残暑が続く夏の終わり。下校のチャイムが鳴ると、私は急いで教室を出た。
(急がなくちゃ)
枢木あやめ。高校三年生。学校近くにある祖父母宅が実家だけど、母がシングルマザーで海外出張も多く、寮に入っている。祖父母は昨年、連れ立つように他界してしまった。残された家族は猫のスミだけで、そのスミも年齢のせいで最近は調子が悪い。寮の門限がある私は、スミとの時間のために毎日走って実家に帰っていた。
「ただいま。スミ?」
黒猫は出てこない。私はローファーを脱ぎ捨て、足早に玄関を上がる。夕暮れのオレンジが差し込む人気のない茶の間には、エアコンの稼働音だけが響く。猫用のベッドにスミの姿を見つけて「寝てるの?」と手を触れた。
「スミ……?」
横たわる黒い身体は、ぴくりとも動かない。どんなに呼んでも揺さぶっても、スミは起きなかった。毛繕いのままならなくなった被毛は脂っぽく、私の落とした涙は簡単に弾かれて。温さのなくなった小さな身体は、まるで内側に氷を宿したかのように冷たくなっていた。
「ごめん、スミ。ひとりぼっちで、ごめんね……」
ずっとそばにいてくれたのに。どんな時も、この子は私のそばにいたのに。小さな身体を抱きしめて、わんわんと泣いた。この家にも、手入れを放置した広い敷地にも、誰もいない。誰を気にすることなく、私は涙が枯れるほどに泣き続けた。
夕日はとうに沈み、とっぷりと日が暮れ室内は暗くなってしまった。寮の門限はとっくに過ぎていて、不在着信がいくつもある。それに折り返す気は少しも起きず、放置した。今は、スミの亡骸をちゃんとしてあげたかった。
玄関を出てすぐのところには祖父の盆栽棚があり、祖母の花壇がある。そこにスミを埋めた。お気に入りだったブランケットと、おやつを入れて。土を被せてしまう前にもう一度撫でると、また涙が止まらない。しゃくりあげながらお墓をつくり、手を合わせた。
すると、サァ——っと風が吹き抜ける。甘く優しい、花のような香りを漂わせて。
私は涙を拭うことなく立ち上がると、鬱蒼と草木が茂るそちらへ足を踏み入れた。甘い香りに誘われるように、スミのお墓を振り返ることもなく。たどり着く先はわかっていた。この敷地の中心にある、小池。それが、私を呼んでいる気がした。
小池は祖父母が観賞用に作ったものでも、家を建てる際に敷地内にあったわけでもない。いつのまにか、まるで最初からそこに存在していたかのように現れた。私が一番に見つけて、すぐに祖父に「近づくな」と遠ざけられた。理由は、覚えていない。
小池が近づくと、生い茂った草木が私に道を開くように受け入れた。誰も入った形跡なんてないのに、私のための道が小池まで続いていた。昔見たきりだった小池は、はじめて見た時と同じく透き通っていた。濁ることなく月明かりを反射して、水面は穏やかに夜空をうつす。
(ここで、幼い頃……)
私は、誰かと会った気がする。おぼろげな記憶が、私の中によみがえる。
穏やかでゆったりとした語り口。低く、喉でごろつくような声。でも恐ろしさはなく、心地のいい。私の名を教えた、懐かしい妖――。
「僕が恋しくなったのかい?」
思い出した声が、小池から聞こえた。甘く優しい香りが強くなる。
「来てくれて嬉しいよ、あやめ」
そう言うと、小池から一瞬で姿を現した妖はふわりと私を抱きしめた。抵抗してもその力は強く、私は小池に呆気なく引きずり込まれてしまった。泳げない私は、もう逃げることもできない。どんどんと沈み、水圧が増していく。
「本当は攫ってしまいたいけど、黒百合との約束だからね。今は、預かるだけにするよ」
ふっ、と私を拘束している力が緩んだかと思うと、顎を持ち上げられた。目の前に、淡く青紫色に光る瞳がある。その瞳が私を捕え、唇が柔らかいものに塞がれた。吹き込まれるあたたかな息に、意識が遠のく。
「大丈夫。僕が守ってあげるからね」
小池の深さなんてとうに通り越した、漆黒の世界。水の冷たさも息苦しさも消え、感じるのは抱きしめられているあたたかさだけ。いつしか恐怖心は消え、何も見えない漆黒の中、私は懐かしい声の持ち主に身を委ねて落ちていった。
私の家系は、いわゆる視える血が流れている。
影響が強く出たのは祖父で、私も同じ。母は「持って生まれたものは仕方ない」と開き直っていたので、そんな母に育てられた私が話し相手に妖を選ぶのは仕方のないことだった。妖は友好的で、 怖い存在だなんて思ったこともなかった。
だから幼い頃の私は、小池の妖とも仲良くなりたかった。けれど、祖父だけでなく母まで、私を小池から遠ざけた。スミまで私を見張るようにして、小池を警戒していた。
その小池の妖が、変わらぬ声で私の名を呼んで、私を水の底に引きずり込んだ。
「おはよう、あやめ。かわいい子猫ちゃん」
耳元で囁かれ、私は目を覚ます。畳の匂いが鼻をかすめ、松の木や鳥が描かれた襖が目に入った。縁側の板戸に、壁際には小机と小箪笥が置かれていて。広い和室の隅には、姿見もある。
柔らかな布団の上で、私は体を起こした。同じく布団の上であぐらをかいて座っている声の持ち主が、私を見下ろして「おや」と言った。
「あやめは、子猫を見たことがないのかな?」
意味のわからない問いかけに、私はそちらを見上げた。黒い着物の男。ベージュに近いグレーの帯に、さりげなく刺繍が施されている。ぱっと見は人間に見えた。黒髪で、淡藤色の瞳が普通ではないけれど、端正な顔立ちの。──おでこさえ見なければ。
「鬼……?」
「ふふ、残念。僕は竜だよ」
黒髪を避けて二本、角が出ていた。男は組んでいた腕を解くと、私に手を伸ばす。爪は鋭く、優しい声とは裏腹で私は身を引いた。竜と言った男は一瞬だけ瞳に翳り見せて、手を引っ込めた。
「僕が恐ろしいかい?」
「……怖い」
竜が、というよりはこの状況が。あの声の正体が竜だったことに、私は恐ろしいとは思わなかった。家族が私を遠ざけたくらいなのだから、力のある妖だとは感づいていた。けれど、今の状況を作り出したのがこの竜なら、私の返答は間違っていない。
そうか、と哀愁を漂わせる竜に戸惑いつつ、私は口を開いた。
「ここはどこ? 私をどうするの? 私は……人間の姿じゃ、ないの?」
先ほどから視界に入るのは、白く短い毛に覆われた丸い小さな手。背中には毛が逆立つような感覚があり、それは人間のものじゃなかった。
「ここは、あやめの世界とは表裏一体。妖の住む世界だよ」
「妖の……」
「そう。だから化けてもらったんだ。この世界では、人間の姿のままだと食われかねないからね」
そう言うと竜は、壁際にある小箪笥から手鏡を取り出して私に向けた。そこに映るのは、白い毛の小さな手の持ち主。三角耳に、ぴんとヒゲが伸びる。ピンクの鼻が愛らしく、透き通る藍青色の瞳が綺麗な、違うことなき白猫。
「猫っ……!!」
「子猫にと暗示たのに、小柄な猫になってしまったね」
そこで最初の謎の問いがなんだったのか気づいた。子猫、とは。鏡に映るのは、童顔であどけなさの残る小柄な成猫だった。
「も、元に戻して!」
「言っただろう。人間のままでは食われると」
「そんなの、あなただってどうせ……!」
それ以上は言葉にするのが恐ろしく、私は口を閉じた。竜はそれを察してか、さらに穏やかな口調になる。
「安心おし。僕は、お前を食うためにここに連れてきたんじゃない」
「だったら、どうして」
「約束を守るためだ」
「約束……?」
すると、竜は襖を見た。「来たね」と小さく言い、私に戻る。
「連れてきてすぐで悪いが、僕は留守にする。この部屋では自由にするといい。でも、僕が帰るまで、部屋から出てはいけないよ」
「待って。どういうこと? 私を元の世界へ返して」
「今はできない」
襖の外から声が聞こえた。その声に返事をしかけて、竜は「あぁ」と何かを思案してから、私の名前を呼んだ。
「あやめ。妖の世界において、 “真名” とは弱点になりうるものだ。決して、他の者には教えないように」
「……どういうこと?」
「君はここでは、芹と名乗りなさい。いいね」
竜は私の問いかけには答えず、今度こそ襖の外に返事をした。襖が開くと、そこにいたのは着物姿の二人の男女だった。
「お呼びでしょうか、旦那様」
男が口を開いた。先端が前に倒れた半立ち耳と、ふさふさのしっぽがある。生真面目そうな顔立ちに、印象どおりの堅い話し方。人の姿だけど、たぶん犬。
「木蓮、僕はしばらく旅館を空ける。代わりを頼むよ」
「はい」
「それから、白檀。この子は僕の大事なお客様だ。お世話を頼むよ」
「はい。お名前はなんでしょう?」
女にしてはハスキーボイス。でも、色気を感じさせる喋り方。三角耳の、切れ長でつり目の女が私を見た。興味深いのか、細長い尾がぴんと立った。やはり人の姿だけど、こちらは猫。
「名乗ってごらん」
竜が私を促す。戸惑い無言になると、背に手を置かれた。
「木蓮と白檀は、僕が最も信頼している二人だ。恐れることはないよ」
「お名前は、なんでしょう?」
白檀という猫女が、今度は私に問う。
「せ、芹です」
あやめ、とは出てこなかった。竜に言われたからではなく。なぜか、言葉にできなかった。竜は「いい子だ」と小さな声で私に囁いた。
「芹は表の世界の子だ。裏のことは何も知らない。他の目に触れないように、気をつけてくれ」
「「承知しました」」
木蓮と白檀の声が重なった。竜は立ち上がり、臙脂の羽織りを手に取ると、颯爽と部屋を出ていってしまった。
私はこの日から、広い和室に監禁されることになった。
竜が「留守にする」と出て行ってから早三日。その三日間でわかったのは、ここが『紫苑屋本陣』という妖の旅館だということ。食事処に力を入れており、日帰り温泉や記念日の利用も多いのだとか。
それを教えてくれたのは、猫女の白檀だった。竜の言いつけ通りに私の身の回りの世話をしてくれる。部屋に入る際は「旦那様の私室〜♪」とご機嫌で、普段は立ち入りを禁じられているらしい。
(手癖悪くあちこち物色するからでは……?)とは、三日目の彼女の感想だ。それ以外は丁寧におもてなしされていて、作法もとても綺麗なものだ。ただ、手癖が悪い。まるでエロ本や粗を探すかのように小箪笥の引き出しを開ける。
(……さて)
そんな白檀を横目に見ながら、私は音を立てずに襖へ向かう。この三日間、ただおもてなしされていたわけではない。何度も脱出を試みては捕まり、を繰り返していた。――今日こそは。
前足で襖を少しだけ開けて、柔軟な猫の体で隙間から抜け出す。忍ぶには、猫の体は楽かもしれない。体が出たところで、私は走り出そうとした。
「芹様どちらへ? 白檀はどうしましたか」
……でも、捕まった。首根っこを掴まれ、宙ぶらりんにされてしまった。先端が前に倒れた半立ち耳の犬男、木蓮だ。私の首根っこを掴んだまま、自らの目線の高さに私を持ち上げる。鼻がひくひくと動いた。
「あーっ! 芹様! 木蓮!」
襖が勢いよく開き、白檀が木蓮の手から私を奪い取る。木蓮はうるさそうに耳を伏せた。
「旦那様にお部屋から出すなと言われただろ。ちゃんと見張っておけ」
「ちゃんと見張ってるけど、この子すぐ逃げ出しちゃうのよぉ!」
縁側からも落ちそうになって危なかったんだからぁ! と、白檀は木蓮に訴える。
縁側なので、てっきり一階だと思って逃げ出そうとした私は、この旅館で最上に位置する部屋から危うく身投げをするところだった。間一髪で白檀に助けられ、眼下に広がる妖の街を一望し、全身の毛が逆立った。せり出した縁側は伝って逃げる屋根もなく、この旅館は奇怪な造りをしていたのだった。
「だから見張るんだろう。あと、お世話もちゃんとしろ。また食事に手をつけていないじゃないか」
木蓮が顎をしゃくって言う。部屋には、力を入れているという彩り豊かな食事の並ぶ御膳が置かれていた。
「食欲がないって言うのよ」
「食べずに三日だ。旦那様の大事なお客様だからこそ、そろそろ手を出さねばいけないんじゃないか」
「……はぁ〜」
白檀に抱かれ、頭上でのやり取りに冷や汗をかいてた私はどうにか逃げ出せないかと体をよじった。だけど簡単に白檀に抱え直される。猫とは、逃げるのが上手い動物のはずなのに。白檀のため息が私の後頭部にかかった。
「んじゃ、木蓮ちょっと見てて」
私は部屋に戻され、そして木蓮も押しこまれて、ぴしゃりと襖が閉じられた。白檀はどこかへ行ってしまったようで、木蓮との間に沈黙が流れる。「見てて」と言われた通りに私をガン見する木蓮は、鼻をひくひくと動かし、犬そのものだ。
「芹様。うちの温泉はとても好評です。そちらでゆっくりしていただければ、気分も落ち着き食欲が戻るかもしれません」
木蓮が急に、そんなことを言った。それに対して返事をできず、また沈黙が流れる。気まずく思っているのは私だけなのか、木蓮は私をガン見し続けた。新しい御膳を持った、白檀が戻ってくるまで。
「えっ、睨み合ってるの?」
白檀がたじろぎながら私と木蓮の間に入ると「では芹様、俺は失礼致します」と頭を下げて、木蓮は部屋を出ていった。ほっと息をつく私。白檀は首を傾げたが、御膳を置くと改まった。
「一応確認ですが。芹様、お食事は?」
「いりません」
ぷいと顔をそむけて。白檀はまた、大きくため息をついた。
「では、こちらもそれなりの対応を。旦那様の大事なお客様ですから」
そう言うと、私を御膳の前に座らせ、自らは御膳を挟んだ向かい側に座った。新しい御膳には丼がひとつ。それを匙で掬うと、ずい、と私に突きつけた。
「お食べ下さい。少しでも」
「い、いりません」
「いいえだめです。無理強いはしたくありませんので、どうぞ自ら」
さらに、ずい、と。匙にはトロッと炊かれたお粥が、ほんのりと湯気を立たせている。私は体を後ろにそらし、それを拒否する。
「いりませんっ」
「だめですよ」
「いらないです!」
「だめです」
「いらないってば!」
「だめです!」
「私のことはほっといて!」
カチャン、と匙がとんだ。私が振り払ったからだ。白檀はそれを静かに拾うと、ゆっくりと私を睨みつける。
「この、意地っ張り小猫がっ!」
頭をがっしりと掴まれた。驚いて動けずにいる私の口に、新しく掬ったお粥が突っ込まれる。お出汁の香る、たまご粥。優しい味付けに、トロッとしているので食欲がなくても喉を通る。
「きゅうきゅうお腹鳴らせてるくせに、痩せ我慢するんじゃない!」
「やっ、痩せ我慢なんか……」
そこで、きゅうとお腹が鳴る。それを聞いた白檀にまた、容赦なく突っ込まれた。
「どんな理由があろうと、飢えては生けていけません。あなたは死にたいの?」
ごくん、と飲み込む。白檀は次から次へと私の口に匙を運んだ。私は頭を掴まれたまま動けず、飲み込んでは入れられてを繰り返した。そうして、丼の半分ほどを無理矢理食べさせられた。
「芹様には多いようね。明日からはもう少し減らします」
白檀は御膳を下げに一度部屋を出たが、今度はタオルを持ち、すぐに戻ってきた。そして、私を抱き上げて部屋を出る。
「さて、次はお風呂ですよ。芹様」
「や、やだ!」
「先ほど、木蓮が鼻をひくつかせていたでしょう。あれは犬だから、鼻がきくのです。あなたは毛繕いも自分でなさらないから、お風呂に入るべきですよ」
「離して!」
だから木蓮は、いきなり温泉の話をしたのか。
暴れる私をものともせず、白檀は私を抱いて軽やかに階段を駆け下りていく。一体何回建てなのだろうかというほどに下った。途中、従業員らしき人影があると私を隠して。私はこの時、初めてこの旅館の中を見て回ることになった。ずっと竜の部屋に監禁され、縁側の先は絶壁で。唯一の脱出口、襖から抜け出ても白檀に捕まっていたために。
「旦那様が他の者の目に触れないようにと言っていたので、従業員用の湯へお連れします。お静かにお願いします」
目的の階にたどり着くと、白檀は迷うことなく廊下を歩いた。
木造で年季の入った造り。だけどよく手入れをされていて、それが趣を感じさせる。上品な館内だ。私の世界の老舗旅館に近い感じ。白檀や他の従業員の振る舞いから見ても、ここは一級の旅館だろうとわかった。そして、その白檀と木蓮を従え『旦那様』と呼ばれている竜とは……
「こちらです。——誰もいないわね。他の者が来る前に、手早く済ませましょう」
白檀はさっと襷掛けをし、着物の裾の両端を帯に挟み込んで裾からげをした。着物から覗く足は白く、それでいて女性のものよりは筋肉質。
「濡れるのは嫌でしょうが……ご辛抱を」
同じ猫同士、ほんの少しの同情をしてから白檀は湯桶で私にお湯をぶっかけた。それはもう、遠慮などなく。ほんの少し見えた同情はどこにいったのかというほどに。驚いた私は固まり、されるがままに洗われた。もこもこと泡まみれになり、白檀に揉み洗われるのはなんというか複雑な気分で……。さすがに、お腹にきた手には抵抗した。
「そ、そこはやめてー!!」
「容赦致しません!」
抵抗は虚しくわしゃわしゃと洗われ、またお湯をばっしゃばっしゃと掛けられた。すっかり見る影もなく変貌した私は、脱力しているうちに今度は湯船へと入れられた。
「従業員用の湯も温泉のものを引いています。どうです? 気持ちいいでしょう」
程よい湯加減。ヒノキの香りが湯気と共に浮かび上がり、心を落ち着かせてくれる。流れ作業のように洗われた体も、三日ぶりとあってはかなりすっきりした。
「これは、気持ちいいかも……」
素直に頷いて、目を閉じた。
夢を見た。スミが祖父母といる夢。
縁側に座る二人の間に入り、すり寄って甘えているスミは若く見えた。ゴロゴロと喉を鳴らして祖母の膝に丸まったかと思えば、祖父の膝に移動して。
どちらにしようか迷うように、まるで子供のように愛らしい声で鳴く。祖母が優しく頭を撫でる。祖父が力強く背中を撫でる。幸せそうに目を細めたスミは、死んでしまった今は祖父母とこうしているんだろうか。
微笑ましい光景を、私は少し離れたところで見ていた。陽だまりのようなあたたかなその場所に、私の心もあたたかい。おじいちゃん、おばあちゃん、スミ。失くしても褪せることなく、私の大切な宝物。
ふと、スミが私を見た。祖父母から離れて、こちらへ歩み寄ってくる。だんだんと、私の中のスミの姿へ近づいて——。目の前にきた時には、痩せ細った年寄りの猫になっていた。
(ひとりにさせてしまって、ごめんね)
頭に、心に、自然と響くその声。スミが、まっすぐ私を見ている。
(あやめが十八歳になるまでは一緒にいてあげたかったけれど、寿命だったみたい)
スミは悲しそうな顔をしない。むしろ、清々しいといったように……少しだけ、心残りを滲ませて。
しゃがんだ私に、いつものようにすり寄った。時間はそんなに経っていないのに、懐かしい手触り。スミのあたたかさ。じんわりと瞳が、ぼやけていく。
(ねぇあやめ、気づいている? 自分が、人間よりも妖寄りに生きていること)
私はスミに答えられなかった。目尻に溜まった涙がぽたりと、スミに落ちた。
(別に、悪いことじゃないよ。あやめにとって生きやすいのは、妖の世界かもしれないってだけ)
スミが私の足に飛び乗り、私の涙を舐めた。ザリっと、やすりのような感触。
(だからね、この世界にあやめが生きていける居場所を作っておいたよ。じっくり考えて、選んでね)
私の頰に、柔らかな毛感触りの頬をすりすりとして、スミは私の足から下りた。背中を向けたまま、こちらを振り返る。
(あの竜のことは、今までは近づけないように警戒していたけど……。 “約束” を義理堅く守ってくれてるし、信用できると思うよ)
しっぽをうねらせて、スミは歩いていく。トトト、とだんだん軽やかに。祖父母の元へと戻っていくスミは、また若返っていく。最後に一度振り返り、人懐こい顔を私に見せて。
(あやめ。どちらを選んでも、あなたの幸せを願っているよ。見極めて、しっかりと選んで。——あの竜は本気みたいだから、その道も、もしかしたら……)
最後はぶつぶつと言って、楽しげに「にゃあ」と鳴いた。それからは振り返らず、スミは祖父母の元へと駆けていってしまった。
「——っ」
ハッと目が覚めて手を伸ばした。その手が掴むのは、スミではなく空虚。
広い和室に、広い布団。妖の街は夜中に一層賑わいを見せ、明かりが途切れない。ただ、その喧騒がこの部屋に届くことはない。ここは『紫苑屋本陣』という旅館の最上階の部屋であり、この旅館の『旦那』である竜の私室。竜が不在になって五日目、相変わらず私はこの部屋に監禁されていた。
涙が頬を濡らす。張り付いた髪の毛を払い、顔を手で覆った。スミの言っていたことが現実味を帯びすぎていて夢か判断ができない。スミを失って、元の世界に居場所をなくしてしまった私の都合のいい妄想かもしれない。止まらない涙を止めようとせず、両手いっぱい顔中いっぱいを涙で濡らした。
すると、カタン、と縁側から物音が聞こえた。街から届く明かりが消えて、部屋が暗闇に包まれる。スッと障子戸が開き、そこには夜闇の庭があって——
「おや」
入ってきたのは、出ていった時の姿に黒のハットを被り、風呂敷包みを持ったあの竜だった。
「まだ起きて……あぁ、猫の暗示が解けてしまっているね。またかけ直そう。それより……」
竜は黒のハットを小机に置き、臙脂の羽織を脱いでばさりと床に放る。風呂敷包みは側に置いて、私の前に座った。
「どうして泣いているんだい? あやめ」
竜は指の腹で私の涙を拭い、覗き込んできた。淡藤色の瞳が、いつのまにか戻った街からの明かりを反射してオレンジ色に光る。
「私を元の世界へ返して……」
「今はできないと言っただろう」
「どうして。どうして今はダメなの」
「黒百合との “約束” だからね」
「黒百合って誰なの……?」
スミが言っていたことを、竜が言う。まったく違う名前を出して。
竜は風呂敷包みを開けると、そこから何やら取り出す。差し出された手拭いは折りたたまれていて、うっすらと厚みがあった。
「開けてごらん」
私は受け取った手拭いを、手のひらの上でゆっくりと開いた。不確かな感触がだんだんとはっきりしてきて、それが何なのかわかった。ちりん、と小さな鈴が鳴る。埋葬する前に外した、スミの首輪だ。
「どうして……」
「それと、これも」
小箪笥の引き出しの一つを開けて、今度は紙を私に渡す。それは若干古くなっていたが、擦り切れることなく綺麗に保管されていた写真。黒猫が、竜に抱かれて妖に囲まれ、不機嫌そうな顔をして写っていた。
「……スミ? なんでスミが、あなたや妖と?」
「ここでは黒百合と呼ばれていた。あやめが幼い頃……十数年ほどかな。表の世界と裏の世界を行ったり来たりして、ここで働いていたんだよ」
「働く? なぜ?」
「……自分の大事な者のための居場所をつくっていたんだろう。僕に恩を売って」
写真から顔を上げると、竜は優しい瞳で写真を見つめていた。それがどういう意味なのか、次第にわかる。夢の中のスミの言葉。居場所。スミはずっと私の側にいて、私の心の内も理解してくれていた。妖ばかりに気を許す私は、自分の居場所にずっと悩んでいたから。
また、どうしようもなく胸が締め付けられた。スミの首輪をぎゅっと抱きしめて、溢れ出そうな声を抑える。
「我慢しなくていいよ」
腕を引かれ、竜の胸の中に閉じ込められた。甘く優しい、花のような香り。布団からも香っていたけれど、それよりも強くて爽やかさがある。
「すまない、心細かっただろう。もう、ひとりにはしないから。僕があやめを、守るからね」
竜の言葉は優しく、どこかスミに似通っている。喉でごろつくような低い声。ゆったりと、穏やかに紡がれる言葉は私の耳に流れるように入ってきて。
心を許してはいけない。そう思うのに、どうしてか不思議と心が落ち着く。トクン、トクン、と聞こえる心音は人間と同じで、腕の中の温もりも、人間と変わらなかった。
(急がなくちゃ)
枢木あやめ。高校三年生。学校近くにある祖父母宅が実家だけど、母がシングルマザーで海外出張も多く、寮に入っている。祖父母は昨年、連れ立つように他界してしまった。残された家族は猫のスミだけで、そのスミも年齢のせいで最近は調子が悪い。寮の門限がある私は、スミとの時間のために毎日走って実家に帰っていた。
「ただいま。スミ?」
黒猫は出てこない。私はローファーを脱ぎ捨て、足早に玄関を上がる。夕暮れのオレンジが差し込む人気のない茶の間には、エアコンの稼働音だけが響く。猫用のベッドにスミの姿を見つけて「寝てるの?」と手を触れた。
「スミ……?」
横たわる黒い身体は、ぴくりとも動かない。どんなに呼んでも揺さぶっても、スミは起きなかった。毛繕いのままならなくなった被毛は脂っぽく、私の落とした涙は簡単に弾かれて。温さのなくなった小さな身体は、まるで内側に氷を宿したかのように冷たくなっていた。
「ごめん、スミ。ひとりぼっちで、ごめんね……」
ずっとそばにいてくれたのに。どんな時も、この子は私のそばにいたのに。小さな身体を抱きしめて、わんわんと泣いた。この家にも、手入れを放置した広い敷地にも、誰もいない。誰を気にすることなく、私は涙が枯れるほどに泣き続けた。
夕日はとうに沈み、とっぷりと日が暮れ室内は暗くなってしまった。寮の門限はとっくに過ぎていて、不在着信がいくつもある。それに折り返す気は少しも起きず、放置した。今は、スミの亡骸をちゃんとしてあげたかった。
玄関を出てすぐのところには祖父の盆栽棚があり、祖母の花壇がある。そこにスミを埋めた。お気に入りだったブランケットと、おやつを入れて。土を被せてしまう前にもう一度撫でると、また涙が止まらない。しゃくりあげながらお墓をつくり、手を合わせた。
すると、サァ——っと風が吹き抜ける。甘く優しい、花のような香りを漂わせて。
私は涙を拭うことなく立ち上がると、鬱蒼と草木が茂るそちらへ足を踏み入れた。甘い香りに誘われるように、スミのお墓を振り返ることもなく。たどり着く先はわかっていた。この敷地の中心にある、小池。それが、私を呼んでいる気がした。
小池は祖父母が観賞用に作ったものでも、家を建てる際に敷地内にあったわけでもない。いつのまにか、まるで最初からそこに存在していたかのように現れた。私が一番に見つけて、すぐに祖父に「近づくな」と遠ざけられた。理由は、覚えていない。
小池が近づくと、生い茂った草木が私に道を開くように受け入れた。誰も入った形跡なんてないのに、私のための道が小池まで続いていた。昔見たきりだった小池は、はじめて見た時と同じく透き通っていた。濁ることなく月明かりを反射して、水面は穏やかに夜空をうつす。
(ここで、幼い頃……)
私は、誰かと会った気がする。おぼろげな記憶が、私の中によみがえる。
穏やかでゆったりとした語り口。低く、喉でごろつくような声。でも恐ろしさはなく、心地のいい。私の名を教えた、懐かしい妖――。
「僕が恋しくなったのかい?」
思い出した声が、小池から聞こえた。甘く優しい香りが強くなる。
「来てくれて嬉しいよ、あやめ」
そう言うと、小池から一瞬で姿を現した妖はふわりと私を抱きしめた。抵抗してもその力は強く、私は小池に呆気なく引きずり込まれてしまった。泳げない私は、もう逃げることもできない。どんどんと沈み、水圧が増していく。
「本当は攫ってしまいたいけど、黒百合との約束だからね。今は、預かるだけにするよ」
ふっ、と私を拘束している力が緩んだかと思うと、顎を持ち上げられた。目の前に、淡く青紫色に光る瞳がある。その瞳が私を捕え、唇が柔らかいものに塞がれた。吹き込まれるあたたかな息に、意識が遠のく。
「大丈夫。僕が守ってあげるからね」
小池の深さなんてとうに通り越した、漆黒の世界。水の冷たさも息苦しさも消え、感じるのは抱きしめられているあたたかさだけ。いつしか恐怖心は消え、何も見えない漆黒の中、私は懐かしい声の持ち主に身を委ねて落ちていった。
私の家系は、いわゆる視える血が流れている。
影響が強く出たのは祖父で、私も同じ。母は「持って生まれたものは仕方ない」と開き直っていたので、そんな母に育てられた私が話し相手に妖を選ぶのは仕方のないことだった。妖は友好的で、 怖い存在だなんて思ったこともなかった。
だから幼い頃の私は、小池の妖とも仲良くなりたかった。けれど、祖父だけでなく母まで、私を小池から遠ざけた。スミまで私を見張るようにして、小池を警戒していた。
その小池の妖が、変わらぬ声で私の名を呼んで、私を水の底に引きずり込んだ。
「おはよう、あやめ。かわいい子猫ちゃん」
耳元で囁かれ、私は目を覚ます。畳の匂いが鼻をかすめ、松の木や鳥が描かれた襖が目に入った。縁側の板戸に、壁際には小机と小箪笥が置かれていて。広い和室の隅には、姿見もある。
柔らかな布団の上で、私は体を起こした。同じく布団の上であぐらをかいて座っている声の持ち主が、私を見下ろして「おや」と言った。
「あやめは、子猫を見たことがないのかな?」
意味のわからない問いかけに、私はそちらを見上げた。黒い着物の男。ベージュに近いグレーの帯に、さりげなく刺繍が施されている。ぱっと見は人間に見えた。黒髪で、淡藤色の瞳が普通ではないけれど、端正な顔立ちの。──おでこさえ見なければ。
「鬼……?」
「ふふ、残念。僕は竜だよ」
黒髪を避けて二本、角が出ていた。男は組んでいた腕を解くと、私に手を伸ばす。爪は鋭く、優しい声とは裏腹で私は身を引いた。竜と言った男は一瞬だけ瞳に翳り見せて、手を引っ込めた。
「僕が恐ろしいかい?」
「……怖い」
竜が、というよりはこの状況が。あの声の正体が竜だったことに、私は恐ろしいとは思わなかった。家族が私を遠ざけたくらいなのだから、力のある妖だとは感づいていた。けれど、今の状況を作り出したのがこの竜なら、私の返答は間違っていない。
そうか、と哀愁を漂わせる竜に戸惑いつつ、私は口を開いた。
「ここはどこ? 私をどうするの? 私は……人間の姿じゃ、ないの?」
先ほどから視界に入るのは、白く短い毛に覆われた丸い小さな手。背中には毛が逆立つような感覚があり、それは人間のものじゃなかった。
「ここは、あやめの世界とは表裏一体。妖の住む世界だよ」
「妖の……」
「そう。だから化けてもらったんだ。この世界では、人間の姿のままだと食われかねないからね」
そう言うと竜は、壁際にある小箪笥から手鏡を取り出して私に向けた。そこに映るのは、白い毛の小さな手の持ち主。三角耳に、ぴんとヒゲが伸びる。ピンクの鼻が愛らしく、透き通る藍青色の瞳が綺麗な、違うことなき白猫。
「猫っ……!!」
「子猫にと暗示たのに、小柄な猫になってしまったね」
そこで最初の謎の問いがなんだったのか気づいた。子猫、とは。鏡に映るのは、童顔であどけなさの残る小柄な成猫だった。
「も、元に戻して!」
「言っただろう。人間のままでは食われると」
「そんなの、あなただってどうせ……!」
それ以上は言葉にするのが恐ろしく、私は口を閉じた。竜はそれを察してか、さらに穏やかな口調になる。
「安心おし。僕は、お前を食うためにここに連れてきたんじゃない」
「だったら、どうして」
「約束を守るためだ」
「約束……?」
すると、竜は襖を見た。「来たね」と小さく言い、私に戻る。
「連れてきてすぐで悪いが、僕は留守にする。この部屋では自由にするといい。でも、僕が帰るまで、部屋から出てはいけないよ」
「待って。どういうこと? 私を元の世界へ返して」
「今はできない」
襖の外から声が聞こえた。その声に返事をしかけて、竜は「あぁ」と何かを思案してから、私の名前を呼んだ。
「あやめ。妖の世界において、 “真名” とは弱点になりうるものだ。決して、他の者には教えないように」
「……どういうこと?」
「君はここでは、芹と名乗りなさい。いいね」
竜は私の問いかけには答えず、今度こそ襖の外に返事をした。襖が開くと、そこにいたのは着物姿の二人の男女だった。
「お呼びでしょうか、旦那様」
男が口を開いた。先端が前に倒れた半立ち耳と、ふさふさのしっぽがある。生真面目そうな顔立ちに、印象どおりの堅い話し方。人の姿だけど、たぶん犬。
「木蓮、僕はしばらく旅館を空ける。代わりを頼むよ」
「はい」
「それから、白檀。この子は僕の大事なお客様だ。お世話を頼むよ」
「はい。お名前はなんでしょう?」
女にしてはハスキーボイス。でも、色気を感じさせる喋り方。三角耳の、切れ長でつり目の女が私を見た。興味深いのか、細長い尾がぴんと立った。やはり人の姿だけど、こちらは猫。
「名乗ってごらん」
竜が私を促す。戸惑い無言になると、背に手を置かれた。
「木蓮と白檀は、僕が最も信頼している二人だ。恐れることはないよ」
「お名前は、なんでしょう?」
白檀という猫女が、今度は私に問う。
「せ、芹です」
あやめ、とは出てこなかった。竜に言われたからではなく。なぜか、言葉にできなかった。竜は「いい子だ」と小さな声で私に囁いた。
「芹は表の世界の子だ。裏のことは何も知らない。他の目に触れないように、気をつけてくれ」
「「承知しました」」
木蓮と白檀の声が重なった。竜は立ち上がり、臙脂の羽織りを手に取ると、颯爽と部屋を出ていってしまった。
私はこの日から、広い和室に監禁されることになった。
竜が「留守にする」と出て行ってから早三日。その三日間でわかったのは、ここが『紫苑屋本陣』という妖の旅館だということ。食事処に力を入れており、日帰り温泉や記念日の利用も多いのだとか。
それを教えてくれたのは、猫女の白檀だった。竜の言いつけ通りに私の身の回りの世話をしてくれる。部屋に入る際は「旦那様の私室〜♪」とご機嫌で、普段は立ち入りを禁じられているらしい。
(手癖悪くあちこち物色するからでは……?)とは、三日目の彼女の感想だ。それ以外は丁寧におもてなしされていて、作法もとても綺麗なものだ。ただ、手癖が悪い。まるでエロ本や粗を探すかのように小箪笥の引き出しを開ける。
(……さて)
そんな白檀を横目に見ながら、私は音を立てずに襖へ向かう。この三日間、ただおもてなしされていたわけではない。何度も脱出を試みては捕まり、を繰り返していた。――今日こそは。
前足で襖を少しだけ開けて、柔軟な猫の体で隙間から抜け出す。忍ぶには、猫の体は楽かもしれない。体が出たところで、私は走り出そうとした。
「芹様どちらへ? 白檀はどうしましたか」
……でも、捕まった。首根っこを掴まれ、宙ぶらりんにされてしまった。先端が前に倒れた半立ち耳の犬男、木蓮だ。私の首根っこを掴んだまま、自らの目線の高さに私を持ち上げる。鼻がひくひくと動いた。
「あーっ! 芹様! 木蓮!」
襖が勢いよく開き、白檀が木蓮の手から私を奪い取る。木蓮はうるさそうに耳を伏せた。
「旦那様にお部屋から出すなと言われただろ。ちゃんと見張っておけ」
「ちゃんと見張ってるけど、この子すぐ逃げ出しちゃうのよぉ!」
縁側からも落ちそうになって危なかったんだからぁ! と、白檀は木蓮に訴える。
縁側なので、てっきり一階だと思って逃げ出そうとした私は、この旅館で最上に位置する部屋から危うく身投げをするところだった。間一髪で白檀に助けられ、眼下に広がる妖の街を一望し、全身の毛が逆立った。せり出した縁側は伝って逃げる屋根もなく、この旅館は奇怪な造りをしていたのだった。
「だから見張るんだろう。あと、お世話もちゃんとしろ。また食事に手をつけていないじゃないか」
木蓮が顎をしゃくって言う。部屋には、力を入れているという彩り豊かな食事の並ぶ御膳が置かれていた。
「食欲がないって言うのよ」
「食べずに三日だ。旦那様の大事なお客様だからこそ、そろそろ手を出さねばいけないんじゃないか」
「……はぁ〜」
白檀に抱かれ、頭上でのやり取りに冷や汗をかいてた私はどうにか逃げ出せないかと体をよじった。だけど簡単に白檀に抱え直される。猫とは、逃げるのが上手い動物のはずなのに。白檀のため息が私の後頭部にかかった。
「んじゃ、木蓮ちょっと見てて」
私は部屋に戻され、そして木蓮も押しこまれて、ぴしゃりと襖が閉じられた。白檀はどこかへ行ってしまったようで、木蓮との間に沈黙が流れる。「見てて」と言われた通りに私をガン見する木蓮は、鼻をひくひくと動かし、犬そのものだ。
「芹様。うちの温泉はとても好評です。そちらでゆっくりしていただければ、気分も落ち着き食欲が戻るかもしれません」
木蓮が急に、そんなことを言った。それに対して返事をできず、また沈黙が流れる。気まずく思っているのは私だけなのか、木蓮は私をガン見し続けた。新しい御膳を持った、白檀が戻ってくるまで。
「えっ、睨み合ってるの?」
白檀がたじろぎながら私と木蓮の間に入ると「では芹様、俺は失礼致します」と頭を下げて、木蓮は部屋を出ていった。ほっと息をつく私。白檀は首を傾げたが、御膳を置くと改まった。
「一応確認ですが。芹様、お食事は?」
「いりません」
ぷいと顔をそむけて。白檀はまた、大きくため息をついた。
「では、こちらもそれなりの対応を。旦那様の大事なお客様ですから」
そう言うと、私を御膳の前に座らせ、自らは御膳を挟んだ向かい側に座った。新しい御膳には丼がひとつ。それを匙で掬うと、ずい、と私に突きつけた。
「お食べ下さい。少しでも」
「い、いりません」
「いいえだめです。無理強いはしたくありませんので、どうぞ自ら」
さらに、ずい、と。匙にはトロッと炊かれたお粥が、ほんのりと湯気を立たせている。私は体を後ろにそらし、それを拒否する。
「いりませんっ」
「だめですよ」
「いらないです!」
「だめです」
「いらないってば!」
「だめです!」
「私のことはほっといて!」
カチャン、と匙がとんだ。私が振り払ったからだ。白檀はそれを静かに拾うと、ゆっくりと私を睨みつける。
「この、意地っ張り小猫がっ!」
頭をがっしりと掴まれた。驚いて動けずにいる私の口に、新しく掬ったお粥が突っ込まれる。お出汁の香る、たまご粥。優しい味付けに、トロッとしているので食欲がなくても喉を通る。
「きゅうきゅうお腹鳴らせてるくせに、痩せ我慢するんじゃない!」
「やっ、痩せ我慢なんか……」
そこで、きゅうとお腹が鳴る。それを聞いた白檀にまた、容赦なく突っ込まれた。
「どんな理由があろうと、飢えては生けていけません。あなたは死にたいの?」
ごくん、と飲み込む。白檀は次から次へと私の口に匙を運んだ。私は頭を掴まれたまま動けず、飲み込んでは入れられてを繰り返した。そうして、丼の半分ほどを無理矢理食べさせられた。
「芹様には多いようね。明日からはもう少し減らします」
白檀は御膳を下げに一度部屋を出たが、今度はタオルを持ち、すぐに戻ってきた。そして、私を抱き上げて部屋を出る。
「さて、次はお風呂ですよ。芹様」
「や、やだ!」
「先ほど、木蓮が鼻をひくつかせていたでしょう。あれは犬だから、鼻がきくのです。あなたは毛繕いも自分でなさらないから、お風呂に入るべきですよ」
「離して!」
だから木蓮は、いきなり温泉の話をしたのか。
暴れる私をものともせず、白檀は私を抱いて軽やかに階段を駆け下りていく。一体何回建てなのだろうかというほどに下った。途中、従業員らしき人影があると私を隠して。私はこの時、初めてこの旅館の中を見て回ることになった。ずっと竜の部屋に監禁され、縁側の先は絶壁で。唯一の脱出口、襖から抜け出ても白檀に捕まっていたために。
「旦那様が他の者の目に触れないようにと言っていたので、従業員用の湯へお連れします。お静かにお願いします」
目的の階にたどり着くと、白檀は迷うことなく廊下を歩いた。
木造で年季の入った造り。だけどよく手入れをされていて、それが趣を感じさせる。上品な館内だ。私の世界の老舗旅館に近い感じ。白檀や他の従業員の振る舞いから見ても、ここは一級の旅館だろうとわかった。そして、その白檀と木蓮を従え『旦那様』と呼ばれている竜とは……
「こちらです。——誰もいないわね。他の者が来る前に、手早く済ませましょう」
白檀はさっと襷掛けをし、着物の裾の両端を帯に挟み込んで裾からげをした。着物から覗く足は白く、それでいて女性のものよりは筋肉質。
「濡れるのは嫌でしょうが……ご辛抱を」
同じ猫同士、ほんの少しの同情をしてから白檀は湯桶で私にお湯をぶっかけた。それはもう、遠慮などなく。ほんの少し見えた同情はどこにいったのかというほどに。驚いた私は固まり、されるがままに洗われた。もこもこと泡まみれになり、白檀に揉み洗われるのはなんというか複雑な気分で……。さすがに、お腹にきた手には抵抗した。
「そ、そこはやめてー!!」
「容赦致しません!」
抵抗は虚しくわしゃわしゃと洗われ、またお湯をばっしゃばっしゃと掛けられた。すっかり見る影もなく変貌した私は、脱力しているうちに今度は湯船へと入れられた。
「従業員用の湯も温泉のものを引いています。どうです? 気持ちいいでしょう」
程よい湯加減。ヒノキの香りが湯気と共に浮かび上がり、心を落ち着かせてくれる。流れ作業のように洗われた体も、三日ぶりとあってはかなりすっきりした。
「これは、気持ちいいかも……」
素直に頷いて、目を閉じた。
夢を見た。スミが祖父母といる夢。
縁側に座る二人の間に入り、すり寄って甘えているスミは若く見えた。ゴロゴロと喉を鳴らして祖母の膝に丸まったかと思えば、祖父の膝に移動して。
どちらにしようか迷うように、まるで子供のように愛らしい声で鳴く。祖母が優しく頭を撫でる。祖父が力強く背中を撫でる。幸せそうに目を細めたスミは、死んでしまった今は祖父母とこうしているんだろうか。
微笑ましい光景を、私は少し離れたところで見ていた。陽だまりのようなあたたかなその場所に、私の心もあたたかい。おじいちゃん、おばあちゃん、スミ。失くしても褪せることなく、私の大切な宝物。
ふと、スミが私を見た。祖父母から離れて、こちらへ歩み寄ってくる。だんだんと、私の中のスミの姿へ近づいて——。目の前にきた時には、痩せ細った年寄りの猫になっていた。
(ひとりにさせてしまって、ごめんね)
頭に、心に、自然と響くその声。スミが、まっすぐ私を見ている。
(あやめが十八歳になるまでは一緒にいてあげたかったけれど、寿命だったみたい)
スミは悲しそうな顔をしない。むしろ、清々しいといったように……少しだけ、心残りを滲ませて。
しゃがんだ私に、いつものようにすり寄った。時間はそんなに経っていないのに、懐かしい手触り。スミのあたたかさ。じんわりと瞳が、ぼやけていく。
(ねぇあやめ、気づいている? 自分が、人間よりも妖寄りに生きていること)
私はスミに答えられなかった。目尻に溜まった涙がぽたりと、スミに落ちた。
(別に、悪いことじゃないよ。あやめにとって生きやすいのは、妖の世界かもしれないってだけ)
スミが私の足に飛び乗り、私の涙を舐めた。ザリっと、やすりのような感触。
(だからね、この世界にあやめが生きていける居場所を作っておいたよ。じっくり考えて、選んでね)
私の頰に、柔らかな毛感触りの頬をすりすりとして、スミは私の足から下りた。背中を向けたまま、こちらを振り返る。
(あの竜のことは、今までは近づけないように警戒していたけど……。 “約束” を義理堅く守ってくれてるし、信用できると思うよ)
しっぽをうねらせて、スミは歩いていく。トトト、とだんだん軽やかに。祖父母の元へと戻っていくスミは、また若返っていく。最後に一度振り返り、人懐こい顔を私に見せて。
(あやめ。どちらを選んでも、あなたの幸せを願っているよ。見極めて、しっかりと選んで。——あの竜は本気みたいだから、その道も、もしかしたら……)
最後はぶつぶつと言って、楽しげに「にゃあ」と鳴いた。それからは振り返らず、スミは祖父母の元へと駆けていってしまった。
「——っ」
ハッと目が覚めて手を伸ばした。その手が掴むのは、スミではなく空虚。
広い和室に、広い布団。妖の街は夜中に一層賑わいを見せ、明かりが途切れない。ただ、その喧騒がこの部屋に届くことはない。ここは『紫苑屋本陣』という旅館の最上階の部屋であり、この旅館の『旦那』である竜の私室。竜が不在になって五日目、相変わらず私はこの部屋に監禁されていた。
涙が頬を濡らす。張り付いた髪の毛を払い、顔を手で覆った。スミの言っていたことが現実味を帯びすぎていて夢か判断ができない。スミを失って、元の世界に居場所をなくしてしまった私の都合のいい妄想かもしれない。止まらない涙を止めようとせず、両手いっぱい顔中いっぱいを涙で濡らした。
すると、カタン、と縁側から物音が聞こえた。街から届く明かりが消えて、部屋が暗闇に包まれる。スッと障子戸が開き、そこには夜闇の庭があって——
「おや」
入ってきたのは、出ていった時の姿に黒のハットを被り、風呂敷包みを持ったあの竜だった。
「まだ起きて……あぁ、猫の暗示が解けてしまっているね。またかけ直そう。それより……」
竜は黒のハットを小机に置き、臙脂の羽織を脱いでばさりと床に放る。風呂敷包みは側に置いて、私の前に座った。
「どうして泣いているんだい? あやめ」
竜は指の腹で私の涙を拭い、覗き込んできた。淡藤色の瞳が、いつのまにか戻った街からの明かりを反射してオレンジ色に光る。
「私を元の世界へ返して……」
「今はできないと言っただろう」
「どうして。どうして今はダメなの」
「黒百合との “約束” だからね」
「黒百合って誰なの……?」
スミが言っていたことを、竜が言う。まったく違う名前を出して。
竜は風呂敷包みを開けると、そこから何やら取り出す。差し出された手拭いは折りたたまれていて、うっすらと厚みがあった。
「開けてごらん」
私は受け取った手拭いを、手のひらの上でゆっくりと開いた。不確かな感触がだんだんとはっきりしてきて、それが何なのかわかった。ちりん、と小さな鈴が鳴る。埋葬する前に外した、スミの首輪だ。
「どうして……」
「それと、これも」
小箪笥の引き出しの一つを開けて、今度は紙を私に渡す。それは若干古くなっていたが、擦り切れることなく綺麗に保管されていた写真。黒猫が、竜に抱かれて妖に囲まれ、不機嫌そうな顔をして写っていた。
「……スミ? なんでスミが、あなたや妖と?」
「ここでは黒百合と呼ばれていた。あやめが幼い頃……十数年ほどかな。表の世界と裏の世界を行ったり来たりして、ここで働いていたんだよ」
「働く? なぜ?」
「……自分の大事な者のための居場所をつくっていたんだろう。僕に恩を売って」
写真から顔を上げると、竜は優しい瞳で写真を見つめていた。それがどういう意味なのか、次第にわかる。夢の中のスミの言葉。居場所。スミはずっと私の側にいて、私の心の内も理解してくれていた。妖ばかりに気を許す私は、自分の居場所にずっと悩んでいたから。
また、どうしようもなく胸が締め付けられた。スミの首輪をぎゅっと抱きしめて、溢れ出そうな声を抑える。
「我慢しなくていいよ」
腕を引かれ、竜の胸の中に閉じ込められた。甘く優しい、花のような香り。布団からも香っていたけれど、それよりも強くて爽やかさがある。
「すまない、心細かっただろう。もう、ひとりにはしないから。僕があやめを、守るからね」
竜の言葉は優しく、どこかスミに似通っている。喉でごろつくような低い声。ゆったりと、穏やかに紡がれる言葉は私の耳に流れるように入ってきて。
心を許してはいけない。そう思うのに、どうしてか不思議と心が落ち着く。トクン、トクン、と聞こえる心音は人間と同じで、腕の中の温もりも、人間と変わらなかった。



