役目を終えたはずの巫女でした ― 選ばれなかった時間の続き ―

月曜日の業務を終え、桜が自室に戻ったのは夕方だった。

白衣を脱ぎ、手を洗い終えたところで、扉がノックされる。

「サクラ様」

聞き慣れた声だった。

扉を開けると、クロトが立っている。

「今後の警備体制について、ご説明があります」

感情の混じらない口調。

業務としての訪問だと、すぐに分かる言い方だった。

桜は部屋に招き入れ、椅子を勧める。

クロトはそれを辞し、立ったまま話を始めた。

姫君の到着時刻。

配置。

護衛の動線。

夜間の対応。

どれも簡潔で、無駄がない。

聞いている限り、問題はないはずだった。

「――以上です」

説明が終わる。

「何か、ご不明点はありますか」

形式的な問いだった。

桜は、すぐに答えなかった。

ない、と言えば終わる。

だが。

「……あります」

自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。

「作法、です」

クロトの視線が、わずかに向く。

「王族の方に接する時の作法です」

桜は続けた。

「神殿長とエルンスト先生には、今のままで大丈夫だと言われました」

「でも……正直に言うと、不安で」

言葉が止まらない。

「クロトさんは貴族ですし、所作も整っています」

「たぶん、意識せずにできているんだと思います」

一息ついて、なお続ける。

「でも私は、そういう世界で生きてきていません」

「私の世界には、身分という感覚がありません」

桜の言葉に、クロトが一瞬だけ視線を伏せたことに、桜が気づくことはなかった。

「何が失礼で、何が許されるのか」

「分からないまま相手をするのは、正直つらいです」

相手をするのは、自分だ。

その事実だけが、不安を強くする。

クロトは、すぐには答えなかった。

短い沈黙の後、言葉を選ぶように口を開く。

「……率直に申し上げますと」

「この国では、そこまで厳密な作法を求められる場は多くありません」

「身分制度については残っていないとはいいませんが」

「昔ほど、“形”を重視する文化でもない」

一度、言葉が切れる。

「何をすれば正解で、何をすれば失礼か」

「明確な線が引かれているわけではないんです」

桜は、首を横に振った。

「皆さんも、そう言いました」

「大丈夫だって」

「このままでいいって」

「……でも」

視線を上げる。

「療養目的とはいえ、相手をするのは、私なんです」

余裕はなかった。

相手の立場も、忙しさも、考えていない。

「全部でなくていいです」

「ほんの少しでいいので」

「教えていただけませんか」

クロトは、しばらく黙っていた。

業務外だ。

本来、応じる理由はない。

「……長い時間は取れません」

そう前置きしてから、言う。

「正式な作法を教えることはできません」

「国の王族ごとに、許容される距離や振る舞いも異なります」

それでも。

「最低限」

「避けるべき点をお伝えする程度であれば」

「短時間なら、可能です」

桜は、わずかに息を詰めた。

「水曜日の昼間」

「少しだけであれば、時間が取れます」

クロトが忙しいのは分かっていたが、「大丈夫ですか」と気遣う言葉を出せなかった。

その代わり、

「……ありがとうございます」

深々と、頭を下げる。

「必要なのは、完璧な所作ではありません」

クロトは淡々と続けた。

「挨拶の深さ」

「視線の位置」

「立ち位置」

「距離の取り方」

「それだけでも」

「失礼と取られる可能性は下がります」

「それだけでも教えてもらえれば、少しは不安が減るかなと」

桜は、素直に気持ちを述べる。

クロトはそれ以上何も言わず、扉へ向かう。

出る直前、足を止めて、静かに言った。

「……私も神殿長やエルンスト医師の言う通りだと思います」

「少なくとも、サクラ様の普段の振る舞いに問題はありません」

「そう言っていただけると、助かります」

桜は、ようやく小さく笑った。

そして、扉は静かに閉まった。

――――――――――

■後悔


その夜、桜は久しぶりに、憂鬱な気持ちで眠らずに済んだ。

不安が消えたわけではない。

けれど、言葉にして吐き出したことで、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ軽くなった気がした。

それに、ほんの少しでも講義をしてくれると言ってくれた。

クロトに感謝しつつ、桜は眠りに落ちた。

************

翌日。

結界修正の時間が近づき、桜は部屋を出た。

廊下の先に立っていたのは、クロトだった。

「サクラ様」

その声を聞いた瞬間、胸の奥で、何かがひっくり返る。

昨日のやり取りが、唐突に頭を占領した。

必死な声。

遠慮のない言葉。

立場も、年齢も忘れたような自分。

――最悪のタイミングだった。

今なら、はっきり分かる。

クロトにとっては、業務の合間だった。

説明を終え、確認をして、戻るだけの時間。

そこに、感情をぶつけた。

歩き出しても、頭は静かにならなかった。

あの言い方は、どうだったか。

あんな言い方をする必要が、本当にあったのか。

思考は、自然と週末のことへと戻る。

実家で、家族に愚痴った。

王族を、看護師として説明もなく任されたことへの不安。

溜まっていたものを、一気に吐き出した。

けれど、返ってきたのは、拍子抜けするほどあっさりした言葉だった。

「皆がそう言ってるなら、大丈夫よ」と母。

姉に至っては、さらに容赦がなかった。

「結界を守ってる巫女なんでしょ」

「よく考えてみなよ。姫君より偉いじゃない」

「考えすぎ」

誰も、悪気があったわけじゃない。

心配してくれているのも、分かっていた。

それでも、不安は消えなかった。

だから、昨日はもやもやした気持ちが、爆発したのだと思う。

説明されないまま、相手をすること。

分からないまま、任されること。

その全部を、たまたま説明に来たクロトに向けてしまった。

隣を歩きながら、桜はクロトの顔をまともに見られなかった。

三十を過ぎて、あれはない。

冷静に考えれば、ただの駄々っ子と変わらない。

それに、クロトの方が年下だ。

その事実が、遅れて効いてくる。

恥ずかしさと後悔が、じわじわと胸を締めつけた。

結界修正は、問題なく終えた。

手応えも、いつも通りだった。

それでも、集中しきれていたかと問われれば、自信はない。

リエットに、ほんのわずか首を傾げられた。

何も言われなかったが、それだけで十分だった。

***********

結界修正を終え、部屋へ戻る前。

クロトが、いつもより少しだけ慎重な声で尋ねてきた。

「……何か、ありましたか」

その一言で、逃げ場はなくなった。

「昨日は……すみませんでした」

言葉は、思ったより素直に出た。

「少し、色々あって」

「考えすぎていたと思います」

顔は上げられなかった。

「もう大丈夫です」

「明日の講義も……やっぱり、なくて構いません」

一度、息を整える。

「皆さんが大丈夫だと言ってくれているので」

「もう、全然、問題ないですから」

不安が消えたわけではない。

それでも、できるだけ力説した。

これ以上、面倒な思いをさせたくなかった。

クロトは、すぐには答えなかった。

「……約束ですから」

静かな声だった。

「短い時間です」

「それ以上は取りません」

譲る気はないと、はっきり分かる言い方だった。

やはり、この人にはかなわない。

それでも。

クロトがしてくれる短い講義を聞けば、

今の不安が、ほんの少しは軽くなるかもしれない。

そんな期待を、

心のどこかで抱いている自分がいることにも、気づいてしまった。

後悔も、羞恥心も、消えてしまいたいほど残っている。

それでも――。

「……じゃあ」

「クロトさんの無理のない範囲で、お願いします」

そう言って、桜は小さく頭を下げた。

――――――――――

■講義


水曜日の昼、約束の時間は短かった。

桜の部屋に入ってきたクロトは、いつも通り感情を表に出さない。業務の延長線上だと言わんばかりの立ち居振る舞いで、無駄な言葉はなかった。

「本当に、基本だけです」

そう前置きしてから、淡々と説明が始まる。

挨拶の角度。最初に向ける視線の位置。立ったときの距離。話しかける前の、わずかな間。

どれも、特別なことではない。むしろ拍子抜けするほど、当たり前の内容だった。

「深く考えすぎなくて構いません」

「相手の顔を見る」

「一拍置く」

「それだけで、印象は変わります」

言葉は簡潔で、余計な補足はない。それなのに、桜は妙に落ち着かなかった。

いつもより、距離が近い。

教えるために必要な距離だと、頭では分かっている。けれど、クロトが一歩動くだけで、無意識に肩が強ばる。視線を向けられるだけで、熱が上がるのがわかった。

所作は、やはり綺麗だった。動きに無駄がなく、音も立てない。ただ立っているだけなのに、姿勢の違いがはっきり分かる。

――なんで、クロトさんに頼んでしまったんだろう。

そんな考えが、ふと頭をよぎる。教え方は真剣で、態度も一切崩れていない。忙しい時間を割いてくれていることも、分かっている。

それなのに。

ただ近くにいるだけで、見惚れてしまい、心拍数まで上がる自分が、どうしようもなく情けなかった。

「……もう少し、背筋を」

クロトが言いかけて、動きを止める。

一瞬。

桜の肩のあたりに、視線が落ちた気がした。

何か言う代わりに、クロトはその手を静かに握りしめた。触れることなく、自分の側へ引き戻すような動作だった。

「……失礼」

なぜ謝られたのか分からず、桜は一瞬、首をかしげた。ただ、クロトが何事もなかったように説明を続けたため、その疑問は宙に浮いたまま消える。

話を聞いていないわけではない。むしろ、必死だった。少しでも覚えようと、無駄にしないように。それでも講義が進むほど、「どうして、こんなに緊張しているんだろう」と考えてしまう。真剣に教えてくれているのに、失礼だよね、とやや自己嫌悪に陥りそうになった。

やがて、クロトは一歩引く。

「以上です」

「これ以上は、本当に必要ありません」

時間にして、十分ほど。それだけだった。

「ありがとうございました」

桜は、距離ができたことに内心ほっとしながら、深く頭を下げる。

「いえ」

「役目の範囲ですから」

それだけ答えて、クロトは部屋を出ていく。

扉が閉まったあと、桜はその場に立ち尽くした。胸に残るのは、言葉にできない感情だった。それでも――不安は、ほんの少しだけ軽くなった気がした。

一方、廊下に出たクロトは、足を止める。誰もいないことを確認してから、静かに息を吐いた。

触れなかった。越えなかった。

その事実に、遅れて安堵が広がる。それ以上の感情は、表に出すことは許されない。

再び歩き出す足取りは、いつもと変わらなかった。