◇
方向感覚も曖昧に辿り着いたのは、小さな公園だった。
滑り台とブランコ、そして亀の甲羅をモチーフにしたドーム型の遊具しかない、もの寂しい近隣公園だ。甲羅公園と名がついているらしい。
公園に備え付けのベンチに腰掛ける。ベンチは緑ペンキのコーティングが端から剥がれ、ところどころ木材が丸出しになっていた。足の部分も年季により腐りはじめているのか、だいぶ木の表面が削ぎ落とされてしまっている。
――奏叶がまだ二歳になったばかりの頃、忙しい仕事の合間を縫って近所の公園にふたりで散歩へ出ていたのを思い出した。
奏叶は歩きはじめるのが遅いほうで、二歳になってもまだ安定はせず、私と手を繋いでいないとたまによろつくことがあった。それでも、一生懸命に足を踏み出して歩く姿が愛しくて、ゆっくり、ゆっくりと、時間をかけて公園内を回っていた。
そんな時期があったがゆえだろうか。奏叶と離れてからは、街で仲のよさそうな親子を見ると、ほっこり胸が温かくなる一方で、ひとつ靄が増えるようになった。
自分がなれなかった姿を見て、心を丸ごと闇が覆ってしまう。羨ましいと――どうして私はあの人みたいになれなかったのだろう、と。同時に伸し掛かるのは、どうしようもない罪悪感。根強い罪の意識は、まさに鎖そのものだった。
再婚して幸せだという気持ちはたしかにあるのに、私はどんなときだってその鎖から解き放たれることはない。死してなお、縛られ続けている。
「…………」
私はゆるゆると空を見上げた。家を出たときに比べれば、いくらか雲が増えているように思えた。遠くの空にはやや怪しい色を伴った暗雲も揺蕩っている。
この様子だと、今夜は少し、雨が降るのかもしれない。
いっそいますぐに降ってくれたほうが、幾分かすっきりするだろうに。
自嘲が浮かぶ。私はうなだれ、深く深く息を吐き出した。
「……あ、の」
――どれほど時間が経ったのか、ふいに掠れた声が鼓膜を揺らした。
からだが無意識に跳ねる。勢いよく顔を上げると、緊張した面持ちでこちらを見つめる彼と真っ直ぐに視線が交わった。
奏叶だ。気がつかなかった。いつの間に――どうして、ここに。
ひく、と呼吸が止まる。ああ、目の形が幼い頃と変わらない。
「あの……、す、すみません。急に話しかけて。えっと、でもぼく、あ、怪しい者じゃないです。本当に、怪しくはなくて、でも、その……っ」
あまりにもしどろもどろだった。視線が上に下に泳ぐことこのうえない。きょろきょろと落ち着かず、必死に言葉を探しているようだった。
視界に入る情報がようやく脳に回りはじめる。よく見ると、奏叶は肩で息をしていた。ここまで走ってきたのだろうか。どうして、とまた疑問符が浮かぶ。
「さ、さっきは、無視してごめんなさい。ぼく、びっくりしちゃって」
「え……」
「もしかして、とは、思ったんです。でも、ちがうかもしれないし、そんなわけないって無視しちゃって。あの、すごく混乱してたから。ごめんなさい。家に帰って確認するつもりだったんですけど、その、たっ、宝箱が見つからなくて」
奏叶は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。ひとことひとこと、つっかえながらも必死に思いを伝えようとしてくれているのが感じられた。
「やっと見つけて、確認して、やっぱりそうだったから、すぐに家を出たんです。だけど、もういなかったから、走って探して……」
奏叶はよりいっそう張り詰めた様子で、泳がせていた視線を私へ戻した。
「――あの、ママ、だよね?」
硬直しきった表情筋と、涙の奥で震えている瞳孔。その奥にひそむものがどんな感情なのか私にはわからないし、わかったとしても、きっと言葉にできない。
私もまた、向けられた『ママ』に思考がすべて吹き飛んでしまったから。
「……奏叶……」
思わず口から息子の名が零れ落ちた。奏叶は息を呑み、はっと目を見開く。
「やっぱり、そうなんだ」
「っ……」
「ママ、ぼくに会いにきてくれたの?」
くしゃりと歪んだ顔。震えは隠しきれていなかった。どこか期待をはらんだ抑揚のついた声で訊ねられる。縋るような眼差しに、胸の奥が絞り取られそうなほど痛む。
けれど、私はすぐにうなずくことができなかった。
「私を、憶えて……?」
奏叶はしばし固まったあと、申し訳なさそうに首を横に振った。
「ちゃんとは、憶えてなくて。少しだけ。でも、写真があったからわかったよ」
「写真? もしかして、私の……?」
「あっ、ママの写真は、ほとんどお父さんが捨てちゃったから、ないんだけど。その、母子手帳に挟まってたのを一枚だけ、ぼく、隠してて……」
――母子手帳。
奏叶を恵一に引き取ってもらう際に、共に私の手から離れたものだ。
「小三のとき、学校の授業で持ってこいって言われて、初めて母子手帳を知ったんだけど。そのときにね、いちばん後ろのページに挟まってるのを見つけたんだ。でも、お父さんに気づかれたらきっと捨てられちゃうと思ったから、こっそり抜いて、ぼくの宝箱にかくしておいたんだよね」
会話に慣れてきたのか、先ほどよりもずいぶん話し方が流暢になってきた。
照れくさそうに眉尻を下げる奏叶に、胸がきゅっと締めつけられる。
「生まれたばっかりのぼくを抱っこしてる、ママの写真だよ。憶えてる?」
「っ……!」
憶えていない、わけがない。
「ええ、もちろん……っ」
奏叶は難産だった。初産だったからというのもあるだろうが、陣痛時間は二十四時間を超え、ようやく分娩台に上がってから生まれるまでも六時間以上を費やした。
そうしていざ奏叶が生まれたとき、こんなにも小さくて尊い命があるのかと、心から感動したものだった。疲労困憊のからだであの子を腕に抱けたのは、ほんのわずかな時間だ。それでも、か弱いうぶ声を上げて懸命に存在を訴えている姿はあまりにも神秘に満ちていて、勝手に涙が溢れ出てきた。幸せという感情で泣いたのは、後にも先にもこれっきり。自分がこれまで生きてきた理由がわかった瞬間だった。
写真は、病室へ戻ったあとに撮られたものになる。
息子という宝物を腕に抱いて、はにかんでいる自分――。
その写真に写る私には、奏叶への愛しさが溢れていた。これ以上幸せなことなんてきっとこの世にはないのだと言わんばかりの、幸福に満ちた顔をしていた。
母子手帳に挟んだのは、そのときの気持ちをいつまでも残しておきたかったからだ。
たしか裏表紙と最後のページに挟んでカバーに入れていたはず。
でも、あの写真を、まさか奏叶が見つけるなんて。
「ママ、写真よりちょっとだけ老けてたけど」
「ふ……っ!?」
感動から一転、思わぬ死角から攻撃を食らった。
「ふ、老けた、かしら。う、ええ、そりゃあそうよ。だってもう何年前……?」
「ぼくが生まれたときなら、十一年前かな? ぼく、来月で十一歳だから」
「十一年……そう、そうよね。来月は、奏叶のお誕生日だものね」
改めて聞くと、不思議な気持ちになる。奏叶が生まれた日はまるで昨日のことのようなのに、気がつけばそんなにも月日が経過しているなんて。
「あの、ね。ママ」
「うん……?」
「ぼく、ママの顔とか、曖昧になってたけど。でも、憶えてることもあるよ」
奏叶は少しだけ言いづらそうな様子を見せながら、私を見つめてくる。
「ママとこんなふうに公園にきてたこと、あったよね?」
「っ……!!」
「ママと手を繋いで公園を歩くの、大好きだったんだ。わくわくして、うれしくて、帰りたくなくて……。ぼくがまだ帰らないって言ったら、ママ、ちょっぴり困ってた気がする。でも、怒らなかった」
怒れるわけがない。だって私も、いつまでもそうしていたかった。奏叶とふたりで過ごす時間は幸せだった。ずっとずっと、一緒にいたかった。
いまさらそんなことを口にはできないけれど、私はずっと奏叶と一緒に――。
「ママがいなくなっちゃう前の、ママと過ごした時間のこと。ママ大好きって思ってたこと。そのときの気持ち、いまもぼくのなかにあるんだよ」
「どう、して……っ」
思わず声を荒らげてしまった。
耐えられなかった。遮らずにはいられなかった。母親になれなかった私には到底許されない言葉を与えてくれる奏叶に、いまにも胸が張り裂けてしまいそうだった。
ぽろ、と涙がひと粒、頬を伝う。
同時に口から零れた声はひどく震えており、奏叶の目がはっと見開かれた。
「どうして、そんなに優しいの……? 私は、あなたを……っ!」
「うーん……。ぼくね、ママに会えなくなって、何回もお父さんにママのこと聞いたんだ。でも、ママはもう会えないんだよって……これからは新しいお母さんと暮らすんだよって言われて、すごく寂しかった」
寂しかった。その言葉を脳が受け止めた瞬間、ついに耐えきれなくなった。とめどなく涙が流れ、言葉にならない嗚咽が零れる。喉の奥がひどく熱い。
「だけど、ぼくはいまでもママが好き。新しいお母さんは優しいけど、ママがぼくのママだっていうのは変わらないから、ずっと好きだよ」
「……っ」
本当は、ぐちゃぐちゃになった感情のまま泣き叫びたい。子どものように、人目もはばからず泣くことができたらいいのにと思う。
けれど、それを思いのままにしてしまったら、親としての示しがつかなくなってしまう。少なくとも私は、奏叶の前でこれ以上、弱い姿を見せたくはなかった。
漏れそうになる嗚咽を殺して、うつむいて涙を隠して、暴れてしまいたい衝動を抑えながら肩を縮めこんで耐える。このまま唇を噛みちぎってしまいそうだ。
「……ねえ、ママ。ママは、どうしてぼくが寝たあとに泣いてたの?」
私の前まで一歩、一歩と歩みを進めた奏叶が膝を抱えてしゃがみこんだ。うつむいたまま硬直する私を覗きこむように、小さく首を傾げる。
その声がどこか不安を帯びているように聞こえて、私はゆるゆると顔を上げた。
――泣いていた。
問われた言葉に、忘れかけていた当時の記憶が蘇る。
仕事で失敗した。終わらせようと思っていたものが終わらなかった。ああ、今日もまた上手くできなかった。上手くやらなきゃいけないのに。母親としても、もっとしっかりしないと。奏叶には、もう私しかいないんだから、頑張らなきゃ――。
仕事から帰った夜、まだ幼かった奏叶を寝かしつけたあとは、たったひとり狭いリビングで顔を覆って塞ぎこんでいた。
つらくない。苦しくない。大丈夫。そう言い聞かせて、思いこんで。それでも勝手に流れる涙に困って、耐えて、誤魔化して。毎日、毎日、その繰り返しだった。
なぜ知っているのだろう。誰にも見られていないと思っていたのに。
「もし、ぼくのせいだったらごめんね。でも、ぼくはやっぱり、ママに泣いてほしくない。ママが悲しい顔してたら、ぼくも悲しいから」
奏叶はおずおずと立ち上がると、私の隣に腰を下ろした。
私の背に、まだ子どもの手が添えられる。おそるおそる、どうするのが正解なのかわからないままに、それでもどうにか励まそうとしている手だった。
ゆっくり、ゆっくり。大丈夫だよと優しく言い聞かせるように擦ってくれる。
「だいじょうぶだよ、ママ」
いったい誰からその撫で方を学んだのだろう、と考えて、自分だと気づく。
奏叶が幼い頃、べそをかくといつもこうして背中を撫でていた。
不思議なことに、奏叶は赤ちゃんのときからこの撫で方が好きだった。とんとんとあやすように背を叩くより、ゆっくりと包みこむように撫でるほうが泣き止むのだ。
「ぼくね、ママが会いにきてくれたの、すごくうれしいんだ。本当だよ」
素直で真っ直ぐな、私の知る奏叶らしい言葉だった。それでも私は、保育園の誰よりも泣き虫で、甘えん坊で、私と一緒にいるときはいつでもどこでも抱っこをせがんできていた、幼い奏叶のことも忘れてはいない。
「っ、ありがとう……。ありがとうね、奏叶」
心優しいこの子のことだ。きっと私が泣いているのを見て、強い子であろうとしてくれているのだろう。心配させないように、精一杯、大人ぶって――。
気づけば私は腕を伸ばし、奏叶を抱き締めていた。
「う、わ……っ?」
「奏叶は……かっこいいわね」
「えっ、ぼくが!?」
「ええ。すごく、かっこいいわ。ママ、きゅんとしちゃったもの」
恵一らしい、恵一の子らしい強さと優しさだ。私が惹かれたその核の部分を、奏叶は確実に引き継いでいる。それを感じられただけで胸が一杯だった。
如何ともしがたい涙を拭いながら身を引いて、奏叶と向き合う。
「でも、ぼく、かっこいいどころか女子っぽいって言われるよ。顔も喋り方も、あんまり男子っぽくないんだって。学校でよくからかわれるもん」
「あら……そんなこと言われるの? やあねぇ」
奏叶は輪郭も丸く色白で、どちらに似たのか幼い頃から顔つきも中性的だ。
声変わりもどうやらまだはじまっていないようだし、この柔和な雰囲気と尖りのない口調も相まって、よけいにからかわれやすいのかもしれない。
「いいのよ、奏叶は奏叶らしくいて」
「そうなのかな……」
「ええ。でも、自分がこうしたい、こうありたいって思っていることを呑みこんだままじゃ相手には伝わらない。周りに合わせるのもときには大事だけど、奏叶の心が訴えていることなら、ちゃんと言葉にして伝える努力はしないといけないかもね」
私には、その強さがなかった。結局、この命を終えるまでずっと。
だからこそ、奏叶にはどうか後悔しないように生きてもらいたかった。
「もちろん、あなたが変えたいって思ったら変えればいい。個性なんてどんどん変わっていくものだから。新しいことに触れて、知って、変わって、奏叶は奏叶らしさを更新しながら大人になればいいの。焦る必要なんてないのよ」
いまいちわかっていないような顔をしながらも、奏叶はこくんとうなずいた。
そんな奏叶の背に手を回し、もう一度抱き締めながら言葉を続ける。
「ねえ、奏叶? ママね、どれだけ離れていても、奏叶が笑って過ごせるように、いつも願ってる。たっくさん幸せになってね」
――きっと、こんなことを口にするのは許されないのだろう。
けれど、これが本当の最期だ。伝えずにはいれなかった。
心の底から奏叶を想っているからこそ。愛しているからこそ、この子を生んだ母として奏叶の未来を願ってしまう。どうか、どうかと。
「……奏叶は、お父さんと新しいお母さんのこと、好き?」
そして、もうひとつ。どうしても聞かずにはいられなかったことを訊ねる。
すると奏叶は、何度か目を瞬かせたあと、少し悩ましげに首を傾げた。
「んー。お父さんはちょっぴりきびしいし、怒るとこわいよ。でも、いつもぼくの話を聞いてくれるし、遊んでくれるし、頭もいいし、すごいなって思うところもたくさんある。それから、お母さんは……とっても優しい。ご飯も美味しいしね」
日頃のことを思い返しているのか、そこまで告げると数拍の間があいた。
やがて視線が泳ぎ、奏叶はなにかを言い淀んだあと、照れたようにはにかむ。
「……うん、好きかな」
「っ……!」
「ぼくはね、お父さんもお母さんも、もちろんママも、みんな大好きだよ」
方向感覚も曖昧に辿り着いたのは、小さな公園だった。
滑り台とブランコ、そして亀の甲羅をモチーフにしたドーム型の遊具しかない、もの寂しい近隣公園だ。甲羅公園と名がついているらしい。
公園に備え付けのベンチに腰掛ける。ベンチは緑ペンキのコーティングが端から剥がれ、ところどころ木材が丸出しになっていた。足の部分も年季により腐りはじめているのか、だいぶ木の表面が削ぎ落とされてしまっている。
――奏叶がまだ二歳になったばかりの頃、忙しい仕事の合間を縫って近所の公園にふたりで散歩へ出ていたのを思い出した。
奏叶は歩きはじめるのが遅いほうで、二歳になってもまだ安定はせず、私と手を繋いでいないとたまによろつくことがあった。それでも、一生懸命に足を踏み出して歩く姿が愛しくて、ゆっくり、ゆっくりと、時間をかけて公園内を回っていた。
そんな時期があったがゆえだろうか。奏叶と離れてからは、街で仲のよさそうな親子を見ると、ほっこり胸が温かくなる一方で、ひとつ靄が増えるようになった。
自分がなれなかった姿を見て、心を丸ごと闇が覆ってしまう。羨ましいと――どうして私はあの人みたいになれなかったのだろう、と。同時に伸し掛かるのは、どうしようもない罪悪感。根強い罪の意識は、まさに鎖そのものだった。
再婚して幸せだという気持ちはたしかにあるのに、私はどんなときだってその鎖から解き放たれることはない。死してなお、縛られ続けている。
「…………」
私はゆるゆると空を見上げた。家を出たときに比べれば、いくらか雲が増えているように思えた。遠くの空にはやや怪しい色を伴った暗雲も揺蕩っている。
この様子だと、今夜は少し、雨が降るのかもしれない。
いっそいますぐに降ってくれたほうが、幾分かすっきりするだろうに。
自嘲が浮かぶ。私はうなだれ、深く深く息を吐き出した。
「……あ、の」
――どれほど時間が経ったのか、ふいに掠れた声が鼓膜を揺らした。
からだが無意識に跳ねる。勢いよく顔を上げると、緊張した面持ちでこちらを見つめる彼と真っ直ぐに視線が交わった。
奏叶だ。気がつかなかった。いつの間に――どうして、ここに。
ひく、と呼吸が止まる。ああ、目の形が幼い頃と変わらない。
「あの……、す、すみません。急に話しかけて。えっと、でもぼく、あ、怪しい者じゃないです。本当に、怪しくはなくて、でも、その……っ」
あまりにもしどろもどろだった。視線が上に下に泳ぐことこのうえない。きょろきょろと落ち着かず、必死に言葉を探しているようだった。
視界に入る情報がようやく脳に回りはじめる。よく見ると、奏叶は肩で息をしていた。ここまで走ってきたのだろうか。どうして、とまた疑問符が浮かぶ。
「さ、さっきは、無視してごめんなさい。ぼく、びっくりしちゃって」
「え……」
「もしかして、とは、思ったんです。でも、ちがうかもしれないし、そんなわけないって無視しちゃって。あの、すごく混乱してたから。ごめんなさい。家に帰って確認するつもりだったんですけど、その、たっ、宝箱が見つからなくて」
奏叶は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。ひとことひとこと、つっかえながらも必死に思いを伝えようとしてくれているのが感じられた。
「やっと見つけて、確認して、やっぱりそうだったから、すぐに家を出たんです。だけど、もういなかったから、走って探して……」
奏叶はよりいっそう張り詰めた様子で、泳がせていた視線を私へ戻した。
「――あの、ママ、だよね?」
硬直しきった表情筋と、涙の奥で震えている瞳孔。その奥にひそむものがどんな感情なのか私にはわからないし、わかったとしても、きっと言葉にできない。
私もまた、向けられた『ママ』に思考がすべて吹き飛んでしまったから。
「……奏叶……」
思わず口から息子の名が零れ落ちた。奏叶は息を呑み、はっと目を見開く。
「やっぱり、そうなんだ」
「っ……」
「ママ、ぼくに会いにきてくれたの?」
くしゃりと歪んだ顔。震えは隠しきれていなかった。どこか期待をはらんだ抑揚のついた声で訊ねられる。縋るような眼差しに、胸の奥が絞り取られそうなほど痛む。
けれど、私はすぐにうなずくことができなかった。
「私を、憶えて……?」
奏叶はしばし固まったあと、申し訳なさそうに首を横に振った。
「ちゃんとは、憶えてなくて。少しだけ。でも、写真があったからわかったよ」
「写真? もしかして、私の……?」
「あっ、ママの写真は、ほとんどお父さんが捨てちゃったから、ないんだけど。その、母子手帳に挟まってたのを一枚だけ、ぼく、隠してて……」
――母子手帳。
奏叶を恵一に引き取ってもらう際に、共に私の手から離れたものだ。
「小三のとき、学校の授業で持ってこいって言われて、初めて母子手帳を知ったんだけど。そのときにね、いちばん後ろのページに挟まってるのを見つけたんだ。でも、お父さんに気づかれたらきっと捨てられちゃうと思ったから、こっそり抜いて、ぼくの宝箱にかくしておいたんだよね」
会話に慣れてきたのか、先ほどよりもずいぶん話し方が流暢になってきた。
照れくさそうに眉尻を下げる奏叶に、胸がきゅっと締めつけられる。
「生まれたばっかりのぼくを抱っこしてる、ママの写真だよ。憶えてる?」
「っ……!」
憶えていない、わけがない。
「ええ、もちろん……っ」
奏叶は難産だった。初産だったからというのもあるだろうが、陣痛時間は二十四時間を超え、ようやく分娩台に上がってから生まれるまでも六時間以上を費やした。
そうしていざ奏叶が生まれたとき、こんなにも小さくて尊い命があるのかと、心から感動したものだった。疲労困憊のからだであの子を腕に抱けたのは、ほんのわずかな時間だ。それでも、か弱いうぶ声を上げて懸命に存在を訴えている姿はあまりにも神秘に満ちていて、勝手に涙が溢れ出てきた。幸せという感情で泣いたのは、後にも先にもこれっきり。自分がこれまで生きてきた理由がわかった瞬間だった。
写真は、病室へ戻ったあとに撮られたものになる。
息子という宝物を腕に抱いて、はにかんでいる自分――。
その写真に写る私には、奏叶への愛しさが溢れていた。これ以上幸せなことなんてきっとこの世にはないのだと言わんばかりの、幸福に満ちた顔をしていた。
母子手帳に挟んだのは、そのときの気持ちをいつまでも残しておきたかったからだ。
たしか裏表紙と最後のページに挟んでカバーに入れていたはず。
でも、あの写真を、まさか奏叶が見つけるなんて。
「ママ、写真よりちょっとだけ老けてたけど」
「ふ……っ!?」
感動から一転、思わぬ死角から攻撃を食らった。
「ふ、老けた、かしら。う、ええ、そりゃあそうよ。だってもう何年前……?」
「ぼくが生まれたときなら、十一年前かな? ぼく、来月で十一歳だから」
「十一年……そう、そうよね。来月は、奏叶のお誕生日だものね」
改めて聞くと、不思議な気持ちになる。奏叶が生まれた日はまるで昨日のことのようなのに、気がつけばそんなにも月日が経過しているなんて。
「あの、ね。ママ」
「うん……?」
「ぼく、ママの顔とか、曖昧になってたけど。でも、憶えてることもあるよ」
奏叶は少しだけ言いづらそうな様子を見せながら、私を見つめてくる。
「ママとこんなふうに公園にきてたこと、あったよね?」
「っ……!!」
「ママと手を繋いで公園を歩くの、大好きだったんだ。わくわくして、うれしくて、帰りたくなくて……。ぼくがまだ帰らないって言ったら、ママ、ちょっぴり困ってた気がする。でも、怒らなかった」
怒れるわけがない。だって私も、いつまでもそうしていたかった。奏叶とふたりで過ごす時間は幸せだった。ずっとずっと、一緒にいたかった。
いまさらそんなことを口にはできないけれど、私はずっと奏叶と一緒に――。
「ママがいなくなっちゃう前の、ママと過ごした時間のこと。ママ大好きって思ってたこと。そのときの気持ち、いまもぼくのなかにあるんだよ」
「どう、して……っ」
思わず声を荒らげてしまった。
耐えられなかった。遮らずにはいられなかった。母親になれなかった私には到底許されない言葉を与えてくれる奏叶に、いまにも胸が張り裂けてしまいそうだった。
ぽろ、と涙がひと粒、頬を伝う。
同時に口から零れた声はひどく震えており、奏叶の目がはっと見開かれた。
「どうして、そんなに優しいの……? 私は、あなたを……っ!」
「うーん……。ぼくね、ママに会えなくなって、何回もお父さんにママのこと聞いたんだ。でも、ママはもう会えないんだよって……これからは新しいお母さんと暮らすんだよって言われて、すごく寂しかった」
寂しかった。その言葉を脳が受け止めた瞬間、ついに耐えきれなくなった。とめどなく涙が流れ、言葉にならない嗚咽が零れる。喉の奥がひどく熱い。
「だけど、ぼくはいまでもママが好き。新しいお母さんは優しいけど、ママがぼくのママだっていうのは変わらないから、ずっと好きだよ」
「……っ」
本当は、ぐちゃぐちゃになった感情のまま泣き叫びたい。子どものように、人目もはばからず泣くことができたらいいのにと思う。
けれど、それを思いのままにしてしまったら、親としての示しがつかなくなってしまう。少なくとも私は、奏叶の前でこれ以上、弱い姿を見せたくはなかった。
漏れそうになる嗚咽を殺して、うつむいて涙を隠して、暴れてしまいたい衝動を抑えながら肩を縮めこんで耐える。このまま唇を噛みちぎってしまいそうだ。
「……ねえ、ママ。ママは、どうしてぼくが寝たあとに泣いてたの?」
私の前まで一歩、一歩と歩みを進めた奏叶が膝を抱えてしゃがみこんだ。うつむいたまま硬直する私を覗きこむように、小さく首を傾げる。
その声がどこか不安を帯びているように聞こえて、私はゆるゆると顔を上げた。
――泣いていた。
問われた言葉に、忘れかけていた当時の記憶が蘇る。
仕事で失敗した。終わらせようと思っていたものが終わらなかった。ああ、今日もまた上手くできなかった。上手くやらなきゃいけないのに。母親としても、もっとしっかりしないと。奏叶には、もう私しかいないんだから、頑張らなきゃ――。
仕事から帰った夜、まだ幼かった奏叶を寝かしつけたあとは、たったひとり狭いリビングで顔を覆って塞ぎこんでいた。
つらくない。苦しくない。大丈夫。そう言い聞かせて、思いこんで。それでも勝手に流れる涙に困って、耐えて、誤魔化して。毎日、毎日、その繰り返しだった。
なぜ知っているのだろう。誰にも見られていないと思っていたのに。
「もし、ぼくのせいだったらごめんね。でも、ぼくはやっぱり、ママに泣いてほしくない。ママが悲しい顔してたら、ぼくも悲しいから」
奏叶はおずおずと立ち上がると、私の隣に腰を下ろした。
私の背に、まだ子どもの手が添えられる。おそるおそる、どうするのが正解なのかわからないままに、それでもどうにか励まそうとしている手だった。
ゆっくり、ゆっくり。大丈夫だよと優しく言い聞かせるように擦ってくれる。
「だいじょうぶだよ、ママ」
いったい誰からその撫で方を学んだのだろう、と考えて、自分だと気づく。
奏叶が幼い頃、べそをかくといつもこうして背中を撫でていた。
不思議なことに、奏叶は赤ちゃんのときからこの撫で方が好きだった。とんとんとあやすように背を叩くより、ゆっくりと包みこむように撫でるほうが泣き止むのだ。
「ぼくね、ママが会いにきてくれたの、すごくうれしいんだ。本当だよ」
素直で真っ直ぐな、私の知る奏叶らしい言葉だった。それでも私は、保育園の誰よりも泣き虫で、甘えん坊で、私と一緒にいるときはいつでもどこでも抱っこをせがんできていた、幼い奏叶のことも忘れてはいない。
「っ、ありがとう……。ありがとうね、奏叶」
心優しいこの子のことだ。きっと私が泣いているのを見て、強い子であろうとしてくれているのだろう。心配させないように、精一杯、大人ぶって――。
気づけば私は腕を伸ばし、奏叶を抱き締めていた。
「う、わ……っ?」
「奏叶は……かっこいいわね」
「えっ、ぼくが!?」
「ええ。すごく、かっこいいわ。ママ、きゅんとしちゃったもの」
恵一らしい、恵一の子らしい強さと優しさだ。私が惹かれたその核の部分を、奏叶は確実に引き継いでいる。それを感じられただけで胸が一杯だった。
如何ともしがたい涙を拭いながら身を引いて、奏叶と向き合う。
「でも、ぼく、かっこいいどころか女子っぽいって言われるよ。顔も喋り方も、あんまり男子っぽくないんだって。学校でよくからかわれるもん」
「あら……そんなこと言われるの? やあねぇ」
奏叶は輪郭も丸く色白で、どちらに似たのか幼い頃から顔つきも中性的だ。
声変わりもどうやらまだはじまっていないようだし、この柔和な雰囲気と尖りのない口調も相まって、よけいにからかわれやすいのかもしれない。
「いいのよ、奏叶は奏叶らしくいて」
「そうなのかな……」
「ええ。でも、自分がこうしたい、こうありたいって思っていることを呑みこんだままじゃ相手には伝わらない。周りに合わせるのもときには大事だけど、奏叶の心が訴えていることなら、ちゃんと言葉にして伝える努力はしないといけないかもね」
私には、その強さがなかった。結局、この命を終えるまでずっと。
だからこそ、奏叶にはどうか後悔しないように生きてもらいたかった。
「もちろん、あなたが変えたいって思ったら変えればいい。個性なんてどんどん変わっていくものだから。新しいことに触れて、知って、変わって、奏叶は奏叶らしさを更新しながら大人になればいいの。焦る必要なんてないのよ」
いまいちわかっていないような顔をしながらも、奏叶はこくんとうなずいた。
そんな奏叶の背に手を回し、もう一度抱き締めながら言葉を続ける。
「ねえ、奏叶? ママね、どれだけ離れていても、奏叶が笑って過ごせるように、いつも願ってる。たっくさん幸せになってね」
――きっと、こんなことを口にするのは許されないのだろう。
けれど、これが本当の最期だ。伝えずにはいれなかった。
心の底から奏叶を想っているからこそ。愛しているからこそ、この子を生んだ母として奏叶の未来を願ってしまう。どうか、どうかと。
「……奏叶は、お父さんと新しいお母さんのこと、好き?」
そして、もうひとつ。どうしても聞かずにはいられなかったことを訊ねる。
すると奏叶は、何度か目を瞬かせたあと、少し悩ましげに首を傾げた。
「んー。お父さんはちょっぴりきびしいし、怒るとこわいよ。でも、いつもぼくの話を聞いてくれるし、遊んでくれるし、頭もいいし、すごいなって思うところもたくさんある。それから、お母さんは……とっても優しい。ご飯も美味しいしね」
日頃のことを思い返しているのか、そこまで告げると数拍の間があいた。
やがて視線が泳ぎ、奏叶はなにかを言い淀んだあと、照れたようにはにかむ。
「……うん、好きかな」
「っ……!」
「ぼくはね、お父さんもお母さんも、もちろんママも、みんな大好きだよ」



