2年越しのラブレター


 大学進学で実家を離れ、ひとり暮らし。
 最低限の家事はできるものの、料理の才能はなく自炊を諦めて俺はコンビニ通いの日々を過ごしていた。
 そんな俺を揶揄する友人の論点は毎日のコンビニ飯についてではなく、俺の考えつかないはるか斜め上のものだった。

「なるほど、通うわけだ」

 大学終わりの帰り道。
 俺の家に来るという友人を連れて、いつも通りに最寄りのコンビニに来ていた。
 品物をレジに出し、店員を見た友人が俺に向けてつぶやいた。

「いらっしゃいませ!」

 元気な声は、平日、この時間に出勤している女性店員のもの。恐らく二つ、三つ年上の大学生バイトだ。
 俺は通い詰めているので顔見知りではあるが、しても会釈くらいの間柄でしかない。
 そんな店員を前に、友人はにやけ顔で声をひそめた。

「女っ気ないと思ったら、年上好きだったか」
「は?」

 眉をひそめた俺を無視して、友人は今度は店員に愛想よく笑顔を向けた。

「おねーさん、いくつ? どこの大学?」
「えっ? えーと……」

 完全にナンパの声かけだ。普段は見ない軽薄な友人の姿に、俺は少し引いた。
 戸惑って返事を返さずにいる店員に友人の質問は止まらず、夕方のそれなりに混み合うレジをすっかり占領してしまっている。
 返答に困った店員が俺にちらりと視線を送ってきたので、俺は「やめろ」と肘で押して友人を下がらせた。

「すみません。いくらですか?」
「あっ、はい。お会計は……」

 ホッとしたように、店員は通常業務に戻る。
 やいやいと後ろで騒ぐ友人には「うるさい」と言い捨てて、それ以降は無視した。店員が何かを納得したような顔をしたが、俺は特に疑問を持たず。
 おつりを受け取って、友人を引きずるようにしてコンビニを出た。

 *

「こんにちは」
「……ちわ」

 翌日もまた、習慣めいた足取りで俺はコンビニに寄っていた。
 季節によって商品は変わるが、変わり映えのない定番の中から適当に食べ物を選んでレジに置いた。
 昨日は困っていた顔の店員が、今日はいつも通りの笑顔を見せている。けれど、俺に声をかけてきたことで、それはいつも通りではなくなった。

「昨日はありがとう。変な空気にしてごめんね、びっくりしちゃって」
「あー、いえ……。友人がすみませんでした」
「ふふ」
「?」

 表示された合計金額を見て、俺は言われる前にお金を置いた。それを店員が流れるように回収し、レジに流し込む。

「いつも素っ気ないから、嫌われてるのかと思ってたの。友達にもそんな感じなんだね」
「無愛想とは、よく言われます」

 昨日の納得顔はそれか、と気がついた。
 別に愛想を振る舞う必要がないので普通にしているだけなのだが、他人からはそう見えるらしい。
 たぶん、いつも隣にいる友人が真逆な性格のせいもある。

「私、立夏(りつか)。隣町の女子大三年。君は?」

 レシートとおつりが差し出される。
 俺は受け取るために手を出したが、一向に手のひらに乗せられる気配がない。
 不思議に思い目線で店員を窺うと、首を傾げられた。意図を察して、俺はため息をついた。

「……なつめ。すぐ近くの大学一年です」

 俺の返答を聞いた店員はにっこり笑うと、ようやくおつりを俺の手のひらに乗せた。

「なつめ君。よろしくね!」

 その一言から、俺のいつも通りに彼女の存在が加わった。

 *

 彼女の最初の印象は『明るくて元気』。
 月並みだし、接客業をしているのだから当たり前ではあるが、本当にそれがぴったりと当てはまる人柄だと思った。
 こんな無愛想な俺にも欠かさず声を掛けてくるのだから、よっぽどのお人好しでもあると。

「なつめ君さぁ、自炊しないの?」

 彼女は俺がレジに出した商品を受け取ると、手際良くレジ打ちをして合計金額を出した。
 俺がお金を出している間に、てきぱきと商品は袋詰めされていく。

「才能がないっすね」
「才能て。箸いる?」
「いらないです」

 彼女の仕事の無駄のなさが良い。
 必要以上に会話を繋げようとしないのも、俺には好感が持てた。

「せめてさ、ここに野菜を追加したほうがいいよ。食生活破綻してる」
「食った気しなくて」
「野菜ジュースとか。レシートいる?」
「いらないです」

 彼女の手から、直接おつりを受け取る。
「じゃあ……」と顔をあげて言いかけた俺は、レジ裏の棚の影にいちごミルクのパックジュースが置いてあるのを見つけた。
 彼女はそれが好きで、たびたびそうして取り置きしているのだ。俺はわざと目線をそっちに向けたまま、袋を持った。

「そっちこそ、ジュースばっかりじゃ太りますよ。じゃ、お疲れっす」

 彼女は俺の目線を追って、やがて意味を理解して頰を染めた。

「バイトで動いてるから、カロリーは消費してるもん!」

 彼女が背後から抗議してきたが、俺は気にすることなくコンビニを出た。
 扉が閉まり、彼女の声が途切れる。店内に流れていた陽気なBGMとは打って変わった、外の静けさ。
 少し歩いてから、ちらっと店を振り返ると、彼女はすでに次の接客をしていて。

(感情表現が豊か)

 最初の印象から、少しずつ彼女が変わっていく。というより、俺が知っていく。
 俺とは無縁のきらきらとした高嶺の存在から、だんだんと人間味を感じて、距離が縮んでいるような気がした。

 *

「相変わらず、足繁く通ってんの」
「? なに?」
「コンビニ」
「あぁ」

 その日の最後の講義が終わり、帰り支度をしていた俺は友人に声をかけられて手を止めた。
 友人はノートもペンも出しっぱなしで頬杖をつき、俺をしげしげと見つめている。「飯買いにね」と俺は支度を再開したが、なぜか友人に「違う」と否定された。

「かわいい先輩に会いに、だろ?」
「……はぁ」
「なんだその反応。かわいいじゃん、あの先輩」
「まぁ」

 他の女子と彼女を比べたことがないのでなんともだが、嫌いな顔ではないので頷いておく。

「三年生なんだろ? 来年は就活で忙しいんだろうなー。楽しいのも今のうちだ」
「だな」
「卒業しちゃえば会えないしな」
「だな」
「寂しいなぁ」

 しみじみと友人は言う。一度しか会ったことがないのに、何が寂しいのか。
 俺はそれには返事をせず、荷物を持って「また明日」と告げた。手を振る友人に背を向け、歩き出す。

 後になって思えば、胸のざわつきはこの時から感じるようになっていた気がする。


 
 いつも通りの日々を過ごし、あっという間に俺は大学二年生に、彼女は四年生に進級した。
 彼女は就活に時間を割くようになり、だんだんとシフトに入る回数が減った。だから、必然的に彼女と会う回数も少なくなった。
 週に一回の出勤でしか顔を合わせなくなった彼女からは以前の明るさを感じず、萎んでいることが多いようだった。

「あっ、なつめ君だ。いらっしゃい〜」

 俺が店に入ると、入店の音楽が店内に流れた。彼女はそれに反応して顔をあげたのだが、客が俺だとわかると途端に気を抜いた。
 他に客もいないらしく、彼女はだらけきった様子でレジから出てきた。

「ちす」
「あぁ、なつめ君が癒しだよ……天使……」
「頭大丈夫すか」
「ううん、もうダメ」

 商品の前出しのフリさえせず、それどころか商品棚にもたれ掛かっている。
 軽口のようで顔はちゃんと疲れ切っているから、お疲れなのは事実だろう。
 俺はくっついて歩く彼女の話に相槌を打ちながら、手早く商品を選んでさっさとレジに持っていった。

「なんだよ〜。もう帰っちゃうの〜?」
「はい」

 彼女は文句を言いつつ、ピッ、ピッ、と手際良くバーコードを読み取る。点数は多くない。だから、彼女が手を止めるのも早かった。彼女はちらりと俺を見て、にやりと笑った。

「なつめ君もこれ飲むんだ」
「……いくらっすか?」

 笑いながら最後の商品、いちごミルクのパックジュースを打って、合計金額が出される。
 俺は箸不要ストロー不要を伝えて、お金をぴったり出した。彼女から渡された袋を受け取り、詰められたばかりの商品をガサガサと漁る。

「どうぞ」
「え?」

 俺は彼女の前に、いちごミルクのパックジュースを置いた。

「お疲れっす」

 疲れ切った顔の彼女がぽかんと俺を見ている。俺は袋を持ち直し、コンビニを出た。
 扉が閉まる寸前に「なつめ君がくれるの、二回目だぁ〜」と嬉しそうな声が聞こえ、俺はつい口元を緩ませた。
 そして、ふと疑問に思う。

(一回目なんて、あったっけ?)

 家までの道のりを、彼女との日々を思い返しながら歩いた。

 *

 季節は流れるように過ぎていく。
 会うたびに疲弊していた彼女もようやく就活が終わったらしく、以前と同じ出勤数に戻っていた。

 相変わらず中身のないやり取りをする毎日は、俺のとって当たり前の日常。
 それが楽しいとか、幸せだとかというわけではない。ただただ、当たり前になっていたのだ。
 いつまでも続いていく気がするほど、彼女との時間が俺の中に組み込まれていた。

「もう卒業だよー。あっという間!」

 レジ内の暖房で手を温めている彼女は、商品を持ってきた俺のことはお構いなしだ。
 俺は立ち尽くしたまま、店長にバレやしないかと彼女の代わりに心配をする。

「卒業旅行は来週行くから、おみやげ買ってくるね」
「いえ、お構いなく。それよりレジを……」
「バイトは来月いっぱいなんだー。寂しくなっちゃう」
「そっすか。あの、レジ」
「寂しいなぁー」
「……」

 入店チャイムが鳴り、客がやってきた。
 彼女はやっと仕事をする気になったようで、名残惜しそうに暖房から離れた。
 いつも通りの無駄のない動きで、レジ打ちをする。
 あっという間に袋詰めされ、会計が終わった。

 なぜか、無言で。

「……えっと。お疲れっす」
「うん。……また明日」

 笑顔で手を振る彼女に頭を下げた。
 振り返ることなく、胸にざわつく気配を感じながら。

(卒業か……)

 わかっていたはずなのに、直接言われると実感する。
 冬の終わりはまだ梅も蕾をつけない、春の遠い寒さが錯覚させていたのか。
 残りの時間があとわずかだと言うことに、その事実に焦る。
 彼女に会えない日が、すぐそこまでやってきていた。

(……嫌だな)

 空っ風が吹きつける。
 到底春を感じさせない冷たさに、火照りを逃すように白い息を吐き出した。
 風に流され、あっという間に消えていく。

 熱を持った頰が冷たい空気に触れ、今ごろ彼女を「好き」だと自覚させた。

 *

 言葉のやりとりはあまり好きじゃない。
 無愛想とか、素っ気ないとか言われるのも、言葉数の少なさにあると思っている。
 俺は、相手を喜ばせる返し方を知らないから。同性なら気にしないが、異性だとすぐに傷付けてしまう。
 その傷は巡りめぐって、謝り許されたはずの自分に悪意として返ってくることもある。
 そんなことを繰り返したから、俺は言葉のやりとりが好きじゃない。


「俺、立夏さんが好きです」

 コンビニに来たのは、彼女が退勤するギリギリの時間だった。
 今日が彼女の出勤最終日だというのに、手紙を(したた)めるのに時間がかかってしまったから。

 狭い店内に、すでに彼女はいなかった。
 俺は急いで買い物を済ませ、外に出た。
 従業員の出入り口のある、裏手に回ろうとした時だった。

「返事はいつまでも待ってます。考えてみてください」

 それじゃ、と俺に向かって歩いてくるのは、彼女とよくシフトが被っていた男だった。
 俺の横を男が通り過ぎる。その男を目線で追っていた彼女と、目が合う。

 どきり、と俺の心臓が跳ねた。

 彼女の頰が、見たことがないほどに染まっていた。

(……情けないな、俺)

 時間をかけて認めてきたのは、返事を求めず、一方的に想いを綴っただけの手紙。
 渡すつもりで店の裏手にまで回ってきたのに、なんだか途端に恥ずかしいものに思えてきてしまって。
 彼女に見られないようにくしゃりと握って、ポケットに押し込んだ。

「なつめ君。良かった、最後なのに会えないかと思った」
「ちょっと用事があって」
「そっか。……変なところ見られちゃったね」
「……これ。どうぞ」

 ごまかすように、先ほど買ったものを袋ごと彼女に渡す。
 中を見た彼女は「いちごミルクだ」と言った。

「お疲れさまでした」
「あ、うん。ありがとう」
「それだけです。気をつけて帰ってください」
「うん。……あの、なつめ君」

 さっさと背を向けた俺を、彼女が呼び止める。
 肩越しに振り向けば、染まった頰のままの彼女が俺を見ていて。
 ポケットの中で、またくしゃりと手紙を握った。

「お元気で」

 彼女が口を開く前に別れを告げ、俺と彼女とはそれっきりだ。

 *

 通うコンビニを変えた。
 彼女との思い出の多いあの店にはもう、通う勇気がなかった。

 彼女を忘れるために、寄ってきた女の子とも付き合った。
 そうすれば心の穴が埋まるんじゃないかと思った。
 けれど、結果はいつも同じだった。

「サイテー。私のこと、なんだと思ってるの?」

 気持ちがないから相手は怒る。悲しむ。
 傷つけて、俺は振られる。
 そしてまた違う子と付き合い、繰り返す。
 大学三年生は、そんな荒れ具合で過ぎていった。

 四年生になってからは恋愛は不毛だと諦め、とにかく就活に励んだ。
 彼女が疲れ切っていた理由が、二年遅れでやっとわかった。

 就職難。どれだけ受けても不採用通知。
 俺、こんなに無能だったっけと自信を失うほどに。
 それでも数社からはいい返事がもらえ、無事内定先が決まった。
 終わりの見えない真冬の中、ようやく春の兆しを見つけられたような感覚だった。

 現実もまた、遠いと思っていた春はあっという間にやってくる。

 内定先が決まり、あとは卒業を待つだけ。
 少し浮き足立った俺は、夕飯を買ったコンビニの帰り道で。


 ――交通事故に遭い、あっけなく死んだ。


 ハッ、と意識が戻る。
 住み慣れた一人暮らしの自室。コチ、コチ、と時計の秒針の音が響いている。

 ペンを持った俺は、机に向かって座っていた。

「…………はっ?」

 俺は体のあちこちを触った。痛みはない。見る限りの傷もなく、出血もない。
 そして改めて部屋中を見回せば、ここは間違いなく俺の部屋なのだ。

 訳がわからなかった。

(俺、事故ったよな? 夢……?)

 スマホを見る。
 日付は記憶のものと同じ。時間もたしか、このくらいだった。
 待ち受け画面だけが設定していたものと違う。

「? これ……」

 さらに、机の上に広げられた紙に気づいた。
 数枚分書き終えられた便箋。その横に、くしゃくしゃに丸められた便箋がいくつかある。
 書き終えられたものを手に取った俺は、決して綺麗とはいえない字を読み、情けない笑いを漏らした。

「……はは。なんで」

 あの日、彼女に渡すことなくアウターのポケットにしまい込んだ手紙。
 くしゃりと握りつぶし、あの後どうしただろうか。覚えていない。
 だけど、今手に持っている便箋は封筒に入れられる前のもので、折り目すらついていない。
 書き終えられたばかりの、たぶん、あの日のもの。

 再び時間を確認した俺は、アウターを適当にひっかけて急いで部屋を出た。

(夢かもしれない。俺の、都合のいい妄想かもしれない)

 彼女に宛てて(したた)めた手紙。
 その中身はラブレターというには程遠いものだった。
 思い出せる限りの日々の出来事を書き、言葉にできなかった自分の気持ちを綴った。最後には「好きでした」のひと言を添えて。

 今でも胸を締め付ける。過去形にしてしまった言葉。自ら終わりにしている、その言葉に。

(たとえ、夢だとしても……)

 はぁ、と、荒くなった息を吐く。

 走り込んだコンビニ裏。その姿を見つけて、込み上げる想いに勢いが止まらなくなる。
 数年ぶりの彼女は、俺の記憶の中のままそこにいた。

「俺、立夏さんが……」
「——立夏さん!」

 あの日、彼女に告白をしていた男の言葉を遮る。
 対面している間に割って入り、恋焦がれ続けた姿を抱きしめた。

「わっ、なつめ君!?」
「立夏さん、好きです」
「えっ? えっ!?」

 戸惑う彼女は暴れることなく俺の腕の中に収まっている。
 そんな彼女を解放しろと、俺に邪魔をされた男が憤る。

「な、なんだよお前、離れろよ!」
「嫌だ! 離れない。離れたくない」

 俺の腕を引き剥がそうと男が手をかけるが、それを振り払い、俺はさらに腕に力を込めた。
 彼女の体が緊張で強張った。

「好きです、立夏さん。好きです。俺は……——あなたを忘れることなんて、できなかった」

 好きです。ずっと、好きです。
 何度も想いを告げて、彼女を全身で包み込む。頰を染めた彼女の熱に、俺の熱も上がる。

(夢だからこそ)

 堰を切ったように溢れ出てくる想いを言葉にし続けた。
 そっと背中に回された腕の感触に、熱に、頭がくらくらとしながら。
 戻された時間に、後悔が残らないように。

 ――夢は、必ず覚めるものだから。

 *

 そうして、それから早くも一週間が過ぎていた。

(なんで……?)

 夢が覚めることがなければ、俺自身が消えることもない。事故の事実もない。
 改めてスマホのカレンダーを見れば、日付は同じだが二年前を示していた。

(なんで俺は過去に生きている……?)

 訳がわからなかった。
 けれど、一週間前の出来事は確実に今の俺に残っている。
 一世一代の大告白。それは、彼女に存分に伝わることとなって。

『講義終わったよ』

 スマホにメッセージが届いたのは数十分前。
 はやる気持ちを抑えながら、彼女が帰ってくる駅で待っていた。
 実は家が近いのを知ったのは、ここ数日のことだった。

「なつめ君、お待たせ!」
「お疲れっす」

 時間を合わせては駅で待ち合わせて一緒に帰るという、デートにもならないデートを楽しんでいる。
 実家住まいの彼女を送り、自分も帰る、というのがあの日からの新たなルーティーンだ。

「大丈夫ですか?」
「え?」
「顔が赤いんで」
「そ、それは……なつめ君に会うと緊張しちゃうから……」
「え……今さらじゃないすか」
「今までとは違うでしょー!」

 さらに顔を赤くする彼女の手を取り、ひとまず、と俺は歩き出す。そうすると彼女は「ほら、それだよ!」と声を上げた。

「すごくさりげなく、いつも手を繋ぐの!」
「嫌なら離しますけど」

 彼女を掴んでいる手を緩める。
 すると、握り返してこなかった彼女の手がすぐに俺を掴んだ。

「嫌なわけじゃなくてっ」
「知ってました」

 彼女の手を握り直す。
 ふ、と口元が緩んだのを自覚したまま彼女を見ると、湯気が出そうなほどに赤くなっていた。

「…………ギャップが……」
「ギャップ?」
「告白してくれた時もそうだけど、なつめ君はこういうのには淡白そうだと思ってたから……」
「あー……」

 つまり、経験なしを悟られていたわけだ。
 それがこんなにも積極的にいくものだから、戸惑わせているらしい。

 年上であり、今では年下となった彼女。
 反応の初さが可愛らしく、ついつい強気になってしまう。
 触れていたい理由は、もちろん他にもあるけれど。

「あの日のことは、できれば忘れてほしいです」
「え……なんで? ごめんね、嫌なこと言っちゃった?」
「違います。俺にだって羞恥心があるんすよ」
「羞恥心……」

 彼女がつぶやいた。

「かなり切羽詰まってたんで。俺自身びっくりです」
「どうして切羽づまってたの?」
「立夏さんを取られたくないと思って」
「私を?」

 彼女はきょとんとした。
 けれど、すぐに「ふふっ」と声が漏れる。

「なんで笑うんすか……」
「だって、嬉しくて」
「はぁ。とにかく、忘れてくださいね」
「えー。あんな告白、二度とないかもしれないのに」
「……」

 むずむずとする彼女の口元。恐らく、にやけるのを我慢しているのだろう。
 頰を赤らめてそんなに嬉しそうにされると、困ってしまう。

 ——歯止めがきかなくなりそうで。

 そっと、彼女の頰に手を添えた。

「……好きです。立夏さんと一緒にいる時間がすごく大事です。本当は、手を繋ぐだけじゃ物足りないんですよ」
「わ、わ、なつめ君ちょっと待って……!」
「はい」

 彼女の頰から手を離し、少しずつ近づけていた顔も離した。
 安堵した彼女は、大きく息を吐く。

「気持ちは伝え続けます。俺が立夏さんを好きな限り、終わりが来るときまで、ずっと」
「……うん」
「あと、待てはできますけど、我慢はできません」
「うん?」

 顔を上げた彼女の唇に、軽く落とす。
 ただ触れるだけ。それだけなのに、頭がくらくらとするような甘美な柔らかさ。
 次を求めてしまう前に離れた。

「帰りましょう」
「なっ、な、な」
「ちょっとは待ちましたよ」

 片手で顔を覆う彼女を後ろ手で引き、ゆっくりと歩く。
 空が暗くなってきた。この日に終わりを告げるように、遠い空に太陽が沈んでいく。
 続く夢は、どこまで俺に幸福を与えるのだろうか。

 ちら、と振り返れば、潤んだ瞳の彼女が俺を上目遣いで見ていて。

「やっぱり、ギャップが……」
「まぁ、俺も男なんで」

 どうせなら、とことん楽しんでやれと、彼女に笑ってみせた。


 
 彼女は大学を卒業し、新社会人として邁進する日々。
 会える日はめっきりと減り、楽しみは週末だけとなっていたのに、だんだんとそれすらも難しくなってきた頃。

 スマホの着信は、期待外れの友人からだった。

『彼女にほっとかれてかわいそうな君に、嬉しいお誘いだよ〜』
「…………何」

 冷やかしともとれるその電話に、俺も不機嫌な声を隠さない。

『うわ、機嫌悪っ。今日バイトないよな? これから空いてる?』
「なんで」
『いつものメンツで飲みに行こうって話しててさ〜』
「ふぅん」
『行くだろ?』
「……行こうかな」
『おっし。場所は——……』

 スマホを耳と肩に挟みながら、外に出る準備を始める。
 と言っても時刻はすでに夕暮れ時。身支度はほとんどなく、羽織るものをクローゼットから選んで取り出した。
 そのうちに友人は、なんだかしみじみと語り出し始めていた。

『なつめ、変わったよなぁ。前まで誘っても来なかったのに。とっつきやすくなって友達できたし、バイトも始めちゃって……』
「なんだよ急に」
『いや、親友として。嬉しいなぁと思ったんだよ。そんだけお前を変えた彼女、すげぇわ』
「だろ」

 でも、少し寂しいな〜と友人は茶化して言った。

『大事にしろよ』
「当たり前」

 薄手の長袖シャツを羽織り、スマホを手に持ち直す。
 おちゃらけた友人がなんやかんやと喋り続け、それを聞き流しながら玄関へ向かう。
 すると、そのタイミングでインターホンが鳴った。
 目の前にいたので間をおかずに扉を開けると、あまりの早さに相手は驚いたようで。

「……あれ、今日は用事があるって言ってませんでしたっけ」

 俺も驚いた。
 今週は会えないはずの彼女が、なぜか息を切らせてそこに立っていたから。

「用事が早く終わったから来たんだけど、おでかけ? ちょうど会えてよかった。じゃあ私、帰るね」
「えっ。ちょっと待って」

 彼女の腕を掴み、玄関へ引っ張り込んだ。
 彼女ごしに扉を閉めれば、自然と覆い被さる形で。

『……彼女?』
「うん。今日、パスで」
『あいよー。楽しんで』
「え、悪いよ! 行っておいでよ、なつめ君」
「行くわけないでしょ」

 スマホを切ろうと耳から離して、あっと思う。
 再びスマホを耳に当て、まだ通話が切れていないことを確認した。

「あのさ」
『ん? どした?』
「俺、お前との時間もちゃんと大事だから。他の友達との時間も」
『お、おう……?』
「そんだけ。じゃ」

 ぷつり、と電話を切る。
 目の前にいる俺より背の低い彼女は、聞いてはいけないものを聞いたような、照れたような顔をしていた。
 その彼女が、おずおずと口を開く。

「ごめんね。私がいきなり来ちゃったから……」
「? 別に謝ることなんて」
「だって、友達と約束していたんでしょ?」
「あいつらとはいつでも時間が合います。今は、立夏さんの時間」

 そっと腰に手を回し、引き寄せる。
 すでに俺の行動を読み取った彼女はぎゅっと目を閉じた。俺は遠慮なく口付ける。
 深く、浅くを繰り返して。会えない分の想いを、そこにぶつける。

「……せっかく立夏さんがうちに来たのに、帰すわけないでしょう」

 耳元に低くつぶやく。
 びくっと肩を震わせた彼女に、薄く笑う。
 甘く繋がった口付けで抑えの効かなくなった俺は、固まる彼女の手を引いて部屋へと迎え入れた。

 *

 形のある物はできるだけプレゼントしないようにしていた。
 もしもいつか、俺がいなくなった時。その時に、未来のある彼女の足枷になりたくなかったから。

 ――でも、俺のそんな気持ちを彼女は知る由もないわけで。

 付き合って一年が過ぎた頃、ペアのものが欲しい彼女と、そういうものは残したくない俺とで小さなケンカをした。
 最終的にはペアのストラップで我慢してもらったのだが、その時の彼女の嬉しそうな顔には俺がやられてしまった。
 そんな小さな物で、そんなに幸せそうにされてしまうと。

 ……彼氏としては、もっと別の何かを贈りたくなってしまうわけだ。

(二年の記念日に。バイトのシフト増やすか)

 そんなわけで、どうせ彼女には会えないしとバイト三昧になっていた俺は、思ったより疲れていたらしい。
 待ち遠しかった休日に彼女が部屋にいるというのに、いつの間にか居眠りをしてしまっていた。

「ねぇ、なつめ君」

 遠くで彼女の声が聞こえた。まどろみの中で返事をする。

「……うん」
「私宛の手紙が出てきたんだけど、読んでいい?」
「……うん」

 彼女宛の手紙。
 そんなものあったかな。いつ書いたんだっけ。ぼんやりと考えて、急激に体温が上がった。
 驚くほどの目覚めの良さで、俺は飛び起きた。

「手紙って」

 思い当たるものはひとつ。
 だけど、気づいた時にはもう遅い。
 読み終えた彼女は、満面の笑みだった。

「これ、ラブレター?」
「うわ……それ返して」
「やだ。いつ書いたの?」
「付き合う前。ほら、返して」
「いやー」

 手紙に手を伸ばす俺に、体をそらしてそれを避ける彼女。
 俺は結構本気で取り返したいのだが、彼女はそのじゃれあいを楽しんでいるようだ。

「返して」
「めずらしく必死だね」

 一向に返そうとしない彼女は、笑い声を上げ始めている。
 仕方ない、と俺はため息をついた。
 とん、と彼女の体を押す。

「わっ」

 体をそらしていた彼女は簡単にバランスを崩した。
 床に転がった彼女に、俺は覆い被さる。

「はい、返して」

 手紙を没収し、机の上へ放る。
 彼女が不満げな声を漏らした。

「その手紙ちょうだい」
「だめ」
「私に書いたんでしょ?」
「だめ」
「けちー」

 頰を膨らませる彼女。
 つん、と尖った唇が可愛らしいと思い、顔を近づけた。
 けれど、触れる直前に間に手を差し込まれてしまった。

「……そんなに欲しい?」
「だってなつめ君、そういう残るものって全然くれない」
「うん」
「私はもっとそういうのが欲しい。小さい物でも、なつめ君を感じられるから」
「……立夏さん」

 邪魔する手をどけて、彼女の顔の横で押さえる。
 遮るものがなくなった唇はまだつんと尖っていて、俺はそれに嬉しくなった。
 この年上の彼女は、わがままを全然言わないのだ。

「手紙はまた今度。残る物もちゃんと用意するから、待ってて」

 唇を、唇で包み込む。
 つんと尖って硬くなっていたのに、すぐに柔らかく俺を受け入れた。
 体に手をそわせれば、くすぐったそうに体をよじって。

「……——俺はね、立夏さん」

 上がる息に、とろけた表情の彼女が俺を見つめる。
 ぞくぞくと押し寄せる快感に、はぁ、と息を吐いた。

「物で繋がるよりも、立夏さんに俺を残したい。体にも、心にも」

 触れる熱に、彼女を感じて。
 散る紅い花びらは、独占欲の証。

 頭がくらくらとして、俺は抗いようのない幸福感に包まれた。


 それから目的のものを購入できたのは、予定の数日前だった。
 ハートか花かさんざん迷った挙句、店員さんのアドバイスもありハートにした。
 ピンクゴールドのハートのネックレス。ワンポイントで石が入ったシンプルなもの。
 付き合って二年目を前に、ようやく覚悟のできた形の残るプレゼント。
 きっと喜んでくれると、それが入った小さな紙袋を持った。

(……あと、あれも)

 もう彼女の目に触れさすまいと隠していた手紙。久しぶりに手に取った。
 丁寧に封を開け、なんとなく読み返す。
 彼女にとっては二年前の。俺にとってはもう、四年前の出来事が綴られている。
 最後の「好きでした」というひと言に、胸が痛むことはもうなかった。

(結局これは、どういうことなんだろうな)

 夢なのか、現実なのか。
 いまだにわからない現状は、俺の中では現実として過ぎていく。
 過去とは違う、新しい道として。

(……まぁ、今はいいか)

 ペンを持った俺は、手紙に少し付け加え、それを封筒に戻した。
 封筒を紙袋に入れると、彼女との約束の時間が迫っていることに気づき急いで部屋を出た。


 俺は今を走る。

 過去のあの日と違った未来を掴むために。
 彼女との幸せを望み、これからも歩んでいくために。
 振り切れないあの日に足を掬われようとも。

 ――事故に遭ったあの日を、繰り返すとしても。





 なつめ君の最初の印象は、かっこいいよりも綺麗な顔の男の子。
 いつも無表情で愛想がなくて、少し怖いと思っていた。
 それが変わったのが、なつめ君がコンビニに通い始めて数ヶ月が経った頃。
 その日は運悪く、私はクレーマーに当たっていた。
 常連ではない年配の女性。きっかけは確か、袋詰めが気に食わないということからだった。

「最近の子は、お化粧にも品がない」

 ひとつ言い始めると、その女性は何から何まで文句をつけ始めた。
 特に華美なメイクをしていたわけではない。
 バイト先の規約に反せず、接客業をする上で人前に立っても失礼にならない程度。
 それでも、その女性には悪く見えたようだった。

「すみません……」

 そう言うしかない。
 もう一人のバイト、同い年の男の子は別レジで必死にお客さんを捌いていた。
 チラチラとこちらを見て、代わるよ、と何度も合図してくれたけれど、私は首を横に振った。
 ここでクレーマーを投げつけてしまうのは、申し訳なかった。

「あなた、すみませんしか言えないの?」
「すみません」
「どういう教育されてるのかしら。店長出して」
「不在です……」

 「はぁ?」と大げさに声を上げた女性は、さらにイラつきが増したようだった。
 チラチラと他のお客さんからの視線が刺さる。誰もが冷やかしの目を向けて、私は怖さと恥ずかしさでどんどん声が小さくなった。

「あの」

 そんな中で、私とその女性の間に割って入ってくるお客さんがいた。
 綺麗な顔の男の子。身長もあり、不機嫌そうな声に迫力を感じた。

 それが、なつめ君だった。

「もういいっすか。みんな待ってるんですけど」
「……は?」

 なつめ君が女性に言うと、今度は怒りの矛先がそちらに向いたようだった。

「あのね、私は今このバイト店員に注意を……」
「あんたがこの人を捕まえてるから、レジが進まないんすよ。俺急いでるんで、どいてもらえませんか」
「あんたって、なんて口のきき方! 最近の子は言葉遣いも……」
「いい加減いいすか。急いでるんですよ。俺も、他の人達も」

 なつめ君の声が低くなった。
 ただでさえ不機嫌そうなのに、その綺麗な顔で凄まれるとさすがに女性もたじろいだ。

「も、もういいわ。あなた、気をつけなさいよ!」

 買い物袋を乱雑に待つと、女性は急ぎ足で店を出て行った。
 ぽかん、と見送る私。安堵から、深く息を吐き出した。

 レジに、トン、と商品が置かれた。

「あっ、失礼しました! お急ぎなんですよね。すみませんでした」

 ピッとバーコードを読み取る。
 お買い上げは、いちごミルクのパックジュースのみ。
 すでに出されていたぴったりの金額を預かり、レシートが出てくる前に袋を用意する。

「いらないっす」
「袋いりませんか? ストローは?」
「いらない。それも」

 それ、と指さされたパックジュース。
 お買い上げ済みなので、私は困惑した。

「えっ、と。返品されますか?」
「あげます。どんまいでした」

 そう言って、なつめ君は店を出て行ってしまった。
 パックジュース以外には何も買わず、手ぶらで。まるで私を助けてくれるためだけにレジに来たように。

(お礼、言いそびれちゃった……)

 いつも無表情で愛想のない、ちょっと怖いと思っていた男の子。
 綺麗な顔でより近寄りがたいけれど、本当はそうではないのかもしれない。
 イメージとは違ういちごミルクのパックジュースが、そう思わせてくれた。



「……——結局、その次の日から試験前のお休みもらってて、試験明けに改めてお礼をしたら忘れられてました」
「へー。付き合う前はそんなだったんだ、溺愛君」

 平日仕事終わりに、遅い時間にも関わらず「会いたい」に付き合ってくれるのは、高校から続く友人。
 大学は離れ、就職も違う道だったけれど、こうして今も付き合いがあることがありがたい。

「溺愛君って……」
「立夏に聞く限りでは溺愛君でしょ」
「そうかなぁ」

 たしかに、すごく大事にはしてもらっていた。
 最初のなつめ君の印象から、付き合った後の態度の変化を考えると、溺愛は間違いないのかもしれないけれど。

「綺麗な顔してるのに、変わった子だったよね。いや、写真しか見てないから知らないけど」
「適当だなぁ」
「てきとーよ、てきとー。あんたのノロケ話はいつも胸焼けもんだったもの」
「ご、ごめんなさい……」

 肩を縮こめて謝罪する。
 なんだか、途端に恥ずかしくなってきた。

 そんな自分に——まだ、そんな感情を持っていた自分に、小さく笑う。

「なつめ君、すごかったもん。ギャップが」
「あんたよく振り回されてたよね。年下相手に……って思ってたけど、萌えはある」
「萌え……?」
「ギャップ萌え」

 それかぁ、と笑いが込み上げた。
 ギャップ萌え。私は恋愛感情だったからそこには至らなかったけれど、なつめ君のギャップはたしかにそれだ。

 自然と思い出して、頰が緩んだ。
 結局、あのギャップには最後まで慣れることはなかった。

「…………まだ、好きだなぁ……」

 テーブルに、こつん、と頭を落とした。
 首から重力に従って垂れてくるネックレスを指先で撫でれば、ハートの形が頭に思い浮かぶ。

「当たり前じゃん。一年くらいだっけ?」

 友達の手のひらが私の頭に乗せらた。
 ぽんぽんと、リズミカルに私を慰める。

「もうちょっとで、一年半……」

 伝わる優しさに目を閉じる。
 少ししか飲んでいないはずのアルコールが、一気に回ってきた。

 なつめ君がいなくなってからの年月。
 付き合った期間の半分を、とっくに越えてしまった。

 彼は、二年目のあの日に、事故で亡くなった。

「……なんかあった? まだ立ち直ったわけじゃないんでしょ」
「んー……」
「言いたくないならいいけど」
「……手紙をね、読んだ」

 「手紙?」と首を傾げたらしい友達の手が止まる。少し思案して、また手が動き出した。

「そのネックレスと一緒に渡されたやつか。読めたの?」
「うん。……結構きつかった」

 それを渡されたのは、なつめ君の葬儀後。
 事故当時に手に持っていたらしい紙袋はすっかりひしゃげ、錆色に染まった残酷なものだった。
 箱に入れられたネックレスはかろうじて傷ひとつなく。けれど、手紙は。
 紙袋同様に、ところどころが錆色でくしゃくしゃになっていた。

「私と付き合う前に書いてくれたものでね。部屋で見つけて、一度だけ読んだことがあったの。ちょうだいって言っても、その時はくれなくて」
「それを二年の記念日に渡そうとしたのね」
「これと一緒にね……」

 ネックレスを手のひらで包み込む。
 形のある物は残したくないと頑なだった、なつめ君からの贈り物。
 なつめ君が私のために選んで、贈りたいと思ってくれた初めてのもの。
 そして、最期になってしまったもの。

「辛くない? それ持ってるの、逆にさ」
「辛くはないかな……。これしかないから」
「本当に何もくれなかったんだ」
「今、思うと。なつめ君はこうなるのがわかってたのかな、なんて」

 形のある物は残したくない。
 その他にも、気になる言動はあった気がする。私との時間を大事にしたいと言ったのも、そういうことだったのかも、と。

「手紙もね、私が前に読んだものとちょっと違ってた。色褪せてて、最後に付け加えられてたの」
「色褪せ? 読まれちゃったから便箋を変えたんじゃなくて?」
「ううん、同じなの。なのに、違うの……」

 まるで、長い年月が経ったように。
 真っ白だった便箋は黄ばんで、付け足された文章以外のインクは薄くなっていた。
 どうしてかわからなくて、ただただ吐き出す私の言葉を、友達はやんわりと置き換える。

「付け加えられた言葉が、きつかった?」
「……きつい。きついよ。私は、前を向かなきゃいけないから」

 友達の手が優しい。
 その優しさに甘えるように、私の瞳から涙が落ちていく。
 幾度となく流した涙は、これだけ時間が経ってもまだまだ溢れてくる。

「……なんて書いてあった?」

 気遣う友達は、それでも遠慮なく踏み込んでくる。でなければ、私が抱え込んでしまうのを知っているから。

 止まらない涙にだんだんと苦しくなって、声が出せなくなった。
 頰が熱を持つのは、アルコールのせいだけではない。
 私のしゃくりあげる声だけが、その場に響く。

「ゆっくりでいいよ。何事も」
「………………うん……」

 友達は手を止めない。
 握りしめたネックレスの小さなハートが指に食い込む。その形を、確かにある存在に安堵して。

 手紙の最後に加えられた言葉を思い出す。


『好きでした。

 過去も、これからも。
 俺は立夏を想い続けます。
 歩んでいく未来に、もしその隣に俺がいなくなっていたとしても。

 俺は、立夏の幸せを願い続けます。

 立夏に出会えてよかった』


 私は前を向かなければいけない。
 なつめ君が残してくれた言葉を胸に刻んで。
 なつめ君が望んでくれた、私の幸せを掴むために。
 たとえ隣にいなくても、私の中に残ったなつめ君と共に。

 やっと受け取った手紙が、これ以上色褪せてしまわないように。