一乗家のかわいい花嫁

 雪人は、家で待っているだけで充分と言ってくれたが、自分にできることは何かないだろうか。
 千代が考え込んでいると、ベッドが軋み、手から雪人の体温が離れた。
 ベッドから立ち上がった雪人が、千代の頭を撫で、額に口づけを落とす。
「さっ、もう寝なさい。君の可愛い顔にクマなんて作ってほしくないからね」
「かわ……っ」
 以前からも彼は時折自分を可愛いと言うことがあったが、以前はうっかりというような感じだったのに対し、気持ちが通じ合ってからは、躊躇いなく言ってくることが増えた。
 視線も触れる手も言葉も表情も、すべてが甘いのだ。
 今この時だとて、目元を柔らかくして、ふわふわとした温かな笑みでこちらを見つめてくる。
「お休み、千代」
 踵を返し、私室へと戻ろうとする雪人。
 その腕を、千代は咄嗟に掴んで叫んだ。
「あのっ!」
「ん?」と、振り返った雪人は目を瞬かせている。
「ぃい……」
「い?」
 錦鯉のように顔を赤くして、口をパクパクさせる千代に、雪人の首が傾ぐ。
 そして……。
「い……! いっ、一緒に寝ませんか!」
「ぃいッ!?」
 
        ◆

 横濱正金銀行から融資取り消しされてから、雪人の日々はめまぐるしく過ぎていった。
 さらに、別の銀行に申し込んでいた融資までも不可という返事が返ってきた。
 理由はまた、言えないというものだった。
 何かがおかしい。
 何が起こっているというのか。
 今後の会社の運営を考え直さなければならない上に、さらに考えなければならないことが増えて、肉体よりも精神的な疲れのほうが大きかった。
 何より、千代と満足に会話もできないでいた。
 彼女と触れあえるのは、朝の見送りまでの僅かな時間のみで正直足りない。
 せっかくこれからは一緒だと思っていた寝室も、帰宅時間が遅くなってからは自分の寝室で寝るようにしていた。深夜の物音で彼女を起こすのは忍びなかった。
 それでもやはり、ひと目でも千代の顔を見たくて、密かに寝室を訪ねて彼女の寝顔を眺めては、疲れを癒やす日々を繰り返していた。
 今夜も、寝顔を見てから寝ようと、寝室を訪ねただけだったのだが……。
「こうやって並んで寝るのは久しぶりですね」
「ああ」
「やっぱり、雪人さんと一緒だと、とっても温かいです」
「それは良かった」
 などと、雪人は冷静に返しているが、その実、緊張と興奮で今にも心臓が飛びでそうだった。
 二人は夫婦の寝室で、一緒の布団に入っていた。
『い……! いっ、一緒に寝ませんか!』
 という、千代からの予想外の誘いを受け了承したはいいが、隣で嬉しそうに笑う妻が可愛すぎて、雪人は了承したことを既に後悔していた。
 千代はこちらを向いて、じっと顔を覗き込んでくる。
 同じように横を向いて向かい合うと、布団の膨らみに傾斜ができ、彼女の身体の小ささを意識させられる。
 正直、抱きたい。
 しかし、時間も遅いし彼女をゆっくり休ませたいという思いもある。
 この間ので、彼女と自分とを同じに考えては駄目だとわかった。
 彼女の体力は、子兎程度にしかない。
 自分の『少し』が、彼女には『大いに』になってしまうのだ。
 実際、少し無理をさせたと思っていた前回は、後でミツヨから千代は昼まで目覚めなかったと聞いて、少しではなく大いに無理させたのだと気付いて反省したものだ。
(ここは我慢だ、我慢……っ)
 一度した後だと我慢するのがここまで苦痛になるとは、思いもよらなかった。
 雪人は「はぁ」と薄く息を吐くと、目を閉じて視覚情報を遮断した。
 ひとまず、身体を落ち着かせることに集中する。
 しかし、頭にやわらかな感触を覚え、驚いてパチッと目を開いてしまった。
 千代が小さな手で、ゆるゆると自分の頭を撫でていた。
「頑張りすぎないでくださいね、雪人さん……私にできることはなんでも……しますから」
 向かい合わせの至近距離で、たんぽぽの綿毛を想起させるようなふんわりとした笑顔を向けられ、雪人は瞠目した。
(これは、誘われているんじゃないか……)
 もしかしたら、千代もそのつもりで一緒に寝ようと誘ったのではないか。
 であれば、女性にそのような言葉を言わせるのは、失礼になりはしないか。
 そうだ。千代のような娘が、自らはっきりと『したい』など言えるはずがないのだ。
 心なしか声までふにゃふにゃで、甘えたふやけ声に聞こえる。
(――っここで妻に気を遣わせるのは男の恥だろ!)
「千代……っ!」
 雪人は頭に置かれた千代の手を掴むと、そのまま小さな身体に覆い被さった。
 の、だが――。
「え……」
 千代はしっかりと目を閉じ、すややかな寝息を立てていた。
「嘘だろ!?」
 思わず声を上げてしまった。
「雪人……しゃ、んぅ……ふふっ」
 ムニャムニャと舌っ足らずな口調は、ふやけているわけではなくただの寝言だったらしい。なんの夢を見ているのか、千代は実に幸せそうな微笑みを浮かべて眠っている。
「…………」
 雪人は倒れるようにして、千代の隣に転がった。
 ベッドが大きく軋んだが、それでも千代が起きる気配はない。
 顔を覆った両手の隙間から、「はぁ」とため息が漏れる。
 残念な気持ちと、勘違いしてしまった羞恥と、それでも少しくらいはと猛る己の勝手な欲と、可愛い寝顔を見ることができた幸福感とで感情がめちゃくちゃだ。
「あー眠れる気がしな――ん?」
 袖が引かれた気がして目を向ければ、千代の手が雪人の寝間着の袖をキュッと掴んでいた。
「ゆき、と……さ……」
「~~っ!?」
 ぷっくりと厚い小さな口から自分の名が紡がれ、身体が熱暴走を起こしそうだった。
(拷問だろ……っ!)
 雪人は徹夜を覚悟した。
 正直、融資取り消しの報告を受けた時よりもつらかった。
 
        ◆

 朝、いつものように雪人の見送りに玄関までついていく千代。
 手には雪人の鞄。後ろには、いつもはミツヨだけが控えているのだが、今日は桂子とナリも一緒に並んでいた。