一乗家のかわいい花嫁

 必要な資料を集めたり、取引先や関わりがあった者へ手紙を出したり、父への郵便物の仕分けをしたりと、経営に直接関わっていたわけではないが、細々と常に忙しかったように思う。
 それが突然、優雅ともいえる生活に切り替わり、何もしない状況というのが不安になるのだ。
「一乗家に嫁いだ身ですから、何か皆様のお役に立てたらなって」
「奥様って変わってるって言われません? 昨日は無理してるのかなって思ったんですが、もしかして本気で手伝いたいって言ってました?」
「え、ええ、もちろんですが」
 千代が不思議そうに首を傾げれば、「はぁ~」とナリが感嘆の声を漏らした。
「普通、良いところのご令嬢は自ら働こうなんてしませんよ。ましてや、手伝いたいって女中になんか声掛けませんって」
 千代と同い年の彼女は思ったことは口に出してしまうタイプのようだが、明朗さゆえに嫌な感じはしない。年上の桂子が手で「ちょっと」と口をつぐむよう注意していたが、大丈夫なので気にしないでと、千代は手を振り微笑む。
「確かに、私はちょっと変わってるのかもしれません」
 女学生で働いていたのも自分くらいだったし。あの時は、先生達が働いていることを隠してくれて、同級生達にはただの本好き故に図書室にいたと思われていた。
 そこで、千代は台の上に置いてあった盆に気付いた。白湯と薬包が乗っている。
「あら、これってもしかしてお義父様のお薬ですか」
 確か、善路は肺を患っていたという話だ。
 ミツヨの「ええ」という返事を聞くや否や、千代はぱっと顔を明るくし、盆を両手で持った。
「これ、私に届けさせてくれませんか」
「ええ!?」と桂子とナリが異口同音に声を上げる。
「祝言の時に少し言葉を交わしていただいただけで、それきりでしたので。もっとお義父様のことを知りたいと思っていたんです」
 正直千代はまだ善路についてわからないことだらけだった。
 顔は雪人に似ていたが、纏う雰囲気は真逆だった。雪人が薄氷のような洗練された空気の持ち主だとすると、善路は患ってはいても曲がることのない背筋と逞しい体躯から、滾るような雄々しさを感じた。
(それに、お義父様には距離を置かれているように感じるのよね)
 祝言で言葉を交わした時、義父は自分との会話を最低限にしようと努めているような雰囲気があった。病気のこともあるから、自分に時間を割いていられないのだろうと思っていたが、その後父や茜とは色々話していたから、単純に自分との会話を避けられていた可能性もある。
 桂子とナリがチラチラと困ったように目配せし合っていた。
「で、でも……奥様は大旦那様にはあまり近寄らないほうが――」
「大旦那様は一日に二度、朝と夕にこの薬を白湯で飲まれます」
 今まで黙っていたミツヨがナリの言葉を遮り、千代の前に一歩進み出た。
「ちょうど朝のお薬の時間ですし、では奥様、お願いできますか?」
「はいっ!」と千代は表情を明るくして、頷いたのだった。


 千代が去った後の台所で――。
 ナリと桂子は困ったような顔を見合わせ、昼食の準備にとりかかるミツヨに目を向けた。
「ミツヨさん、良いんですか? 大旦那様に怒られますよ」
 ナリが不安げな声で尋ねる。しかし、ミツヨは二人と違い、いつもと同じ平然とした顔をして「良いのよ」と問題にすら思っていない。むしろ、口端が僅かに持ち上がっておりどこか楽しそうでもある。
「嫁が義父に薬を持っていくだけですもの。怒られる理由なんてありゃしないわ」
 でも、と今度は桂子が口を開く。
「奥様に何か問題があるから、大旦那様は近づけないように言ったんじゃないんですか? 確かに元から大旦那様は人を無闇に近づけさせませんけど……それにしても、わざわざ口にして言うだなんて」
 祝言を挙げた後、女中達は善路から自分には無闇に嫁を近づけるな、と言われていた。
 元より善路は、仕事は別として、個人的な人付き合いが良いとは言えない。世話や用事も、昔から関係があるミツヨと実富にしか頼まない。
「問題ねえ……あなた達、奥様に何か問題があるように見えたかしら?」
 二人は肩をすくめる。
「今のところはなにも。むしろ、とても可愛らしい奥様だと」
「同じく」とナリも頷く。
「私もそう思うわよ。それに、雪人様も奥様のことをとても……んふふっ……とても大切に思ってらっしゃるようだし」
「ちょっ、ミツヨさん! 今の笑いはなんですか!?」
「何か見たんですね!? 女性に優しい雪人様なんて想像できないんですが、何があったんですか!?」
 意味深なミツヨの笑顔に、ガタガタと台を飛び越えんばかりに前のめりになって食いつく二人。それをミツヨは「さあ」と楽しそうにかわす。
「雪人様のことは置いておいて……大旦那様の言いつけの真意は私達にはわからないけど、奥様と大旦那様は家族になられたんだから、お互いを知る必要があると思っただけよ」
「さっすがミツヨさん、大人な考え方~。あたし、言いつけを守ることしか考えてなかったですよ」
「大旦那様との付き合いも長いからねえ」
 ミツヨは見えもしない和館のほうを眺め、心配するように僅かに目を細めた。
「いい加減、私や実富さん以外にも頼ることを覚えてもらわないと……」
 ボソリと呟いたミツヨの言葉は、ナリと桂子の耳には届かなかった。

        ◆
 
 というわけで、早速千代は和館にある善路の部屋を訪ねたのだが。
「私のことは放っておいてくれていいから」
 薬を白湯で流し込んだ善路が口を開いて最初に口にした言葉に、千代は「え」と瞬いた。
「薬はこれまで通りミツヨに頼む。あなたは、屋敷の中でなら好きに過ごしてくれて構わない。欲しいものがあればミツヨに言って外商でも呼びなさい。横濱には野澤屋があるだろう」
 畳敷きの寝室で、善路は布団から上半身だけを起こしており、薬を飲み終わると千代に目もくれず背を向けて再び布団に横になった。