔を見ると、「うん」と嬉しそうに頷いた。
「しかし、あなたが送ってきてくれていたのなら納得だ」
「伯爵、そんなに千代君の手紙は素晴らしかったんですか?」
「ああ、そうだとも。ただの挨拶状ならわんさかもらうが、彼女のはな……うん、挨拶とは別に添えられた文がな……いつも美しかったのだ。その時に彼女が目にしたものを書いてくれていたのだろう、短いながらも瑞々しい感性で書かれていて、景色が見えるようだったんだ。昔のものにはなかったから、あれは千代さんが独自に書いてくれていたんだろう」
「ああ、千代君は学生の頃も、よく本を読んでいましたからね」
「納得の感性だ。ありきたりな……大勢に向けてのものではなく、私個人への気遣いが窺えて、好きだったな。心が籠もったものをいつもありがとう」
 うんうんと腕を組んで大きく頷いてくれる二人に、千代は胸の内側が熱くなり、キュウと搾られるようだった。
「そ、そのように仰っていただき……っ、感謝申し上げます」
 搾られたむず痒い痛みはそのまま鼻の奥を刺激して、目にまでこみ上げてくる。溢れそうになる熱を、千代は目に力を入れて耐えた。
 自分のやっていたことを、こうして覚えてくれている人がいるとは思わなかった。しかも、好きだとまで言ってもらえた。父にはただの雑用だと言われ、会社名で送っているから、自分に返事が戻ってくることはない。いつも、誰も訪ねてこない離れでひとり黙々と、部屋から見える庭を眺めながら書いていた。
 もしかしたら、自分の見ている世界で、自分がこの世界に確かに存在しているということを、誰かに知ってほしかったのかもしれない。それが唯一、学校を卒業した後、自分が外界の者達と関われる機会だったから。
 隣を見れば「良かったな」と雪人が微笑んでくれる。
「はいっ」と心から頷けた。
 その二人の様子を、レオンも東郷屋伯爵も、若鳥の成長を見守るような表情で見つめていた。
 そこで、東郷屋伯爵が「おっ、そうだ」指を弾いた。
 肉厚な指からパチンッと小気味よい音が鳴る。
「千代さんは、挨拶状を送っていた相手を覚えているかな」
「え、ええもちろんですが」
 見えない相手だが、何年も相手のことを想像しながら手紙を書いてきたのだ。名簿の名前はすべて覚えてしまっている。