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医者に言われた。俺は、自ら特定の記憶だけを消し去ったのだと。
何か思い当たる節はないかと理由を尋ねられたけれど、記憶を消しているのだから分かるはずもない。
自分の名前は分かる。成田一誠、十七歳。丹城西高校二年一組、普通科、部活は何もやっていない。
家族の名前も、家で飼っている犬のモンキーのことだって分かる。勉強はこれまでどおりそこそこの成績を保てているし、友達のことも、住んでいる街のこともちゃんと覚えている。
そんな俺が、唯一忘れてしまっているらしい人物がただ一人。
それが、同じクラスの梅原翔という男だ。
二年に進級して早くも二ヶ月以上経っているというのに、梅原との記憶だけが何一つないことに気づいたのは、ほんの一週間前のことだった。
あいつと会話したことも、挨拶をしたことも、他の友達からあいつの名前が出てくるまで、存在自体把握していなかった。
そして、もっと怖いことがある。
「帰る準備はできた、一誠?」
記憶のないこの男が、毎日俺にベッタリだってことだ。
「だ、だから!いつも近いんだよお前……!」
「だって一誠、隙あらば俺から逃げようとするでしょ?」
「それはお前が俺に……っ!」
「俺に、なに?」
〝執着してくるからだろ!〟
口からポロリと出てきそうになった言葉をグッと飲みこんだ。
「なんでもねぇ!」
「可愛いね、一誠」
「クソッ!」
梅原の記憶がないと知ったとき、最初はわけも分からず不安でたまらなかった。
どうしてこいつのことだけ忘れているのか。なにを、どこまで忘れてしまっているのか。以前の俺たちがどんな間柄で、これまでどんなふうに接点を持っていたのか、なにひとつ分からない。
そんな不安を抱えている俺に、この男は容赦なく今日も執拗に俺を追い回す。追い回すだけでは事足りないのか、安易に話しかけてきて、距離を詰めて、そして触れる。
そう、ここぞとばかりに触れてこようとするのだ。
「一誠、帰ろう?」
「だからお前とは帰らねぇっての!」
当たり前のようにスッと伸びてくる梅原の腕を思いきり払いのけた。
パンッと乾いた音と一緒に、梅原の手は宙を舞う。
「じゃあ仕方ない、か。また前みたいに勝手に後ろついて歩くから、ほら、一誠は気にしないで自分のペースでどうぞ?」
「気持ち悪ぃことすんじゃねぇ!誰がそれ聞いてハイ分かりました帰りますって言えんだよ!」
ストーカーにも近い梅原のそんな発言に、俺はいかにも呆れたと言わんばかりの表情を浮かべながらふいっと顔を逸らした。
「(やべぇ。俺、顔赤くなってねぇよな?)」
心臓の音がドキドキとうるさいくらいに暴れ続ける。
こんな危ない奴とは絶対に関わらないほうがいいと分かっているのに、それらを全部覆してしまうほどに梅原は顔がいい。
正直、顔やスタイルだけならかなりタイプだ。
男の俺が羨ましいと感じてしまうくらいに、梅原はとにかく容姿がズバ抜けている。
一八〇センチ近くある身長に、細身の体型。透き通るようなきれいな黒髪をセンター分けにした、いかにもモテそうなヘアスタイル。おまけに計算され尽くして〝完璧〟を体現したような端正な顔立ちをしているからタチが悪い。
梅原はその見た目のせいでどこにいても目立っている。
「とにかく!俺は今から帰るから、絶対についてくんなよな!」
机の中の教科書を雑に鞄の中に突っ込んで、もう一度梅原に忠告しながら一人足早に教室をあとにする。
だけど梅原のその長い足が、俺との距離をいとも簡単にゼロにした。
「そういえばさ。一誠が好きなカフェ、今日から新作出るらしいよ」
後ろから聞こえた、まるで悪魔のような囁き。
思わず俺の足はピタリと動きを止める。
「濃厚チョコレートホイップフラペチーノ、だって」
「……チッ」
後ろから俺を抱え込むように手を伸ばして見せてきたスマホの画面には、中学のころからハマり続けているカフェ『ペラカフェ』のサイトが映し出されている。
そこには今日から期間限定で発売される見た目からして美味そうなチョコのフラペチーノが大きく掲載されていた。
「行くでしょ?あそこのカフェの新作、一誠は今まで一回も欠かさず飲んでいたもんね」
「なんでそのこと知ってんだよ」
「今から一緒に行こうよ、奢ってあげるから」
梅原の大きな手が、俺の右腕を優しく掴んで昇降口へ向かわせる。
本格的に暑さが猛威を振るいはじめている六月の季節にはそぐわない、梅原の冷たい手が俺の体温をゆっくりと奪っていく。
「は、離せってお前は!」
梅原はどこまで俺のことを知っているのだろうか。俺はこいつのこと、名前以外何も知らないっていうのに。
多分俺は、故意に梅原の記憶を消した。それは〝記憶を消さなければならないほどの何か〟があったからに違いない。
だって医者が言っていた。
記憶を消すという行為は、一種の自己防衛なんだって。
脳がその記憶を〝生命を脅かすほどの衝撃を与える危険なもの〟だと判断し、自分を守るために一時的に記憶を封印してしまうことがごく稀にあるんだって。
俺と梅原にはきっと相当な出来事があって、それで俺は耐えられなくなって、こいつの記憶を封印したんだろう。
「(でもそのこと、梅原は知ってんのか?)」
自分でも驚くほどに梅原との記憶だけがごっそりと抜け落ちている。それが怖くてたまらない。
それなのに機嫌よく俺の腕を引っ張りながら前を歩く梅原の背中を、そっと見上げる。
……いったい、俺たちに何があったって言うんだよ。
そして、こいつは俺が記憶を失った原因を知っているのだろうか。
*
「一誠、昼行こうよ」
「行かねぇ」
「え、行かないの?でも早く食堂行かないと、今日は三十食限定のとんこつラーメンの日だからなくなるよ?一誠、あれ毎月楽しみにしていたでしょ?」
「お前とは行かないってことだよ!」
今日もまた、四限の数学の授業が終わってすぐに梅原は懲りず俺の席へやって来ては二人で昼飯を食べたがる。
本人の目の前でこれ以上ないくらいのストレートな言葉で拒否してみせても、梅原は顔を綻ばせるばかりで一切俺の元から離れようとはしない。
「お前さ、他に友達いねぇの?」
机の上に出していた数学の教科書とノートを片付けながら、あからさまに呆れたような声でそう尋ねた。
梅原が俺以外のクラスメイトと話をしているところをあまり見かけない。というよりも、梅原本人があえて誰とも絡もうとしていないようにも伺える。
「まぁ、まったくいないわけじゃないけど。今は一誠と仲良くなりたい、が最優先事項かな」
「あーそうですか」
「それより、ほら。食堂行かないと本当にラーメンなくなるよ?」
「あ、やべ!」
梅原のその言葉に釣られるように俺は勢いよく立ち上がって、鞄の中に入れていた財布を手に持ちながら走って教室を一人で出ていく。最後にもう一度、「お前は絶対に来るなよ!」と盛大なノーを叩きつけて。
そのとき一瞬だけ垣間見えた梅原の寂しそうな表情に、俺は不覚にもまた心臓を跳ね上げてしまう。
「(クソ、なんなんだよ!)」
あんな意味不明な奴、相手にしなければそれでいいはずなのに。
どうして無視できないんだ、俺?本当に嫌なら完全無視でいいはずだ。
……やっぱり、あの顔のせい?
梅原の伏せ目がちに俺を見るあの視線に捕まると、途端に体が動かなくなる。
そうじゃなくても梅原は女子から絶大な人気を得ている。
同じ二年の女子生徒だけじゃない。学年の垣根なんてまるで関係なく、学校中の女子が梅原を求めてわざわざ教室までやってくる有様だ。
「(あれだけモテてんなら、俺なんかに構ってないでそっち行けよな)」
早足に廊下を歩きながら、心の中でそう毒づいたそのとき。
──ズキッ。
まるで鋭利な刃物で胸を貫かれたかのように、強烈な痛みが走った。
「……痛っ」
なんなんだ、これ。
立っていられないほどの急激な鈍痛が、じわじわと俺を蝕んでいく。
怖いくらいに心臓の鼓動が早くなって、だんだんと呼吸も浅くなっていくのが分かった。理由も分からないのに、不安や焦り、それから涙が溢れ出そうになるほどの寂しさが途端に襲いかかってくる。
「(さすがに怖いんだけど……っ)」
食堂へ向かおうと走っていた俺は、人気のない廊下の端にうずくまって、この訳の分からない胸の痛みと負の感情に苛まれ続けた。
俺ってやっぱりどこか病気なのか?だってこんなの普通じゃないだろ。なんの前触れもないまま、突然こんなふうに胸が苦しくなるなんて絶対普通じゃない。
ぎゅうっと締め付けられるような胸の痛みに耐えながら、変な汗が頬を滴ったそのとき、ふと脳裏をよぎったのはあいつの顔だった。
「……梅、原」
この胸の痛みの原因も、梅原のせいなのだろうか。
だとしたら、なぜ?どうして記憶がない男のことで俺がここまで苦しめられているんだ?
やっぱりあいつには近づかないほうがいい。なるべく関わらないようにして、接点を持たなければそれでいい。
そう、思っていたはずなのに──。
「一誠、顔色悪いけどどうかした?」
「……」
「もし体調が悪いなら、まず保健室に行ったほうが……」
「う、うるさい!もうなんともねぇよ!」
謎の胸の痛みからなんとか解放されてゆっくりと食堂へ向かうと、すぐに俺の姿を見つけて足早に駆けつけてきたこの男。
ベタベタと不必要に俺に触れながら、心底心配そうな顔を浮かべてこちらを見る。
「元気なら、これ食べて。とんこつラーメン」
「は?それ、お前どうして……」
「一誠食べるかなっと思って買っておいた。最後の一食だったみたいだよ」
食堂へ向かうまでにもたついてしまったから、月に一度だけやってくる三〇食限定のとんこつラーメンのことはもう諦めていた。
なのに梅原が座っている席にはそれが一つだけ置かれている。
「だいぶ時間経っちゃったから、もう麺伸びてるかもだけど」
ひょいひょい、と手招きする梅原の向かいの席は空席だった。
俺は呆れたようにぐるりと目を回して、誘われるがまま梅原の向かい側の席にドサッと腰を掛ける。
「お前さ、なんでいっつも俺と飯食いたがるんだよ」
「ある人がね、言ってたから。〝食事を共にすると、どんな人とでも仲良くなれる〟って」
「はぁ?」
「俺は一誠と仲良くなりたいんだよ」
梅原はそんなことをサラッと言いながら、そっととんこつラーメンが入った器を俺に差し出した。
「食べて」
「い、いやお前の分は……」
「俺はいいから。一誠が食べてよ」
頬杖をついて、ただ俺を見ながらにっこりと微笑むこの男。
両方の口角がゆっくりと湾曲していく様子に、思わず見惚れてしまいそうになった。
「(やべっ、俺ってばまた……!)」
見入っていたことがバレないように、目の前に差し出されたラーメンをズズズッと勢いよく啜る。
……やっぱり冷めていても美味い。
月に一度だけなんてケチケチせず、レギュラー化してくれねぇかな。そしたら毎日食べるのに。
「あ、そういえば金……これって確か八百円だったよな?」
「いいよ、気にしないで」
「気にするから普通に。お前に奢ってもらう理由もねぇし」
「じゃあまた今度、ペラカフェの珈琲でも奢ってもらおうかな」
「……」
「そうしよ、ね?」
どれだけ一緒にいることを拒否しても、抜かりなく俺の隣を陣取ってくる梅原翔というこの男。
「(なんでそこまでして一緒にいたがるんだ?)」
そもそも、梅原が俺と仲良くなりたいってことは、以前の俺たちはそんなに仲良くなかったってことか?
だとしたら今になって仲良くなりたい理由は?どうしてこんなにも俺に執着する?
「だから早く、俺のこと好きになってね」
「ちょっ、おま……っ、ゴホゴホッ!」
梅原の突拍子もない発言に、思わず口に含んでいたラーメンを吹きこぼしてしまった。
危うくスープが気管に入ってしまいそうになった俺は、その場で咽せて激しく咳き込んだ。
「お前は急に何を言い出すんだよ!頭おかしいんじゃねぇの!?」
「本気だよ」
「う、うるせぇ!もう喋んな!教室戻れよ!」
「うん、一誠が食べ終わったらね」
顔を真っ赤にしながら怒る俺とは正反対に、ムカつくほどに澄まし顔の梅原。
やっぱりこいつとは完全に距離を置くべきだ。
一緒にいたらいけない、危険人物だ──。



