いつか君の血が咲うとき

「ダメだな。まずそうだ」
「……えっ?」
 何を言われたのかわからなかった。
 だって誰だってわからないだろう。
 いきなり「ちょっと見せて」と怪我した手をとられたかと思えば、まずそう、なんて。
「え、えっと……に、(にのまえ)? くん?」
「んー?」
 細くて形のいい顎にすらりと長い指先を添え、吐息を含んだ声が漏れる。
 さらさらと艶めいて、夕暮れの風に揺れる銀髪。いつもは濡れたような漆黒の瞳が、花のような紫に光っていた。
 一、とかいて、にのまえ。特徴的な名前と、綺麗な銀髪が珍しくて、よく覚えている。
 顔の造形も精巧な人形みたいにすごく綺麗で、学校中の女の子から人気があって。
 だけど私とはほとんど接することはなく、というかなんなら今まで話したこともない男子が、放課後の校庭の片隅で、私の目の前に膝をついて、じっと血が滲んだ手を見つめている。
 何か言おうとして、なんとかとがめようとして口を開いた。
 でも、つっこみどころが多すぎて何から言えばいいか、そもそもどこから会話を始めればいいかわからない。
 小さく息を吸って、とりあえず根本的なところから聞いてみる。
「……な、なに、してるの?」
 答えはずいぶん簡単だった。
「血を見てる」
 紫の眼差しは、私の手に留められたまま。
 二人の間を、涼しく磨かれた風がさらりと吹き抜けていく。
 甘い蜜のような声は、その風に吹き晒されて、少し乾いて響いた。
 一くん――クラスメートの一月明(つきあ)くんがゆっくりと目線をあげて、私の顔に焦点を当てる。
 目が、合った。
「君さぁ、えーと……花? みたいな感じだったよね、名前」
「花? あ、うん、花咲(はなさき)……花咲、とはねです」
「とはねかぁ、じゃあとはね」
 一くんの瞳が、すうっと射抜くような光を帯びた。
「君、今まで一回も笑ったことないよね」
「――え」
 息、が、止まった。
 なんで。
 なんで、それを。
 なんで、そんなことを。
「顔はたくさん笑ってるけど、君の血が笑ったこと、一回もないよね」
「――血? え、血?」
「この血見たらわかるよ。何年放置したら、こんなにまずそうに根元から腐るのかな」
 絶対飲みたくない、とあからさまに顔をしかめた一くんは呟く。
「え、ちょ、ちょっと待って、なに、何の話?」
「君の血がまずそうだって話だけど」
「なんで⁉」
 普通……普通、怪我したクラスメートが水道で手洗ってたら、大丈夫とか、痛くないとか、そういうこと聞くんじゃないの? ……というかそれ以前に血がまずそうってなに?
「なんでって何が?」
 心底不思議そうに私を見上げる紫の瞳。そうだ、この目の色だっておかしい。カラーコンタクトでもしないかぎり、一瞬で目の色が変わるなんて……でもさっき私に近寄ってきて、手を取るまではいつも通りの黒だったような。
 私は混乱した頭を必死に整頓しながら、まず手に取ったものを声に出す。
「だって……え、血がまずそうって何、どういうこと? 食べるの? 飲むの? なにそれ、そんな吸血鬼みたいな」
「ああ。……ああ、言ってなかったか。吸血鬼だよ、オレ」
 二度目、再び息が止まる。
 一くんがようやく私の手を離し、軽く膝をはらって立ち上がった。
 さっきまで橙だった空はいつの間にか藍を帯びて、どこか誘い込むような、それでいて警告するような妖しさと危うさを含んだ風が吹く。
 銀髪の奥で、瞳が丸く、ぞっとするほど美しく煌めいた。
「――ヴァンパイア。人の生き血を吸って楽しむ人外だ」
 甘い蜜の声はその風にとけて、艶めくように低く歌う。
「じん、がい」
「あのねぇ、とはね。オレ、君の血に興味がわいたよ」
 目が離せない。目を逸らせない。目線を囚われる。心臓を捕らわれる。心を絡めとられる。
 吸い寄せられる。惹きつけられる。
 私、今、何されてる?
 このひとは、今、何してる?
「君の血ってこんなにまずそうなのに、すっごく甘くて、心臓がとろけそうなくらい素敵な香りがするんだ。吸血鬼(オレ)がこうして寄って来るくらい。きっともう何年も前――君の心がちゃんと健康だったときの残り香なんだよ。もし君がもう一度心の底から笑えたら、とはねの血はどんなに美味しくなるのかな」
 一くんの瞳が爛々と輝きを増していく。
 声が出なかった。
 魅力、という言葉を――本物の魅力というものを、はじめて、体内を貫いて心の臓に突き抜けるように、思い知らされた。
 これはもう、魅力を越えて魔力だ。あまりにも危険で、その眼差しに、空気に、肌がちりちりする。
 人間じゃない。
 本能的にそう思った。
 夜の境目の空を纏って、夜の間際の風を味方につけて、目の前にいる男の子は、明らかに。
 雰囲気が、まるっきり全然、人間と違う。
 これは、まるで。
「……ああ、やばい。そっか、これは人間に使いすぎちゃダメなんだったね」
 はく、と口を動かしたところで、ふわりと弾けるようにその空気が消えた。
 風の最後の残り香で揺らぐ銀髪のその下は、いつも通りの黒い瞳。それが三日月みたいにふっと細くなって、どこか悪戯っぽく微笑む。
「でも、これでわかったでしょ? オレが人間には想像もつかないナニカだってこと」
 たとん、とローファーが長い足が軽やかなステップを刻んで、少し私から離れる。
 藍と紫の入り混じった放課後の薄闇に、紛れるように。
「ヴァンパイアってね、一度興味が湧いたものは、とことん追いかけて、深く広く強く濃く知らないと、手に入れないと、気が済まない厄介な生き物なんだよ」
 唇の前に人差し指を立てて一くんはそういった。
 言葉のひとつひとつが、話し方がまるでなにかの音楽みたいな、不思議な調べを奏でているような、そんな感覚がした。
 けれど次の瞬間にその調べがするりとヴェールをはいで、普通の、心にこだまする、血の通った言葉に変わる。
「ねえ、とはね。今日からオレが、君のこと笑わせてみせるから。もしいつか君の血が心の底から笑えたら、真っ先にオレに飲ませてね。ずっと、待ってるから。いつまででも」
 ヴァンパイアでも人間でもなく、ああ、ただきっと今は「一くん」なんだなと、そう思わせるような――とてもやわらかい、優しく花咲く微笑みで。
 じゃあね、とひらり軽く手を振るなり、一くんの姿は闇にほどけるように消えた。
「……な、なに、今の」
 意味が分からない。
 怪我して傷を洗っていたら、いきなりクラスの男の子に話しかけられて、まずそうだな、なんて訳の分からない(でもきっと失礼な)ことを言われて。
 だけどその理由は、私が本心から笑っていなかったことで。
 その男の子はヴァンパイアで。
 これから私を笑わせる、らしい。
「……いや、意味わからないから」
 やっぱり理解が追いつかない。
 でも、一番追いつかないのは……追いつけないのは、一番最後の。

 私が、笑う? 笑うって――心の底から笑うって、どう、するんだっけ。
「……笑えるわけ、ないよ」
 ずっと本当の感情を押し殺して、周りに合わせて、うかがって、そうやって、偽物の笑顔で取り繕って。
 本物の純粋な笑い方なんてもう、忘れてしまった。


 そして、そんな気持ちが。
 一くんには、一くんにだけは、分かるわけがないと思ったから。
 分かってほしくも、なかった。