暖かな日差しを受け、柔らかな風に吹かれて。
舞い上がる桜色の花片が、新たな始まりを祝福して流れていく。
ようやく馴染んだスーツに身を包み、後輩となる新入社員を迎えた二年目の春。
学んだ仕事から幅を広げ、たくさんの事に挑戦できると同期と胸を躍らせた独り立ち。
好きな仕事に就けた幸運に、やりがいのある毎日をただ平凡に送っていた私は。
「なんで、ここにいるのかな……」
隣市の大学病院、病棟。
それも個室で孤立した静けさの中で、私は居ても立っても居られず中庭に出ていた。
病室からは見下ろした桜の木を今度は見上げ、まだ緑の混じらぬ初さに眉根を寄せて。
――私があの花片に祝福されたのは、ほんの数日前だったのに。
後ろも見ずに後ずさりして、数歩の距離にあったベンチに腰を下ろした。
別に、どこも痛くない。煩わしい点滴のチューブもまだない。ただ少し、体調が悪いだけ。
それだけだった。
「なんで今なの……」
異変に気づいたのは去年の暮れ頃。
はじめての仕事納めに慣れない残業、疲労ばかりが溜まっていくのは今だけだと同期と励まし合い、身体の違和感は市販の薬で抑えていた。
疲れやストレスで人は簡単に体調を崩す。年末を乗り切れば休みがあるからと、その時は原因をそのせいにしていた。
おかげで市販の薬で抑えられていた。
けれど、いざ年末年始の休息を得たところで、私の体調は以前の通りになることはなかった。
かかりつけ医には「疲労からでは?」と休息を勧められ、処方されたのは風邪薬など。
何度も何度も通院し、症状は改善されることなくようやく紹介状と共にこの大学病院を紹介された。年度末だった。
周りは忙しなく働いている中で、私は早急な入院を言い渡された。
タイミングや仕事のキリを考え、入社式を終えて今、私はここにいる。
「なんで私なの……」
これから長期に渡る投薬治療が始まるとか、そのための副作用とか。医師から言われたことやネットで調べたことがぐるぐると頭を巡る。治るけど根気がいる、は正直励ましにならない言葉だった。
仕事を休んでいる分の同期達との仕事の差とか、追いついてくる新入社員とか。それを巻き返せるか不安で、そもそも戻る場所はあるのかなと絶望感に襲われて。
爽やかな春の風にそよぎ落ちる桜の花片を見上げたまま、両腕で顔を覆った。
ただもう、悔しくてしかたなかった。
「……っ」
溢れる涙は袖に吸い込まれ、それでも気づけば頬を伝っていく。
さわさわと穏やかに桜の木々が揺れる音に、私の
堪えきれない嗚咽がまじって耳に届く。それしか聞こえない。
隣に人が座ったことなど、気づくはずがなかった。
「――どうぞ」
突然かけられた声に驚き、腕をどかせば見知らぬ男性がいた。
院内でよく見かけた簡素な病衣姿で、腕には入院患者用の識別バンドをつけて。男性の横にある点滴スタンドからは薬液の通るチューブが、彼の腕に伸びていて。
赤らんだ目元で彼は私を見て、その手に持つ箱ティッシュを差し出していた。
「よければ使って」
「……いえ、」
結構です。
断る前に私と彼の間に箱ティッシュが置かれた。
風に彼の黒髪が流される。
赤らんだ目元で彼はうっすら笑むと「気にしないで」と私に背を向けて座り直した。
ずっ、と鼻をすする音が聞こえる。
――気にしないでと言われても。
見ず知らずの、しかも男性がいる前では気が散って思うようには泣けないのだけど。
「あの……」
「俺、花粉症なんだ。気にしないで」
背を向けたままで彼は言う。その声は少し、鼻声に聞こえた。
また鼻をすする。心なしか肩が揺れていた。
「…………」
置かれたティッシュに手を伸ばすと、ありがたく数枚もらって涙を吸わせる。
抑えた嗚咽。たまに深く息を吐き出す。
私のものじゃない。……彼のもの。
「気にしないで」って、あなたのことなのね。
それに気づくと少し呆れた。先に泣いている私を放って自分が泣き出すなんて。
冷静になると涙の苦しさはなくなり、余韻ばかりのものが静かに流れる。それをティッシュで拭った。
新たに耳に入る、見ず知らずの彼の涙の音を聞きながら、向けられた背を眺めた。
顔にかかる風が、私の涙の跡をすぅっと冷やした。
*
彼は『創』と名乗った。年齢は私の一つ上。
同じ病棟の同じ階に病室がある。看護師さん達と親しそうな様子から、長く入院しているのがわかった。そして泣き虫。
あの日以来、創は出会すたびに箱ティッシュを抱えて目元を染めていた。
染めてない日もあったけれど、私と一緒にいる間に「花粉症だから」と言いながら泣いていた。背を向けられても肩は震えているし、漏れる嗚咽に「花粉症なわけないじゃん」と思った。
思いながら、その度に背をさすってあげていた。
創は今日も泣いている。病室から見下ろす桜に緑が混じり始め、それを窓際に立って眺める私も泣いていた。
私の病室。
個室だからと周りの目を気にせずにいたら、あまりにも気を抜きすぎていたのか扉が開きっぱなしだった。
部屋の前を通りかかった創に「開いてるよ」と教えられ、まだ目元の染まっていなかった創は私の病室に入ってきた。ベッドに腰掛け、私に背を向ける。
「今日はここにしよう」とばかりに息を吐くと、いつも通りに肩を震わせ始めた。
私はそんな創に、今日ばかりは背をさすってあげられる余裕はなかった。
私の隣にはスタンドが立ち、そこから私の腕へと点滴チューブが繋がっていた。自由を奪われた気分。
ここの住人になってしまったんだと、長く辛い階段にとうとう足をかけてしまったと、改めて突きつけられていた。
――入院後の精密検査の結果は思ったよりひどかった。「若いから進行が早い」と医師に告げられ、想定していたよりも入院期間が延びてしまうらしかった。
繋がれた点滴はまだ副作用には至っていないけれど、これからのことを考えると憂鬱でしかない。
なんで私が。
そう思うと涙が止まらなく、こぼれだす嗚咽は一際大きくなっていた。
「彩ちゃん」
創が私を呼ぶ。
泣き顔を隠さず振り返れば、私のベッドに腰掛けて背を向けていた創が私を見ていた。濡れた目元だけでなく鼻まで赤く染め、私と変わらずしゃくりあげていて。
とん、とその隣に手を置いた。
「こっちおいで」
「……うん」
警戒はしなかった。
出会って数日の男と部屋で二人きりだとか、その上でベッドの隣に誘われているだとか。健常なら絶対にお断りな状況だけど、前提としてお互いに病人だ。それに、いつも会う度に泣いている創には男を感じたことがなかった。
私は素直に創の隣に腰を下ろした。
「今日は俺の番」
創の手がぎこちなく私の髪をすべる。
加減がわからないのか、それとも今になって多少の遠慮を見せたのか。髪の表面だけを触れるような撫で方はあまりにも優しく、物足りなさがあった。
何度も撫でてくれるその手は男の人らしく大きくて、なのに触れる面積はどうにも少なくて。
くすぐったさと、同時に心地よさを感じて、不思議と喉の奥にある苦しさは消えていった。
創も、私に撫でられて同じように感じてるのかな。
そうだったらいいなと、何気なく思った。
すん、と鼻のすする音。私の髪を変わらず撫でる創はいつのまにか涙を収めていて、目元の染まった静かな眼差しで私を見つめていた。
高さの違う顔を見上げると、創は思いがけないことを口にする。
「俺たち、付き合わない?」
「え?」
私は二の句が継げず黙った。
ぽろ、と見開いた瞳から一粒だけ涙が落ちる。
この人、何言ってるんだろう。
ふざけているようには見えないけど、そんな冗談を言う人なのかな。
創のことはたった数日の人柄でしか判断できない。その印象で一番にくるのは『泣き虫』なわけで、やっぱりそれ以上のことは知るはずもなくて。
創にしたって私のことを全然知らないはずなのに、なぜそんなことを言うんだろう。
私のことを好き?
どうして? そんな素振りはあった? まさか、私の前で泣くことがアピールだったの?
……ううん、さすがに、そんなわけ。
人の気持ちは近ければ近いほど分からないことがあるけれど、その近さは私たちには当てはまらないものだ。同じく遠くても分からないけど、それも当てはまらない。
初対面で弱さを曝け出しあった私たちは、遠い他人でありながら一瞬にして距離を詰めてしまった。
お互いの表面を知らずして根底を知ってしまったような感じだった。
だから悪い人じゃないのはわかる。わかるけど、『泣き虫』以上の印象はない。
「えっと……」
冗談にしても本気にしても、ただ一つの事実を私は伝えておくべきだと考えた。
「私、あなたのことは好きじゃないよ」
口に出して、しまったと思った。これでは創を否定するように聞こえてしまう。
私は慌てて「あの、嫌いなわけじゃなくて……そういう風には……」と訂正する。驚き、思考がぐるぐると巡っていたせいで落ち着きが取り戻せない。
創は私の答えを聞いて数回瞬きしたあと、ふっと小さく吹き出した。私の髪に置かれていた手を引き、その甲で口元を隠した。
「うん、それはわかってる。万一にもないだろうなって……でも、突きつけられると結構ぐさっとくるね」
その返事に私も同じく、ぐさっと刺さる。
そういう風には見ていないけど、よくわからない距離感で数日を過ごすうちにそれほどには好意を抱いていたらしい。
私は小さくなって謝った。
「ご、ごめんなさい」
「いいんだ。俺の言い方も悪かったから」
創はティッシュで私の涙の跡を拭ってくれる。
明かされた口元は笑いを引きずっているのか綻んでおり、穏やかな調子のままで続きを話した。
「俺たちは病院っていう閉鎖空間で、それぞれに苦しみや痛みを乗り越えていかなきゃならないでしょ。家族や知り合いがお見舞いに来ても、その辛さは分かち合えるものじゃない。励ましなんてちっとも慰めにならない」
涙を拭き終わったティッシュはほんのり湿り、創の手のひらの中でくしゃりと握られた。
その握り込んだ拳を創は見下ろしている。
「でも、一緒に泣ける相手がいたら……少しでも、寄り添いあえる相手がいたら。言葉はなくても、背中をさすってくれるだけで十分。お互いにとって、何よりもここでの生活で支えになると思うんだ」
変わらず穏やかな口調で、けれど綻んだ口元はきゅっと引き結ばれた。
顔を上げた創は、改めて私を見つめる。
「俺たち、付き合わない?」
恋愛感情は含まれないはずの二度目の告白。
好意はないとわかっていても、真剣に向けられた眼差しから創の緊張が伝わってくる。
創の言い分はよく理解できた。共感さえできるほどに。
けれど簡単に返事を出せるものではなく、続く沈黙はお互いの頰に少しずつ紅を差した。
*
創が提案するお付き合いには条件が二つあった。
一つはお互いに干渉しないこと。もう一つはどちらかの退院で必ず別れること。
これが退院後を見越した条件であることはすぐにわかった。後腐れなく、ただ今を乗り越えるためだけのものだ。
そうなると『お付き合い』という関係は恋人同士というよりも同志に近いような感じがする。
なので「友人ではダメなの?」という疑問をぶつけてみると「恋人という形を作ったほうが甘えやすくなるよ」と創は言った。疑似恋愛でも、この生活に楽しみができるなら前向きになれると。
それが本物の気持ちになってしまった時はどうするのかと思えば、結論は変わらず「別れる」らしい。創は徹底して『入院生活の中で』をこだわった。
私は一晩考え、翌日にはその提案を受け入れることにした。
とはいっても、たった数日の関係が劇的に変化することはない。
会えば泣いている。そばで背中をさする。友人でもないのにそれ自体が普通となっていた私たちには、今のこの状況はたぶん劇的な変化ではない。
私たちの『お付き合い』の本質からして、これが今後も正解の形となっていくのだろう。
創が恋人になったわずか二日後から。
私はだんだんやってきた副作用により、日毎にベッドから起き上がることができなくなっていた。
「……うぅ……」
「吐く? 体起こそうか」
「大、丈夫……」
「吐けるなら吐いちゃいな。楽になるから」
創は手近に容器を引き寄せ、私の体を支え起こしてくれた。少し強く背中をさすられ、その上で流れ落ちる私の髪まで手で束ねてくれる。
都合がつけば日々私に寄り添ってくれていたので、ずいぶんと手慣れたものになっていた。
「吐けない……」
「横になる?」
「うん……」
また支えられたままで体を倒す。
吐けば楽なのはわかるけれど、私はなかなか吐きにくい体質らしく、それが上手くいかなかった。
背中から創の手が離れたことでまた気分の悪さが戻ってきそうだ。
「創、背中……」
「さすろうか。横向いて」
されるがままに創に背を向けると、またごしごしとさすられ揺すられる。荒っぽいかもしれないが、撫でられるだけの優しさなら気持ち悪さに勝てず意味がないのだ。
背中に創の手のひらがあることをしっかりと感じられることで、少しだけ気分がマシになる。
「ありがと……」
深く息を吐いて私は目をつぶった。
創には寝たきりの私の看病をさせて申し訳ないけれど、寄りかかることのできる存在がいるというのは確かに支えになっていた。
甘えられるけれど涙は見せたくない家族、体は任せられるけれど気持ちまで甘えられない医師や看護師。
そこに『恋人』という、友人とは違う存在はとても大きなものだった。創には甘えられるし、涙を見せられる。
そしてこの関係において、『仮初』が一番重要なのだと身に染みて感じていた。
私たちはお互いに干渉しない。名前、年齢、病室の場所。
今知り得るのはそれだけと、出会ってから見えた性格くらい。
家族構成や仕事、住んでる場所、どんな友人がいるのか。他のことは何も知らない。聞けば答えてくれるかもしれないし、答えてくれないかもしれない。それは私も同じ。
深く知らないからこそ、創が見せてくれる優しさに素直に甘えることができる。
いつか別れるから、だけじゃなく、今しか関係を持たない私たちにとって、お互いの背景は邪魔なものなのかもしれない。
私の背中で規則的に動いていた創の手がふいに止まった。かと思えば動き出し、動きを緩めてまた止まる。
気持ち悪さからようやく抜け出した私は疑問に思って目を開けた。
重たい頭を持ち上げて振り返れば、創は私のベッドに頬杖をついたままで眠りかけていた。
こく、こく、と頭が揺れている。
「創」
声をかけると、目が開くのと同時にかくんと落ちた。
体勢を持ち直した創は寝ぼけた顔で柔らかに微笑んだ。
「ごめん。寝てたね」
「いいよ。ありがとう、すごく楽になった」
「ならよかった」
創は「んー……」と漏らしながら体を伸ばした。
忘れてはいけないのが、創も病人だということ。私のものと並んだ点滴スタンドは、それぞれの主人に向けてチューブを伸ばしている。
私は創の方を向いて横になり直し、手を伸ばした。
「うん? 何?」
創は病衣を掴んだ私の手に気づき、いまだ眠たそうな瞳で私を見下ろした。
「もう病室戻る?」
「彩がいいなら、まだいるよ」
「じゃあ、まだいて」
「いいよ」
ぽんぽん、と私はベッドの枕横あたりを示して叩く。
首を傾げた創は素直に近寄ってくるので、気持ちに余裕の出た私は恥ずかしさを押し退けてこう言ってみる。甘えたい気分だった。
「一緒にお昼寝しよ」
「えっ」
創はぎくしゃくと動きを止めた。
赤らんだ頰で私をじっと見つめ、少ししてため息をついた。
「……そこまで安心されるのもどうなんだろ。男として」
「この関係にそういう事はあるの?」
「嫌なことはしないよ」
答えなようで、答えじゃない。
創は私の示した場所にぽすん、と頭を置いた。同じ高さの目線が思ったよりも近くて、くすぐったい。
管の繋がった手を出すと、創もまた管の繋がった手で私を包み込んだ。薬液の流れる私の手はひんやりとしていて、包まれる熱が心地いい。
頰を染めたままの創が笑み、つられて私もふんわり口元が緩む。
苦しい日々の中の、一時のやすらぎだった。
*
気づけば桜の木はあおあおしく葉を茂らせ、中庭の花壇はさまざまな色を咲かせていた。
せっかく季節の移ろいを眺められる特等の病室だというのに、私がそれに気づけたのはようやく副作用が治ってきた新緑も終え頃の時期だった。
ベッドから立ち上がり、窓際に寄れば殺風景だった私の視界に鮮やかな緑が焼き付く。
例年の今頃なら外は蒸し暑くなっているだろう。
均一に室温が保たれた病棟ではその変化には気づくことができず、寝たきりだった私が暑さを感じるのは創に手を握られている時くらいだった。
その創も、今日はまだ私の病室を訪れてこない。
自由に動き回れる時間のほとんどを一緒に過ごしているけれど、毎日やってくるわけではない。
創には創の治療や検査があるし、お見舞いがあるだろうし。もしかしたら体調を崩して来ないのかもしれないけれど、「なぜ来なかったの?」と聞いたことはなかった。
お互いに干渉しない。私たちのお付き合いにおける決め事に、その質問はきっと触れるだろうと思ったから。
……――結局、創は消灯の時間になってもやってこなかった。
そんな日もある。創に会えなかったのをちょっとだけ寂しく思いながら、明日は私から出向こうかなと考えて布団を被った。
だんだんと体調は戻ってきているので、寝たきりだった分の運動にはちょうどいいかもしれない。
そうするとなんだか楽しい気分になってきて、明日を迎えるのが待ち遠しく思えた。
カーテンを透かして月灯りが病室内をうっすらと照らす。
今日はなんだか夜空が明るいらしい。
昼間に見た草木が瞼の裏に蘇り、月灯りの下で見ても鮮やかだろうなと思い描く。今日の私はなんだか元気だなぁ、と嬉しくなった。
晴れやかな気分で眠りにつけば、明日はすぐにやってくるだろう。
浮き上がる気分を落ち着けて、私はようやく睡魔に誘われた。
ふと、小さなノック音が聞こえた。
スッと扉が開き、足音が入ってくる。見回りの看護師さんかな、と入院生活に慣れた私は気にせず瞼を閉じて眠りにつこうとした。
「彩、起きてる?」
その声に、急速に意識を引っ張られた。
「……創?」
私が声を出すと、足音は安堵したようにベッド横までやってくる。
「ごめん、起こしたね」
「ううん。どうしたの? あれ、点滴は?」
部屋に入ってきたのが看護師だと思ったのは、点滴スタンドのキャスター音がしなかったからだ。
月灯りでうっすらと見える創はいつものスタンドを押しておらず、それがなんだか不思議な光景だった。
「一時的に外してるんだ」
「それって……」
経過が良好だから? それとも、治療方針の変更? 顔色まではっきりわからないけれど、創の体調は悪くないように見える。
どう質問をしようかと一瞬躊躇うと、そんなことより、と言うように創は私の顔を窺った。
「体調はどう?」
「うん、大丈夫」
「副作用が治ってきたんだね。よかった」
そう言うと、ベッド横から窓際へと移動した。
月灯りの透けるカーテン。おもむろに、シャッと音を立てて開かれた。
「知ってる? 今日は流星群が見えるかもしれないんだって」
煌々と差し込む月光。
その光を背に、私を向いた創の顔は陰っていて、だけど頰がうっすら色づいていることに気がついた。
「だから、彩と一緒に見たいなと思ったんだ。……こんな誘いは、だめ?」
消灯後に病室を抜け出して、しかも恋人といえど異性の病室に忍び込んで。
やることは大胆極まりないというのに、そのお誘いはどうしてそんなに消極的なんだろう。
私は溢れそうな笑いを抑えて「だめじゃないよ」とベッドから起き上がり、差し伸べてくれた創の手を握った。
窓から見上げた夜空は雲ひとつなくて、一面の藍色の中で月が白く主張していた。
小さな星はまばらに散らばり、こぼれ落ちる準備をするかのようにちかちかと明滅を繰り返す。
どの星が一番に流れるんだろう。
創に会えたことで眠る前の気分が舞い戻り、期待に満ちて夜空を見つめた。
「彩、俺に寄りかかっていいよ」
万全ではない私を気遣ってか、隣に並んで立つ創が控えめに両腕を広げている。
カーテンという遮りのなくなった月光の下、ぎこちなく口を引き結ぶ創には「やっぱり大胆だなぁ」と思う。
そんなに緊張して提案をされては、私もぎこちなくなってしまう。
「あの、……大丈夫」
「遠慮はしないで」
「そうじゃなくて、だって……」
「……これは、嫌?」
控えめに広げられていた創の両腕がみるみると下がっていく。私の答えを待たずして閉ざされてしまいそうだ。
私は慌ててその腕を掴んだ。
「い、嫌じゃない!」
「じゃあどうして?」
「だって……。だって私、お風呂とかちゃんと入れてないから……」
寝たきりの時はそれでも創にお世話になっていたが、あの時はあの時だ。気にしてる余裕なんかなかった。
それに背中をさすってもらうのと寄りかかるのでは密着度が違う。支え起こしてもらうこともあったけれど、あれだってお互いにそういう意図はなかった。
今さら感がすごい答えに、私自身が赤面してしまう。そして創は笑った。
「そんなのお互い様だよ。俺だって毎日入れるわけじゃない」
創の腕を掴んでいた手を掴み返され、もう片方の手は腰にまわされてぐっと引き寄せられた。
寄りかかってと言っていた通り、私は創に身体を預ける体勢にされた。
「彩はともかく、男の俺の方がきっと臭いよ」
「……創は臭くないよ」
創の腕の中でつぶやく。
創からは飾り気のある匂いはしない。柔軟剤や髪につけるワックス、香水など。入院患者なのだから当たり前に。
匂うとすれば、まめに手を洗っているらしくハンドソープの香り。それと創が男の人だという匂い。
それはあまり主張せず、嫌悪感もなく。私にとっては落ち着く匂いだった。
「……だったら、もう少し近づいてもいい?」
創の言葉に、私の胸がどきりと大きく鳴った。
*
「近づく……?」
すでに身体を預けているのに、これ以上どうやって?
私の疑問に創は言葉では答えてくれず、かわりに腰に回し添えられていた手がぎゅっとさらに私を引き寄せる。
背中にも腕を回され、文字通りもっと近づいた。
「そ、創っ」
「ごめん、嫌なら言って」
「嫌じゃないけど、でも……!」
嫌じゃないと言った瞬間、さらにぎゅうっと締め付けられる。背中に回された腕も、腰に回された腕も。
隙間のないほどに密着され、かろうじて創の肩に顔を出して逃げ場をつくった。自然と見上げた夜空には、小さな星がひとつ流れた。
「今日、検査ばっかりで疲れちゃって……彩に会いたくて仕方なかったんだ」
創は私に顔を埋め、大きく一息した。
「落ち着く……」とつぶやかれては、それ以上は抵抗できなかった。
私が創といることで落ち着くように、創も落ち着いてくれる。それは素直に嬉しく思う。
私もそっと、創の背中に手を伸ばした。
「私も創に会いたかったよ」
ぴくり、と創が反応した。
私に埋めていた顔を上げると、相変わらず紅く染まった頬で私を見た。
「それ、本当?」
「うん。会えて嬉しい」
「そんなに、かわいいことを言われると……」
「え?」
一度目を逸らした創は、意を決したようにまた私を見つめた。
真剣な眼差し。伝わる、これまでのものとは全然違う緊張。……覚えがある。
いつだっけ。創がこんなに真剣だったの、なんの話をした時だっけ。
いくら思い出そうとしても思考はすぐに霧散する。
ゆっくりと近づいてくる創の顔が、その瞳が。お互いに見つめる先はきっと唇で、だから伏せた目でその距離を確認して。
恥ずかしさから身をよじるけれど、私の腰には腕がしっかりと回されている。引いてしまったあごは、もうひとつの大きな手に優しく捕まった。
目線を上げれば、創も私に目線を合わせて、そして瞼が閉じられる。
触れるまであとわずかな唇に、私もそっと瞼を閉じた。
――熱く火照った頰に、そっと唇が触れた。
わ、と思う間にまた創に抱きすくめられる。
身悶えを誤魔化すようにぎゅうぎゅうと、私の頰に触れる創の耳は私よりも熱かった。
「こんなにドキドキしたら、心臓に悪い……」
創の一言に気の抜けた私は、ふふっと笑ってしまう。
「私もドキドキした」
「彩、嫌なら本当にちゃんと言ってね」
「うん。……嫌じゃないよ」
「……っ。あーもう、だめ。これ以上はだめ」
ぱっと創が腕を解放し、離れる。
真っ赤な頬。耳。きょとんと見ていると、眉根を寄せてまた創は私に抱きついた。
「もー……恥ずかしすぎて離れられない」
「私に隠れてるの?」
「そうだよ。それに、まだ離れたくない」
ぎゅうっとまた力を込められ、同じように身体をくっつけた。創から伝わる心音が大きい。
私はまた創の背中に手を回し、創の肩ごしに夜空を見上げた。
「流星群見るんじゃなかったの?」
「今は無理。顔上げられない」
「創のドキドキがすごいね」
「彩もすごいよ。伝わってくる」
「当たり前だよ。……こんなの、本当に好きになっちゃいそう」
「……」
「……」
揃う沈黙。
なのに、夜空を眺めていた私はなぜか気まずさを感じることはなくて。
「……付き合ってるうちは、いいんじゃないかな。本当に好きでも」
創のその言葉に、私の中に熱が広がった。
無意識に抑えていた気持ちが溢れ出てしまって、創と同じように恥ずかしさで離れることができない。――離れたくない。
ちかちかと瞬くひとつの星が大きく光り、その瞬間に藍色の空を駆け抜けていった。
*
あの日を境に、私と創の距離は本物の恋人同士のように縮んでいた。
一緒にいる間は手を握り合ったり、体のどこかしらをくっつけていたり。
私が病室から出られるようになれば中庭に出て、木陰で他愛のない話を繰り返して。人目がなければ抱きしめ合って。
真夏の暑さの中、滲む汗なんてどうでもよくなっていた。
けれど、あの日ほど危うい空気を感じることはない。
私の病室で二人きり、抱きしめ合っていても、見つめ合うことを私たちは避けている。気まずい意味ではなくて。――それは、自制の意味で。
創は決して一線を越えてはこない。唇には、指先すら触れてこなかった。
もどかしく思いつつ、私にとってもそれで良かった。「付き合ってるうちは」という創の言葉を丸ごと受け入れるには、大きな覚悟が必要だったから。
今のままの時間が続けばいいと思っていた。
仮初の関係でありながら、蜜月を思わせるような創とのやりとりはなんとも甘やかな時間で。
手を触れるだけ。同じ時間を共に過ごすだけ。たったそれだけで、私はこれまでにない幸福感で満たされていた。
でも、私たちは病人同士。
私は快方に向かいつつもまだ治療中で、点滴の外れた創も相変わらず入院中で。
これだけ近くにいてもお互いの病状は明かしていなくて、だから創が今どんな状態かなんて知る由がなくて。
――創の身体に現れ始めていた異変は、日常において本当に些細なことだった。
息切れから始まり、ピークを過ぎたといえど残る暑さの中、創は中庭に出ることができなくなった。
階段の上り下り、お互いの病室の行き来も途中で休憩を挟むようになり。
著しい体力の低下は、あっという間に創をベッドに張り付けてしまった。
「創、入るよ」
創の病室は大部屋で、間仕切りカーテン越しに声をかけた。
「うん」と小さな返事を聞いてから私は最低限の創のスペースにお邪魔した。
創は赤らんだ顔で額に汗を滲ませて、ベッドに横になっていた。
「熱はまだ下がらないんだね」
ベッド横のスツールに腰掛けて、私は創の熱を持つ手を握った。その手にはしばらく外れていた点滴がまた戻っており、チューブの先では薬液が規則正しく小さな滴を落としていた。
「こればっかりは、なかなか」
辛さのせいで涙目の創は、力無く私の手を握り返した。
すっかり動けるようになった私に、きっと病室に通ってくると見越した創は「発熱は風邪でも患ってる症状でもないよ」と教えてくれた。
投薬の副作用でもなくて、それはただ『精神状態』の問題だと。不安定になるとよく熱を出す、というのはたまたま居合わせた看護師さんからも聞けた事実だった。
「私がついてるよ、創。一緒にいるよ」
ここ毎日はずっとこんな調子でそばにいた。
間仕切りカーテンがあるので外を見ることもできず、差し込む日光は蛍光灯の光に負けてしまって。
大部屋だから人の気配が賑やかではあるけれど、こんなに閉鎖的では自分だけが切り離されて孤独だと錯覚してしまう。
特に、こんなに不安を抱えている今なんて。
「……ずっと一緒にいてくれる?」
「うん。時間いっぱい……」
「そうじゃないよ」
いつもなら辛さの中にも笑顔を見せてくれるのに、今日はなんだかずっと目を逸らされていた。
口調も強張っていて、というよりはわずかに震えが混じっている。逸らす瞳は、途端に涙の色を強くした。
「俺が死ぬまで、一緒にいてくれる?」
私はとっさに言葉が出なかった。それは一体、どういう意味だというの。
私たちが付き合う上での『条件』では、どちらかが退院をする時に必ず別れること。それを反故にして、遠回しだけどずっと一緒にいたいということ? それとも冗談で言ってる? ただの弱音?
けれど、創のその表情は。こぼれ落ちそうな涙を溜める瞳は……。
「ねぇ、創」
私の中に怒りが込み上げた。
「ずっと一緒にと思ってくれるなら、私はずっと一緒にいるよ。退院しても絶対に別れない。それが創の本音なら」
「彩、それは……」
「冗談なら、それはそれでいい。一緒にというのが冗談なら、私は笑って受け流すよ。でも、」
区切って息を吐き出した。
強張り震える。黙り込んでしまった創よりも、私は涙を溜め込んだ。
「死ぬっていうのは、だめだよ。冗談でもだめ。創、私怒ってるよ。そんな冗談、許せないよ」
「っ……、彩」
創は起き上がろうとして、ふらりとよろけた。
起き上がることを諦めて握ったままだった私の手に、熱のこもるおでこをくっつけた。
「ごめん、彩。ごめん……。泣かないで。俺、死なないから。泣かないで」
ぽろぽろととめどなく落ちていく。
涙の雫は私の頰を伝い、創のものは私の手に伝った。創の熱を含んだ涙。
瞬く間に私の温度に馴染んでいく。
二人で泣き合ったのはいつぶりだろう。
私たちはいつからか、お互いの涙を見ることはなくなっていたのに。
「創嫌い。そんな冗談を言う創は嫌いだよ」
「それは俺がだめ。彩、嫌わないで」
握られていた手をぐっと引かれた。その手首に口付けられ、呆気に取られているともう片方の手が私の首に回ってきた。
寝たきりとは思えない力で、創は私をさらに引き寄せた。寝ている創の上に覆いかぶさるようにして動きを止めた私は、下から押し付けられた熱い唇に思わず息を止めた。
「嫌わないで……」
わずかに離れた唇で、囁かれる。
私の手を掴む創の手も、後頭部に添えられた手も。間近で触れる吐息も、乾燥で少しかさついた唇も。――何もかもが熱い。
何よりも、涙の粒を溜めた熱っぽい創の瞳が。
「好きだ、彩。許して」
あと少しだけだから、と。
創がわずかに口を開くと、後頭部を押されて深く重なり合う。入り込んでくる熱は私の中を掻き回し、私の気持ちまでぐちゃぐちゃに蕩して。
抵抗など考える暇もなく、私は創の熱に応えていた。
「私も好き」と伝えなかったことを、のちにどれだけ後悔するかも知らずに。
その後は創の熱が上がり続け、安静のために面会を禁止された。
そして数日後、私は看護師さんから一通の手紙を受け取った。
中身は創からのもので、思い出も飾り気もなくただ淡々と綴られていた。突き放されたと言ってもいい。
『急遽退院が決まりました。約束通り、別れよう』
分かりきった嘘に、私は悲しみと怒りで手紙をくしゃくしゃにして投げ捨てた。
*
残暑が終わり、秋が深まり。
紅葉が冷たい風に揺れると、あっという間に冬がやってくる。
空は灰色で、積もる雪は暗く沈んでいた。私の心の中のように薄暗く、晴れることなく寒さが続いていく。
春に新たな命が芽吹いても、夏の鮮やかな緑が暑さを運んでも、何も感じない。
創と見ることのなかった紅葉を見上げて、一緒に過ごすことのなかった冬をまた迎えることに、涙があふれた。
退院してからとっくに一年を越え、創と別れてからようやく一年を越えて。
時間薬などというものは私には作用せず、いつまでも創との季節を追っていた。
風に舞う桜色の花片を見上げたのはいつのことだっけ。
吹かれるままに身を委ねて流れていく春の色を、たまたま目に留めて窓から眺めた。
見覚えのある桜。私の中に彼を焼き付けた桜。たった一年の経過ではなんの変化もなくて、それが嬉しくもあり寂しくもあり。
今は親戚のお見舞いで再訪したあの病棟で、私は立ち尽くしていた。
「あら、お見舞い?」
そこに声をかけてきたのは入院中にお世話になった看護師だった。
創の発熱が精神面によるものだと教えてくれた人で、創からの手紙を預かってくれたのもこの人だ。
「はい。お久しぶりです」
「病室なら以前あなたが使ってた個室よ。場所、忘れちゃった?」
「? いえ、お見舞いはもう済ませたんですが……」
私が首を傾げて答えると、看護師も頰に手を添えて首を傾げた。「あら?」という疑問のあとには「私、今ちょうど点滴を換えてきたところなんだけど……」と続いて。
「創君のお見舞いに来たんじゃないの?」
と。
聞きたいことも言いたいことも山ほどある。
もし会えたら絶対にこれを、と今まで何度も考えてきた。何度も考えて、いくつも言いたいことが増えた。聞きたいことも増えた。
たくさんの言葉が私の中にある。創にもしまた会えたらと、諦めと希望が半分ずつの中に溜め込んできた。
――けれど、いざ顔を見てしまうとそんなものはどうでもよくなってしまうらしい。創の話を看護師から聞いてしまったこともそれを後押しした。
使い馴染んだ病室。
足を踏み入れると苦しかった思い出よりも懐かしさが込み上げた。私が使っていたけれど、それよりも二人でいた時間の記憶の方が強い。
ベッドの上で目を瞑る創は、最後に会った時より痩せて見えた。点滴に繋がれた私よりも大きな手。少し伸びた髪。
熱っぽくだるそうなのは、また熱を出していると看護師が教えてくれた。
一年の経過で、創の見た目の変化はきっと微々たるものだ。「変わったね」と声をかけるには些細なこと。
掛けられた布団の下、創の身体の変化に比べてしまえば。
気配を感じたのか、創はゆっくりまぶたを開いた。だんだんと大きく、そしてまんまるに見開いて、私を見つけた。
「…………彩?」
創は呆然としていた。
熱のせいもあるだろうし、いきなりやって来たのだから当たり前だ。創にとっても会えるとは思っていなかったかもしれない。
会うつもりもなかったかもしれない。
勢いでやってきたものの、私は返す言葉がなくその場に固まってしまった。
見つめてくる瞳に目線を返すのが精一杯だった。
すると、創の瞳から驚きが消えていく。
点滴の繋がった腕でその顔を隠し、諦め口調でつぶやいた。
「いや、彩が来るわけないか……」
夢かな、なんておかしなことまで言って。
私がどんな気持ちで来たかも知らず、そんなことを言われては少しムッとする。
ベッドに近づき、気まずさを感じながら私は創の顔に乗せられた手に触れた。
「……夢なわけないでしょ」
「…………そっか」
創は私の手を捕まえると、やわやわと確かめるように触り、そしてぎゅっと握った。
「彩だ……」
私を見上げた創は熱のせいで頰を染めていて、繋がった手からはだるくて仕方ないだろうほどの熱が伝わってきた。きっと、しゃべるのも億劫なくらい。
力無い創の声に、私はとうとう限界を迎えた。
「創のばか……っ」
「ごめん。……俺のこと、聞いた?」
「聞いたよ。退院じゃなくて転院したんでしょ。手術して……人工心臓を入れたって」
「急だったのは本当なんだ。結構限界で、補助の人工心臓を埋め込んだ。今も俺の身体に機械が巻きついてる」
「なんで……、」
黙ってたの、とは聞けなかった。
あの時の私たちはその条件の下で恋人をしていたから。
肝心な部分には踏み込めず、ただ歯痒く黙り込む。閉じた唇の上を涙が滑っていった。
「……俺、こんなんだからさ」
黙った私を見て、創は握った私の手を自身のまぶたの上に持っていった。
触れる部分がすべて熱く、私のひんやりとした手に創は心地よさそうに目を閉じた。
「たぶん、彩がいなかったらとっくに死んでたと思う。彩がいるから、今も生きていられる」
「どういうこと……?」
「……俺にとって、彩の支えになれることが一番の活力だった」
そっと手を持ち上げられる。
わずかな隙間から創の瞳が覗いた。私の視線と絡み合うと、違う意味の熱っぽさを含んだ。
「彩が泣くたびに、俺は強くなれたんだ」
ふ、と照れ隠しの微笑みを見せられて。
「別れなきゃと思えば思うほど、彩が大事になっていった。未来があるかもわからない俺に縛りつけちゃだめだってわかってるのに」
だから条件をつけたのに、と。
「でも、いざ終わりにすると……それは俺がだめすぎて。今も熱なんか出してて」
「その熱、私のせい……?」
「……彩がいないとだめなんだ。そばにいてくれないと」
ただでさえ熱いのに、創に触れた部分がさらに熱を持つ。私の心を溶かしていく。
まるで、春の陽を受けた残り雪が人知れず小さくなっていくように。
「勝手でごめん。彩、俺の人生に君を巻き込ませて」
芽吹いていた気持ちが光を得て、みるみるうちに花を咲かせて大きくなる。
鮮やかな彩りが私の世界に広がり、彼との未来を創り出す。
「俺の隣にいてくれる? ――愛してるんだ」
窓の外で、桜色の花片が舞い上がった。
*
─創視点─
「ねぇ、どうして私を選んだの?」
そんなことを尋ねられたのは、彩が何度目かのお見舞いに来てくれた時だ。
ようやく熱が下がり体のだるさもなくなり、彩と以前の入院中のことを思い返している最中だった。
「選ぶって……」
「他にも良さげな人がいたんじゃないの?」
彩の言い分に、俺は困って笑う。
「その言い方だと、まるで俺が誰でもよかったみたいになるね」
「違うの?」
「違うよ。俺、そんなに軽く見える?」
彩は「たまに……」と小さく答えた。
俺はさらに困ってしまう。経験が少ないのはともかく、すぐに頰や耳が熱くなってしまうのなんて彩が一番わかっているはずだろうに。
そんな俺が手当たり次第に女性に軽く声など掛けられるわけがない。
「創は、大胆だから」
続けられた言葉に、俺は一瞬間を置いて吹き出した。
「彩にだけだよ」
「本当に?」
「どうして疑うの」
「だって、あんなに顔を赤くしながらもぐいぐいくるから……ちょっと、慣れてるのかなって」
むぅ……と、彩の眉間に皺が寄った。俺が笑ってるのが気に食わないらしい。
「誰でもよかった」という答えでも満足されそうで困ると思っていたけれど、そこにはちゃんと嫉妬が含まれているようだ。
しがらみなく恋人同士になれた今、好意的な答えを求められているとわかると途端に目の前の彼女が愛おしくなる。
唇をツンと尖らせた彩の手を取ると、手のひら同士を合わせて指を絡ませた。
「彩、俺のこと好き?」
「きゅ、急になに?」
「答えて。好き?」
「……好き」
絡ませた手を引く。
きっとまた顔は赤いし、繋がった手は汗ばんでいるけれど、俺にとって照れや羞恥はどうでもいいことだ。
腕の中に収めた彩のぬくもりを確かめながら、俺はひそかに口にした。
「――――たぶん、一目惚れだったんだ」
「え?」と顔を上げた彩のおでこにキスを落とす。彩は頰を色付かせてまた唇を尖らせた。
そのツンと突き出た可愛らしい唇を見つめていると「ほら、そういうところ」と言われ、彩の手が俺の口元を覆ってしまった。
「創の心臓、心配になるくらいドキドキしてる。なのにその大胆さはどこからくるの?」
「そんなに明け透けに言われるとさすがに照れるな。手どけてよ」
「ねぇもう、はぐらかさないで」
とんとん、と彩のもう片方の手が俺の腕を叩いて合図する。これは離してという意味。
補助人工心臓を埋め込んだ俺の身体はなかなか痛々しい見た目になっているので、彩は俺に抱きしめられた時は大人しくされるがままになってくれるのだ。いつもなら背中に回された手で合図を出される。
身じろぎや胸を押してしまうと俺の身体に響くのでは、とずいぶんと気遣ってくれていた。
俺はその気遣いをありがたく思い、今は遠慮なく利用させてもらうことにした。
「聞きたいなら、このまま聞いて」
「……キスしてこようとしないで」
「我慢するよ。それより面と向かって話すのはさすがに恥ずかしすぎる。お願いだからぎゅってさせて」
彩は渋々といった様子で俺の口元から手をどけて、そのまま静かに俺の腕の中に収まり直した。
不意打ちでキスしようかとも思ったけれど、そろそろ引き伸ばすのも限界そうだと俺は息をついた。
どこから話そうか少し考え、やがて口を開く。
「……俺、自分の病気がわかってからずっと悲観してたんだ。場所が場所だから治る見込みもないだろうし、ドナーとか、今は入れたけど補助人工心臓とか、全部拒否してて。どうせ苦しいのが続くだけだろって思って。……手術も怖くて」
それは彩に出会う前のこと。
成人してすぐに患い、最初は入院に至るまでもなく生活していた。けれどだんだんと身体の限界が見えてくるようになってしまった。
自宅で投薬するだけでは症状を抑えることができなくなり、ドナーを探しつつ入院生活を送ることになった。
「彩も知ってる通り、毎日泣いて過ごしてた。前の俺がいた大部屋じゃ迷惑になるから、箱ティッシュ持って人のいない所を見つけてはあちこちで」
……そんな時に彩を見つけた。
桜の花びらが風に舞う中、見上げた先は桜の木のようで目線はどこか違うところを見据えていて――自分が戻るであろう未来を憂いて、彩は悔し涙を流していた。
「強いなって思ったんだ。未来を見ようとせず落ち込んでる俺と違って、彩の涙は生きる希望に満ちていて。だから、惹かれた」
ティッシュを差し出して、そばにいる理由をこじ付けた。強く生きようと足掻く彩のそばにいたかった。
「彩のそばにいると実感できたんだ。泣いていれば背中を撫でてくれて、それが心地よかった。……生きてるって、思えた」
だから考えた。
彩のそばにいられる方法。俺が生きていると思える方法。その方法は少しずるいものだったけど、どうせ死ぬかもしれないのなら。
――だったらせめて、彩の支えになりたいと。
「彩のためと言いながら、俺のためでもあった。誰でもよくなんかないよ。彩だから、俺はそばにいたいと思ったんだ」
納得してくれた? と腕の力を緩めると、彩は瞳に涙を溜め込んで俺を見上げた。
「じゃあ、ずっと好きでいてくれたの?」
「最初から惹かれていた。彩は俺の生きる希望なんだよ」
溢れそうな涙を拭ってやり、その目元に口付けた。彩はくすぐったそうに目を細め、ツンと尖っていた唇はふにゃりと形を変えた。
たまらず、ふぅと息を吐く。
「ね、おあずけはもういい?」
答えを待たずに彩のあごを持ち上げると、俺は包み込むように無防備な唇を覆った。
柔らかな感触と伝わる熱に、俺の体温は一気に上がっていく。
名残惜しく唇を離せば、微かな余韻をお互いの瞳の中に残して。
「いろいろと、我慢の限界なんだよね」
つい、零してしまった。
疑似恋愛を持ちかけたのは俺で、彩が頼りやすくなるよう丸め込んだのも俺だ。
最後には必ず別れると決めて気持ちに一線を引いた付き合いだったけれど、だんだん俺に甘え出す彩には素直な気持ちを出してしまう時があった。
それも嫌がらず受け入れてくれるのだから、俺はだんだん自制との戦いを強いられていた。
きっと彩の好きは俺の好きとは違う。
わかっているつもりだけど、錯覚してしまう。疑似恋愛を楽しむ彩は俺にすべてを許してくれていた。
手を繋いでも、頭を撫でても、抱きしめても、頰にキスをしても。彩は嫌がることなく可愛らしい反応を見せてくれた。
それがどんなに俺の心を鷲掴んでいたか。
「本当に好きになっちゃいそう」
なんて言われた時には、俺はもう夜空を見上げることなんてできなかった。
……本当に好きになってしまえと、流れる星たちにいくつも願いを掛けてしまいそうだったから。
そしてずるい俺は、「付き合ってるうちは」と淡い期待を秘めて答えていた。
彩との時間が幸せだった。
隣にいるだけで生きてる実感があって、触れれば心はもっと彩を求めて。それを許してくれる関係が、何よりも愛しいものになっていた。
手放したくないと考えるようになっていた。
だから、治療が順調で退院の目処がたつ彼女に焦りを覚え始めた。
その頃から体調を崩し出したのは情けなくも俺の内面的な問題で、熱が出るのも時間の問題だと思っていて。けれど、あんな急展開になるなんて思ってもみなくて。
ただ、タイミングが悪かった。
一気に俺の心臓は弱り、俺の意志に関係なく補助人工心臓の植え込みのための転院が決められた。
膨らみきってしまった彩への気持ちと、突然目の前にやってきた別れに、俺はとうとう耐えられなくなってしまった。気づけば想いをすべてぶつけていた。
それなのに彩は、それすらも許してくれた。
このままじゃだめだと思った。
俺の中に残る理性が、彩の気持ちを騙すなと言った。疑似恋愛は所詮、疑似恋愛。
今の俺たちは依存に近い状態だ、と。
だから会わずに、何も伝えずに転院した。
彩は怒っただろう。泣かせたかもしれない。
けれど彼女はすぐに退院して、目まぐるしい日常の中に戻っていく人だ。俺のことはすぐに忘れて、いつか遠くない日に幸せを見つけるだろう。
それが、俺の決めた役目だったから、それでいいと諦めた。
光を失った俺の生活は、手術の成功を経て続いていった。
術後に高熱を出し少し引きずったものの、経過は良好。医師の許しもあり、俺はわがままを言ってまた転院した。
どうせ入院が続くなら、彩と二人でよく過ごしていた所がよかった。それが彩の使っていた個室だった。
個室からは中庭が見下ろせる。彩と散歩に出ては他愛もない話をしたことを思い出した。見上げた空は近づいた夜を思い出し、むず痒く、けれど幸せに満ちた。
俺の中に点々と光の花が咲くように、思い出のひとつひとつが色付いていく気がした。
それだけでも幸せだ。幸せだと、思いこむようにしていた。
だけど、春が近づくと熱を出した。
柔らかな日差しが窓から差し込み、その暖かさで雪が溶けていくと知った。窓から見下ろす桜の木々はいくつもの蕾をつけて、今か今かと花開くのを待ちわびているように感じて。
――出会いを思い出してしまった。
もう彩と会うことはないのに桜は蕾を開き始め、春を祝福して花びらを風に乗せる。
可憐な桜色の中に泣いている彩の姿を錯覚して、無自覚に手を伸ばすほど欲してしまって。
隣にいてほしくて、隣にいたくて、熱にうなされながら彩の姿を探していた。
そんな時に彩は現れた。
まさか、と思いつつ声を掛けると反応がなくて、とうとう幻覚を見たと思った。
でも掴んだ手は確かに彩のもので、忘れるはずもなく彩の柔らかさがあった。求めていたものが手の中にあった。
そこからはもう、思うがままに気持ちを伝えた。
彩の迷惑なんて考えてない。俺が必要だからと、もう手放すものかと捕まえにいった。
熱でだるいとか、恥ずかしいとか、どうでもいい。いつ死ぬかもわからない俺にとって、伝えたい時に伝えられることが、一番の幸福だと気づいた。
頷いてくれた彩に、俺にできる精一杯の幸福を与えようと誓った。
「我慢?」と蕩けた瞳のまま呟く彩に、俺はくすりと笑う。
彩はこれまでの俺の葛藤や諦めを知らないし、それは知らなくてもいいことだ。ただただ俺が向ける好意を受け取ってくれるだけでいい。
もう一度軽く唇を重ねて、ぎゅっと抱き寄せた。
「幸せ。好きだよ、彩」
「私も好き……」
背中に手が回され、優しく抱きしめ返された。
身体がこんな状態じゃなかったら、俺の理性はとっくにどこかへ飛んでいる。
我慢の限界なんだよな、と改めて思いつつ、どうしようもない胸の内を吐露する。
「彩、好き」
「うん。私も」
「好きだよ。大好き」
「私も創が大好きだよ」
「大好きだ、彩」
「ふふ、どうしたの?」
笑い出してしまった彩は、俺の背中をトントンと叩く。離して、と。
だけど、俺はまたそれに応えず力を込めて抱きしめた。
「大好きだ……――彩。愛してる」
その告白は二度目。
前の時は言葉を返してもらえなかったけれど、今度は少しの間を置いて小さく小さく返ってきた。
「私も。愛してるよ、創」
湧き上がる熱と幸福感に、彩を抱きしめたままベッドに倒れ込んだ。
焦って俺から離れようとする彩は心配の声をかけてきたけれど、俺にとってはどうでもいい。彩を離すわけがなかった。
嬉しくて嬉しくてどうにかなりそうで、けれど涙が溢れてきて。
つられて涙目になる彩の頰をそっと手のひらで包むと、こつんとおでこをくっつけた。
「一時退院の許可もらうから、指輪買いに行こう」
「創、それは気が早いよ」
まずはのんびりデートしようと提案されて。
涙を拭うことなく二人で笑い合って、引き寄せられるようにまた唇を重ねた。
始まりの春。季節も恋も、人の命も。
花びらは風に流され、出会うものすべてに祝福を与えていく。芽吹いた俺たちの恋にも。
新たに始まった俺の人生にも。
実は俺と同じくらいに泣き虫な、愛しい君と共に。
この祝福された将来を、手を繋いで歩いていこう。



