役目を終えたはずの巫女でした ― 選ばれなかった時間の続き ―

■桜への依頼

平日の夕方、十七時を少し回った頃だった。

桜は自室で白衣を脱ぎ、手を洗い終えたところだった。

今日の業務は滞りなく進み、自身の就業時間である十六時で一区切りついている。

ノックの音がして、扉を開けるとエルンストが立っていた。

手には書類が数枚。明らかに仕事の途中で抜けてきた様子だった。

「先ほど言ったとおり、今から話がある」

「はい」

桜が答えると、エルンストは軽く頷いて部屋に入る。

その後ろから、神殿長が静かに続いた。

「お時間をいただき、ありがとうございます」

神殿長はそう言って、一礼する。

必要最低限の、形式的な挨拶だった。

「本日は、近く到着予定の大国の姫君について、お伝えしたいことがあります」

その言葉を聞いた瞬間、桜は思わず姿勢を正した。

姫君。

何の話だろうかと、一瞬身構える。

「姫君は、慢性的な喘息をお持ちです」

神殿長が続ける。

「症状は中等度で、日常生活に大きな支障が出るほどではありません。ただ、夜間に悪化することがあります」

「管理はできる」

エルンストが、簡潔に補足した。

「発作が出たら対応する、って程度だな」

桜は小さく頷いた。

喘息自体は、決して珍しいものではない。

「滞在先についてですが」

神殿長は、淡々と告げる。

「姫君は、到着後そのまま王宮に入り、あなたの隣室に滞在していただく予定です」

一瞬、桜の動きが止まった。

「……隣、ですか」

自分の声が、わずかに上ずったのが分かる。

神殿長は、その反応を責めることもなく、ただ結論だけを述べた。

「警備は、まとめた方が楽ですので」

それだけだった。

理由の詳細も、背景の説明もない。

決定事項が、静かに置かれる。

エルンストも、それ以上は踏み込まない。

「医療的には問題ない。普通に対応すればいい」

桜は少し考えてから、ゆっくり息を吐いた。

「……分かりました」

警備が楽。

合理的だ。

その一言で、桜は納得した。

けれど――

胸の奥に残ったものは、別だった。

少し迷ってから、桜はもう一度口を開く。

「……あの」

二人の顔を見る。

「私、正直に言うと、敬語とか、きちんとした言い回しも完璧じゃないですし……」

「王族の方にどう接するのが正解なのかも、正直よく分かっていなくて」

言葉にするほど、不安が形になる。

「できれば、何か……王族に対する作法とか、講義みたいなものがあれば、教えていただけたらと……」

さらに、ためらいがちに付け足した。

「あと……もし、私が何か粗相をしてしまったとして」

「それで、いきなり処罰されるとか、そういうことは……ない、ですよね?」

一瞬、部屋の空気が止まった。

エルンストは言葉を探すように一拍置き、

神殿長も、ほんのわずか目を瞬かせる。

そして二人とも、思わず――

小さく、苦笑した。

「……ない」

エルンストが、少し困ったように言う。

「さすがに、それはない」

神殿長も、咳払いを一つしてから続けた。

「ご安心ください」

「医療の場で、善意に基づく対応を理由に処罰されることはありません」

「失礼のない範囲で、普段通りに接していただければ結構です」

「あなたが普段から使っている敬語で問題ありません」

桜は、ほっとしたように息を吐いた。

「……よかったです」

「どんな想像してたんだ」

エルンストが肩をすくめる。

「日本には、王族がいませんから」

桜は真面目な顔でそう答えた。

「その……感覚が、よく分からなくて」

エルンストは、はっきりと苦笑し、

神殿長も、わずかに表情を緩めた。

「問題ありません」

神殿長は、穏やかに言った。

「到着までは、まだ少し時間があります。準備が必要であれば、改めてお知らせします」

それだけを告げて、二人は部屋を後にした。

扉が閉まったあと、桜は一人、椅子に腰を下ろす。

警備の話は、もう頭から抜けていた。

残っているのは、ただ一つ。

――王族の世話、ちゃんとできるだろうか。

確かな不安だけが、胸に残っていた。

――――――――――

■家族の時間

クロトは、前もって兄に連絡を入れていた。

久しぶりに家へ戻ること。

できれば、夕食も一緒にとれないか。

用件は、それだけだった。

返事はすぐに来た。

理由を問う言葉はなかった。

夕方、アルトの家の扉をくぐると、懐かしい匂いがした。

生活の気配が、変わらずそこにある。

夕食の席は、穏やかだった。

卓に並ぶ料理は、特別なものではない。

だが、どれも手がかかっているのが分かる、家庭の味だった。

「クロトおじちゃん!」

リナが椅子から身を乗り出して声をかける。

クロトが席に着くと、迷いなく隣に来た。

「久しぶりだな」

「うん。おしごと、いそがしかった?」

「ああ、少しな」

それだけで、リナは納得したように頷いた。

エリスが料理を取り分けながら、微笑む。

「お帰りなさい、クロトさん。今日はゆっくりしていってくださいね」

「ありがとうございます」

クロトは自然に敬語で答えた。

「泊まっていくんでしょう?」

「そのつもりです」

理由は聞かれなかった。

この家では、それが普通だった。

食事は和やかに進む。

リナの学校の話。

最近覚えた文字のこと。

城下町で見かけた面白いものの話。

クロトは多くを語らないが、相槌は的確で、問いかけにも短く答える。

それだけで、場の空気は十分に回っていた。

「ねえ、クロトおじちゃん」

食事の途中、リナがふと思い出したように言った。

「この前ね、王宮で見た人」

「どの人だ」

「えっと……髪が黒くて、目も黒い人」

エリスが一瞬だけ視線を向ける。

「サクラ様のこと?」

「そう、その人」

リナは大きく頷いた。

「ちょっと、ほかの人とちがうよね」

子どもなりに言葉を探している様子だった。

「でもね、やさしかった」

一拍置いて、首をかしげる。

「あとね……」

箸を持つ手を止めて、リナは続けた。

「クロトおじちゃん、あの人と話すとき、ちょっと違う」

「なんかね、いつもと、ちがうの」

何気ない一言だった。

クロトの動きが、ほんの一瞬止まる。

「……そうか」

短く答え、すぐに視線を逸らす。

エリスは一瞬だけクロトを見て、

それ以上は何も言わなかった。

アルトも、言葉を挟まない。

「リナ、野菜もちゃんと食べなさい」

「はーい」

話題はそこで途切れ、食事はまた元の調子に戻った。

だが、アルトには分かっていた。

弟の魔力が、ほんのわずかに揺れているのが。

外へ漏れることはない。

無意識の制御が、すぐにかかる。

食事が終わる頃には、リナは眠そうに目をこすっていた。

「先に部屋へ行きなさい」

エリスに促され、リナは素直に頷く。

「クロトおじちゃん、おやすみ」

「ああ、おやすみ」

扉が閉まり、

エリスも席を立つ。

「二人とも、無理はしないでね」

それだけ言い残して、部屋を出ていった。



書斎の扉が閉まると、外の気配が遠のいた。

アルトは机の端に腰をかけ、クロトを見た。

「で」

短い一言だった。

「話は、これからだな」

クロトは一度、ゆっくり息を吐く。

「……ああ」

少し間を置いてから、口を開いた。

「判断が正しいのは分かってる」

前置きは、それだけだった。

「姫が喘息持ちなのも、警備はまとめた方が楽なのも」

「医療的にも、配置としても合理的だ」

アルトは何も言わず、続きを待つ。

「偶然が重なっただけだってことも、分かっている」

クロトは視線を落としたまま続けた。

「……それでも、納得はできない」

「何に?」

問いは短い。

「巫女の配置だ」

名前は出さなかった。

「本人は、何も知らないままだ」

「気づかないうちに、状況に巻き込まれる」

言い切ると、クロトは一度言葉を切った。

「できるなら、安全な場所にいてほしいと思っている」

理由は付けない。

感情の名前も出さない。

アルトは短く息を吐いた。

「前から思っていたが……お前は本当に巫女に対して過保護だな」

「自覚はしてる」

即答だった。

少し間を置いて、クロトは続ける。

「判断としては、何も間違っていない」

「ただ、感情が追いついていけていない」

アルトは黙って聞いている。

「このまま溜めると?」

「制御に影響が出るかもしれない」

淡々とした口調だったが、冗談ではなかった。

少し、間が空く。

「……このまま、一人で抱えきれないと思った」

言い終えた直後、クロトはわずかに視線をそらす。

本音を口にしてしまったことに、自分で気づいたようだった。

アルトは、何も言わなかった。

しばらくしてから、静かに口を開く。

「……ここで言えているなら、大丈夫だ」

その言葉に、クロトの肩の力がほんの少し抜ける。

「そうかもな」

「線は越えないんだろ」

「当たり前だろ」

声に、わずかに強さが戻る。

「越えたら、今まで守ってきたものが全部壊れる」

それは誰に向けた言葉でもなく、

自分自身への確認のようだった。

「だから、兄さんのところで、一旦区切りをつけに来た」

アルトは、しばらく黙ったままクロトを見ていた。

叱るでも、諭すでもない視線だった。

「なあ、クロト」

低い声で、静かに言う。

「お前はずっと、“何かを守るため”に力を使ってきた」

否定はしない。

事実として置くだけだ。

「それが間違いだとは、俺は思ってない」

一拍置いてから、続ける。

「ただ……」

「いつか、“それ以外の使い方”を考える日が来てもいいんじゃないか」

クロトは、何も言わなかった。

「守るためじゃなくてもいい」

「何かを支えるとか、並んで立つとか」

言葉は、あくまで曖昧だった。

結論を押しつける気はない。

「お前がそれを選べるかどうかは、俺が決めることじゃない」

それから、少しだけ口調を和らげる。

「……でもな」

「お前なら、そういう力の使い方もできると思ってる」

クロトは視線を落とし、短く息を吐いた。

「……兄さんは、ずるいな」

それは冗談でも、反発でもなく、

少しだけ本音が漏れた声だった。

アルトは肩をすくめる。

「兄だからな」

クロトは、わずかに口元を緩めただけだった。

それだけで、十分だった。

それぞれの立場のまま、夜は静かに更けていった。