「夫の一乗雪人です。横濱で一乗汽船という海運会社をやっておりまして、以後、お見知りおきいただけますと幸いです」
会社をやっているということで、男達の興味が雪人へ向き、千代は密かに安堵の息を吐く。
「若いのに会社を……大変だねえ」
しかし、あまり好意的な興味ではないようだ。揶揄ともとれる言葉だ。
勇一郎もだが、未だに華族の中には労働は恥だと思う者達がいる。彼らは国からの金禄公債や不動産、貴族院議員の収入――汗水を垂らさずに生きることが一番と考えているのだから。
ただ近頃は金禄公債の額が減り、華族といっても裕福とは言いづらい家も増え、金銭援助を目的に士族の家に嫁がせる家もあるが。二井家のように。
「千代さんの嫁ぎ先ってことは、君も士族かい?」
その瞬間、その場にいた全員に聞こえる、大きな吹き出しが勇一郎の口から発せられた。
「ぶははっ! 井野君、間違えちゃ士族家の皆さんに失礼だよ。彼はただの平民なんだからさ」
勇一郎はわざと『平民』の部分の声を張って言った。
おかげで、千代達の周囲にまで声が届き、ざわっと空気が変質した。雪人に好意的な視線を向けていた女達も、一気に見下したような目を向けてくる。
「最近じゃ、銀行融資を断られたみたいでねえ……本当、僕達と違ってあくせく働いてるみたいだよ。大変だよな」
(こんな場に雪人さんを連れてきたくなかった……っ)
自分と結婚したばかりに、と千代は唇を噛んだ。
しかし――。
「経営に波はつきものですから。ですが、ありがたいことに皆さんに助けていただき、なんとかやれております。人に恵まれました」と、雪人はにこやかに返していた。
場が水を打ったように静まり返る。
「ぁ……」と華族の男達は顔を見合わせ「あはは」と渇いた笑いを漏らした。
「そ、そうかい、それは何よりだ」
「こ、今後とも是非頑張っていってくれ」
「では」と、男達は逃げるようにして、ホールの雑踏へとあっという間に消えていった。
残ったのは、視線を逸らし、下げた口角を痙攣させる勇一郎のみだったが。
「他にも挨拶回りをしなければならないものでね、しっ、失礼」
勇一郎は雪人の顔を見ることもなく、背を向けて足早に去って行った。
ほっと息が漏れる。
「ごめんね、雪人。何も言ってやれなかった……っ」
すると、息を殺していたレオンが、しょんぼりとした顔で雪人の肩を叩いた。その顔は実に悔しそうだ。こんな顔、学校にいた頃は見たことがない。
「気にするな、こんなの日常茶飯事だ。それにお前は誰かの付き添いで来てるんだろう。下手に首を突っ込んだら、その人に迷惑がかかる」
「あ~もう~、本当君は昔から余計な事ばっかり気にして」
「余計なことすら気にしないと、後ろ盾のない者はあっという間に潰されるからな」
シクシクと口で泣き真似しながら、レオンは雪人の肩を何度も叩いていた。
千代が家で穏やかな時間を過ごしている間、彼は懸命に戦っているのだろう。そんな彼を頼もしく思うと共に、どうかこれ以上彼に苦難を与えないでくれと願ってしまう。
「それにしても、なぜ彼は融資の件を知っていたんだ」
ボソリと呟いた雪人の言葉に、千代もハッとした。
雪人は最近融資を頼めないかと色々な人と会っている話していたが、もしかして噂が回っているのか。しかし、商業者の中で回るのならばまだしも、勇一郎まで届くとは考えられない。まだ勇一郎が清須川製糸の経営に携わっているのならわかるが……。
晩餐の席で久しぶりに見た父は、少し痩せたように思えた。実際のところは、目も合わせてくれなければ、会話もしていないのでわからないが。今はというと、ホールを動き回っているのか、中々姿が探せない。
「いや、ここで考えても答えは出ないな。今はこの場に集中するとしよう」
「はい、雪人さん」
横目を向けて微笑まれ、千代の胸の内からも、もやっとした不安は消え去った。
◆
しばらくレオンを含めた三人で、過去の思い出話に花を咲かせていたところ、「待たせたな、レオン」と言いながら体躯の良い大柄の男が近付いてきた。
レオンも、「あ、伯爵」と軽くグラスを上げている。
顎を囲むヒゲで年齢は分かりづらいが、髪やヒゲに混じる白の多さや顔に刻まれた歳月の跡からするに、父よりも随分と上の――五十半ばくらいだろうことが窺えた。
しかし、衰えた雰囲気はまったくなく堂々としており、威厳が燕尾服を纏っているようである。
「すまんな、レオン。どうにも朝から腹の虫が渋っておってなあ。収まったと思ったんだが、晩餐で食べた何かが腹の虫には合わなかったようだ」
「いや、単純に食べ過ぎだと思いますけど。あれほど食べ過ぎないようにって注意したのに、僕の分まで取ってバクバク食べるんですから……もうっ」
「やははは! すまんすまん!」
レオンが伯爵と呼んだから華族の人なのだろうが、なんというか気取っていないというか、親しみやすいというか、実に陽気な人だ。
千代も雪人も珍しい者を見る目で伯爵を眺めていた。
レオンと伯爵は視線に気付いたようで、こちらへ身体を向ける。
「ああ、ごめんごめん。伯爵、こちら僕の東京時代からの友人で、今は横濱で一乗汽船の社長をしている一乗雪人です。隣はその奥さんの千代さん。彼女は、今日の主役の清須川茜さんのお姉さんで、元僕の教え子なんです。雪人、こちらが僕の今の雇い主のひとりで、ここで嫁を見つけろって強引に連れてきてくださった東(とう)郷(ごう)屋(や)伯爵だ」
千代と雪人は伯爵に深々と頭を下げた。
「一乗汽船か。名は聞いたことあるな。最近横濱で勢いがある会社だとか……」
「恐れ入ります。若輩ながら、日々学ばせていただいているところです。伯爵のお耳に届くようになったこと、光栄の至りに存じます」
「ふむ」と伯爵は口角を上げ、豊かな顎髭を摘まむようにしながら撫でていた。
「若い内は四の五の考えず、威勢の良さで突っ走ることも時には大事だからな」
会社をやっているということで、男達の興味が雪人へ向き、千代は密かに安堵の息を吐く。
「若いのに会社を……大変だねえ」
しかし、あまり好意的な興味ではないようだ。揶揄ともとれる言葉だ。
勇一郎もだが、未だに華族の中には労働は恥だと思う者達がいる。彼らは国からの金禄公債や不動産、貴族院議員の収入――汗水を垂らさずに生きることが一番と考えているのだから。
ただ近頃は金禄公債の額が減り、華族といっても裕福とは言いづらい家も増え、金銭援助を目的に士族の家に嫁がせる家もあるが。二井家のように。
「千代さんの嫁ぎ先ってことは、君も士族かい?」
その瞬間、その場にいた全員に聞こえる、大きな吹き出しが勇一郎の口から発せられた。
「ぶははっ! 井野君、間違えちゃ士族家の皆さんに失礼だよ。彼はただの平民なんだからさ」
勇一郎はわざと『平民』の部分の声を張って言った。
おかげで、千代達の周囲にまで声が届き、ざわっと空気が変質した。雪人に好意的な視線を向けていた女達も、一気に見下したような目を向けてくる。
「最近じゃ、銀行融資を断られたみたいでねえ……本当、僕達と違ってあくせく働いてるみたいだよ。大変だよな」
(こんな場に雪人さんを連れてきたくなかった……っ)
自分と結婚したばかりに、と千代は唇を噛んだ。
しかし――。
「経営に波はつきものですから。ですが、ありがたいことに皆さんに助けていただき、なんとかやれております。人に恵まれました」と、雪人はにこやかに返していた。
場が水を打ったように静まり返る。
「ぁ……」と華族の男達は顔を見合わせ「あはは」と渇いた笑いを漏らした。
「そ、そうかい、それは何よりだ」
「こ、今後とも是非頑張っていってくれ」
「では」と、男達は逃げるようにして、ホールの雑踏へとあっという間に消えていった。
残ったのは、視線を逸らし、下げた口角を痙攣させる勇一郎のみだったが。
「他にも挨拶回りをしなければならないものでね、しっ、失礼」
勇一郎は雪人の顔を見ることもなく、背を向けて足早に去って行った。
ほっと息が漏れる。
「ごめんね、雪人。何も言ってやれなかった……っ」
すると、息を殺していたレオンが、しょんぼりとした顔で雪人の肩を叩いた。その顔は実に悔しそうだ。こんな顔、学校にいた頃は見たことがない。
「気にするな、こんなの日常茶飯事だ。それにお前は誰かの付き添いで来てるんだろう。下手に首を突っ込んだら、その人に迷惑がかかる」
「あ~もう~、本当君は昔から余計な事ばっかり気にして」
「余計なことすら気にしないと、後ろ盾のない者はあっという間に潰されるからな」
シクシクと口で泣き真似しながら、レオンは雪人の肩を何度も叩いていた。
千代が家で穏やかな時間を過ごしている間、彼は懸命に戦っているのだろう。そんな彼を頼もしく思うと共に、どうかこれ以上彼に苦難を与えないでくれと願ってしまう。
「それにしても、なぜ彼は融資の件を知っていたんだ」
ボソリと呟いた雪人の言葉に、千代もハッとした。
雪人は最近融資を頼めないかと色々な人と会っている話していたが、もしかして噂が回っているのか。しかし、商業者の中で回るのならばまだしも、勇一郎まで届くとは考えられない。まだ勇一郎が清須川製糸の経営に携わっているのならわかるが……。
晩餐の席で久しぶりに見た父は、少し痩せたように思えた。実際のところは、目も合わせてくれなければ、会話もしていないのでわからないが。今はというと、ホールを動き回っているのか、中々姿が探せない。
「いや、ここで考えても答えは出ないな。今はこの場に集中するとしよう」
「はい、雪人さん」
横目を向けて微笑まれ、千代の胸の内からも、もやっとした不安は消え去った。
◆
しばらくレオンを含めた三人で、過去の思い出話に花を咲かせていたところ、「待たせたな、レオン」と言いながら体躯の良い大柄の男が近付いてきた。
レオンも、「あ、伯爵」と軽くグラスを上げている。
顎を囲むヒゲで年齢は分かりづらいが、髪やヒゲに混じる白の多さや顔に刻まれた歳月の跡からするに、父よりも随分と上の――五十半ばくらいだろうことが窺えた。
しかし、衰えた雰囲気はまったくなく堂々としており、威厳が燕尾服を纏っているようである。
「すまんな、レオン。どうにも朝から腹の虫が渋っておってなあ。収まったと思ったんだが、晩餐で食べた何かが腹の虫には合わなかったようだ」
「いや、単純に食べ過ぎだと思いますけど。あれほど食べ過ぎないようにって注意したのに、僕の分まで取ってバクバク食べるんですから……もうっ」
「やははは! すまんすまん!」
レオンが伯爵と呼んだから華族の人なのだろうが、なんというか気取っていないというか、親しみやすいというか、実に陽気な人だ。
千代も雪人も珍しい者を見る目で伯爵を眺めていた。
レオンと伯爵は視線に気付いたようで、こちらへ身体を向ける。
「ああ、ごめんごめん。伯爵、こちら僕の東京時代からの友人で、今は横濱で一乗汽船の社長をしている一乗雪人です。隣はその奥さんの千代さん。彼女は、今日の主役の清須川茜さんのお姉さんで、元僕の教え子なんです。雪人、こちらが僕の今の雇い主のひとりで、ここで嫁を見つけろって強引に連れてきてくださった東(とう)郷(ごう)屋(や)伯爵だ」
千代と雪人は伯爵に深々と頭を下げた。
「一乗汽船か。名は聞いたことあるな。最近横濱で勢いがある会社だとか……」
「恐れ入ります。若輩ながら、日々学ばせていただいているところです。伯爵のお耳に届くようになったこと、光栄の至りに存じます」
「ふむ」と伯爵は口角を上げ、豊かな顎髭を摘まむようにしながら撫でていた。
「若い内は四の五の考えず、威勢の良さで突っ走ることも時には大事だからな」


