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振り子時計が鳴る前に家を出ることができた私は、クロと並んで駅までの道を歩く。
「よかった。雨は降らなそうね」
ちょうど梅雨の時期だ。空模様が気にかかっていたけれど、いまのところ薄雲が広がるくらいで天候が崩れそうな気配はない。
不思議なことに、すれちがう人たちには黒猫の姿が見えていないようだった。
なぜかとクロに訊ねても、一瞥しただけで答えてはくれない。
猫らしい気まぐれさだというべきか。まあ、姿形が猫であるだけで、本来はまったくちがうものなのだろう。死神とか閻魔とか、そういうファンタジックなものだと分類したほうが納得がいく。
「それにしても……喋る黒猫ちゃんなんて、奏叶が見たら興奮しそうだわ」
「栞の息子は猫が好きなのかにゃ」
「ええ、それはもう。少なくとも四歳までは、どんな動物よりも猫ちゃんが好きだったわ。野良猫ちゃんを見かけると、周りも見ないで走っていこうとするのよ。だから外を歩くときは、絶対に手を繋いでないと心配でね……」
ずいぶん昔の記憶なのに、昨日のことのように思い出すことができる。
奏叶は男の子にしては控えめで大人しく、いつも奥手だった。一方で自分の好きなことには幼い頃から全力で、なにか〝好き〟を見つけると、一生懸命にそれを伝えようとしてくれた。まん丸な目を宝石みたいにきらきらさせて、ひらがなをひとつずつ拾い上げたような拙い言葉を組み合わせて、聞いてほしいと訴えてくるのだ。
それが可愛くて、愛しくて、いつまでもこうしていたいと思っていた。
「不思議よね……。私があの子の母親としてそばにいられたのは、たった四年だったけれど。そういう小さな思い出がね、色褪せないままずっと心に残ってるの」
たった、という言葉の重みを感じながら、過去に思いを馳せる。
奏叶と過ごした日々は私の宝物だった。あの子の表情、仕草ひとつひとつが脳裏に焼き付いて、この命を落とすまで心を照らし続けてくれた。
罪の意識も、負い目も、鉛のような後ろめたさもたしかにあるのに、皮肉なことにそれを慰めてくれるのもまた、奏叶と紡いだ思い出なのである。
「栞にとっては、息子の存在が灯猫だったってことにゃあね」
「え?」
「記憶ってのは事実であり現実、そして過去、本来は変えられない摂理のなかにあるものだからにゃあ。たとえ限られた時間のなかでしか紡げなかったものでも、その時間こそが栞の人生を灯す光になったってことにゃよ。難しいことじゃないにゃ」
「でも、私は……」
「せっかく温かい思い出を、わざわざくもらせる必要はないにゃよ」
はっとした。思わず立ち止まると、数歩先でクロが顔だけこちらに向ける。
「人の感情はときに矛盾するけどにゃ。どんなに後悔していることがあろうが、栞が息子を愛していたなら、その気持ちまで否定しなくてもいいんじゃないかにゃ」
「っ……」
「ま、過去に戻ったとて、必ずしも未練が解消されるわけでもないしにゃあ」
そう言うと、クロはふたたび前を向いてのんびりと歩き出した。シルクのように艶やかな毛並みを茫然と見ながら、私はきゅっと唇を引き結ぶ。
「否定……して、いたのかしら……」
背中から吹き抜けた風がワンピースの裾を翻し、呟きを攫っていく。
クロはそう言うが、やはり罪の意識は容易に拭えるものではない。当然だ。親としての責任よりも前に自分の心を優先してしまった事実は、変わらないのだから。
ある日突然、母親から引き離されることになった息子の戸惑いを思えば、いまも胸が張り裂けそうなほど苦しくなる。
本当は、そう感じることさえ烏滸がましいことなのかもしれないけれど。
「……だめね。過去に戻っても自分のことすらわからないなんて」
道端にちんまりと咲く名前も知らない野良花。遠くから近づいてくる踏切の鐘。頭上のどこかで鳴いている小鳥たちの声。風がそよぐ音、木々がこすれる音。無機物と有機物が混在する世界は、たとえ夜でも決して無音となることはない。
しかし、どうしてだろう。こんなにも生命の息吹に満ち溢れる世界で、まるで自分の魂だけがぽっかりと宙に浮いているような感覚があった。
私はこの世界の私ではないからか、はたまた私自身が自らの死を受け入れつつあるからか、自分であるはずなのに、どこか世界から乖離している気がしてしまうのだ。



