「行ってらっしゃいませ、雪人さん」
「ああ、行ってくるよ」
昨夜は雪人と一緒に寝たからだろうか。
ここ最近、見送りの時にずっと感じていた寂寥感が今朝はなく、久しぶりに心から行ってらっしゃいを言えた。
「どうか、あまり無理をなさらず……って、あら?」
目覚めてから時間が経っているのに、なぜか雪人の顔はまだ眠そうで、瞼が重そうに雪人の綺麗な瞳を半分隠している。
「ゆ、雪人さん! クマがなんだか濃くなってませんか」
「ん? あ……あぁ、まあ……」
しかも、実に歯切れの悪い返事だ。
いつもはどんなに眠そうでも、シャキリとした返事をする雪人がどうしたことか、と思って気付いた。
「もしかして、やはり二人寝が負担だったのでは!?」
「は?」
きっとそうだ。今までひとりで寝ていたのだ。誰かが隣で寝ているというのは慣れないのかもしれない。しかも、今は特に忙しく疲労も限界に来ている頃だろうに。
ほら、今だとて先ほどよりも瞼がもっと重たくなり、雪人の目がすっかりと細目になってしまっている。
「申し訳ありません! 私がワガママを言って引き留めたせいですよね」
「…………」
「寂しいですが、お仕事が落ち着くまでどうか私のことは忘れて、ひとりでゆっくりと寝られてください!」
「…………」
「あっ、寝室を交換いたしましょうか。私が使わせていただいている寝室のベッドのほうが大きくてゆったりと眠れ――ぅんんんんっ!?!?」
何事だ、と千代は目を白黒させた。
目の前には、不機嫌そうに眉間に深い皺を寄せた雪人の顔がある。
突然、ガシッと顔を両手で掴まれたかと思ったら、次の瞬間には口を塞がれていた。
噛みつくような荒々しい口づけを何度も落とされ、声を上げるどころか、息をする余裕すらない。
背後に並ぶ女中達は、主人夫婦の朝の爽やかさなど微塵もない濃厚な口づけを目の当たりにし、目を皿にしてポカンと口を開けたまま眺めていた。
そうして、やっと雪人の口が千代から離れる。
千代は腰を抜かし、へなへなと力なく床に座りこんだ。見上げれば、口についた千代の紅を手の甲で乱暴に拭う雪人が、微かに肩を上下させながら千代を見下ろしている。
「――っはぁ……誰のせいで……っ」
「だ、誰……へ?」
千代の頭は今、熱で溶かされていて、雪人が悔しそうな顔をして言うその言葉も表情の意味も考えられない。
雪人は床に落ちていた鞄を荒々しく掴み玄関扉に手を掛けたのだが、思い出したように顔だけで振り返った。
その顔は目が充血していて、そこはかとない恐ろしさが漂っている。
「千代、今夜は起きていろ。帰ったら抱く、絶対にだ」
バタンッ、と荒々しい音を立てて玄関扉が閉まった。
「……だ、だく? だくって……抱く!?」
足のつま先から頭のてっぺんまで、千代は一気に真っ赤になった。もし、千代がやかんであれば、今頃頭のてっぺんから湯気が噴き出しているに違いない。
ハッとして、そこで思い出す。
自分の後ろには、ミツヨ達がいたのではなかったか。しかも、今日に限って全員。
千代が勢いよく背後を振り向くと、横一列に並んだ女中達は、サッと顔を上下左右思い思いの方向へと逸らした。
「~~っ見!」
(見られてた!)
いや、それよりも、あんなに恐ろしい雪人ははじめて見た。抱くと言われたが、あの状態の彼に抱かれたらどうなるか、考えただけでも――いや、考えられるほどの知識も経験も持ち合わせていないのだが――恐ろしすぎる。
夫が早く帰ってきてくれて嬉しいという気持ちよりも、自分の身体が無事に明日を迎えられるかという不安のほうが大きい。
「あ、あの、私……今夜はどうしたら……」
ここは恥を忍んで、人生経験豊富な彼女達に頼ろうと思ったのだが。
「あ~洗い物が残ってたんでした。あたし、洗ってきまーす」
「そうだ、洗濯洗濯。冬は陽射しが弱いから、早く干さなくちゃなのよねえ」
「大旦那様の布団もそろそろ厚手のものに……っと」
三人とも何事もなかったかのように、背を向けて去っていく。
「ちょっと皆さん!? 助けてくださいよぉ!」
悲痛な千代の声に、三人がピタッと足を止める。
しかし、振り返った顔はやはり千代からは微妙に視線が逸らされている。
「いやぁ、雪人様の足取りがふらふらして危うかったから、心配で一緒に見送りにきたんですけど……」
「余計な心配だったようですね」
「ほほっ、主人夫婦の仲が良いことは善きことですからね」
三人は「頑張ってください、奥様」と、なんの助けにもならない言葉を残して、それぞれの仕事場へと姿を消したのだった。
「そ、そんなぁ~……」
玄関にポツンと残された千代は、恥ずかしいやら嬉しいやら恐ろしいやらで頭を抱え、しばらく玄関で亀になっていた。
◆
その夜、千代は雪人は存外にしつこいのだと、それこそ身を以て学んでいた。
「――っは、あ……っも、死んで、しま、ます……っ」
先程からずっと繰り返される深い口づけに、千代は酸素を求めるように顔を逸らすが、すぐに雪人の手に顎を捉えられ、噛むように唇を塞がれてしまう。
口づけの熱でなのか、酸欠でなのか、千代の頭はクラクラとしてまともな思考すらできなくなっていた。
「千代が死んだら、俺も死ぬかな」
「ぁっ、そん……なっ、やだ……ぁんん……っ」
上顎の裏側を、雪人の舌がぞろりと撫でていき、千代は気持ちよさに喉を震わせた。
「死んだら嫌だとか……また俺の妻は可愛いことを言ってくれる」
口づけしながら喋るものだから、唇の表面だけを食まれるように撫でられ、甘さにゾクリと背筋が弓なりになる。加えて、雪人の低く、それでいていつもよりもしっとりと濡れた声が耳の奥を刺激し、さらに千代の体温を上昇させていた。
「ああ、行ってくるよ」
昨夜は雪人と一緒に寝たからだろうか。
ここ最近、見送りの時にずっと感じていた寂寥感が今朝はなく、久しぶりに心から行ってらっしゃいを言えた。
「どうか、あまり無理をなさらず……って、あら?」
目覚めてから時間が経っているのに、なぜか雪人の顔はまだ眠そうで、瞼が重そうに雪人の綺麗な瞳を半分隠している。
「ゆ、雪人さん! クマがなんだか濃くなってませんか」
「ん? あ……あぁ、まあ……」
しかも、実に歯切れの悪い返事だ。
いつもはどんなに眠そうでも、シャキリとした返事をする雪人がどうしたことか、と思って気付いた。
「もしかして、やはり二人寝が負担だったのでは!?」
「は?」
きっとそうだ。今までひとりで寝ていたのだ。誰かが隣で寝ているというのは慣れないのかもしれない。しかも、今は特に忙しく疲労も限界に来ている頃だろうに。
ほら、今だとて先ほどよりも瞼がもっと重たくなり、雪人の目がすっかりと細目になってしまっている。
「申し訳ありません! 私がワガママを言って引き留めたせいですよね」
「…………」
「寂しいですが、お仕事が落ち着くまでどうか私のことは忘れて、ひとりでゆっくりと寝られてください!」
「…………」
「あっ、寝室を交換いたしましょうか。私が使わせていただいている寝室のベッドのほうが大きくてゆったりと眠れ――ぅんんんんっ!?!?」
何事だ、と千代は目を白黒させた。
目の前には、不機嫌そうに眉間に深い皺を寄せた雪人の顔がある。
突然、ガシッと顔を両手で掴まれたかと思ったら、次の瞬間には口を塞がれていた。
噛みつくような荒々しい口づけを何度も落とされ、声を上げるどころか、息をする余裕すらない。
背後に並ぶ女中達は、主人夫婦の朝の爽やかさなど微塵もない濃厚な口づけを目の当たりにし、目を皿にしてポカンと口を開けたまま眺めていた。
そうして、やっと雪人の口が千代から離れる。
千代は腰を抜かし、へなへなと力なく床に座りこんだ。見上げれば、口についた千代の紅を手の甲で乱暴に拭う雪人が、微かに肩を上下させながら千代を見下ろしている。
「――っはぁ……誰のせいで……っ」
「だ、誰……へ?」
千代の頭は今、熱で溶かされていて、雪人が悔しそうな顔をして言うその言葉も表情の意味も考えられない。
雪人は床に落ちていた鞄を荒々しく掴み玄関扉に手を掛けたのだが、思い出したように顔だけで振り返った。
その顔は目が充血していて、そこはかとない恐ろしさが漂っている。
「千代、今夜は起きていろ。帰ったら抱く、絶対にだ」
バタンッ、と荒々しい音を立てて玄関扉が閉まった。
「……だ、だく? だくって……抱く!?」
足のつま先から頭のてっぺんまで、千代は一気に真っ赤になった。もし、千代がやかんであれば、今頃頭のてっぺんから湯気が噴き出しているに違いない。
ハッとして、そこで思い出す。
自分の後ろには、ミツヨ達がいたのではなかったか。しかも、今日に限って全員。
千代が勢いよく背後を振り向くと、横一列に並んだ女中達は、サッと顔を上下左右思い思いの方向へと逸らした。
「~~っ見!」
(見られてた!)
いや、それよりも、あんなに恐ろしい雪人ははじめて見た。抱くと言われたが、あの状態の彼に抱かれたらどうなるか、考えただけでも――いや、考えられるほどの知識も経験も持ち合わせていないのだが――恐ろしすぎる。
夫が早く帰ってきてくれて嬉しいという気持ちよりも、自分の身体が無事に明日を迎えられるかという不安のほうが大きい。
「あ、あの、私……今夜はどうしたら……」
ここは恥を忍んで、人生経験豊富な彼女達に頼ろうと思ったのだが。
「あ~洗い物が残ってたんでした。あたし、洗ってきまーす」
「そうだ、洗濯洗濯。冬は陽射しが弱いから、早く干さなくちゃなのよねえ」
「大旦那様の布団もそろそろ厚手のものに……っと」
三人とも何事もなかったかのように、背を向けて去っていく。
「ちょっと皆さん!? 助けてくださいよぉ!」
悲痛な千代の声に、三人がピタッと足を止める。
しかし、振り返った顔はやはり千代からは微妙に視線が逸らされている。
「いやぁ、雪人様の足取りがふらふらして危うかったから、心配で一緒に見送りにきたんですけど……」
「余計な心配だったようですね」
「ほほっ、主人夫婦の仲が良いことは善きことですからね」
三人は「頑張ってください、奥様」と、なんの助けにもならない言葉を残して、それぞれの仕事場へと姿を消したのだった。
「そ、そんなぁ~……」
玄関にポツンと残された千代は、恥ずかしいやら嬉しいやら恐ろしいやらで頭を抱え、しばらく玄関で亀になっていた。
◆
その夜、千代は雪人は存外にしつこいのだと、それこそ身を以て学んでいた。
「――っは、あ……っも、死んで、しま、ます……っ」
先程からずっと繰り返される深い口づけに、千代は酸素を求めるように顔を逸らすが、すぐに雪人の手に顎を捉えられ、噛むように唇を塞がれてしまう。
口づけの熱でなのか、酸欠でなのか、千代の頭はクラクラとしてまともな思考すらできなくなっていた。
「千代が死んだら、俺も死ぬかな」
「ぁっ、そん……なっ、やだ……ぁんん……っ」
上顎の裏側を、雪人の舌がぞろりと撫でていき、千代は気持ちよさに喉を震わせた。
「死んだら嫌だとか……また俺の妻は可愛いことを言ってくれる」
口づけしながら喋るものだから、唇の表面だけを食まれるように撫でられ、甘さにゾクリと背筋が弓なりになる。加えて、雪人の低く、それでいていつもよりもしっとりと濡れた声が耳の奥を刺激し、さらに千代の体温を上昇させていた。


