「邪魔、そこ俺の席なんだけど」
うららかな春、ピカピカの高校一年生。新しい学び舎に期待を膨らませて教室に入ったらこれだ。
後ろからぬっと現れた長身の男を振り向きざま見て、俺――駿河直は頬を引きつらせた。
「相変わらず、とろい奴」
きっと俺が相手だからそういう物言いをするのだろう。
俺を苛立たせることに余念のない波城昂輝は、ずりずりと椅子を引くと、長い足を折りたたんで席に座った。
「お前の席はこっちだろ」
怠そうに隣の机を叩いて昂輝が言う。
頬杖をつき、心底お前の隣なんて嫌なんだけど、と言わんばかりの表情に、初めて出会った頃の怒りが鮮やかによみがえった。
昂輝と初めて顔を合わせたのは小学校の頃、近所の公園で遊具を取り合ったのがきっかけだ。
正確に言えば、俺は遊具争奪戦に加わることができず、すこし離れたところで見ていた。待っていれば、いずれは自分の番が来ると思っていたからだ。
いま思えば、振り子のように動く黄色いブランコの何が魅力的だったのかわからないけれど、当時の俺はよくブランコに乗って遊んでいた。遊具さえあれば、たとえひとりぼっちでも楽しめるからだ。
顔も名前も知らない子どもが遊び終え、やっと自分の番が回ってきたというときに、俺は後ろからどんっと背中を押された。きっと、故意に押されたわけではないと思う。ただ純粋にブランコの傍に立つ俺を横切ろうとしていただけだろうから。
でも結果的に俺は地面に倒れた。その、ぶつかってきた相手が昂輝だった。
「じゃま、どいて」
目の前に立つ昂輝は、子どもながらに圧が強かった。下から見下ろしていたのもある。
子どもにしては背がすらりと高く、美しい顔をしていた。その美しさゆえに、瞬間的に圧があると思ったのだろう。
その美しい顔は成長しても変わらなかった。だけど、いくら顔がよくても、性格がどうしようもなければ意味がないのである。
昂輝はもう一度、「じゃま」と言うと、俺を捨ておいてブランコに乗ろうとした。
「待てよ。そこ、おれのなんだけど」
「なに? ブランコに名前なんて書いてねーじゃん」
「おれの番がくるまで待ってたんだよ! よこどりすんな!」
「はぁ!? ただつっ立ってただけじゃん! もっとわかりやすいとこにいろよ」
「んだと……!」
咄嗟に昂輝の胸倉を掴み、ぺちんと頭を叩く。
俺は内気な性格でありながらも、負けん気だけは人一倍強かった。内気で地味で引っ込み思案であっても、心の裡には言いたいことが山ほどあるタイプだし、少なくとも自分に非がないのに責め立てられることや、不利益になるようなことは黙っていられなかった。
昂輝も昂輝で売られた喧嘩は買うタイプだったようで、その日は互いの母親が止めに入るまで、ぼこすかと殴り合いの喧嘩をした。
「すみません、うちの子が……」
「いえいえ、こちらこそすみません……。ほら直、昂輝くんに謝って」
「昂輝も。直くんに謝りなさい」
「「……」」
お互い母親の陰に隠れてそっぽを向いていたが、母からの圧に負けて、そのときはとりあえず謝った。
「それじゃあ、うちはこっちですから」
「あら、奇遇ですね。うちもですよ」
子どもたちは微妙な空気だというのに、母親たちは案外気が合ったのか、帰り道が一緒だったこともあり、たった五分かそこらで打ち解けてしまった。
おまけに互いの家が道路を挟んで隣同士だったこともあり、子どもたちは仲が悪いのに、母親だけは温かな交流が生まれるというバグが起きた。
そうして昂輝も俺も同じ小学校、中学校と上がっていった。
幸いにして、一度も同じクラスにはならなかったし、部活も違ったため、登下校の時間が被ることはなかった。
それなのに、だ――。
「早く座れよ。ずっと睨んだまま立たれてると怖いんだけど」
「ぐぅ……!」
残念ながら、進学した高校で同じクラスになってしまった。
俺たちが住む地域は選べるほど高校が潤沢にあるわけではない。都会と田舎の間を取ったような場所で、志高い生徒たちは一時間以上かけて都内の優秀な学校に通っている子も多い。
だけど俺は、地元では一番の進学校を選んだ。選んだといっても、それなりに勉強をしていれば問題なく入れる高校だ。文武両道を謳っている高校で、カリキュラムも充実している。
俺としては身の丈にあった選択だ。でも、昂輝からしてみれば少し物足りないだろう。
アイツの頭がいいことは知っている。親経由で逐一報告されるからだ。それに同じ中学に通っていれば、嫌でも頭のレベルがわかる。
だから、てっきり県外の高校へ行くのだろうと思っていた。入学前に渡されるクラス分けのリストをもらうまでは。
「最悪……」
ハァ、と溜め息をついて席に座る。昂輝の耳にもばっちりと入っていたようで、一瞬ぴくりと体が跳ねたけれど、中学からのクラスメイトに話しかけられ、意識がそっちに向いた。
「おはよ、昂輝! 同じクラスになれて嬉しいわ!」
「ん、おはよう」
さっきまでの態度とは打って変わって、すまし顔で友人に挨拶をしている。
昂輝はたいそうモテる。出会った頃から顔のつくりがいい奴だとは思っていたけれど、その良さは年齢を重ねてさらに磨きがかかった。
イケメンで、勉強もスポーツもできて、クールでかっこいいというのが、周りからの評価である。女子からももちろんモテるが、同性からの信頼も厚い。
そりゃあ、見目も良く、なんでもできる奴が友だちだったら自慢できるもんなぁ、とは思う。
要は、波城昂輝という男はスクールカースト上位にして、その地位を守り続ける猫かぶり野郎だった。
「あ、昂輝くんじゃん。おはよう」
「おはよう」
「やった! 高校でも同じクラスになれて嬉しい!」
「俺も。また高校でもよろしく」
俺のところには誰も挨拶に来ないのに、昂輝のところには中学からの知り合いがどんどんやってくる。
あいにく俺は中学からの友人とクラスが離れてしまった。だから、このクラスではひとりぼっちだ。
きっと、友だちを作るのにも難航するだろう。
小学校も中学校も内気な性格ゆえに、決してたくさんの友だちができたわけではなかった。
おまけに、自分は眼鏡をかけたガリ勉スタイルの見た目をしている。小学校に入って少ししてから一気に視力が下がってしまい、眼鏡生活になってしまったのだ。
一方の昂輝は、アイドル顔負けの涼し気な目元にスッと通った鼻筋、口元のほくろも相まって大人びた印象がある。
みんな昂輝の方に寄っていくのは当然で、俺に寄って来るクラスメイトはいなかった。
「ほら、チャイム鳴るから早く席につけー」
がやがやと五月蠅いクラスに担任らしい男の先生が出席簿を持って入って来る。
今日はこのあとの入学式とオリエンテーションが終わればメインの行事は終了だ。そのあと昼ご飯をとり、部活の説明会がある。
――早く、席替えしてくんないかなー……。
担任の話を聞きながら、隣から感じるやけにうっとうしい圧を受け流す。
俺の高校生活は、初日にして最悪な出会いから始まってしまった。
◇
昼休み、俺は早速教室を抜け出すと、ふらふらと校舎を徘徊していた。
無事に入学式もオリエンテーションも終わり、いまは昼食の時間だ。昼休みは一時間与えられており、教室で食べても、校舎内にある空き教室やベンチなどで食べてもいいことになっている。
空き教室から楽しげな声が聞こえて来たり、体育館からボールを弾くような音がするから、学校の外にさえでなければ自由に過ごしていいのだろう。
俺はチャイムが鳴ったのと同時に弁当箱を持つと、教室の外に出ていた。
だって、友だちがひとりもいないのだ。誰にも誘われないままぽつねんとひとりでご飯を食べるのは寂しいし、晒し者になってしまう。
別クラスにいる友人を誘うことも考えたが、きっと新たなクラスで友だちを見つけていることだろう。
入学式のとき、体育館へ移動する道すがら、友だちがクラスメイトと楽しそうに話しているのを見かけた。向こうも俺に気付いて手を振ってはくれたけれど、さすがに別の教室から弁当を持ってやってくることまでは想定していないはずだろう。
俺は移動中に見つけた校舎の裏手にある外のベンチまで移動すると、そこに腰を下ろした。
「さむっ……」
白い木製のベンチは、春とはいえ、まだ温まりきらない空気にさらされて冷えている。
日当たりもよく、気持ちのいい場所なのに在校生がいないのは、寒いとわかっているからなのだろう。
間を離れて何個かベンチがあるのにもかかわらず誰もいないのは、寒さのせいらしかった。
「早く食べて戻ろ……」
教室でぼっち飯をするのは辛いが、本を開く程度であれば、そこまで居心地を悪く感じることはない。
弁当箱を開け、心なしかいつもより俺の好きなおかずが多めに詰まっているそこに箸をつけたときだった。ぬっと大きな影が弁当箱を覆った。
「隣、詰めろ」
「は……?」
整った顔をこれでもかと歪めながら昂輝が顎でしゃくる。その圧に負けて思わず腰を浮かせてしまったけれど、冷静に考えて意味が分からなかった。
――なんで昂輝がこんなところに……?
人気者なのだから、当然昼を一緒に食べようと他の友人たちから誘われているはずである。もっといえば、わざわざこんな寒いところを選ぶ理由もわからなかった。
「なんで人気者が俺のところに……?」
「うっせ。人に群がられるの、嫌なんだよ。昼ぐらいはゆっくり食いたいだろ」
教室でのおすまし態度はどこへやら、昂輝が長い足を行儀悪く組んでベンチの端に座る。
彼は手にぶら下げていたビニール袋の中から、サンドイッチと菓子パンを取り出した。バンッと空気が破裂する音がして、ビニールの摩擦音がやけに耳障りに聞こえる。
大きなメロンパンをこれまた大きな口を開けて食べる姿は、女子たちが懸想するようなクールな姿ではなかった。
「いやいや。だからって、俺のとこにくる?」
「ぼっち飯してるお前が可哀想だったから、しかたなく」
「は? 余計なお世話ですー。他にもベンチあんだから、他のところで食べなよ」
「だったらお前が動け」
「はぁ!?」
水と油とはこのことだ。絶対に混じり合うことがない。
俺の中で、静かに戦いのゴングが鳴った。
「マジその横柄な態度と性格、みんなにバラしてやろうかな。クールで人気者♡みんなにモテモテ♡の昂輝様が実は意地悪な奴だって知ったら、みんな引いちゃうだろうし」
「よく言う。お前だって地味で大人しいです~みないなナリしておきながら、喧嘩っ早いくせに」
しばし無言でにらみ合って、ふんと鼻を鳴らす。
ずっと喧嘩腰なのに、昂輝はベンチから立ち上がろうとはしなかった。苛立たし気に足を組み替えながらも黙々と買ってきたパンを食べている。
きっと、購買で売っているパンを食べているのだろう。
ベンチまで来る途中、ふらりと一階のエントランス前を通ったら、昼休みのときだけにやってきているらしいパン屋の前に人だかりができていた。パンの他にはお弁当も売っていて、かなり充実したラインナップになっていることを俺は横目で見ていた。
「視線がうざい」
「別に見てない」
昂輝のことは見ていない。パンを見ていただけである。
だけど、昂輝はうざったそうに、しっしと顔の周りを飛び回る羽虫を追い払うように俺の視線を遮った。そういうところがいちいち癇に障る男である。
どうせ幼馴染という存在ができるのならば、隣にいるいけ好かない男ではなくて、もっと気の合う友人であってほしかった。そしたら毎日一緒に遊んだり、宿題をしたり、ときには男同士でしか楽しめないような雑誌を見たりなどして盛り上がっただろうに。
ぼーっと玉子焼きを口に運んでいたら、距離を見誤ったのか、ぽろりと落ちた。
「どんくさ」
「……マジで早く教室戻ったら?」
再びゴングが鳴り、バチバチと視線で火花を散らしたところで予鈴が鳴る。
俺は急いで残りのご飯を口に放り込むと、弁当箱を乱暴に重ねて保冷バッグの中に突っ込んだ。
「やば。次のオリエンテーション、体育館じゃん」
「すぐそこだから急ぐことねーだろ」
「俺は弁当箱を片付けたいの」
「ふーん」
最後の一口を優雅に放り込み、昂輝がベンチから立ち上がる。俺も立ち上がると、体育館へ行こうとする生徒とは逆走する形で教室を目指した。
――さすがに、ついてはこないよな……。
駆け足で教室に戻り、また来た道を引き返して体育館へ向かう。
気付けば、昂輝はいなかった。それもそのはずで、アイツが俺のような地味なタイプとつるむのは外聞がよろしくない。きっと移動中に友だちに捕まって、そのまま体育館にでも行ったのだろう。
体育館に行くと、案の定、昂輝は友人たちに囲まれていた。
――マジで、なーんで俺のところまで来たんだろう……。
ぼっち飯が可哀想だからと言っていたけれど、余計なお世話だ。苛立ちと言いようのないむず痒さを覚えながら列に向かう。
出席番号は名簿順になるため、必然的に俺は昂輝の前だ。
まったくもって興味もなければ、話したこともありません、孫座すら知りませんといった顔で昂輝の横を素通りして列に並ぶ。
その日は悶々としながら部活動の説明を受け、ひとりで帰路についた。
◇
入学式が終わった次の日。
本格的に授業が始まり、俺はあくびをかみ殺しながらやっとの思いで昨日のベンチに座っていた。
中学の頃より授業時間が伸びたから、なかなか体も慣れなければ集中力も続かない。一時間目や二時間目は眠く、四時間目はお腹が空いてしかたがなかった。
特にお腹が鳴ることだけは避けたくて、終始お腹に力を入れていたから気分があまりよくない。
体を投げ出すように弾みをつけて木製のベンチに座ったら、みしっと嫌な音が鳴った。
「今日はあったかいなぁ……」
昨日よりも少しだけ気温が高く、風も強くため、穏やかだ。布団の中にいるような温かな膜に包まれているような心地よさがある。
今はまだいいけれど、そのうちこのベンチも争奪戦になってくるのだろう。そうなったとき、どこで食べようかと考えながら弁当箱の蓋を開けたら、また昨日と同じように影が差した。
「……」
もう何も言う気も起きなければ、視線を寄こすことすら無意味に思えて、黙っておかずを口に放り込む。
今日の昂輝はお弁当を家から持ってきたらしく、俺の弁当箱より一回り大きなものを広げていた。
「……」
「…………」
重苦しい緊張感が漂う。
ベンチの前には綺麗に剪定された花や木が植えられていて、そよ風が吹くと細い枝がしなる。葉が擦れ合う音はとても心地がいいはずなのに、隣に昂輝がいるせいでイマイチ気が重かった。俺たちだけうららかな春から隔離されて、薄暗い部屋に突っ込まれたような心地がする。
だけど、口を開けばさらに空気が悪くなることもわかっている。俺からは話しかけないでおこうときめた直後、昂輝から「なぁ」と声をかけられた。
「部活、なに入るか決めた?」
「……いや、まだだけど」
部活紹介があったのは昨日の話だ。さすがにまだどの部活に入るかは決めていない。
俺は中学の頃、バレー部に所属していた。一応、真面目に練習していたし朝練まであったけれど、さほど強いわけでもなかったから市の大会ですらパッとしない成績だった。
おまけにそこそこ人気の部活動だったため、部員も多く、すぐにコートが手狭になった。そうした経緯もあって、俺は早々に選手ではなくマネージャーのようなポジションになった。
そもそもの話、そこまで運動が得意というわけでもないのだ。お遊びに毛が生えた程度の実力だったこともあり、また裏方の仕事が存外気に入っていたこともあり、それで満足もしていた。
ちなみに、いまの高校もバレー部はあまり華やかな成績を修めていない。中学と同じく市の大会止まりだ。
一方で、昂輝は中学の頃からバスケをしている。バスケ部はバレー部とは対照的に強かった。
中学で何度も県大会へ行っているし、全国にも行けた年があった。高校のバスケ部もかなり強いらしく、昂輝が所属するには申し分ないだろう。
だから俺の口から昂輝はなんの部活に入るのか? などと聞くまでもない。そのため、不自然に会話が途切れた。
「最初は、必ずどこかに所属しないといけないらしい」
「……みたいだね。まぁ、俺は適当にどっか入って、合わなければやめるよ。最初に入りさえすれば、抜けるのは自由っぽいし」
「それなら……。やっぱりいい」
何かを言いかけてやめる昂輝に俺は首を傾げる。珍しく言い淀む彼に、砂を噛んでいるような気持ち悪さを感じた。
それから、相変わらず俺たちの間にはぽつぽつとした会話しかない。
口を開いても、選択授業をどうするか、委員会はどうするか、といった学校生活に関する内容ばかりだ。友人同士であれば、もっと面白い漫画やゲームの話だとか、それこそあの子が可愛いといった話でもするのかもしれないが、俺たちの間に共通の話題はない。
それでも、暇つぶしにはなった。いけ好かない相手でも誰かが隣にいるというのは悪くないのかもしれない。
昨日は驚きの方が大きかったけれど、二度目とあって、会話をしているうちに昂輝のペースにも慣れてきた。
「じゃあ、俺いくから」
「おう」
先にご飯を食べ終え、弁当箱を片付ける。
昂輝も食べ終わってはいたものの、一緒にベンチから立ち上がることはしなかった。
――まぁ、俺と一緒に教室に戻るのは嫌か。
昂輝はいわゆる一軍男子だ。スクールカーストのトップである。そんな男が幼馴染(仮)とはいえ、俺と並んで歩くのは嫌なのだろう。
まぁ、俺だって昂輝と一緒に歩きたいかと言われたら首を横に振る。その程度には、お互いにあまりいい印象を抱いていなかった。……なのだけれど。
「……ほんと、飽きないね。波城も」
いくら昼だけはゆっくり食べたい、囲まれたくないと言ったって、俺を止まり木にするのはどうなんだろうか。他に心を休ませるところはもっとあるはずなのに。
昂輝は入学式以降、毎日昼になると俺のところへやって来ては隣に座った。
「昂輝、って呼べ」
「別にそういう仲でもないじゃん」
「苗字で呼ばれ慣れてない」
「あー、みんなから昂輝、昂輝、って呼ばれてるもんねぇ」
人気者は本人の意思に関わらず、周りが勝手に距離を縮めてくる。人気者と友だちなのだというアピールがしたいのだろう。
俺なんて、まだ昂輝以外のクラスメイトと話せてすらいないのに。駿河さん、と呼ばれたのは授業を受け持つ教師からだけだった。
「俺も直って呼ぶから」
「は……? なにか変な物でも食べた?」
驚きすぎて箸を落としかける。
ここでやめろと言ってもコイツのことだから直すことはないだろうなぁ、と、浅い付き合いでありながらもなんとなくそう思ってしまった俺はすぐに言葉を引っ込めた。
数年前、取っ組み合いの喧嘩をしたほどなのだ。互いにこうと思ったら譲れないところがあった。
「……まぁ、好きにしたら」
「ん」
別に名前を呼ばれても何かがすり減るわけじゃない。違和感はあるけれど、拒絶するほどのことでもなかった。
「なぁ、直は結局、部活どうすんだ?」
「またその話?」
昂輝に部活をどうするのかと尋ねられてから二週間が経っている。
そろそろ四月も終わりだ。五月に入るまでには入部希望届を出すように言われているから、決断までにそう時間もかけていられない。
そのことを思い出して、途端に気持ちが重くなった。
「まだ決めかねてる……」
運動はする気がないし、文化部系も心惹かれる部活がなかった。
最低でも一か月はどこかに籍を置くように言われているものの、このままのらりくらりとかわせないかと考えている。
一方で、昂輝は既にバスケ部に身を置いていることを知っていた。隣の席に座っているから、嫌でも耳に入ってきてしまうのだ。
近々、練習試合もあるらしく、女子たちが応援に行くと盛り上がっていた。
「だったら、バスケ部のマネージャーになれよ」
「バスケ……? しかもマネージャー? なんで俺が」
「元々バレー部だっただろうが。スポーツはやってたんだし、選手目線で練習メニューとか組めんだろ」
「やだよ。てか、よく俺がバレー部だって知ってたね」
「視界の隅でちょこまか動かれたら嫌でも気付くだろ。まぁ、試合に出れなくてマネっぽいことしてたみたいだけど」
「うるさいな。そんなへっぽこな俺じゃあ、なおさらマネなんて無理でしょ。てか、そういうのは普通、女子を入れるもんじゃないの? 男バスのマネージャーなんて、みんなやりたがりそうだけど」
「あー……」
昂輝が苦い顔をして空を仰ぐ。つられて視線を動かしたら、大きな雲がゆっくりと流れていた。
「風紀が乱れるってんで、顧問が入れないようにしてんだよ」
「あー……」
今度は俺があーっと呻る番だ。
なんとなく言わんとしていることはわかる。全国に手が届くかも、というほどの実力なのだ。
おまけに、今年は昂輝がバスケ部に入っている。昂輝目当てで、一年女子たちが群がるのは容易に想像できた。
「いま、マネが捕まらなくて困ってんだよ」
「ひとりもいないの?」
「三年にいるけどひとりだけ。元々選手だったけど怪我してからはマネに回ったって」
「ふーん」
三年であれば、夏が過ぎたら引退してしまうだろう。二年はいないらしく、マネが忙しくて手が回らないところは部員たちでカバーしているらしかった。
「直、ダメ?」
「……」
急にしおらしくお願いをされてしまって、不覚にも気持ちが揺れる。
俺が女子だったらこの顔でコロッと落ちていただろう。性格も知らなければ、舞い上がっていたはずだ。
だけど俺は過去、コイツに殴られているし、クールでイケメン昂輝様が実は猫を被っていて意地悪なことも知っている。そんでもって、俺は男だ。
少しでもぐらっと来た自分を心の中で殴っておいた。
「さすがにルールもわからないのにマネは無理」
「覚えりゃいいだろ。それとも覚える自信がないとか? 高校入ってから覚えること多いもんな。さすがにこれ以上はその小さな脳みそに詰め込めねぇか……」
憐れみを持った目を向けられる。
いちいち厭味ったらしく言わないと会話が成立しないのだろうか。この男の本性をみんなの前で引きずり出してやりたいと思いながら、つい「は?」と反論してしまった。
「それぐらい入るわ。むしろ、一回で完璧に覚えられるわ」
「だよな。そのガリ勉眼鏡スタイルで勉強できなかったらびっくりだし」
「視力が悪いから眼鏡かけてんだよ。好きでこのスタイルにしてるわけじゃないから」
「で、引き受けてくれんだろ?」
こんな最悪なお誘い、考える間もなくお断りだ。そう思ったけれど。
「一か月だけ。合わなきゃ辞めていいから」
「……」
「一週間分の昼をおごる」
「二週間分」
「……わかった。二週間分で手を打つ」
それならば、と頷く。ちょっとだけ昼時にやってくるパンや弁当を食べてみたかったのだ。
だけど、小遣いでは到底やりくりできないと諦めていた。だから、二週間分の昼食代を出してもらえるのは悪い条件ではなかった。
「決まりな。入部届、今日中に出せよ」
「わかってるよ」
「絶対だから」
「はいはい、逃げないって」
信用されていないのか、昂輝から胡乱な目を向けられる。
その日、俺は早速入部届に男子バスケ部と書くと、担任に提出しにいった。
うららかな春、ピカピカの高校一年生。新しい学び舎に期待を膨らませて教室に入ったらこれだ。
後ろからぬっと現れた長身の男を振り向きざま見て、俺――駿河直は頬を引きつらせた。
「相変わらず、とろい奴」
きっと俺が相手だからそういう物言いをするのだろう。
俺を苛立たせることに余念のない波城昂輝は、ずりずりと椅子を引くと、長い足を折りたたんで席に座った。
「お前の席はこっちだろ」
怠そうに隣の机を叩いて昂輝が言う。
頬杖をつき、心底お前の隣なんて嫌なんだけど、と言わんばかりの表情に、初めて出会った頃の怒りが鮮やかによみがえった。
昂輝と初めて顔を合わせたのは小学校の頃、近所の公園で遊具を取り合ったのがきっかけだ。
正確に言えば、俺は遊具争奪戦に加わることができず、すこし離れたところで見ていた。待っていれば、いずれは自分の番が来ると思っていたからだ。
いま思えば、振り子のように動く黄色いブランコの何が魅力的だったのかわからないけれど、当時の俺はよくブランコに乗って遊んでいた。遊具さえあれば、たとえひとりぼっちでも楽しめるからだ。
顔も名前も知らない子どもが遊び終え、やっと自分の番が回ってきたというときに、俺は後ろからどんっと背中を押された。きっと、故意に押されたわけではないと思う。ただ純粋にブランコの傍に立つ俺を横切ろうとしていただけだろうから。
でも結果的に俺は地面に倒れた。その、ぶつかってきた相手が昂輝だった。
「じゃま、どいて」
目の前に立つ昂輝は、子どもながらに圧が強かった。下から見下ろしていたのもある。
子どもにしては背がすらりと高く、美しい顔をしていた。その美しさゆえに、瞬間的に圧があると思ったのだろう。
その美しい顔は成長しても変わらなかった。だけど、いくら顔がよくても、性格がどうしようもなければ意味がないのである。
昂輝はもう一度、「じゃま」と言うと、俺を捨ておいてブランコに乗ろうとした。
「待てよ。そこ、おれのなんだけど」
「なに? ブランコに名前なんて書いてねーじゃん」
「おれの番がくるまで待ってたんだよ! よこどりすんな!」
「はぁ!? ただつっ立ってただけじゃん! もっとわかりやすいとこにいろよ」
「んだと……!」
咄嗟に昂輝の胸倉を掴み、ぺちんと頭を叩く。
俺は内気な性格でありながらも、負けん気だけは人一倍強かった。内気で地味で引っ込み思案であっても、心の裡には言いたいことが山ほどあるタイプだし、少なくとも自分に非がないのに責め立てられることや、不利益になるようなことは黙っていられなかった。
昂輝も昂輝で売られた喧嘩は買うタイプだったようで、その日は互いの母親が止めに入るまで、ぼこすかと殴り合いの喧嘩をした。
「すみません、うちの子が……」
「いえいえ、こちらこそすみません……。ほら直、昂輝くんに謝って」
「昂輝も。直くんに謝りなさい」
「「……」」
お互い母親の陰に隠れてそっぽを向いていたが、母からの圧に負けて、そのときはとりあえず謝った。
「それじゃあ、うちはこっちですから」
「あら、奇遇ですね。うちもですよ」
子どもたちは微妙な空気だというのに、母親たちは案外気が合ったのか、帰り道が一緒だったこともあり、たった五分かそこらで打ち解けてしまった。
おまけに互いの家が道路を挟んで隣同士だったこともあり、子どもたちは仲が悪いのに、母親だけは温かな交流が生まれるというバグが起きた。
そうして昂輝も俺も同じ小学校、中学校と上がっていった。
幸いにして、一度も同じクラスにはならなかったし、部活も違ったため、登下校の時間が被ることはなかった。
それなのに、だ――。
「早く座れよ。ずっと睨んだまま立たれてると怖いんだけど」
「ぐぅ……!」
残念ながら、進学した高校で同じクラスになってしまった。
俺たちが住む地域は選べるほど高校が潤沢にあるわけではない。都会と田舎の間を取ったような場所で、志高い生徒たちは一時間以上かけて都内の優秀な学校に通っている子も多い。
だけど俺は、地元では一番の進学校を選んだ。選んだといっても、それなりに勉強をしていれば問題なく入れる高校だ。文武両道を謳っている高校で、カリキュラムも充実している。
俺としては身の丈にあった選択だ。でも、昂輝からしてみれば少し物足りないだろう。
アイツの頭がいいことは知っている。親経由で逐一報告されるからだ。それに同じ中学に通っていれば、嫌でも頭のレベルがわかる。
だから、てっきり県外の高校へ行くのだろうと思っていた。入学前に渡されるクラス分けのリストをもらうまでは。
「最悪……」
ハァ、と溜め息をついて席に座る。昂輝の耳にもばっちりと入っていたようで、一瞬ぴくりと体が跳ねたけれど、中学からのクラスメイトに話しかけられ、意識がそっちに向いた。
「おはよ、昂輝! 同じクラスになれて嬉しいわ!」
「ん、おはよう」
さっきまでの態度とは打って変わって、すまし顔で友人に挨拶をしている。
昂輝はたいそうモテる。出会った頃から顔のつくりがいい奴だとは思っていたけれど、その良さは年齢を重ねてさらに磨きがかかった。
イケメンで、勉強もスポーツもできて、クールでかっこいいというのが、周りからの評価である。女子からももちろんモテるが、同性からの信頼も厚い。
そりゃあ、見目も良く、なんでもできる奴が友だちだったら自慢できるもんなぁ、とは思う。
要は、波城昂輝という男はスクールカースト上位にして、その地位を守り続ける猫かぶり野郎だった。
「あ、昂輝くんじゃん。おはよう」
「おはよう」
「やった! 高校でも同じクラスになれて嬉しい!」
「俺も。また高校でもよろしく」
俺のところには誰も挨拶に来ないのに、昂輝のところには中学からの知り合いがどんどんやってくる。
あいにく俺は中学からの友人とクラスが離れてしまった。だから、このクラスではひとりぼっちだ。
きっと、友だちを作るのにも難航するだろう。
小学校も中学校も内気な性格ゆえに、決してたくさんの友だちができたわけではなかった。
おまけに、自分は眼鏡をかけたガリ勉スタイルの見た目をしている。小学校に入って少ししてから一気に視力が下がってしまい、眼鏡生活になってしまったのだ。
一方の昂輝は、アイドル顔負けの涼し気な目元にスッと通った鼻筋、口元のほくろも相まって大人びた印象がある。
みんな昂輝の方に寄っていくのは当然で、俺に寄って来るクラスメイトはいなかった。
「ほら、チャイム鳴るから早く席につけー」
がやがやと五月蠅いクラスに担任らしい男の先生が出席簿を持って入って来る。
今日はこのあとの入学式とオリエンテーションが終わればメインの行事は終了だ。そのあと昼ご飯をとり、部活の説明会がある。
――早く、席替えしてくんないかなー……。
担任の話を聞きながら、隣から感じるやけにうっとうしい圧を受け流す。
俺の高校生活は、初日にして最悪な出会いから始まってしまった。
◇
昼休み、俺は早速教室を抜け出すと、ふらふらと校舎を徘徊していた。
無事に入学式もオリエンテーションも終わり、いまは昼食の時間だ。昼休みは一時間与えられており、教室で食べても、校舎内にある空き教室やベンチなどで食べてもいいことになっている。
空き教室から楽しげな声が聞こえて来たり、体育館からボールを弾くような音がするから、学校の外にさえでなければ自由に過ごしていいのだろう。
俺はチャイムが鳴ったのと同時に弁当箱を持つと、教室の外に出ていた。
だって、友だちがひとりもいないのだ。誰にも誘われないままぽつねんとひとりでご飯を食べるのは寂しいし、晒し者になってしまう。
別クラスにいる友人を誘うことも考えたが、きっと新たなクラスで友だちを見つけていることだろう。
入学式のとき、体育館へ移動する道すがら、友だちがクラスメイトと楽しそうに話しているのを見かけた。向こうも俺に気付いて手を振ってはくれたけれど、さすがに別の教室から弁当を持ってやってくることまでは想定していないはずだろう。
俺は移動中に見つけた校舎の裏手にある外のベンチまで移動すると、そこに腰を下ろした。
「さむっ……」
白い木製のベンチは、春とはいえ、まだ温まりきらない空気にさらされて冷えている。
日当たりもよく、気持ちのいい場所なのに在校生がいないのは、寒いとわかっているからなのだろう。
間を離れて何個かベンチがあるのにもかかわらず誰もいないのは、寒さのせいらしかった。
「早く食べて戻ろ……」
教室でぼっち飯をするのは辛いが、本を開く程度であれば、そこまで居心地を悪く感じることはない。
弁当箱を開け、心なしかいつもより俺の好きなおかずが多めに詰まっているそこに箸をつけたときだった。ぬっと大きな影が弁当箱を覆った。
「隣、詰めろ」
「は……?」
整った顔をこれでもかと歪めながら昂輝が顎でしゃくる。その圧に負けて思わず腰を浮かせてしまったけれど、冷静に考えて意味が分からなかった。
――なんで昂輝がこんなところに……?
人気者なのだから、当然昼を一緒に食べようと他の友人たちから誘われているはずである。もっといえば、わざわざこんな寒いところを選ぶ理由もわからなかった。
「なんで人気者が俺のところに……?」
「うっせ。人に群がられるの、嫌なんだよ。昼ぐらいはゆっくり食いたいだろ」
教室でのおすまし態度はどこへやら、昂輝が長い足を行儀悪く組んでベンチの端に座る。
彼は手にぶら下げていたビニール袋の中から、サンドイッチと菓子パンを取り出した。バンッと空気が破裂する音がして、ビニールの摩擦音がやけに耳障りに聞こえる。
大きなメロンパンをこれまた大きな口を開けて食べる姿は、女子たちが懸想するようなクールな姿ではなかった。
「いやいや。だからって、俺のとこにくる?」
「ぼっち飯してるお前が可哀想だったから、しかたなく」
「は? 余計なお世話ですー。他にもベンチあんだから、他のところで食べなよ」
「だったらお前が動け」
「はぁ!?」
水と油とはこのことだ。絶対に混じり合うことがない。
俺の中で、静かに戦いのゴングが鳴った。
「マジその横柄な態度と性格、みんなにバラしてやろうかな。クールで人気者♡みんなにモテモテ♡の昂輝様が実は意地悪な奴だって知ったら、みんな引いちゃうだろうし」
「よく言う。お前だって地味で大人しいです~みないなナリしておきながら、喧嘩っ早いくせに」
しばし無言でにらみ合って、ふんと鼻を鳴らす。
ずっと喧嘩腰なのに、昂輝はベンチから立ち上がろうとはしなかった。苛立たし気に足を組み替えながらも黙々と買ってきたパンを食べている。
きっと、購買で売っているパンを食べているのだろう。
ベンチまで来る途中、ふらりと一階のエントランス前を通ったら、昼休みのときだけにやってきているらしいパン屋の前に人だかりができていた。パンの他にはお弁当も売っていて、かなり充実したラインナップになっていることを俺は横目で見ていた。
「視線がうざい」
「別に見てない」
昂輝のことは見ていない。パンを見ていただけである。
だけど、昂輝はうざったそうに、しっしと顔の周りを飛び回る羽虫を追い払うように俺の視線を遮った。そういうところがいちいち癇に障る男である。
どうせ幼馴染という存在ができるのならば、隣にいるいけ好かない男ではなくて、もっと気の合う友人であってほしかった。そしたら毎日一緒に遊んだり、宿題をしたり、ときには男同士でしか楽しめないような雑誌を見たりなどして盛り上がっただろうに。
ぼーっと玉子焼きを口に運んでいたら、距離を見誤ったのか、ぽろりと落ちた。
「どんくさ」
「……マジで早く教室戻ったら?」
再びゴングが鳴り、バチバチと視線で火花を散らしたところで予鈴が鳴る。
俺は急いで残りのご飯を口に放り込むと、弁当箱を乱暴に重ねて保冷バッグの中に突っ込んだ。
「やば。次のオリエンテーション、体育館じゃん」
「すぐそこだから急ぐことねーだろ」
「俺は弁当箱を片付けたいの」
「ふーん」
最後の一口を優雅に放り込み、昂輝がベンチから立ち上がる。俺も立ち上がると、体育館へ行こうとする生徒とは逆走する形で教室を目指した。
――さすがに、ついてはこないよな……。
駆け足で教室に戻り、また来た道を引き返して体育館へ向かう。
気付けば、昂輝はいなかった。それもそのはずで、アイツが俺のような地味なタイプとつるむのは外聞がよろしくない。きっと移動中に友だちに捕まって、そのまま体育館にでも行ったのだろう。
体育館に行くと、案の定、昂輝は友人たちに囲まれていた。
――マジで、なーんで俺のところまで来たんだろう……。
ぼっち飯が可哀想だからと言っていたけれど、余計なお世話だ。苛立ちと言いようのないむず痒さを覚えながら列に向かう。
出席番号は名簿順になるため、必然的に俺は昂輝の前だ。
まったくもって興味もなければ、話したこともありません、孫座すら知りませんといった顔で昂輝の横を素通りして列に並ぶ。
その日は悶々としながら部活動の説明を受け、ひとりで帰路についた。
◇
入学式が終わった次の日。
本格的に授業が始まり、俺はあくびをかみ殺しながらやっとの思いで昨日のベンチに座っていた。
中学の頃より授業時間が伸びたから、なかなか体も慣れなければ集中力も続かない。一時間目や二時間目は眠く、四時間目はお腹が空いてしかたがなかった。
特にお腹が鳴ることだけは避けたくて、終始お腹に力を入れていたから気分があまりよくない。
体を投げ出すように弾みをつけて木製のベンチに座ったら、みしっと嫌な音が鳴った。
「今日はあったかいなぁ……」
昨日よりも少しだけ気温が高く、風も強くため、穏やかだ。布団の中にいるような温かな膜に包まれているような心地よさがある。
今はまだいいけれど、そのうちこのベンチも争奪戦になってくるのだろう。そうなったとき、どこで食べようかと考えながら弁当箱の蓋を開けたら、また昨日と同じように影が差した。
「……」
もう何も言う気も起きなければ、視線を寄こすことすら無意味に思えて、黙っておかずを口に放り込む。
今日の昂輝はお弁当を家から持ってきたらしく、俺の弁当箱より一回り大きなものを広げていた。
「……」
「…………」
重苦しい緊張感が漂う。
ベンチの前には綺麗に剪定された花や木が植えられていて、そよ風が吹くと細い枝がしなる。葉が擦れ合う音はとても心地がいいはずなのに、隣に昂輝がいるせいでイマイチ気が重かった。俺たちだけうららかな春から隔離されて、薄暗い部屋に突っ込まれたような心地がする。
だけど、口を開けばさらに空気が悪くなることもわかっている。俺からは話しかけないでおこうときめた直後、昂輝から「なぁ」と声をかけられた。
「部活、なに入るか決めた?」
「……いや、まだだけど」
部活紹介があったのは昨日の話だ。さすがにまだどの部活に入るかは決めていない。
俺は中学の頃、バレー部に所属していた。一応、真面目に練習していたし朝練まであったけれど、さほど強いわけでもなかったから市の大会ですらパッとしない成績だった。
おまけにそこそこ人気の部活動だったため、部員も多く、すぐにコートが手狭になった。そうした経緯もあって、俺は早々に選手ではなくマネージャーのようなポジションになった。
そもそもの話、そこまで運動が得意というわけでもないのだ。お遊びに毛が生えた程度の実力だったこともあり、また裏方の仕事が存外気に入っていたこともあり、それで満足もしていた。
ちなみに、いまの高校もバレー部はあまり華やかな成績を修めていない。中学と同じく市の大会止まりだ。
一方で、昂輝は中学の頃からバスケをしている。バスケ部はバレー部とは対照的に強かった。
中学で何度も県大会へ行っているし、全国にも行けた年があった。高校のバスケ部もかなり強いらしく、昂輝が所属するには申し分ないだろう。
だから俺の口から昂輝はなんの部活に入るのか? などと聞くまでもない。そのため、不自然に会話が途切れた。
「最初は、必ずどこかに所属しないといけないらしい」
「……みたいだね。まぁ、俺は適当にどっか入って、合わなければやめるよ。最初に入りさえすれば、抜けるのは自由っぽいし」
「それなら……。やっぱりいい」
何かを言いかけてやめる昂輝に俺は首を傾げる。珍しく言い淀む彼に、砂を噛んでいるような気持ち悪さを感じた。
それから、相変わらず俺たちの間にはぽつぽつとした会話しかない。
口を開いても、選択授業をどうするか、委員会はどうするか、といった学校生活に関する内容ばかりだ。友人同士であれば、もっと面白い漫画やゲームの話だとか、それこそあの子が可愛いといった話でもするのかもしれないが、俺たちの間に共通の話題はない。
それでも、暇つぶしにはなった。いけ好かない相手でも誰かが隣にいるというのは悪くないのかもしれない。
昨日は驚きの方が大きかったけれど、二度目とあって、会話をしているうちに昂輝のペースにも慣れてきた。
「じゃあ、俺いくから」
「おう」
先にご飯を食べ終え、弁当箱を片付ける。
昂輝も食べ終わってはいたものの、一緒にベンチから立ち上がることはしなかった。
――まぁ、俺と一緒に教室に戻るのは嫌か。
昂輝はいわゆる一軍男子だ。スクールカーストのトップである。そんな男が幼馴染(仮)とはいえ、俺と並んで歩くのは嫌なのだろう。
まぁ、俺だって昂輝と一緒に歩きたいかと言われたら首を横に振る。その程度には、お互いにあまりいい印象を抱いていなかった。……なのだけれど。
「……ほんと、飽きないね。波城も」
いくら昼だけはゆっくり食べたい、囲まれたくないと言ったって、俺を止まり木にするのはどうなんだろうか。他に心を休ませるところはもっとあるはずなのに。
昂輝は入学式以降、毎日昼になると俺のところへやって来ては隣に座った。
「昂輝、って呼べ」
「別にそういう仲でもないじゃん」
「苗字で呼ばれ慣れてない」
「あー、みんなから昂輝、昂輝、って呼ばれてるもんねぇ」
人気者は本人の意思に関わらず、周りが勝手に距離を縮めてくる。人気者と友だちなのだというアピールがしたいのだろう。
俺なんて、まだ昂輝以外のクラスメイトと話せてすらいないのに。駿河さん、と呼ばれたのは授業を受け持つ教師からだけだった。
「俺も直って呼ぶから」
「は……? なにか変な物でも食べた?」
驚きすぎて箸を落としかける。
ここでやめろと言ってもコイツのことだから直すことはないだろうなぁ、と、浅い付き合いでありながらもなんとなくそう思ってしまった俺はすぐに言葉を引っ込めた。
数年前、取っ組み合いの喧嘩をしたほどなのだ。互いにこうと思ったら譲れないところがあった。
「……まぁ、好きにしたら」
「ん」
別に名前を呼ばれても何かがすり減るわけじゃない。違和感はあるけれど、拒絶するほどのことでもなかった。
「なぁ、直は結局、部活どうすんだ?」
「またその話?」
昂輝に部活をどうするのかと尋ねられてから二週間が経っている。
そろそろ四月も終わりだ。五月に入るまでには入部希望届を出すように言われているから、決断までにそう時間もかけていられない。
そのことを思い出して、途端に気持ちが重くなった。
「まだ決めかねてる……」
運動はする気がないし、文化部系も心惹かれる部活がなかった。
最低でも一か月はどこかに籍を置くように言われているものの、このままのらりくらりとかわせないかと考えている。
一方で、昂輝は既にバスケ部に身を置いていることを知っていた。隣の席に座っているから、嫌でも耳に入ってきてしまうのだ。
近々、練習試合もあるらしく、女子たちが応援に行くと盛り上がっていた。
「だったら、バスケ部のマネージャーになれよ」
「バスケ……? しかもマネージャー? なんで俺が」
「元々バレー部だっただろうが。スポーツはやってたんだし、選手目線で練習メニューとか組めんだろ」
「やだよ。てか、よく俺がバレー部だって知ってたね」
「視界の隅でちょこまか動かれたら嫌でも気付くだろ。まぁ、試合に出れなくてマネっぽいことしてたみたいだけど」
「うるさいな。そんなへっぽこな俺じゃあ、なおさらマネなんて無理でしょ。てか、そういうのは普通、女子を入れるもんじゃないの? 男バスのマネージャーなんて、みんなやりたがりそうだけど」
「あー……」
昂輝が苦い顔をして空を仰ぐ。つられて視線を動かしたら、大きな雲がゆっくりと流れていた。
「風紀が乱れるってんで、顧問が入れないようにしてんだよ」
「あー……」
今度は俺があーっと呻る番だ。
なんとなく言わんとしていることはわかる。全国に手が届くかも、というほどの実力なのだ。
おまけに、今年は昂輝がバスケ部に入っている。昂輝目当てで、一年女子たちが群がるのは容易に想像できた。
「いま、マネが捕まらなくて困ってんだよ」
「ひとりもいないの?」
「三年にいるけどひとりだけ。元々選手だったけど怪我してからはマネに回ったって」
「ふーん」
三年であれば、夏が過ぎたら引退してしまうだろう。二年はいないらしく、マネが忙しくて手が回らないところは部員たちでカバーしているらしかった。
「直、ダメ?」
「……」
急にしおらしくお願いをされてしまって、不覚にも気持ちが揺れる。
俺が女子だったらこの顔でコロッと落ちていただろう。性格も知らなければ、舞い上がっていたはずだ。
だけど俺は過去、コイツに殴られているし、クールでイケメン昂輝様が実は猫を被っていて意地悪なことも知っている。そんでもって、俺は男だ。
少しでもぐらっと来た自分を心の中で殴っておいた。
「さすがにルールもわからないのにマネは無理」
「覚えりゃいいだろ。それとも覚える自信がないとか? 高校入ってから覚えること多いもんな。さすがにこれ以上はその小さな脳みそに詰め込めねぇか……」
憐れみを持った目を向けられる。
いちいち厭味ったらしく言わないと会話が成立しないのだろうか。この男の本性をみんなの前で引きずり出してやりたいと思いながら、つい「は?」と反論してしまった。
「それぐらい入るわ。むしろ、一回で完璧に覚えられるわ」
「だよな。そのガリ勉眼鏡スタイルで勉強できなかったらびっくりだし」
「視力が悪いから眼鏡かけてんだよ。好きでこのスタイルにしてるわけじゃないから」
「で、引き受けてくれんだろ?」
こんな最悪なお誘い、考える間もなくお断りだ。そう思ったけれど。
「一か月だけ。合わなきゃ辞めていいから」
「……」
「一週間分の昼をおごる」
「二週間分」
「……わかった。二週間分で手を打つ」
それならば、と頷く。ちょっとだけ昼時にやってくるパンや弁当を食べてみたかったのだ。
だけど、小遣いでは到底やりくりできないと諦めていた。だから、二週間分の昼食代を出してもらえるのは悪い条件ではなかった。
「決まりな。入部届、今日中に出せよ」
「わかってるよ」
「絶対だから」
「はいはい、逃げないって」
信用されていないのか、昂輝から胡乱な目を向けられる。
その日、俺は早速入部届に男子バスケ部と書くと、担任に提出しにいった。


