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深い霧に包まれ、点る灯を追いかける。歩いているわけではないのに、自然と意識がそちらへ泳いでいくような、なんとも不思議な感覚だった。
導かれるままに進んでいくと、やがて視界が真っ白に染まった。不純物のない澄み切った水底から顔を出すように、ぱっと意識が晴れる。
視界に色が戻った。花弁がひとひら、目の前を落ちていく。
「無事にお戻りになったようですね。おかえりなさいませ、宮ノ内栞さん」
落ちた花弁を指先で拾い上げた車掌は、淡々とした声音で告げた。
なんだか、彼の顔の向きがおかしかった。困惑しながら何度か瞬きを続けているうちに、ようやく自分が座席に寝そべっていることに気づく。
「私……戻って、きたの? ここは──」
「終灯列車です。十二時間の〝追憶行〟、大変おつかれさまでした」
十二時間。そう明確に言葉にされると、ああ終わってしまったのかと脱力しそうになる。あっという間だった。夢でも見ていたのかと思うほど儚く、色濃い時間だった。
進むことしか許されない霧のなか、振り返ってもそちらには戻れない。五感が遠ざかる。生と死のあわいに魂が溶けこんでいく。記憶に残る温もりすらも薄れていって、どうしようもなく己の死を実感する。帰り道には、そんな孤独があった。
――〝追憶行〟という奇蹟の終点。ここはもう、私の声が届かない場所なのだ。
「最後までちゃんと決まりを守ってえらかったにゃあね、栞」
「クロちゃん……」
車掌の肩に飛び乗ったクロは、心なしか穏やかな眼差しでこちらを見つめた。
身体を起こすと、肩からまたひとひら花弁が落ちる。見ると、私の上にはそうして散った小さな花弁が折り重なっていた。何枚も、何枚も。
「このスターチスの花弁は〝追憶行〟の砂時計のような役割なんですよ」
「砂時計……?」
「〝追憶行〟のタイムリミットが近づくにつれ、一輪のスターチスから花弁が散っていくんです。死者の魂を過去へ繋げる力の残量を示しているといいましょうか」
車掌は立ち上がり、先ほど拾い上げた花弁をそっと私に差し出した。
「最後の一輪が散ったと同時に、あなたはここへ戻った。つまりそれは、あなたが十二時間という〝追憶行〟の限られた時間を目一杯生き抜いたということです」
「……だから、おつかれさまなの?」
「ええ。〝追憶行〟は、決して楽しいだけのものではありませんから」
彼の言葉に、ぐっと胸が詰まる。
たしかにそうだった。後悔は──心に残っていたことは消化できたのかもしれないけれど、戻っていた間、心にはつねに確固たる喪失感があった。
どれだけ未練を解消しても、その先に控える死の運命は変わらない。
大切な人々と再会しても再び別れなければならない未来を前に、いまさらなにができるのかという諦観は、正直、最後の最後まで私のなかに根付いていた。
けれど、こうして終灯列車に戻ってきて、思う。
――それでも、と。
「楽しいどころか、たくさん泣いてしまったわ。胸が苦しくて、張り裂けそうで」
「……戻らなければよかった、と思いますか」
「いいえ。それでも私は、戻ってよかった。だって、あの子の……奏叶の笑顔が見られたんだもの。夫とも後悔のないように過ごせたし。もちろん、死を受け入れられたわけでもないし、悲しい気持ちはいまもずっとあるけれどね」
――〝追憶行〟のなかで与えられた優しさや温もりは、私の心を灯してくれた。
流した涙も、決して悲しみだけで作られたものではなかった。言葉では足らないほどの愛しさがぎゅっと詰まって、強く感情が溢れたからこそ流れた涙だった。
どれだけ袖を濡らしても、寂しさは消えない。
けれど、きっとそれでいいのだろう。
それは、私が自分以外の誰かを深く愛して生きていた、なによりの証なのだから。
「ありがとう。車掌さん、クロちゃん。私を〝追憶行〟へ導いてくれて」
「……我々は仕事をしただけです。ですが、あなたがなにかひとつでも過去に戻って得られたものがあるのなら、私はうれしく思います」
「真面目な方ね。車掌さんは」
律儀な返しに苦笑すると、つられたのか、彼の口許がわずかに緩んだ。
真顔ばかりだったからだろうか。初めて見る意外な表情に、思わず目が引き寄せられてしまう。ついじっと見つめていると、彼は居心地悪そうに目を知らした。
「この先は、生と死のあわいから抜けた〝遺世〟です。我々はその入り口までしか共に行けません。それ以上はあなたひとりで進むことになります」
「ええ。その世界はどんなところなのか、わからないのよね?」
「わかりません。まだ私は、これより先に進んだことがないので」
まだ、という言葉に少し引っかかりを覚えながら、私は小さくうなずく。
「怖くないと言ったら嘘になるけれど……。いまなら進める気がするわ」
なにせ、奏叶に会いに行くまでの道のりのほうが怖かった。大切な我が子に拒絶されるかもしれない恐怖に比べたら、不思議とどうってことないように思える。
それに、もし死の向こう側に魂の輪廻という概念があるのなら、もしかしたら生まれ変わった先でまた私の愛した人々と出逢えるかもしれない。
そう思えば、心は幾らか軽くなる。
少なくとも、顔を上げて前を見据えられる。
私はまた生きるために進むのだと勇気が湧いてくる。
「では、参りましょうか。〝遺世駅〟へ」
車掌の言葉に呼応するように、終灯列車は加速しはじめた。
窓の外へ目を向けると、澄んだ水の鏡面に映る花々が揺れていた。誰かの祈りを灯したような光に抱かれた世界は、とてもとても美しかった。



