◇
当初の予定通り、ふたたび電車に乗り、私は帰路へついた。
ずいぶん長い一日に思えたが、時刻はまだ十八時前だ。敦さんが仕事から帰ってくるのは二十一時前後だから、いまから夕飯を作るくらいの時間はある。
夫に夕飯を作る、なんて久しぶりだ。
病気が発覚して入院することになってからは、料理はからっきしだった。一時帰宅したときでさえ、敦さんは私を台所に立たせなかったから。
――得意ではないけど、私が作るよ。君はゆっくり休んでいて。
そう言って私をソファへ座らせ、敦さんは手料理を振舞ってくれた。
彼の背中をぼうっと見ていたときの感覚は、繊細に残っている。
ああ、こうして日常が失われていくのだと。
自分にとっての当たり前が、当たり前ではなくなっていく。
できないことが増えて、少しずつ、しかし着実に死へと向かう。
虚しさ半分、うれしさ半分。優しさは痛くて、気遣いは申し訳なかった。
敦さんの優しさを純粋に受け取れない自分が、嫌になった。
もちろん、こんな自分を大事にしてくれる敦さんには感謝してもしきれないし、彼が与えてくれる愛情を拒絶したことはなかったけれど――。
でも、本当は、最後に敦さんの好きだった料理をたんまりと作りたかった。
私の作った料理を食べて、美味しいと笑ってくれる姿が見たかった。
「お買い物へ行く時間はあるかしら……。その前に冷蔵庫のものを確認しないと」
敦さんが帰宅するまでの時間を逆算する。
自宅までの道のりを歩きながら、効率のいい動き方を考えていたときだった。
「栞!」
「っ……!?」
ふいに背後から届いた、自分を呼び止める声。ぎょっとして振り向くと、にこにこと朗らかな笑みを浮かべた敦さんが走って追いかけてきていた。
「えっ、どうして……っ?」
「いやぁ、はは。バスを降りたら、栞に似た後ろ姿の女性がいたものだから、つい走ってしまったよ。五十になると体力がなくなってだめだね」
ひょろりとした線の細いからだ。垂れ目気味で奥行きを感じる目許。考え事をしているときは寡黙な印象なのに、笑うと人柄のよさが滲み出る面立ち。白髪交じりの短髪は上品さを感じるけれど、知的で色気もある──敦さんは、そんな素敵な人だ。
私よりも七歳年上の彼は、少し乱れた髪を気にする様子を見せながら苦笑する。
「し、仕事はどうしたの? ずいぶん早い……」
「どうしたのって……さては、忘れてるな? 今日は三回目の結婚記念日だから早めに帰るよって今朝も伝えたのに」
結婚記念日。頭のなかで何度も反芻して、私は唖然とする。
「やだ、私ったらすっかり忘れて……っ!」
「朝も言ったばかりなのになぁ。まったく栞はすぐ忘れるんだから。まあ、そういう抜けてるところも、私は好ましいと思っているけどね」
そうだ、そうだった。今日は、私と敦さんの結婚記念日だ。
ささやかながら、結婚記念日は毎年ふたりで祝っている。本当なら昼間には買い物を済ませて、夕方には敦さんを迎える準備を終えているはずだった。
やってしまった、と青ざめると同時に、ふと私は頭に疑問が浮かぶ。
私はそもそも過去に戻りたいと願ったとき、〝今日〟を指定してはいない。
過去の感覚なんて曖昧だったし、正確な日付はわからなかった。この頃に戻りたい、と薄れつつある記憶のなかでぼんやりと考えていただけだ。
「まさか……――」
黒猫がすっと目を細めて、二本の尻尾を大きく揺らす様子が脳裏によぎる。
確信犯かどうかはわからない。だが、クロならあえて〝結婚記念日〟である今日を送り先として選んだ可能性もあるのではないだろうか。
自分は灯猫以上のことはできないとつき放しておきながら、存外、世話焼きでお節介なところがあると、私はもう知っている。
「栞?」
「っ、なんでもないの。ちょっと考え事をしちゃっただけ」
敦さんは不思議そうに目を丸くした。しかしすぐ眉間に皺が寄る。険しい顔をすることがほとんどない彼には珍しい表情で、思わずじっと見つめてしまう。
それが悪かったのか、敦さんはさらに皺を深めながら、指の腹で私の頬へ触れた。
「……気に障ったらごめんね。もしかして泣いたかい? 栞」
「え……」
「目が少し赤い。それに、ほら、涙のあとがある」
右目の横を指先で労わるようになぞられ、どきりと心臓が跳ねた。
たしかにあれほど泣いたあとだ。目許が赤くなっていても不思議ではない。
「あ、あの、これは……――」
「とりあえず、一度家へ帰ろうか。こんなところで立ち話もなんだしね」
手を取られ、敦さんは先導するように歩き出す。声音も態度も扱いも、いつも通り優しい。しかし、どこか有無を言わさぬ空気感を纏っている気がした。
「敦さん……」
自宅に到着すると、敦さんはまず私をソファに座らせた。自分も隣に座るのかと思いきや、自ら背広を脱いでハンガーに掛けに行く。
歩きながら片手で手早くネクタイを緩める姿は相変わらず様になっていた。約三十年サラリーマンをこなしてきた風格というものだろうか。
敦さんは私に待っているように言い置くと、キッチンへ歩いていった。
珈琲でも用意しているのか、食器を動かす音が聞こえてくる。
しばらくして、敦さんはお揃いのカップをふたつ持って戻ってきた。結婚式を挙げた際に、友人からお祝いとして贈られた真っ白な陶器のペアカップだ。
「夕飯前だから迷ったんだけどね。でも、気持ちを落ち着かせるにはやっぱりこれかなと思って。大事にとっていたのに、勝手に使ってごめんよ」
白い湯気がふわりと左右に揺らぐ。差し出されたカップを慎重に受け取って覗きこむと、脳を痺れさせるような濃厚な甘い香りが鼻腔に広がった。
ココアだ。それも、冬場の店頭でしか販売されない特濃の限定品である。
基本的に甘い飲み物は好まない私が、唯一これだけは好きと公言できるものだ。いつも冬の間に買いこんで、とっておきのときに飲むものなのだけれど――。
「ううん、ありがとう。これが飲めるなんて、とてもうれしい」
「売っている間にまたストック分を買ってくるから、あまりもったいぶらずに飲んでいいんだよ。栞はそうやって、いつも我慢ばかりするんだから」
「そんなこと……」
いたたまれず肩を縮めた私を見て、敦さんは仕方なさそうな微笑を浮かべる。
「なんでもココアにはテオブロミンっていう成分が含まれていて、心を落ちつけてくれるんだって。肩の力を抜くにはいい効果だろう?」
どうやら私のためにココアを作ってきてくれたらしい。隣へ腰を下ろして自分のカップに口をつけた敦さんにならい、私もココアを堪能する。
舌の上でほろりと解ける濃密な甘苦さに吐息が零れた。カカオに混ざった焦がしナッツの香ばしさに頬が緩み、身体から自然と力が抜けていく。
「ナッツ……わざわざ入れてくれたの? とっても美味しいわ」
「よかった。栞はいつもナッツ入りにしてるだろう? 見よう見まねだけどね」
――優しい人だ、本当に。
敦さんと出逢ってから、はたして何度思ったことだろう。
敦さんは前に、思いを口にすることを心がけていると言っていた。だが、たとえ言葉にしなくとも、こうして隣に座っていてくれるだけで伝わる温もりがある。
こちらを蔑ろにしない。いつどこにいても心を向けてくれている。けれど不思議なことに、彼の情け深さは、いつだって押し付けがましいものではなかった。
だからこそ、日々のなかで孤独を感じることがなくなったのかもしれない。
それが私には、どうしようもないほど、救いだった。
再婚なんて考えていなかったのに、敦さんなら、と思えてしまうくらいに。
「……ねえ、敦さん?」
「うん?」
「なにがあったか、訊かないの?」
我ながら蚊の鳴くような声だった。かすかに震えてもいたかもしれない。
敦さんは「うん」と顎を引きながらカップを傾け、また一口、珈琲を口に含んだ。
「そうだね……。うーん、無理に話してほしいとは思わないかな」
「……どうして?」
「下手に聞き出してもいいことはないからだよ。栞がよけいに傷ついたり、苦しくなったりしたら元も子もないだろう。もちろん、話して少しでも楽になるならいくらでも聞くけれどもね。それを判断するのは私ではなくて、君だから」
「でも、気になるでしょう?」
「まあうん、否定はできない……が、私の感情より栞の心が優先だよ」
思わず、カップを握る手にきゅっと力が入る。
「……まったくもう。本当、敦さんは優しいんだから」
――あの列車のなかで、過去は変えられないとクロは言った。
そうだ、変えられないのだ。本当なら。
いまこの瞬間だって、本来の時空なら存在しない時間だった。
三回目の結婚記念日を迎えたあの日、ふたりの好きな料理をテーブル一杯に並べ、いつもより少し高価なワインを注いだグラスをかつんと合わせた――。
いまここにいる私の記憶にしか残らない、空虚になってしまったあの時間。
失った本来の過去の代償は、やはり軽視できるものではない。大切な思い出や記憶を犠牲にする覚悟がなければ、過去を変えようと行動を起こすのは不可能だ。
それでも私は、この状況に至っても後悔はしていなかった。こうして二度と戻れぬはずの過去に、この時間に戻ってきたからこそ得たものも大きかったからだろう。
優先すべきものに、正しいもまちがいもきっとないのだ。
――本当に、生きるということは、どうしてこんなにも難しいのか。
「ごめんね、敦さん」
「ん?」
「私ね、知ってるの。あなたが本当は、子どもがほしかったこと」
まさか唐突にそんな話をされるとは思っていなかったのだろう。
珈琲のカップをテーブルに置こうとしていた敦さんの動きが、ぴたりと止まる。
「結婚する前に言ってくれたでしょう? もし子どもができなくても構わない。高齢出産になることを考えたら、無理は言いたくないからって」
「それは……まあ。子どもができたら当然うれしいけど、一生天涯孤独だと思っていた私からしてみたら、君がいるだけで十分幸せだと思ってるからね」
幼い頃に火事で家族を亡くしてひとりだけ助かった敦さんは、親戚の家を転々としながら育ったらしい。
だからだろうか。出逢った頃、敦さんは家族の温もりを知らなかった。
けれど、結婚後の彼は、純粋に私との子どもを望んでくれていた。
温もりを知ったのだろう。親子というものへの憧れもあったのかもしれない。
可能なら、私もその気持ちに応えたかった。
はなから子どもを諦めていたわけではないのだ。けれど、私の病気が判明して以降、敦さんは子どものことは考えないでいいとよく口にするようになった。
きっと私のからだを気遣ってくれていたのだろう。
結局、子宝には恵まれないまま、私は死を迎えてしまった。
「でも、あなたは町で親子連れを見ると、いつも羨ましそうな表情をしてた」
「っ、ちがうよ、栞。それはちがう」
珍しく食い気味で敦さんが否定した。珈琲の残ったカップを机に置き、自分のからだの向きを変えると、言い聞かせるように私の両肩に手を乗せてくる。
正面からじっと見つめられ、今度は私のほうが硬直してしまった。
「子どもがほしい、と思ったことはある。それは認めるよ。私に家族という形の温もりを教えてくれた栞との子どもなら、きっととても可愛いと思うしね」
「っ……」
「だけど、べつにできなくても構わないんだ。栞に出逢って、結婚して、毎日とても満たされているから。本当にね、私はいま、すごく幸せなんだよ」
はっきりとそう告げたあと、敦さんは一瞬だけ視線を宙に泳がせた。
それから私の肩に置いていた手をゆっくりと下ろして、気まずそうに頬をかく。
「……ほら、私はもう一生独身だと本気で腹を据えていたくらいだし。前も言ったけど、栞と出逢うまでは、結婚したいと思ったことすらなかったんだよ」
「あぁ、ふふ……。私、敦さんから独身って聞いたとき嘘だって思ったのよね」
敦さんとの結婚を機に退職してしまったが、以前、私はとあるリフォーム会社の事務として働いていた。奏叶を手放した後にどうにか再就職した会社である。
そこに、店舗強化の任を背負った敦さんが部長として転勤してきたのだ。
最初はなにかと話が合う人だ、と感じたくらいだった。よく食事に誘われるようになっても、単身同士で気楽なのだろうと思っていた。泉から溢れ出るような優しさと包容力の塊である敦さんには早い段階から惹かれていたけれど、まさか交際に発展するなど――まして再婚など、当初は考えてもいなかった。
それでも、敦さんの猛烈なアプローチに気づかないほど、鈍感なわけではない。
敦さんと過ごす時間が増えていくにつれ、私の不安も膨らんでいった。
私は一度、結婚で失敗をしている身だ。ただ離婚経験があるだけでなく、子どももいる。そんな状態で新しい相手と将来を歩んでいいのかと臆病になっていた。
けれど敦さんは、そんな私の不安を丸ごと受け止めてくれた。私の事情をすべて知ったその日、彼は迷うことなく、私に結婚を前提に交際を申しこんできたのだ。
あとから聞いた話、敦さんは出逢った初期の頃から、私と共にいる未来を想像できていたらしい。これほど波長が合う相手は初めてだったのだという。
複雑な事情を打ち明けられても、それを包み隠さず話してくれたことが純粋にうれしかった――と、彼はあっけらかんとした笑顔で口にしていた。
これまで、そんなふうに想いを伝え合うことがほとんどなかったからだろう。
好きだと、愛していると、心に秘めていてもいいはずの気持ちを真っ直ぐに伝えてくれる敦さんに、私はめっぽう弱かった。
「栞とこうして穏やかな日々を過ごせているだけで十分だよ、私は」
そう言って抱き締められた瞬間、私のなかでなにかがぷつんと切れた。
心の奥底で揺れ続けた数多くの感情たちが叫ぶ。言葉にならないほど、言葉では表しきれないほど膨れ上がったそれは、涙となって溢れ出すしかない。
熱い雫が頬を伝う。体温が上がり、喉が震えた。ああ、だめだ。今日は涙腺が緩みきってしまっているらしい。最期なのに、泣いてばかりだ。
ふたりきりの静謐な空間に、私の震えた呼吸音が波紋のように響く。
「――言い難いことなら無理はしなくていい。でも、君にそう言わせるようなわけがなにかあるのなら、やっぱりちゃんと聞きたいと思う」
「っ……!」
「君と結婚したときにも言っただろう? 私は君と生涯を共にする覚悟があるし、これからたとえどんな苦難に見舞われても、最期まで添い遂げるって」
「う、ぁ……」
息が詰まる。視界が涙の雫で埋まり滲む。もうなにも見えない。背中に回された腕の温もり。鼻腔を一杯にする敦さんの香り。すべてが私の心を震わせてくる。
本当に、どうしてだろう。
どうしてこんなに幸せになれたのに、死ななければならなかったのだろう。
奏叶の成長を遠くから見守りながら、敦さんと一緒に生きたかった。
生きていたかった。まだ、もっと、ずっと、未来まで。
「あぁぁあぁ………っ」
まだ死にたくない。生きたい。生きたい。生きたい――。
「栞……」
気がついたら声を上げて泣いていた。敦さんが優しく、けれど決して離さないと言わんばかりの力加減で抱き締めてくれる。それが痛くて、温かくて、よけいに涙が溢れ出る。傷ついた心に塗りこまれて痛いほどに染みるのは、いつだって優しさなのだ。
痛い、痛い。胸が、心が、痛い。
生きてきた年月分の出逢いと別れ、記憶のすべてが痛い。
そのなにもかもに終止符を打たなければならない痛みが、叫びに変わる。
やっとわかった。死者が抱えるのは、後悔だとか、未練だとか、そんな言葉ひとつで表せるものではないのだ。
それは人の心、思いそのもの。
伝えられなかったことがある。守りきれなかったものがある。あと一度だけでいいから、大切なあの人の笑顔が見たかった。その温もりに触れたかった。ありがとうと感謝を伝えたかった。ごめんねと謝りたかった。
そんな思いの欠片を、取り戻せない時間のなかに置き去りにして旅立たなければならないだなんて、納得できるほうがおかしい。
たとえ心の奥深くに隠していたものでも、行き場を失って孤独に震え続ける想いを無視して死を受け入れるのは、とても、とても難しいことだ。
「私ね、敦さん……。あの子に……奏叶に、会ってきたの」
「……ああ、そうか。だからそんなに心が張りつめてしまったんだね」
「もう、会えないって思ってた。会えないはずだった。私は許されないことをしたから、あの子にも嫌われてるに決まってるって……っ」
「うん。前もそう言っていたのを憶えてるよ」
「でも、でもね……。奏叶は私を、ママって呼んでくれたのよ」
もう涙の理由を考えられないまま、私はぐちゃぐちゃの顔で相好を崩した。
それを見た敦さんは、どこか感極まった表情で何度も何度もうなずいて、もう一度私を抱き締めてくれる。心を丸ごと包まれているような温もりが伝わってきた。
ああ、どうしようもなく温かい。
「よかった……よかったなぁ、栞……。本当に、よかった」
――たとえ鎖となっていた未練がすべてなくなったとしても、自らの死の事実を受け入れられるわけでも、〝さようなら〟ができるようになるわけでもない。
未練の代わりに心にはべつの想いが宿る。誰かを深く愛した記憶が、命の灯が消えてもなお生き続けているその想いがある限り、生を望む気持ちは灯ったままだ。
それに、残されていく側の心境を考えたらたまらない気持ちになる。
ふとしたときに名を呼びそうになって、でも相手はもうどこにもいないことに気づいて、言葉を呑みこんで、鼻の奥がツンとするのに耐える。幸せだった瞬間を彷彿とさせるような場面に遭遇したとき、胸にぽっと灯が点ると同時に、どうしようもない寂しさが心を覆う。いつかの記憶に宿る相手の声や仕草が、その静寂が生み出す泣きたくなるほどの懐かしさは、しばしの間、痛みに変わる。
心に穴の空いたような喪失が、人に与える影を知っている。
ああ、でも。それでも。
どうしようもなく愛しい、とも思う。この世界に生まれて〝生きた〟証を。
共に過ごし重ねてきた時間がある。交わした言葉、さりげないやり取り、触れ合った温もり、私を作り上げるそれらすべてが宝物となってここにある。
私は、私の生きた人生そのものを、どうしようもなく愛しいと感じている。
「大丈夫だよ、栞。君はもうひとりじゃない。私がいる」
「敦さん……っ」
「うん。そばにいるから。ゆっくり話をしよう、ふたりで」
――許されるのなら、いつまでもこうしていたい。敦さんの言葉に甘えて、抱えているものをすべて吐き出して、涙のわけを聞いてもらいたい。
しかし、私が死ぬ運命を伝えてはいけない、という規則に背けば、なにが起こるかわからない。せっかくふたりで過ごせる最期の時間を、二度と訪れるはずのなかったかけがえのない時間を無駄にしてしまう可能性もある。
ならば私は、せめて残された時間で、私に伝えられる最大限の想いを伝えたいと思うのだ。そうして伝わったぶんの想いが、やがて敦さんの心の縁を温かく灯してくれるように、孤独を少しでも和らげてくれるように願って――。
「……敦さん。私と出逢ってくれて、結婚してくれてありがとう」
「こちらこそ。こんな私を選んでくれてありがとう、栞」
「……お祝い、しましょうか。敦さん」
ゴーン、ゴーン、ゴーン……――。
振り子時計が十八時を知らせる鐘を鳴らした。
二度目の別れは着実に近づいている。タイムリミットの二十三時二十三分まで、残り約五時間。しかし、不思議だ。クロが――私をここまで導いてくれた〝灯猫〟が横切るまでのカウントダウンがはじまっても、世界は温かいままだった。
最期の記憶を刻む私の心もまた、涙が溢れるほどの幸せに満たされていた。



