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ふっと内臓が浮遊する感覚ののち、ずんとした重さがからだにのしかかった。
ジェットコースターが天辺から落ちる瞬間。あるいは、急上昇したエレベーターが目的の階に到着したときの刹那の浮遊感と重力感だろうか。
意識ははっきりしている。だが、久しぶりに感じた〝生〟の感覚のせいか、激しく動悸を起こしていた。こういうときは落ち着くまで動かずにとどまるしかない。
呼吸が正常に戻ってきたのを見計らい、私はゆっくりと目を開けた。
「ふふ。やだわあ……、私ってこんなに重かったのね」
ただ立っているだけで感じる、己の重み。
そうだった。たしかにこの時期は、まだ標準的な体型だった。
病が発覚する数ヶ月前。食生活は以前とまったく変えていないのに、なぜか痩せはじめた頃だ。徐々に異変は芽を出しつつあったけれど、まさか自分が死に直結する病を患っているなんて、この頃の私は夢にも思っていなかった。
いまだからわかる。こういう当たり前の感覚こそが、命の重さなのだと。
「さて、と」
あえて口にして気持ちを切り替えつつ、顔を上げた。ぐるりと部屋を見回す。
購入したときからインテリアを変えていない、自宅のリビングルームだ。
見慣れているはずなのに郷愁を覚えるのは、生前、長らく入院生活を送っていたからだろう。とくに死を迎えるまでの数ヶ月は、からだの状態が芳しくなく、なかなか病院から出してもらえなかったのだ。
結局、最期も家に帰ることは叶わないまま、その日を迎えてしまった。
やはり、自分の家がいちばん落ち着く。
私はこの家が大好きだから、本当はここで死を迎えたかった――。
「……なんて、よけいなことを考えている場合じゃないわね」
この静寂具合からして、きっと時刻は昼前くらいだろう。その感覚通り、テレビをつけると、画面の上部には十一時二十三分と表示されていた。
「──非正規雇用の増加がキャリアの余白を生んで……」
情報番組の討論テーマは、バブル崩壊後に長引く不況についてらしい。就職氷河期問題を熱く協議する専門家の会話を数秒ぼうっと聞いたあと、私は振り返った。
茶箪笥の上にかけてある、日めくりカレンダーを見る。夫が毎朝出勤前に剥がしていくそれは、私が死を迎えた年の約二年前の日付になっていた。
「まさか本当に戻ってこられるなんて……」
戻りたい過去を考えたとき、真っ先に思い浮かんだのは二年前の初夏だった。
私が心から幸せを感じていた、最後の時期。当たり前の日々を生きていた、ごくごく普通の、ありふれた日常がまだ残っていた時期だから。
生前、死を迎える間際の、すべてを諦めざるを得ないからっぽな状態ではなく、しっかりと自分の思い通りに動くからだに戻りたかったのだ。
「――実感は湧いたかにゃあ?」
ふいに間延びした声が響き、びくりと肩が跳ね上がった。心臓を竦ませながらおそるおそる足元へ目を向けた私は、思わず深く嘆息してしまう。
いつの間にか、黒猫が両手をぴったりと揃えて行儀よく座っていた。
「あ、あなた……ええと、クロちゃん?」
「憶えていてくれたみたいで、なによりにゃあよ」
オッドアイの喋る猫又。そういえば、クロは〝灯猫〟だと言っていた。過去に戻った私が迷わないように導いてくれるらしいが、いまいち彼の役割が掴めない。
ゆらり、と長い二本の尾を左右にそれぞれ揺らし、クロは私を見上げた。
「で、なにをするかは決まってるのかにゃ?」
「え?」
「時間は有限にゃ。こうしている間にも〝十二時間〟のタイムリミットは刻々と迫っているにゃよ。なにか行動を起こすなら早いほうがお得なのにゃ」
そこでようやく、己に課せられた時間制限のことを思い出した。
たしかにクロの言う通りだ。この〝追憶行〟には時間制限がある。久しぶりに実感できたからといって、いつまでも命の感覚に浸っている場合ではない。
「そう、そうね。うん。わかってる、わかってるんだけど……」
形容しがたい焦りと同時にぐっと喉の奥が詰まり、胸がきしんだ。
すでに躊躇している自分に、つい苦笑いが零れる。だが、せっかく意を決して戻ってきたのだ。まずは行動を起こさなければ、はじまらない。
大丈夫だ。自分がなにをしに戻ってきたのか、私はちゃんとわかっている。
「……私はね、クロちゃん。あの子に……息子に会いに行きたいの」
「ふうん。目的ははっきりしてるにゃあね」
「ええ。でも、正直……勇気が出ないわ」
複雑に絡まりきった心のなかの糸は、解き方さえわからない後悔の塊と罪の意識として、いまの私を作る骨格となっている。
けれども、その中心部につき刺さるずくずくと痛い鉤爪は、きっと抜こうとしたところで抜けるものではないのだろう。
現実を変えることはできない。過去もまた同様だ。理解はしている。
だとしても、この糸がわずかでも緩んでくれるのなら、と。そんな自分勝手な救いを求めて、私は四十五年の人生からこの過去を選んでしまった。
怖いだなんて思う資格も、本当はないというのに。
「でも……、準備しなきゃね。せっかく戻ってこられたんだから。結果がどうなったとしても、できることはやらないと。じゃなきゃ、きっと後悔するもの」
「ま、過去に戻ったとてなにも成せない人間も少なくないけどにゃあ。栞には栞のペースがあるだろうし、焦らないのも肝要にゃあよ」
くあっと呑気にあくびをもらすクロに、なんとも気が抜けてしまう。
あくまで他人事のような素振りを崩さないのは、死者にプレッシャーを与えないようにという、灯猫なりの配慮なのかもしれない。
「たとえどんな選択でも、栞がそれを選んだのならボクはなにも言わないにゃ。存分に悩んで、悩み抜いて、栞なりの過去の時間を過ごせばいいのにゃ」
平坦な声音ゆえにわかりにくいが、クロの言葉は染みこむような温かさがあった。
「……クロちゃん。私、あなたがそばにいてくれるだけで心強いわ」
「でも、消えてほしいときは消えるにゃよ、ボクは。できる灯猫だからにゃあ」
「んもう、あまのじゃくさんねえ」
思わずくすりと笑ってしまう。
クロと話していたら、不思議と少し肩の力が抜けた気がした。
壁にかかる年代物の振り子時計へ目を向ける。
この時計は、私が子どもの頃に職人の手で作られたものだと聞いた。ふたりめの夫に嫁ぐ際に、なけなしの嫁入り道具として実家から持ってきたのだ。古臭さは否めないが、意外なほどこの家に馴染んでいた。
定期的なメンテナンスのおかげか、まだ一度もその針を止めたことはない。
きっと私がこの世から去ったあとの時空でも、時を刻み続けていくのだろう。
ちくたく、ちくたく。ゴーン、ゴーン、ゴーン――……と。
「準備するわ。振り子時計が鳴る前に家を出ないと、間に合わないでしょうから」
終わりを見据えたもの悲しさと、わずかな安堵。
交錯する思いを抱えながら告げた私に、クロは尻尾を揺らすだけで答えた。



