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「栞は息子と会って、なにがしたいのか決まってるのかにゃ?」
最寄り駅に着いて電車の到着を待っていた私は、ふいにクロから投げかけられた問いに硬直した。足元へ視線を落とすと、クロはじっとこちらを見上げている。
「なに、って……」
恵一に親権を渡したとき、息子は四歳。あれから七年の時が経過しているこの時空では、息子は十一歳。もう小学五年生になっているはずだ。
私のなかではいつまでも変わらない、小さくて幼いばかりの男の子ではない。
「うーん。なにがって言われると、言葉にするのは難しいわね……。謝りたいとか、成長した姿を見たいとか、いろいろな思いはあるけれど」
「けれど?」
「ただ、ただね、会いたいって思ったの。最期に、あの子を抱き締めたいって」
電車が勢いよくホームを通過する。けたたましいレール音が響き、クロの声が途中でかき消された。風圧で横に流された髪を押さえながら、私は顔を上げる。
「でも、いまも迷ってるわ。未練解消のためとはいえ、会いに行っていいのかわからないから……。きっと、許されないことをする覚悟が足りないのね」
「真面目だにゃあ、栞は」
「しょうがないのよ。そもそも私は奏叶に会ってはいけない立場だし……。奏叶だって憶えていないかもしれない。たとえ憶えていたとしても、私を恨んでいる可能性もあるもの。奏叶のことを思えば、会わないほうが……って考えちゃうの」
クロはオッドアイに呆れた色を浮かべて「んにゃあ」と答える。
「世界の理を覆している奇蹟のなかで、許しもなにもないと思うけどにゃ。どうして人間は、そう縛られようとするのかにゃ~。ボクにはわからないにゃ」
「……決まりとか規則とか、そういう文化のなかで生きているからじゃない?」
とりわけ私は、昔からルールを破れない性格だ。
「でもにゃ、この世には第三者が〝勝手に判断した思いこみ〟と〝現実〟が、まったく異なることも少なからず存在するにゃあよ。ほら、ボクだって猫だけど猫じゃないにゃあね。正しさなんて、結局、他人のものさしでしかないのにゃ」
「それは……そう、だけれど」
正直、考えたこともなかった。
だめなものはだめ。だから、禁止されれば、従うしかない。
息子と別れてからたったの一度も会う努力をしなかったのは、そう定められてしまったからだ。しなかったのではなく、正確にはできなかったが正しい。
しかし、実際こうして私はいま、後悔を抱えたまま死んでしまった。
そう考えると、クロの言う通り、なにが正しさなのかわからなくなってくる。
「……私だけじゃない。あの子も……お互いなにを思って、なにを感じているのかわからないから、きっと怖いのね」
許されないことだから、というのはある種の言い訳ともいえる。向き合おうとしなかったのは自分なのに、そうしなかった理由が欲しかっただけ。
「思いこみによる誤解と理不尽は、気をつけていても避けられないものにゃ。とりわけ人の心が関わるものはすれ違いが起きやすい。自分じゃない他人の心を見通せるわけないしにゃ。どれだけ近い存在でも無理にゃあよ」
そのとき、ホームに電車の到着アナウンスが流れた。
私が乗車する予定の上り電車だ。どうやら車両点検の影響で二分ほどの遅れが発生しているらしい。マニュアル通りの謝罪アナウンスを上の空で聞きながら、クロの言葉を頭のなかで繰り返す。すぐに答えは出なくても引っ掛かるものがあった。
成長した姿をこの目で見たい。
最期にひとめ会いたい。
本当はずっと一緒にいたかったと伝えたい。
たとえ願うことすら許されないことだとしても、心は強く、切実にそう訴えかけてくる。私はどうしたってあの子の〝母親〟なのだと痛感する。
消えることはない。消すことはできない。否、決して消してはならないこの罪を背負って、ひとり死の先へ向かわなければならないのに。
「……クロちゃん。私、もう少しちゃんと、考えてみるわね」
「にゃあ」
到着した電車に、確認もせずさっさと乗りこむクロを追いかける。
やはり不思議な猫だ。どうやら私が待っていた電車だとわかっているらしい。
空いていたふたり用の座席に飛び乗り振り返ったクロは、早くこいと言わんばかりに二本の尻尾をゆらりゆらりと揺らした。



