「へぇ、君、こういうの読むんだ。BLって言うんだっけ?」
真夏の暑い夏休みの午後十六時。
公立図書館に本を返しにきた僕は、ついうっかり……本当についうっかりと、BLマンガも一緒に返却してしまった。
しかも、よりにもよって彼は僕と同じ南高校の先輩であり、我が校では知らない人はいないというくらい有名な三年の深山裕次郎。何故有名か。それは、うちの学校で一番の問題児だからだ。
喧嘩っ早い彼は、気に入らないことがあればすぐに手を出し、停学処分を何回も繰り返している。しかも、弱みを握られたが最後。蛇のようにしつこく付き纏っては、骨の髄まで吸い尽くす。何を吸い尽くすのかなんて野暮なことは聞かないが、とにかく、彼に目を付けられた相手は退学を余儀なくされている。
ただ、彼は顔がずば抜けて良い。切れ長な目に高い鼻、きりっとした眉、流した少し茶色の髪はふわふわで、学校一のイケメンだ。今はメガネもして少し知性的な印象を受ける。問題児でなければ、学校中の人気者だろうに……勿体ない。
そんな深山先輩に、僕こと二年の浅海聖夜は失態を晒してしまった。
「いや……えっと、これはその」
「俺と同じ学校の制服だね。休みなのに、部活か何かだったの?」
「いえ、服を選ぶのが面倒で」
「あー、分かる。俺も同じ。浅海……せいや君?」
「これは『せいや』ではなく」
親の付けたキラキラネーム。これも馬鹿にされる対象だ。
こんな平凡な顔をして『イブ』だなんて。深山先輩がイブなら納得がいくが、この僕がイブ……絶対に馬鹿にされること間違いなしだ。BLマンガと名前、どちらも揶揄いの対象になってしまった。
変な汗がダラダラと出る中、僕は嘘を吐いた。
「はい。浅海”せいや”です。おみしり置かなくて結構ですので。忘れて下さい」
丁寧にお辞儀をした後、深山先輩の手からBLマンガもそっと取り返し、カバンにしまう。
このBLマンガだって、少しばかり過激すぎる内容が含まれているからといって、二つ下の妹が親に見つからないように僕のカバンに無理やり押し込んできたのだ――。
『聖夜にぃ。ちょっと、お母さんが私の部屋片づけ始めちゃったから、これ隠しといて』
『え、ちょっと。僕の部屋においててもバレるじゃん』
『図書館行くんでしょ? だったら、今日一日で良いから、これだけでも持っててよ。他はバレても問題ないけど、これだけはちょっと表紙からして怒られそうだし』
『いや、そんなの持ち歩きたくないんだけど』
『お願いだよ。聖夜にぃ』
妹のお願いを断れない僕は、結局それを持って図書館にやってきたのだ――。
だから、これはあくまでも僕の趣味ではないし、読んだこともない。言い訳くらいさせて欲しい。
「これは、僕のじゃないんで。このことも忘れて下さい」
「衝撃的過ぎて忘れられるかなぁ。このアルファとかって何?」
「アルファとは、ギリシャ文字の最初の文字で、物事の始まり、一番目、主要なものなどの意味があります」
「じゃ、オメガって?」
「こちらもギリシャ文字で、最後の文字、究極、極限などの意味ですかね。それ以外のことは知りません」
淡々と応える僕に対し、深山先輩は興味深々に他にも質問しようとしてくるので、僕は返却用の本を少し前に出した。
「あの、返却して、早く次を借りに行きたいんですけど」
「あ、ごめんね。すぐ処理するから待ってて」
バーコードを読み取る深山先輩は、ズレ落ちそうになるメガネをクイッと持ち上げた。
「あの……深山先輩は、前からここでバイトしてるんですか? 初めて見ましたけど」
「ん。昨日から」
「マジですか……」
その一日でこの失態を犯してしまうとは。なんと運の悪いこと。
「てか、俺のこと知ってるんだ」
「あー、えっと……はい」
「もしかして、タイプ?」
「え……?」
バーコードを全て読み取った深山先輩は、カードを手渡しながらスマホを取り出した。そして、周囲を気にしながら小声で言った。
「良いよ」
「え?」
「連絡先、交換しようよ」
「は!?」
思わず声が大きくなってしまった僕は、周りの視線を感じて小声で返す。
「け、結構です」
「遠慮しなくて良いよ。俺、そういうの興味なかったけど、君には興味湧いたし」
「興味なんて湧かないでくださいよ」
「良いから良いから。遠慮しなくて良いって」
「ちょ、先輩!」
深山先輩は無理やり僕のスマホを奪い取って操作し始めた。それは、あっという間に終わり、すぐに返ってきた。
「じゃ、今日からよろしくね」
「よ、よろしくお願いします」
頭だけさげ、僕はそそくさと逃げるように本棚の裏に隠れた――。
「マジかぁ……どうしよ」
スマホを見つめると、真っ暗だった画面が、すぐにロック画面に変わった。そこには、メッセージの通知があり『深山裕次郎』と書かれていた。開きたくないが、開かないと何をされるか分からないため、僕はそれをタップした。
『十七時に終わるから、待っててよ』
(うわぁ……どうしよ。どうしよ。マジでどうしよ。これは、搾取される方だよね?)
お金を払わなければ、きっと殴られたりは間違いない。そして、最悪なことに僕がBLマンガを持っていたことを言いふらし、あることないこと拡散され、僕の人生が破滅する。
どうにか回避しないといけないが、僕はバイトをしている訳でもなく、親からもらった貴重な小遣いしか手持ちはない。今日の晩御飯代くらいなら払えるが、明日から毎日ともなると難しい。
しかし、開いてしまったものは早く返信しなければ――――。
「分かりました」
そう返信をして、俺は今までに読んだこともないような分厚い心理学の本を手に取った。
とにかく、誤解を解かなければ。誤解さえ解ければ、弱みはなくなる。
◇◇◇◇
十七時過ぎ。
図書館の裏口から制服姿の深山先輩が出てきた。僕も制服だから、まるで学校があったような錯覚に陥る。
「お待たせ」
「いえ、全然待ってません」
切実にそう思う。待つには待ったが、全然待っていない。できれば、このまま無かったことにして帰っていただきたい。そんなことを言えるはずもなく、僕は深山先輩の半歩後ろを歩く。
しかし、深山先輩は歩くのを遅め、俺と同じ歩幅で歩き出す。
「セイヤの家ってどこ?」
「あー、東の方です」
曖昧に応えれば、深山先輩は頭を掻きながら困った顔をした。
「東ってどっちだっけ」
「こっちです」
指をさして応えるが、絶対に住所だけは知られないようにしよう。両親や妹にだけは迷惑がかからないようにしなければ。いや、元凶の妹には少しばかり痛い目を見てもらっても……ダメだ。可愛い妹を売るなんて出来る訳がない。
「セイヤは、付き合ってる人いるの?」
「い、いませんけど」
「じゃあ、付き合ってた人は?」
「いません」
「てことは、俺が初めて……?」
「初めて……?」
意味が分からず、深山先輩の顔を目をパチクリとしながら見つめた。身長差が十センチはあるので、見下されている感覚に陥る。しかし、その目が優しく細められた。
「俺さ、一途な人好きだよ」
「あ、それは僕も……好きです」
「素直で可愛いね」
「か……」
可愛いなんて言われたのは初めてで、顔が熱くなる。
戸惑っていると、深山先輩が頭をクシャッと撫でてきた。
「案外、女の子より良いかも」
「それは、どういう……」
「俺、けばけばした女の子苦手なんだよね。だから、セイヤにする」
「僕に……?」
さっきから何の話をしているのか。
話についていけず困惑していると、深山先輩がスマホを取り出し上に掲げた。
「はい。セイヤ、こっち向いて。ピース」
そして、俺の顔に深山先輩の美しすぎる顔がくっついた。
「ピ、ピース?」
言われるがままピースサインをして口角をぎこちなく上げた。
パシャッと音がすれば、その顔が離れて行った。そして、深山先輩は満足げな顔でそれを見た。
「じゃ、今日が記念日ってことで。宜しくね」
「は、はい。宜しくお願いします」
終始意味が分からないが、喋ってみると案外悪い人ではないような気がしてくる。しかし、これが彼のやり口なのだろう。だから、一刻も早く誤解を解かなければ。
「あの、さっきのマンガなんですけど。あれは妹のでして」
「良いよ。言い訳しなくても」
「言い訳じゃなくてですね……」
「大丈夫だよ。誰にも言わないし」
「え!? 本当ですか!?」
思わず顔を綻ばしてしまったが、『誰にも言わない=口止め料を払え』だということにすぐに気付く。
「でも、僕はバイトもしてないですし、お金もないので……」
「それはさ、デート代を俺に全額払えって言ってんの?」
「え、そうじゃなくて。で、デート?」
まさかの深山先輩とその彼女とのデート代を僕が支払わなければならないのだろうか。
「そりゃ、俺の方が先輩だから、払いたいのは山々なんだけど。俺もそんなにお金あるわけじゃないし。割り勘じゃダメ?」
彼女の分を僕に払えと……それはそれでどうなんだ。
渋っていると、深山先輩は閃いたとばかりに言った。
「じゃあ、おうちデートにしよう! それならお金もかからないでしょ?」
「そ、そうですね」
勝手にしてくれ。僕にとばっちりがこないのであれば、それで良い。
「そうと決まれば、俺んち、すぐそこだから」
「え?」
「俺の親、いっつも帰って来るの遅いし」
手を引かれ、悪戯な笑みを浮かべながら深山先輩は耳元で囁いた。
「エッチなことも出来るよ」
「……は?」
顔を離した深山先輩だが、手だけは離してくれず嬉しそうに歩く。
「でも、僕も男の子は……って言うか、女の子ともしたことないんだよね」
「えっと……」
「先輩だし、リードしたいんだけどね。今日は気楽にお互いの話でもしようよ」
「あ、は、はい」
もう訳が分からない。こうやってペースを乱され、油断した隙に急に豹変するのだろうか。
呆気に取られながら手を繋いで歩いていると、背後から声がした。
「あれ? 深山じゃん。何してんの?」
後ろを振り返れば、どうみても僕とは無縁の不良グループにいるような男が三人ほどいた。
「セイヤ。下がってて」
「は、はい」
手を離して深山先輩の後ろに隠れた。
「深山。今、手ぇ繋いで無かった?」
「とうとうそっちに走っちゃったのかよ」
深山先輩は、先程とは打って変わって冷たい視線を彼らに向けた。
「悪い?」
「うわ、マジか」
「てか、それなら俺達も混ぜてよ」
「それ良いかも。どうせ暇つぶしなんだろ?」
金髪をツンツン立てた男が、後ろに回ってきて馴れ馴れしく僕の肩の上に腕を置いてきた。思わず肩をビクッと震わせれば、彼はクスッと笑った。
「案外可愛いじゃん」
深山先輩に言われた可愛いとは違って、今回は恐怖を感じた。
「深山先輩……」
助けを求める相手が違うかもしれないが、僕は懇願するように深山先輩のシャツの裾を握り、見上げた。すると、深山先輩は一瞬固まった後、僕の肩に乗ったその腕を軽く払った。
「俺のモノだから。気安く触んないで」
「おー、怖ッ」
「用がないなら、さっさと消えてくんないかな。俺ら、忙しいんだけど」
その冷めた口調に怯えながらも、僕はうんうんと心の中で頷いた。
とにかく、何でも良いからこの人たちから解放されたい。
長髪を後ろで束ね、顔には傷跡が残っている男が舌打ちをして、吐き捨てるように言った。
「チッ。まぁ良いや。せいぜい楽しんだら?」
「だな。真司さんに狙われないように気を付けるんだな。セ・イ・ヤ・君」
クスクスと笑う三人は、そのまま踵を返して去っていった――。
そして、深山先輩は苦虫を嚙みつぶしたような顔で彼らを見ている。
「深山……先輩?」
恐る恐る声をかければ、深山先輩は我に返ったように先程までの笑顔を見せてきた。
「ごめんね」
「い、いえ……さっきのは、お友達」
「な訳ないじゃん」
「ですよね……」
だったら、今のは何だったのだろうか。そして真司さんとは一体?
聞きたいことは山ほどあるが、怖くて聞けない。いや、聞きたくない!
そう思うのに、ゆっくりと歩き始めた深山先輩は困った顔で口を開いた。
「ごめんね。やっぱり俺に関わらせるべきじゃなかったね」
「それは……」
僕も急いで深山先輩の横について並んで歩く。
「最近は大人しくしてたから、大丈夫だと思ったんだけどな。けど、こうなったら全力で守るから」
「守る……僕、やっぱり狙われた感じですか」
「そうみたい。だから、俺から絶対に離れないで」
「離れないでと言われましても……」
困惑しながら応えていると、深山先輩は路地を曲がったところで立ち止まった。
「深山先輩?」
その顔は、今にも泣きそうな、複雑そうな表情をしていた。
「大丈夫……ですか?」
「お願い、俺が守るから」
そんな顔で言われたら、返事は一つしかできない。
「分かりました」
――こうして、BLマンガ一冊から、俺と深山先輩の恋の物語が始まった。
「セイヤ」
「は、はい!」
深山先輩の大きな手が僕の頬に添えられ、ドキリとした。
そして、徐々にその顔が近付いてきた。
「えっと……」
「誓いのキス」
「キ……」
僕の唇に、彼のそれが重なった――――。
真夏の暑い夏休みの午後十六時。
公立図書館に本を返しにきた僕は、ついうっかり……本当についうっかりと、BLマンガも一緒に返却してしまった。
しかも、よりにもよって彼は僕と同じ南高校の先輩であり、我が校では知らない人はいないというくらい有名な三年の深山裕次郎。何故有名か。それは、うちの学校で一番の問題児だからだ。
喧嘩っ早い彼は、気に入らないことがあればすぐに手を出し、停学処分を何回も繰り返している。しかも、弱みを握られたが最後。蛇のようにしつこく付き纏っては、骨の髄まで吸い尽くす。何を吸い尽くすのかなんて野暮なことは聞かないが、とにかく、彼に目を付けられた相手は退学を余儀なくされている。
ただ、彼は顔がずば抜けて良い。切れ長な目に高い鼻、きりっとした眉、流した少し茶色の髪はふわふわで、学校一のイケメンだ。今はメガネもして少し知性的な印象を受ける。問題児でなければ、学校中の人気者だろうに……勿体ない。
そんな深山先輩に、僕こと二年の浅海聖夜は失態を晒してしまった。
「いや……えっと、これはその」
「俺と同じ学校の制服だね。休みなのに、部活か何かだったの?」
「いえ、服を選ぶのが面倒で」
「あー、分かる。俺も同じ。浅海……せいや君?」
「これは『せいや』ではなく」
親の付けたキラキラネーム。これも馬鹿にされる対象だ。
こんな平凡な顔をして『イブ』だなんて。深山先輩がイブなら納得がいくが、この僕がイブ……絶対に馬鹿にされること間違いなしだ。BLマンガと名前、どちらも揶揄いの対象になってしまった。
変な汗がダラダラと出る中、僕は嘘を吐いた。
「はい。浅海”せいや”です。おみしり置かなくて結構ですので。忘れて下さい」
丁寧にお辞儀をした後、深山先輩の手からBLマンガもそっと取り返し、カバンにしまう。
このBLマンガだって、少しばかり過激すぎる内容が含まれているからといって、二つ下の妹が親に見つからないように僕のカバンに無理やり押し込んできたのだ――。
『聖夜にぃ。ちょっと、お母さんが私の部屋片づけ始めちゃったから、これ隠しといて』
『え、ちょっと。僕の部屋においててもバレるじゃん』
『図書館行くんでしょ? だったら、今日一日で良いから、これだけでも持っててよ。他はバレても問題ないけど、これだけはちょっと表紙からして怒られそうだし』
『いや、そんなの持ち歩きたくないんだけど』
『お願いだよ。聖夜にぃ』
妹のお願いを断れない僕は、結局それを持って図書館にやってきたのだ――。
だから、これはあくまでも僕の趣味ではないし、読んだこともない。言い訳くらいさせて欲しい。
「これは、僕のじゃないんで。このことも忘れて下さい」
「衝撃的過ぎて忘れられるかなぁ。このアルファとかって何?」
「アルファとは、ギリシャ文字の最初の文字で、物事の始まり、一番目、主要なものなどの意味があります」
「じゃ、オメガって?」
「こちらもギリシャ文字で、最後の文字、究極、極限などの意味ですかね。それ以外のことは知りません」
淡々と応える僕に対し、深山先輩は興味深々に他にも質問しようとしてくるので、僕は返却用の本を少し前に出した。
「あの、返却して、早く次を借りに行きたいんですけど」
「あ、ごめんね。すぐ処理するから待ってて」
バーコードを読み取る深山先輩は、ズレ落ちそうになるメガネをクイッと持ち上げた。
「あの……深山先輩は、前からここでバイトしてるんですか? 初めて見ましたけど」
「ん。昨日から」
「マジですか……」
その一日でこの失態を犯してしまうとは。なんと運の悪いこと。
「てか、俺のこと知ってるんだ」
「あー、えっと……はい」
「もしかして、タイプ?」
「え……?」
バーコードを全て読み取った深山先輩は、カードを手渡しながらスマホを取り出した。そして、周囲を気にしながら小声で言った。
「良いよ」
「え?」
「連絡先、交換しようよ」
「は!?」
思わず声が大きくなってしまった僕は、周りの視線を感じて小声で返す。
「け、結構です」
「遠慮しなくて良いよ。俺、そういうの興味なかったけど、君には興味湧いたし」
「興味なんて湧かないでくださいよ」
「良いから良いから。遠慮しなくて良いって」
「ちょ、先輩!」
深山先輩は無理やり僕のスマホを奪い取って操作し始めた。それは、あっという間に終わり、すぐに返ってきた。
「じゃ、今日からよろしくね」
「よ、よろしくお願いします」
頭だけさげ、僕はそそくさと逃げるように本棚の裏に隠れた――。
「マジかぁ……どうしよ」
スマホを見つめると、真っ暗だった画面が、すぐにロック画面に変わった。そこには、メッセージの通知があり『深山裕次郎』と書かれていた。開きたくないが、開かないと何をされるか分からないため、僕はそれをタップした。
『十七時に終わるから、待っててよ』
(うわぁ……どうしよ。どうしよ。マジでどうしよ。これは、搾取される方だよね?)
お金を払わなければ、きっと殴られたりは間違いない。そして、最悪なことに僕がBLマンガを持っていたことを言いふらし、あることないこと拡散され、僕の人生が破滅する。
どうにか回避しないといけないが、僕はバイトをしている訳でもなく、親からもらった貴重な小遣いしか手持ちはない。今日の晩御飯代くらいなら払えるが、明日から毎日ともなると難しい。
しかし、開いてしまったものは早く返信しなければ――――。
「分かりました」
そう返信をして、俺は今までに読んだこともないような分厚い心理学の本を手に取った。
とにかく、誤解を解かなければ。誤解さえ解ければ、弱みはなくなる。
◇◇◇◇
十七時過ぎ。
図書館の裏口から制服姿の深山先輩が出てきた。僕も制服だから、まるで学校があったような錯覚に陥る。
「お待たせ」
「いえ、全然待ってません」
切実にそう思う。待つには待ったが、全然待っていない。できれば、このまま無かったことにして帰っていただきたい。そんなことを言えるはずもなく、僕は深山先輩の半歩後ろを歩く。
しかし、深山先輩は歩くのを遅め、俺と同じ歩幅で歩き出す。
「セイヤの家ってどこ?」
「あー、東の方です」
曖昧に応えれば、深山先輩は頭を掻きながら困った顔をした。
「東ってどっちだっけ」
「こっちです」
指をさして応えるが、絶対に住所だけは知られないようにしよう。両親や妹にだけは迷惑がかからないようにしなければ。いや、元凶の妹には少しばかり痛い目を見てもらっても……ダメだ。可愛い妹を売るなんて出来る訳がない。
「セイヤは、付き合ってる人いるの?」
「い、いませんけど」
「じゃあ、付き合ってた人は?」
「いません」
「てことは、俺が初めて……?」
「初めて……?」
意味が分からず、深山先輩の顔を目をパチクリとしながら見つめた。身長差が十センチはあるので、見下されている感覚に陥る。しかし、その目が優しく細められた。
「俺さ、一途な人好きだよ」
「あ、それは僕も……好きです」
「素直で可愛いね」
「か……」
可愛いなんて言われたのは初めてで、顔が熱くなる。
戸惑っていると、深山先輩が頭をクシャッと撫でてきた。
「案外、女の子より良いかも」
「それは、どういう……」
「俺、けばけばした女の子苦手なんだよね。だから、セイヤにする」
「僕に……?」
さっきから何の話をしているのか。
話についていけず困惑していると、深山先輩がスマホを取り出し上に掲げた。
「はい。セイヤ、こっち向いて。ピース」
そして、俺の顔に深山先輩の美しすぎる顔がくっついた。
「ピ、ピース?」
言われるがままピースサインをして口角をぎこちなく上げた。
パシャッと音がすれば、その顔が離れて行った。そして、深山先輩は満足げな顔でそれを見た。
「じゃ、今日が記念日ってことで。宜しくね」
「は、はい。宜しくお願いします」
終始意味が分からないが、喋ってみると案外悪い人ではないような気がしてくる。しかし、これが彼のやり口なのだろう。だから、一刻も早く誤解を解かなければ。
「あの、さっきのマンガなんですけど。あれは妹のでして」
「良いよ。言い訳しなくても」
「言い訳じゃなくてですね……」
「大丈夫だよ。誰にも言わないし」
「え!? 本当ですか!?」
思わず顔を綻ばしてしまったが、『誰にも言わない=口止め料を払え』だということにすぐに気付く。
「でも、僕はバイトもしてないですし、お金もないので……」
「それはさ、デート代を俺に全額払えって言ってんの?」
「え、そうじゃなくて。で、デート?」
まさかの深山先輩とその彼女とのデート代を僕が支払わなければならないのだろうか。
「そりゃ、俺の方が先輩だから、払いたいのは山々なんだけど。俺もそんなにお金あるわけじゃないし。割り勘じゃダメ?」
彼女の分を僕に払えと……それはそれでどうなんだ。
渋っていると、深山先輩は閃いたとばかりに言った。
「じゃあ、おうちデートにしよう! それならお金もかからないでしょ?」
「そ、そうですね」
勝手にしてくれ。僕にとばっちりがこないのであれば、それで良い。
「そうと決まれば、俺んち、すぐそこだから」
「え?」
「俺の親、いっつも帰って来るの遅いし」
手を引かれ、悪戯な笑みを浮かべながら深山先輩は耳元で囁いた。
「エッチなことも出来るよ」
「……は?」
顔を離した深山先輩だが、手だけは離してくれず嬉しそうに歩く。
「でも、僕も男の子は……って言うか、女の子ともしたことないんだよね」
「えっと……」
「先輩だし、リードしたいんだけどね。今日は気楽にお互いの話でもしようよ」
「あ、は、はい」
もう訳が分からない。こうやってペースを乱され、油断した隙に急に豹変するのだろうか。
呆気に取られながら手を繋いで歩いていると、背後から声がした。
「あれ? 深山じゃん。何してんの?」
後ろを振り返れば、どうみても僕とは無縁の不良グループにいるような男が三人ほどいた。
「セイヤ。下がってて」
「は、はい」
手を離して深山先輩の後ろに隠れた。
「深山。今、手ぇ繋いで無かった?」
「とうとうそっちに走っちゃったのかよ」
深山先輩は、先程とは打って変わって冷たい視線を彼らに向けた。
「悪い?」
「うわ、マジか」
「てか、それなら俺達も混ぜてよ」
「それ良いかも。どうせ暇つぶしなんだろ?」
金髪をツンツン立てた男が、後ろに回ってきて馴れ馴れしく僕の肩の上に腕を置いてきた。思わず肩をビクッと震わせれば、彼はクスッと笑った。
「案外可愛いじゃん」
深山先輩に言われた可愛いとは違って、今回は恐怖を感じた。
「深山先輩……」
助けを求める相手が違うかもしれないが、僕は懇願するように深山先輩のシャツの裾を握り、見上げた。すると、深山先輩は一瞬固まった後、僕の肩に乗ったその腕を軽く払った。
「俺のモノだから。気安く触んないで」
「おー、怖ッ」
「用がないなら、さっさと消えてくんないかな。俺ら、忙しいんだけど」
その冷めた口調に怯えながらも、僕はうんうんと心の中で頷いた。
とにかく、何でも良いからこの人たちから解放されたい。
長髪を後ろで束ね、顔には傷跡が残っている男が舌打ちをして、吐き捨てるように言った。
「チッ。まぁ良いや。せいぜい楽しんだら?」
「だな。真司さんに狙われないように気を付けるんだな。セ・イ・ヤ・君」
クスクスと笑う三人は、そのまま踵を返して去っていった――。
そして、深山先輩は苦虫を嚙みつぶしたような顔で彼らを見ている。
「深山……先輩?」
恐る恐る声をかければ、深山先輩は我に返ったように先程までの笑顔を見せてきた。
「ごめんね」
「い、いえ……さっきのは、お友達」
「な訳ないじゃん」
「ですよね……」
だったら、今のは何だったのだろうか。そして真司さんとは一体?
聞きたいことは山ほどあるが、怖くて聞けない。いや、聞きたくない!
そう思うのに、ゆっくりと歩き始めた深山先輩は困った顔で口を開いた。
「ごめんね。やっぱり俺に関わらせるべきじゃなかったね」
「それは……」
僕も急いで深山先輩の横について並んで歩く。
「最近は大人しくしてたから、大丈夫だと思ったんだけどな。けど、こうなったら全力で守るから」
「守る……僕、やっぱり狙われた感じですか」
「そうみたい。だから、俺から絶対に離れないで」
「離れないでと言われましても……」
困惑しながら応えていると、深山先輩は路地を曲がったところで立ち止まった。
「深山先輩?」
その顔は、今にも泣きそうな、複雑そうな表情をしていた。
「大丈夫……ですか?」
「お願い、俺が守るから」
そんな顔で言われたら、返事は一つしかできない。
「分かりました」
――こうして、BLマンガ一冊から、俺と深山先輩の恋の物語が始まった。
「セイヤ」
「は、はい!」
深山先輩の大きな手が僕の頬に添えられ、ドキリとした。
そして、徐々にその顔が近付いてきた。
「えっと……」
「誓いのキス」
「キ……」
僕の唇に、彼のそれが重なった――――。



