天国までの記憶列車


 ◇

 電車で揺られること、二時間半弱。

 目的駅に到着し、改札を出たところでクロが足を止めた。

 「さぁてと――栞の行きたい場所へ送り届ける任務は完了したからにゃ。この後どうするかは栞次第。ボクはもうタイムリミットまで関与しないにゃ」

 「えっ、いなくなっちゃうの?」

 「栞が()()()()()をしているときにボクがいたら気が散るしにゃあ。ボクはのんびり散歩でもしてるから、気にしないでいいにゃよ」

 そう言うと、クロは近くの塀に飛び乗って歩きはじめた。しかし、ふと思い出したように首だけこちらを振り向く。オッドアイがすっと細められた。

 「列車でも伝えたけど、タイムリミットが近づいたらどんな状況でもボクがお知らせにいくからにゃ。黒猫が横切るまで、が合図にゃ。忘れちゃだめにゃあよ?」

 「え、ええ……。わかったわ」

 「じゃ、またあとでにゃ」

 ふたたび歩き出したクロを、どこか茫然とした気持ちで見送る。

 だが、ふと(まばた)きをした次の瞬間、クロの姿は消えていた。道路側へ飛び降りたのかと思ったけれど、一本道のどこにも姿は見えない。

 「……本当に、不思議な猫だわ」

 思わず呟いてしまいながら、私は進むべき方向を振り返る。

 たしかに目的地まで送り届けられた。クロは私のことをずっと見守っていてくれたし、なんだかんだ言いつつも、迷っていた私の背中を押して導いてくれた。

 しかし、この先はひとりきり。私はどうしたらいいのだろう。

 進むべきか、否か。ここまできてまだ心は定まらず、天秤は揺れ続ける。

 途方に暮れながら、私はまたもゆっくりとした足取りで歩き出した。

 「ふふ、だめね……」

 少しだけ強い風が吹いた。肩上で髪がなびき、また、足が止まる。

 ここまできたら、もう誤魔化しようがなかった。

 覚悟。勇気。そんなものあるわけがない。最初からなかった。

 この先に進むのが怖い。これ以上足を踏み出すのが恐ろしい。谷底すら見えない崖っぷちに、命綱もなく立たされているかのような恐怖が身を支配する。

 わかっていた。

 私の犯した罪は、過去に戻ったくらいで償えるものではない。向き合えばそのぶん罪は()し掛かる。さらに重く強く縛られるだろうと、ちゃんとわかっていた。

 己の弱さに負けて母親の任を最後まで全うしきれなかった私を、母親でいることを諦めた私を、あの子が受け入れてくれるとも思ってはいない。

 本当なら、こうして会いに行くことも許されない――許されなかった。

 その状況を言い訳にして、私は自分の気持ちを押し殺したままに死んだのだ。

 いまさらなにを、という気持ちはやはり拭いきれないまま胸に蔓延(はびこ)る。

 「…………」

 ゆっくり、一歩を踏み出す。もう一歩、さらに一歩。

 生前、まだなんとか起き上がることができていた頃を思い出す。

 あれは死を迎える数週間前だっただろうか。久しぶりにベッドを降りて、(あつし)さんに支えられながら病院の廊下を歩いたことがあった。

 『ふふ。こんなふうに歩くのなんて、いつぶりかしら』

 そのとき私は、そう言って敦さんに笑って見せた。

 支えてくれていた敦さんもまた、そんな私に笑い返してくれた。ほっとしたような顔にもつらそうな顔にも見えたけれど、笑ってくれたことがうれしかった。

 でも、あのとき、本当は泣きたかった。

 泣き叫びたかった。

 ただ歩くという行為が途方もなく感じられて、そんなことすらできない自分が情けなくて、どうしようもなく死を感じて、現実を知った瞬間だったのだ。

 踏み出す一歩は、死へ近づく一歩のようで。

 敦さんが帰宅してひとりになった瞬間、私は頭まで布団を被って枕を濡らした。

 泣いて、泣いて、泣き疲れて、気づいたら翌日の朝を迎えていた。

 その日の午後、面会にきた敦さんは、私の顔を見て察したのだろう。ただ黙って抱き締めてくれた。その(ぬく)もりに、私はやっぱり、涙を流した。

 ――いま踏み出す一歩は、あのときと似ている。

 まるで鉛を引きずっているかのように、足が、からだが重い。

 この先に待ち受ける死刑宣告を、心が恐怖し、拒絶しているのがわかる。それでも進まねば、という焦りが足を上げさせるのだ。矛盾に重なる矛盾が、一歩進むたびに心を打ちのめし、目の前が、踏み出す先の地面が真っ暗になっていく。

 しかし少しずつでも進んでいれば、やがては着いてしまうもの。

 何度か訪れたことのあるマンションを前に、私は立ち尽くしながら顔を上げた。

 「……きっとまだ、帰っていないわよね」

 恵一は仕事で家にはいない時間帯だ。現在は妻となった相手の女性も、共働きのために昼間は仕事へ出ているはず。面会を許されていない状況である以上、もし本当にあの子と会うのなら、ふたりきりで顔を合わせられる時間帯を選ぶしかなかった。

 それはつまり、あの子が学校から帰宅して、両親が帰ってくるまでのわずかな間しかチャンスがないとも言える。

 振り子時計が鳴る前に家を出たかったのは、それが理由だ。

 小学生が帰宅しはじめる時間帯までは、おそらく一時間もないくらいだろう。

 「……本当に、会ってもいいのかしら……」

 壁沿いに立ち、うつむきながら煮詰まった思考を巡らせる。

 ――ひとめでいい。成長したあの子に会いたい。言葉を交わせなくても、遠くから見るだけでも構わないから、あの子の現在を目に焼き付けたい。

 愛する息子を求めてやまない気持ちは、たしかにこの胸にあるのだ。

 そう、会えば私の望みは叶う。

 未練が解消されるかはさておき、目的は達成する。

 だが、もし自分の気持ちを優先したことで、息子を傷つける結果になったら――。

 それは同じことの繰り返しになってしまう。ただただ罪を重ねるだけだ。

 そもそも私には、息子に会う資格すらないのに。

 「ふふ、だめね……。こんなところまできたのに」

 恵一が私のことをどう伝えているかは知らない。

 だが、あの子もきっと私に捨てられたと思っているだろう。

 恨まれていてもおかしくはないことをした。

 よしんば恨んでいなかったとしても、数年後には病気でこの世を去ることになる自分と会ったところで、よけいに悲しませてしまうだけかもしれない。

 もし忘れてしまったのなら、むしろそのほうがいいのだ。会わないまま、知らぬうちに本当の母親は死んでいたとするほうが、きっと喪失の傷は少ないのだから。

 ――考えれば考えるほど、足元が(すく)む。

 結局私は、いまもずっと弱いままなのだろう。

 最初からこうなる予感はしていた。

 なにしろ私は、私の行動によって変わる未来を知り得ない。望まぬ未来を招いてしまうかもしれないとわかっていながら、そのリスクを冒すための覚悟も勇気も持ち合わせていないのに、はたしてなにができるというのか。

 「……帰りましょう」

 ここまで見守り導いてくれたクロには申し訳ないと思う。

 でも、ここにくるまでの間、過去を振り返ることはできた。

 あらんかぎりの痛みと拭いようのない後悔を思い出した。

 それらは自戒となり、きっと私の魂に刻みつくだろう。次の生があるかどうかはわからないけれど、もしあるとすれば、同じ(あやま)ちを繰り返さずに済むかもしれない。

 まるで言い訳を積むようにそこまで考えて、小さくせせら笑う。

 自分の(みじ)めさと情けなさが、あまりにも(こっ)(けい)でおかしくて。

 私は歩き出した。きた道は戻らず、反対方向へ足を向ける。

 「この辺はあまり変わっていないのね……」

 じつは退院後すぐ、奏叶に会いたいという気持ちが抑えきれなくなって、この辺りまで足を運んだことがあった。

 もう会えないとわかっていても、私のなかには奏叶がいっぱいだったのだ。

 結果的には、怖じ気づいて恵一の住むマンションのインターホンを押すことはできなかったし、奏叶に会うことも叶わなかったのだけれど。

 この先には隣の路地に繋がる小道があったはずだ。そこから西方面に渡り、いくらか歩けば大通りに出ることができる。大通りなら路面バスも通っているだろう。

 まだ時間はあるし、多少手間はかかるけれど、バスを乗り継いでゆっくり帰ろう。

 いまの私の家に。帰るべき場所に。

 「そういえば敦さん、今日は何時に帰って……」

 そのときだった。

 真っ()ぐ伸びる道の向こうから、男の子が歩いてきていることに気づく。

 「っ……――!」

 どくん、と。全身に脈打つように鼓動が跳ねた。

 道を曲がってきたのだろうか。直前までは、たしかに誰もいなかったのに。

 小学校高学年くらいの子だ。小学生の男の子にしては、ずいぶん肌が白い。一歩の歩幅は小さめで、なぜか顔をうつむけて地面を見ながら歩いている。

 先ほどまでの自分を棚に上げて、危ない、と思った。

 けれど、声は出ない。指先が震えて、からだの奥底から鳥肌が立っていた。

 言葉にならない感情が波紋のように広がり、思考がじんじんと麻痺(まひ)している。

 ふと、彼が顔を上げた。

 まさか人がいるとは思わなかったのだろう。一瞬びくりと立ち止まりかける。

 けれど、立ち尽くす私と目が合った瞬間、()(げん)そうだった彼の表情が変わった。はっとしたように両目を見開き、戸惑いが浮かんだ――ような気がした。

 きっと同級生に比べて背も低いほうだろう。身に纏う頼りなさげな雰囲気は、悲しくも身に覚えがある。私の長年のコンプレックスそのものだった。

 ――ああ、奏叶だ。

 「っ……」

 まさか、こんな形で焦がれた息子と対面するとは思っていなかった。

 「あ、の」

 思わず声を掛けるも、喉がつっかえた。呼吸が上手くできない。そんな私を数秒ほど狼狽(うろた)えたように見つめていた奏叶だったが、やがてすっと視線を()らした。

 どこか気まずそうな表情でふたたび歩き出し、こちらに向かってくる。

 まず、なにを伝えるべきなのだろう。名を呼んでもいいのだろうか。いや、そもそも呼ぶことを許されるのかもわからない。これ以上声を掛けていいのかも――。

 そんな迷いを(しゅん)(じゅん)できたのは、ほんの一瞬だった。私が答えを出すまでもなく、早足で奏叶が私の横を通り過ぎていったからだ。

 (すが)るように振り返る。

 対して奏叶は、こちらをいっさい振り返らなかった。

 憶えていなかったのか。あるいは、憶えていて関わりたくなかったのか。

 どちらにせよ、あれは拒絶の意だった。どこか逃げるような足取りでマンションへ入っていった息子の姿を見送った私は、茫然と立ち尽くしたあと、脱力する。

 「……あんなに、大きくなったのね……」

 服の裾が地面に()れるのも気にせずしゃがみこみ、両手で顔を覆う。

 ――あの子が生まれたとき、目鼻立ちのはっきりとしない骨格を見て、あまりにも自分似だと思った。

 けれど、一ヶ月が経ち、二ヶ月、三ヶ月、半年と徐々に感覚が変わった。

 息子は自分似ではなく父親似なのかもしれないと思いはじめたのだ。クルミを焦がしたような瞳の色や、毛先だけ丸く跳ねる髪の(くせ)、ふとしたときに浮かべる大人びた表情が、驚くほど恵一にそっくりだったから。

 自分と恵一を順番に鏡に映したような息子の姿が、あの頃はとても不思議で、だけれど愛しくて、この子だけはなにがあっても守ろうと誓った。

 当時のその感覚が、いま、ふたたび(よみがえ)っている。

 あんなに、大きくなって――。

 「そう、よね……。七年も経っているんだもの……」

 熱いものがこみ上げる。唇が震えて、上手く呼吸ができない。ああ、だめだ。

 成長した姿を見られてうれしいのか、拒絶されて悲しいのかわからない。心がぐちゃぐちゃだった。いい大人が、声を上げて泣きじゃくりたい衝動に駆られている。

 ――謝りたかった。ただただ、謝りたかった。

 許されたいわけではなく、ごめんなさいと伝えたかった。

 そんな資格はないとしても、いまも変わらず私は世界でたったひとりの息子のあなたを心から大切に想っているのだと、わかっていてほしかった。

 私はもう、母親としてあの子を守ることができる立場にいない。己の弱さに打ち勝てず、息子を手放す選択をしたのはほかでもない私自身。どれだけあの子を愛していると訴えても、過去にその選択をしてしまった以上、恨まれても文句は言えないのだ。

 それにあの子には、奏叶には、もう新しいお母さんもいる。

 「ほんと……、母親失格ね。私は」

 ふらつきながら立ち上がり、顔を上げることもできないまま歩きはじめる。

 正直自分の家へ帰る気力も残ってはいなかった。