「はぁ……」
もう何も思い出したくない。妹のことも、元婚約者のことも。
まだ、雪人は帰ってきていない。屋敷の中はしんとしているが、きっとミツヨかナリが起きて、彼の帰りを待っているはずだ。
「やっぱり、この手紙は雪人さんに渡すべきよね……」
茜は「お義兄さまと」と言っていたし、一乗家に対する招待状であれば無視という選択肢はない。
千代は鬱々としたため息を吐きながら、机に砂山が崩れるようにズルズルと突っ伏した。
名前を呼ばれた気がして、千代は瞼を上げた。
どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
身体を起こし、聞き間違いかと思って耳を澄ましていれば、隣の寝室で微かな物音と、「千代?」と自分を探す雪人の声がした。
千代は跳ねるように椅子から腰を上げると、部屋の中を走り、自室と寝室とを繋ぐドアを勢いよく開けた。
「雪人さんっ」
ベッドの傍らにいた寝間着姿の雪人が、驚いたように振り向いた。
雪人の顔を見た瞬間、千代の心を曇らせていた陰雲が晴れ、ほっとした温かな安堵に満たされる。
「良かった、ベッドにいなかったから心配した。それより、まだ起きてたのか。駄目じゃないか、身体を壊すぞ」
心配そうに近寄ってくる雪人に、千代は「ごめんなさい」と謝りつつも、その顔は実ににこやかだ。
しかし、「あ」とすぐに手に握ったままにしていたものを思い出す。
「実は、雪人さんに相談したいことがありまして……」
よれてしまっていた手紙の皺を手でのばし、雪人へと差し出した。
「これは?」
「今日、偶然町で茜と会って、その際に渡されました。私と雪人さんにと。一緒に来てほしいと言って」
茜の名前が出た途端、明らかに雪人の顔が不愉快だとばかりに歪む。
彼は手早く封を破り、入っていた手紙に早速に目を通していた。そうして、目線が便箋の左下へとたどり着くと同時に、眉間の皺を深めて嘆息と言えるほどの大きな深呼吸をしていた。
「なんの招待状だったんですか」
「……茜さんと二井勇一郎の、婚約披露を兼ねた舞踏会を開くそうだ」
行きたくない、と咄嗟に思ってしまった。
雪人の手紙を見る曇り顔からするに、どうやら彼も同じ思いのようだ。
「来てほしい、ね。絶対、好意的なものだとは思えないんだよな」
「どうしましょう。親族なので出たほうが良いのはわかるんですが……雪人さんは忙しいという理由で、私ひとりだけで出席しましょうか」
実際に彼は今とても忙しいのだし。
「いや、君をひとりで行かせるほうが危ない。茜さんがいるんだ。何をされるかわかったものじゃない」
「でも……」
壁の時計を見れば、もう十一時を回っていた。
(毎日こんな時間まで……)
「それに、彼女は俺と千代でって言ってきたんだろう。だったら、素直に二人で出よう。正式に招待されて行くんだ、二人なら変なこともしてこないさ」
「わかりました」
「二週間後か……」と、悩ましそうに前髪を掻き上げ、手紙を睨む彼の目の下にはクマが浮かんでいた。
「……お仕事、大丈夫ですか。何か、私に手伝えることはありませんか」
近頃は雪人が家で仕事をする時間がなくなり、書類整理を手伝うこともなくなった。
代わりに、こうして彼は会社での残業の日々だ。
彼が倒れてしまわないかあまりにも心配で、でも身を案じることしかできない自分がもどかしく、胸が搾られるように痛かった。
雪人がいなくなる――考えただけで鼻の奥がツンと痛くなり、涙がこみ上げてくる。
涙がこぼれないように目に力を入れ、しかし、不安だとばかりに眉を垂らして口を引き結んぶ千代を見て、雪人は目を瞬かせた。
そして、表情を一転、ほころばせる。
「ありがとう。でも、千代は家で今までと変わらず過ごしていてほしいな。君が家で待っていてくれることが、俺の頑張る理由になるから」
頬を撫でる雪人の手に、千代は「でも」と猫のように顔を擦り付けた。
「……そうだな。今まで仕事を手伝ってもらっていたのに、突然何も言わずじゃ不安になるよな」
そう言って雪人は「実は」と、突然理由も分からず融資取り消しされ、代替策に奔走しているという話をしてくれた。
ベッドの縁に並んで座り、話を聞き終えた千代は、忙しくしている理由がわかっても、まったく安心はできなかった。
「安心してくれ。生活が急に悪化したりはしないから」
「そんなこと心配してませんっ。私は雪人さんの身体が一番心配なんです」
清須川家も会社を経営していた。
直接経営に絡んでいたわけではないが、それでも経営者がどれほどの責任を負っているのかは、仕事を手伝っていた千代にもわかるつもりだ。
千代は、雪人の下瞼を親指でそっと撫でた。
千代の手に雪人が手を重ねる。
「代理で融資を申し込んでいた二行にも、どういうわけか融資を断られてしまった。無理をすれば自力で会社を立ち上げられないこともないが、そうすると今の事業規模をしばらく縮小させなければならなくなる。だが、俺は横濱の地で一緒にやって来た仲間の首を切りたくはない」
「はい」
「それで、最近は知り合いや紹介してもらった人に会って、融資してもらえないかって頼んで回っていたんだ」
雪人は親指と人差し指で輪っかを作り、口元で酒を飲むようにちょこちょこと傾けた。
「お疲れ様です、雪人さん」
彼は平民だ。
千代は階級などまったく気にしないのだが、父や茜を見ていると、世の中自分のような者ばかりではないと知らされる。雪人は笑いながら「高い酒が呑める良い口実だ」と言っているが、そんなに楽しいものばかりのはずがない。
華族や士族の者達は、矜持が高い者が多い。
国は四民平等を謳うが、明確な差が依然として残っているのだ。何せ、罪を犯したときの処罰の重さすら違うのだから、何が平等なのかと思う。
平民の上に若い雪人が会社を盛立てているのを、面白く思わない人達もいるだろう。
(彼の力になりたいわ)
もう何も思い出したくない。妹のことも、元婚約者のことも。
まだ、雪人は帰ってきていない。屋敷の中はしんとしているが、きっとミツヨかナリが起きて、彼の帰りを待っているはずだ。
「やっぱり、この手紙は雪人さんに渡すべきよね……」
茜は「お義兄さまと」と言っていたし、一乗家に対する招待状であれば無視という選択肢はない。
千代は鬱々としたため息を吐きながら、机に砂山が崩れるようにズルズルと突っ伏した。
名前を呼ばれた気がして、千代は瞼を上げた。
どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
身体を起こし、聞き間違いかと思って耳を澄ましていれば、隣の寝室で微かな物音と、「千代?」と自分を探す雪人の声がした。
千代は跳ねるように椅子から腰を上げると、部屋の中を走り、自室と寝室とを繋ぐドアを勢いよく開けた。
「雪人さんっ」
ベッドの傍らにいた寝間着姿の雪人が、驚いたように振り向いた。
雪人の顔を見た瞬間、千代の心を曇らせていた陰雲が晴れ、ほっとした温かな安堵に満たされる。
「良かった、ベッドにいなかったから心配した。それより、まだ起きてたのか。駄目じゃないか、身体を壊すぞ」
心配そうに近寄ってくる雪人に、千代は「ごめんなさい」と謝りつつも、その顔は実ににこやかだ。
しかし、「あ」とすぐに手に握ったままにしていたものを思い出す。
「実は、雪人さんに相談したいことがありまして……」
よれてしまっていた手紙の皺を手でのばし、雪人へと差し出した。
「これは?」
「今日、偶然町で茜と会って、その際に渡されました。私と雪人さんにと。一緒に来てほしいと言って」
茜の名前が出た途端、明らかに雪人の顔が不愉快だとばかりに歪む。
彼は手早く封を破り、入っていた手紙に早速に目を通していた。そうして、目線が便箋の左下へとたどり着くと同時に、眉間の皺を深めて嘆息と言えるほどの大きな深呼吸をしていた。
「なんの招待状だったんですか」
「……茜さんと二井勇一郎の、婚約披露を兼ねた舞踏会を開くそうだ」
行きたくない、と咄嗟に思ってしまった。
雪人の手紙を見る曇り顔からするに、どうやら彼も同じ思いのようだ。
「来てほしい、ね。絶対、好意的なものだとは思えないんだよな」
「どうしましょう。親族なので出たほうが良いのはわかるんですが……雪人さんは忙しいという理由で、私ひとりだけで出席しましょうか」
実際に彼は今とても忙しいのだし。
「いや、君をひとりで行かせるほうが危ない。茜さんがいるんだ。何をされるかわかったものじゃない」
「でも……」
壁の時計を見れば、もう十一時を回っていた。
(毎日こんな時間まで……)
「それに、彼女は俺と千代でって言ってきたんだろう。だったら、素直に二人で出よう。正式に招待されて行くんだ、二人なら変なこともしてこないさ」
「わかりました」
「二週間後か……」と、悩ましそうに前髪を掻き上げ、手紙を睨む彼の目の下にはクマが浮かんでいた。
「……お仕事、大丈夫ですか。何か、私に手伝えることはありませんか」
近頃は雪人が家で仕事をする時間がなくなり、書類整理を手伝うこともなくなった。
代わりに、こうして彼は会社での残業の日々だ。
彼が倒れてしまわないかあまりにも心配で、でも身を案じることしかできない自分がもどかしく、胸が搾られるように痛かった。
雪人がいなくなる――考えただけで鼻の奥がツンと痛くなり、涙がこみ上げてくる。
涙がこぼれないように目に力を入れ、しかし、不安だとばかりに眉を垂らして口を引き結んぶ千代を見て、雪人は目を瞬かせた。
そして、表情を一転、ほころばせる。
「ありがとう。でも、千代は家で今までと変わらず過ごしていてほしいな。君が家で待っていてくれることが、俺の頑張る理由になるから」
頬を撫でる雪人の手に、千代は「でも」と猫のように顔を擦り付けた。
「……そうだな。今まで仕事を手伝ってもらっていたのに、突然何も言わずじゃ不安になるよな」
そう言って雪人は「実は」と、突然理由も分からず融資取り消しされ、代替策に奔走しているという話をしてくれた。
ベッドの縁に並んで座り、話を聞き終えた千代は、忙しくしている理由がわかっても、まったく安心はできなかった。
「安心してくれ。生活が急に悪化したりはしないから」
「そんなこと心配してませんっ。私は雪人さんの身体が一番心配なんです」
清須川家も会社を経営していた。
直接経営に絡んでいたわけではないが、それでも経営者がどれほどの責任を負っているのかは、仕事を手伝っていた千代にもわかるつもりだ。
千代は、雪人の下瞼を親指でそっと撫でた。
千代の手に雪人が手を重ねる。
「代理で融資を申し込んでいた二行にも、どういうわけか融資を断られてしまった。無理をすれば自力で会社を立ち上げられないこともないが、そうすると今の事業規模をしばらく縮小させなければならなくなる。だが、俺は横濱の地で一緒にやって来た仲間の首を切りたくはない」
「はい」
「それで、最近は知り合いや紹介してもらった人に会って、融資してもらえないかって頼んで回っていたんだ」
雪人は親指と人差し指で輪っかを作り、口元で酒を飲むようにちょこちょこと傾けた。
「お疲れ様です、雪人さん」
彼は平民だ。
千代は階級などまったく気にしないのだが、父や茜を見ていると、世の中自分のような者ばかりではないと知らされる。雪人は笑いながら「高い酒が呑める良い口実だ」と言っているが、そんなに楽しいものばかりのはずがない。
華族や士族の者達は、矜持が高い者が多い。
国は四民平等を謳うが、明確な差が依然として残っているのだ。何せ、罪を犯したときの処罰の重さすら違うのだから、何が平等なのかと思う。
平民の上に若い雪人が会社を盛立てているのを、面白く思わない人達もいるだろう。
(彼の力になりたいわ)


