天国までの記憶列車

 「な、に……? ここはどこ?」

 ぽろん。()()色の()(らい)が列車の座席に(こぼ)れ落ちた。

 名をスターチス。この列車の(しゃ)(しょう)がこよなく愛する花のひとつだ。

 窓の外には、果てのない水面が広がっている。空や風、音さえも調(ちょう)(りつ)された美しい静寂。澄んだ無限の青白と、(ゆう)(げん)(はく)(こう)の世界――。

 (ぎん)()が差し込む水底に咲き乱れるのは、時を忘れたかのような無数の花だった。

 (つき)(しろ)()(ぐさ)(うす)(くれない)()(こん)(せい)(らん)。透き通った鏡面に揺蕩(たゆた)い映るそれらは、一輪、また一輪と(はかな)(ほころ)び、淡い光に包まれてやがては消える。

 生と死のあわい。多くの祈りを抱いた、神秘と()(せき)に満ちた場所。

 死者が〝追憶行〟を経て〝()()〟へ旅立つまでの、(せつ)()の拠りどころ。

 蕾を潰さぬように指先で拾い上げた車掌は、自身の胸ポケットにそっと落とし、その手で被っていた帽子を外す。それを胸元に抱えながら、(うやうや)しく頭を下げた。

 「(しゅう)(とう)列車へ、ようこそいらっしゃいました。(みや)(うち)(しおり)さん」

 くすみのない銀色の髪と、まるで夜の深淵を封じたような深い瞳。視線を奪う端正な顔立ちだが、そこには若さと成熟さが同居しており、年齢の輪郭が曖昧な青年だ。

 「あな、たは……」

 「私はこの列車の()()です。それ以上でもそれ以下でもございません」

 栞は、その場に立ち尽くしながら、目の前の車掌を凝視した。

 困惑と混乱、狼狽(ろうばい)、そして揺れる瞳の奥には恐怖と絶望がちらついている。

 ――栞と車掌が、互いに見つめ合うこと、数秒。

 「いつまでそうしてるつもりにゃ。さっさと説明をはじめるにゃよ」

 びしっと、どこからか現れた黒猫が車掌の足に向かって猫パンチを繰り出した。スナップをきかせた前足の攻撃に、車掌は眉間を寄せながら視線を下へ落とす。

 「これからしようと思っていたところだ。()かすな、クロ」

 奇妙な黒猫に、栞はぎょっと後ずさり、目を白黒させた。

 「ね、ねねねね、猫が(しゃべ)った……っ?」

 「その台詞(せりふ)はもう聞き飽きたにゃ。猫は猫でも喋る猫ってだけの話にゃあよ」

 まるで万華鏡のように色が変わる金と青のオッドアイ。付け根から二本に分かれ、それぞれが自由に動く長い尻尾。淡い光を放つ鈴が特徴的な赤い首輪。

 どう考えても、栞の知る一般的な黒猫ではない。

 「喋る猫なんて、そうそういるものじゃないと思うわ……」

 あまりの現実味のなさにくらりと眩暈(めまい)を覚えながら、栞は額を押さえた。深く深く息を吐いてみるが、そんなことをしたくらいでは落ち着かない。

 いや、落ち着くわけがなかった。大前提として、栞は――。

 「……ねえ。ここって、いわゆる死後の世界かしら? 天国とか、そういう」

 「お、察しがいいにゃあ。正確には、天国の一歩手前ってところだけどにゃ」

 「一歩手前……? 私、おかしな夢を見ているわけじゃないわよね?」

 「夢だと思っていてもべつに構わないにゃあよ。死の事実は変わらないにゃし」

 クロはあっさりと受け流し、車掌の肩へ飛び乗った。

 重さを感じないのか、あるいは慣れているのか。突然飛び乗られたにもかかわらず微動だにしなかった車掌は、やや迷惑そうに顔の前で揺れる()()の尻尾を払う。

 「さて、改めて──宮ノ内栞さん。ご自覚の通り、あなたは先刻、四十五年の生涯を終えました。死因は(やまい)ですね。大変お疲れさまでございました」

 「え、あ、ご、ご丁寧(ていねい)にどうも……」

 死んだ人間に対し、予想外にフラットな言い方をされ、栞は(きょ)をつかれた。

 しかし、面と向かって死を断定されたからだろうか。急にじわじわと胸の縁から実感が湧いてきた。見え隠れしていた負の感情が表に浮き出してくる。

 「っ、そう。私、死んだのね。もうすぐだとは思っていたけれど、こんな呆気ないものなんて……。改めて考えると、短い人生だったわ」

 独り言のように(つぶや)き、栞は胸の前で両手を重ね合わせる。

 「大丈夫かにゃ」

 「どう、かしら。頭ではわかっていても、死に際の記憶が曖昧だから、なんとも言えないわ。でも、最期まで声は聞こえていたの。あの人の……夫の、声が」

 耳の奥に残る、愛する夫の声。何度も、何度も、名前を呼んでくれていた。

 ――死を迎えたいま、もうその声の主と逢うことは叶わない。

 そう思うと、さざ波のように押し寄せる恐怖がある。心がひどくざわついて、気を抜いたら発狂してしまいそうだった。震える指先をきゅっと内側に丸め込む。

 「聴覚はからだから(たましい)が離れるぎりぎりまで(つな)がっているからにゃあ。きっと気のせいじゃないにゃよ。大切な人に看取(みと)られたなら、それは恵まれたことにゃ」

 栞の心情を知ってかしらずか、これまで他人事を貫いていたクロの声音が、ほんの少しだけ柔らかみを帯びた気がした。

 ところが、それも一瞬だった。猫らしく気まぐれなのだろう。次の瞬間には(あご)が外れそうなほどの大あくびをもらして、まるで人間のように身を伸ばした。

 「ま、なんにせよ、自覚があるなら早いところ説明するにゃよ」

 「ええ。感覚が新鮮なうちのほうがいいですからね」

 クロに鼻先でつつかれるように促され、車掌はうなずいた。改めて栞に向き直る。

 「まずはじめに――あなたがいま乗車している列車は〝終灯列車〟といいます。死者の()()をつかさどり、その魂を過去へいざなう役割を担う列車です」

 「終灯列車……。死者の魂を、過去へ……?」

 「はい。そして、我々はこの過去への旅を〝追憶行〟と呼んでいます」

 車掌は栞の反応を気にすることもなく、淡々と説明する。

 「簡潔に申しますと、この列車に乗車したあなたには、過去の自分に〝十二時間〟だけ戻ることができる権利が与えられました。時間制限はありますが、戻る日時はこの世に生まれてから死ぬ〝十二時間前〟までなら、いつでも構いません」

 「え? それってつまり、死んだ私が生きていた頃に戻れるってこと?」

 「左様です。ただし、いくつか注意点が」

 困惑した表情で訊ねた栞に、車掌はうなずいて返す。

 「ひとつめ。現在ここにいるあなたが過去へ戻っている間、その時空、つまり戻った先の時間で本来生きているはずのあなたの記憶は失われます。ふたつめ。あなたが過去へ戻って変えた現実は、当然、未来に繋がります。しかし、いまここにいるあなたの人生の記憶は残ったままなので、変える前の記憶は、あなたのなかにしかない幻の記憶となります。そのことを、どうかご承知おきください。それから――」

 「ちょ、ちょっと待って」

 つらつらと並べ立てられ、混乱が極まった栞は、車掌の声を無理やり(さえぎ)った。

 「幻って、どういうこと?」

 「過去を変えれば、多少なりとも未来が変わるでしょう。その際、いまあなたのなかにある過去は上書きされるのです。まあ、事実上、消えてなくなるわけですね」

 「消えて、なくなる……」

 「十二時間のタイムリミットを迎えた時点で、死者である栞さんは強制的に過去からこの列車へと送り戻され、その後〝()()〟へと魂が運ばれます。そして、あなたが変えた過去で生きるその時空の栞さんは、四十五歳でその命を終えるまで、新たな未来を(つむ)ぎはじめることになる。つまり、いまここにいるあなたは、自分が変えた未来の先を知らないまま〝遺世〟へ向かうことになります。よろしいですか?」

 なんとも複雑な仕組みだが、ようするに、忘れたくない記憶も過去を変えたことで消えてしまう可能性があるということだろう。それ相応の代償を必要とするわけだ。

 「ええと、じゃあ……あなたの言う〝遺世〟って、いわゆる天国のこと?」

 「はい。一般的に天国や黄泉と称されるものと同一です。命が去ったあとの世界ゆえに我々はそう呼んでいますが、呼び方は人それぞれですので、お好きにどうぞ」

 「あぁ、そうなのね」

 やはり、現実味がない。天国がどんな場所か想像するのも難しかった。

 「ちなみに、そこっていったいどういう場所……?」

 「お答えしかねます。我々はあくまで死者が〝遺世〟へ向かうまで、〝追憶行〟の間しか関われません。その先のことは、(りん)()辿(たど)る魂しか知り得ないものですので」

 肝心のところは教えてくれないらしい。しかし、それもそうかと思う。

 その〝遺世〟とやらに、どんな概念が存在するのかはわからない。

 だが、もし事前に自分の()く先が明らかになっていたら、過去に戻っている間の行動に弊害(へいがい)が出る可能性もある。栞も、いまからそれを考えるのは恐ろしかった。

 「ちなみにこの列車は、ひとつの魂につき一回しか乗車できない決まりにゃ。変えた先で死を迎えた栞がもう一度この列車に乗ることはないからにゃ~」

 「過去を……人生をやり直す、最後のチャンスってことね」

 「はい。そして、残念ながら人の死は運命で定められているので、どんなに過去を変えても〝死〟の時期は変えられません。まあ、過去の変化によっては、ときに死因が変わることもありますが……。いずれにせよ、実際に死を迎える瞬間へ戻ることは(かな)わないので、新たな自分がどんな最期を迎えるかなどの把握は難しいと思っておいてください。これが注意点、みっつめです」

 過去を変えるのは、そう容易(たやす)いことではない。

 あらゆる条件や代償を理解し、(ほぞ)を固めたうえで、それでも変えたいと願うのか。

 淡々と語るふたりの眼差しに、栞は覚悟を問われているような気がした。

 「宮ノ内栞さん。あなたには、変えたい過去が――戻りたい過去がありますか」

 「っ……ない、わけないじゃない。そんなの」

 訊くまでもないことに、つい言葉尻がきつくなってしまう。

 「後悔も未練もやり残したことも、山のようにある。あるに決まってる」

 だが、半日で未練が解消できるのなら、そもそも生前に済ませている。叶わぬ状況であったからこそ、死後、こうして胸に悔いが蔓延(はびこ)る事態になっているのだ。

 それに、仮にこのうちのひとつを解消できたとしても、すっきり死を迎えられるわけではないだろう。後悔なく人生を終えるには、あまりにも早い幕引きだった。

 でも、もし、本当に生きている頃に戻れるのなら――。

 「……正直、考えたらきりがないの。だけど、ひとつ、どうしても頭から離れない心残りがあるのよね。過去を変えるとか、未来を変えるとか、そんな複雑で難しいことはわからないけれど、いまからでも変えられるのなら変えたい過去があるわ」

 「つまり、戻りたい過去の時期は明確ってことにゃあね」

 クロが車掌の肩から華麗に飛び降りた。足音ひとつ立てずに着地すると、そのまま軽やかに歩いて地面を蹴り、車窓の縁へと移動する。

 横長の窓に反射して映りこんだオッドアイが、どこか試すように細められた。

 「栞は理解力があって助かるにゃあ。なかには『それじゃあ過去に戻る意味なんてない!』って(げっ)(こう)するわがままな人間もいるのににゃ」

 「死んでから過去に戻れるだけでも、贅沢(ぜいたく)だと思うけれど……」

 「その感覚はわりと貴重なものなのにゃ。過去に戻っているうちに忘れて傲慢(ごうまん)になる人間もいるしにゃあ。ま、心に留めておくにゃよ」

 (きびす)を返して優雅に歩いてきたクロは、そう言いながら栞の前で座った。丸みを帯びた両手脚を()(れい)に揃え、ずいぶんと上品な様である。

 「最後、よっつめにゃ。自分が死ぬ運命にあることを生者に伝えてはならない」

 「死ぬことを……?」

 「まあ、(きん)()にゃあよ。他者にそれを伝えた瞬間、魂は〝追憶行〟から回収されるだけでなく、〝遺世〟にも行けなくなるにゃ。最悪、魂ごと消滅する可能性もある。いいことなんてなにもないから、十分気をつけるにゃよ」

 栞の顔にわずかな焦りが浮かぶ。瞳が揺れ、落胆したようにうつむいた。

 「それは、なんというか、残念ね……」

 「死期は誰にも知られてはいけない決まりなのにゃ。当然、自分が死者として未来から戻ってきたことがバレるのもアウトにゃね」

 クロはゆっくりと、言い聞かせるような口調で告げた。

 「過去を変えるなんて世の(ことわり)を覆してもなお、一度失われてしまった命は二度と戻らない。どんなに疑問を抱いても、死の(くさり)だけは断ち切れないにゃよ」

 栞は唇を一文字に引き結びつつもうなずいて、車掌とクロを交互に見る。

 「すべてを踏まえたうえで覚悟を持って選ぶにゃ。自分が戻りたい過去の時を」

 「――私が、戻りたい過去……」

 「やり残したことは明確なんじゃなかったのかにゃ?」

 訊ねられた栞は、しばし硬直したあと、曖昧(あいまい)に口角を上げて微笑(ほほえ)んだ。

 「……そうね。戻りたい時間がないわけではないの」

 消え入りそうな声。銀河が広がる幻想的な外の風景を見つめる表情は、しかしずっとずっと昔の出来事に心を傾け、哀しい思いを()せているようだった。

 そんな栞を見守る車掌と黒猫の瞳の温度は、よくも悪くも変わらない。

 「やり残したことも、心に引っかかっていることも、わかっているけれど……。いろいろ聞いていたら、混乱してきちゃった。この未練を解消するために戻っていいのか……。だって私の願いは、過去を変えることじゃないんだもの」

 「ふむ、というと?」

 「私はただ、会いたい人が……会いたい子がいるだけだから」

 ――それでいいのか、と動機を認めてもらいたいわけではないのだろう。

 車掌は不安を吐露(とろ)した栞を数秒ほど注視すると、胸に抱えていた帽子を被った。

 くるりと方向転換し、靴底を鳴らしながら列車の前方へ歩いていく。

 「……正解なんてないと思いますよ」

 列車の進む方向を見つめ、栞に背中を向けたまま、車掌は静かに続けた。

 「過去を変えれば未来が変わる、とはいっても、たかだか〝十二時間〟で劇的に未来を変えるのは案外難しいものです。過去はそれ以前にも続いているわけですから」

 「まあ、たしかににゃ。残酷なようだけど、そういうもんではあるにゃ」

 クロが同意を示す。

 「もちろん、まったく変わらないということはありません。死者による〝十二時間〟の健闘で、なにかしら現象の()り方が変化することはあるでしょう。ですが、多くの方の人生は、その後大きく変わることはないのが現実です」

 車掌が振り向き、真っ直ぐに栞を見据えた。

 「それを踏まえて、しがない車掌の独り言ですが……。栞さんの心のなかで糸が(ねじ)れて絡まっているものが明白なら、まずはそれを(ほぐ)すための糸口を探すべきかと」

 「解す?」

 少なくとも、と車掌は銀髪の下で(まぶた)を伏せる。

 「死者である栞さんが会いたい人に会えるなんて、本来はあり得ないことです。せっかくその機会を与えられたのなら、無駄にしてほしくありません」

 「っ……」

 「記憶をつかさどる過去への旅……〝追憶行〟は、奇蹟の積み重ねですから」

 ひどく切実な響きをはらんで呟かれた言葉を受け、栞は小さく息を()んだ。大きく見開かれ左右に揺れる目のなかには、強い戸惑いが浮かぶ。

 しばしの沈黙のあと、不安をぐっと呑みこむように、栞が顔を上げた。

 「――……決めたわ。戻りたい過去」

 絞り出すように口にした栞にうなずき、車掌はクロの隣まで戻ってくる。

 「これから栞さんを、お望みの過去へお連れします。戻りたい過去の自分を強く心のなかで思い描いて、目を(つむ)ってください」

 「終わりの時間が近づいたら、ボクが迎えに行くにゃ。ボクは灯台ならぬ〝(あかり)(ねこ)〟、栞が過去で迷子にならないように、足元を灯して導く係にゃあね。ま、黒猫が近くを横切ったらタイムリミットの合図だと思っておけば大丈夫にゃ」

 灯猫が横切るまでの〝十二時間〟。

 もう二度と戻れないと思っていた過去。

 やりきれない思い。やり残した出来事。未練に、後悔──罪悪感。

 栞はそっと両目を瞑り、暗闇のなか、過去へ思いを馳せる。

 やがて視界が真っ白に染まった。(あふ)れた光に全身が包まれ、筋肉が解けるような感覚に(おちい)る。ぽかぽかと温かく心地よい乳母車に揺られて、深い眠りに落ちていく。

 不思議な黒猫のオッドアイが白に浮かんだ。

 長い尾が揺れ、ずっとずっと遠くから、にゃあんとひとつ声が響く。

 「あなたの最期の旅路にどうか幸あらんことを。――いってらっしゃいませ」