役目を終えたはずの巫女でした ― 選ばれなかった時間の続き ―

■アルトの独白

――予測の範囲内だった。
その中で、いちばん面倒な形で、だ。

アグライア帝国。

その名が出たとき、会議室の空気がわずかに張り詰めた。
驚きではない。

むしろ、予想されていた動きが、
ついに形になったという沈黙に近い。

アレクシオス・ルーン・アグライアから、
妹を療養名目で受け入れてほしいという要請が届いた。

政治的な亡命ではない。
保護でもない。

あくまで、医療を理由とした一時的な滞在。

言葉だけを見れば、穏当だ。

だが、この状況で差し出される要請が、
軽いはずがなかった。

結界を守護する国として、
ゼフィーリアはすでに、この件に巻き込まれている。

関与していない、という距離感は、
とっくに成立しなくなっていた。

問題は、引き受けるかどうかではない。

これ以上、事態を悪化させないこと。

その一点に、議論は自然と集まっていく。

結界は、安定している。

だが、それは余裕があるという意味ではない。

現状が保たれているからこそ、
強く揺らすべきではない状態だった。

修正の一端を担っているのは、異世界の巫女だ。

最弱と評される存在が、
いまも均衡を崩さぬよう、
丁寧な調整を続けている。

リエットの力は強い。

それでも、この結界は、
この世界の人間だけで立て直せる構造ではない。

無理がかかれば、
修正そのものが破綻しかねなかった。

「慢性的な喘息とのことです」

その報告に、
アルトは内心で、静かに頷いた。

事実だった。
誇張も、嘘もない。

そして同時に――

ゼフィーリアが中立を保ったまま、
この要請を受け止められる理由でもある。

医療。
療養。
人道。

それらは、この国が掲げられる名目だ。

逆に言えば、
それがなければ、この話は成立しない。

健康な皇族を、
王宮に迎え入れる理由など、
ゼフィーリアには存在しなかった。

「リスクは低くありません」

アルトは、そう前置きした。

隠すつもりはない。

クーデターが失敗すれば、
この判断は、必ず問われる。
疑われる。
非難される。

それでも――

引き受けざるを得ない、
という結論が、
会議の底にはすでに横たわっていた。

成功したときの利益ではない。

判断基準は、もっと先にある。

失敗したときに、
国家として耐えられるか。

その覚悟があるかどうか。

それだけだった。

会議は、即断を避けた。

だがそれは、
結論を先送りにしたという意味ではない。

条件を整理し、
責任の所在を明確にしたうえで、
引き受ける。

その前提は、
すでに共有されていた。

それでいい。

急ぐべきではない。
だが、逃げてもいけない。

アルトは、そう結論づけた。

この判断が、
弟、クロトにとって、
望まない方向になることは、
分かりきっていた。

そして――

確実に、異世界の巫女は、
この件に深く関わることになる。

だからこそ、
次の段階は、
別の会議で、
より慎重に詰める必要がある。

――――――――――

■妹姫の受け入れ

長机を囲む席は、すでに埋まっていた。

王が中央に座り、その左右に重臣たちが並ぶ。

この場に集められたのは、
判断に必要な者だけだ。

「では、始めよう」

国王の一言で、会議が動き出す。

「議題は一つ。
 アレクシオス・ルーン・アグライアより打診のあった、
 皇族の療養名目での一時滞在についてだ」

決断の時期が来たことは、
誰の目にも明らかだった。

「外務卿、説明を」

「はい」

アルトは一礼し、口を開いた。

「アレクシオス・ルーン・アグライアより、
 妹君を療養目的で受け入れてほしいとの要請が届いております。
 政治的亡命、あるいは保護を求めるものではありません」

「名目は医療。
 滞在は限定的。
 外交的発言の場は与えない。
 以上が、先方の提示条件です」

宰相が、静かに問いを挟む。

「……それを、額面通りに受け取ることはできませんな」

「承知しております」

アルトは即答した。

「ですが、名目が医療である以上、
 我が国としては、それ以上の理由を問う立場にはありません」

「問えば、
 中立の建前そのものが崩れます」

神殿長が、低く補足する。

「結界を守護する国が、
 政治的思惑で人を選別していると見られることは、
 好ましくありません」

そう前置きして、神殿長は続けた。

「結界は、現在も安定を保っています。
 ただし、それは強度が十分だという意味ではありません」

「複数の要因が重なれば、
 現行の調整では支えきれなくなる可能性は否定できません」

「だからこそ、
 これ以上の事態悪化は避けるべきだ、ということだな」

国王は視線を重臣たちに巡らせ、言った。

軍務卿が頷く。

「軍事的観点からも同意します。
 大国の混乱が拡大すれば、
 周辺への影響は避けられません」

内務卿が、淡々と続けた。

「国内復興の観点でも、
 これ以上の不安定要素は抱えたくありません。
 受け入れを拒否した場合、
 関係悪化による波及は無視できないでしょう」

一拍置いて、
国王が視線を巡らせる。

「つまり――
 引き受けざるを得ない、という理解でよいか」

誰も否定しなかった。

「ただし」

宰相が言葉を継ぐ。

「条件は必要です。
 曖昧なまま引き受ければ、
 責任の所在が不明確になります」

「その点について」

アルトが視線を向けた先に、
特別師団長がいた。

「師団長、意見をお願いします」

「はい」

師団長は立ち上がらず、
そのまま答えた。

「正直に申し上げます。
 人員に余裕はありません」

「現在、特別師団は
 通常の魔物討伐に加え、
 対外任務も抱えています」

「新たに護衛戦力を割けば、
 別の場所が確実に薄くなります」

「では、どうする」

国王が問う。

「守る対象をまとめます」

即答だった。

「皇族と、異世界の巫女を
 同一動線で管理します。
 護衛線を一本化します」

室内が、わずかにざわめいた。

「危険では?」

内務卿が確認する。

「分散させる方が危険です」

師団長は静かに返した。

「現状では、
 それが最も破綻しにくい配置です」

「補足します」

アルトが続ける。

「異世界の巫女は、
 医療資格を持つ看護師です」

「発作などの急変時、
 即時対応が可能です。
 医療と管理を分けない方が、
 事故は起きにくいと判断しました」

「……合理的だな」

軍務卿が、誰に言うでもなくつぶやいた。

国王は、しばらく黙っていた。

そして、ゆっくりと口を開く。

「本音を言えば、
 背負うリスクは小さくない」

「だが、拒めば、
 より大きな不安定を招く」

視線が、重臣たちを巡る。

「よって――
 本件は受け入れる」

それが、正式な決定だった。

「条件は整理する。
 管理は王宮内で完結させる。
 政治的関与は一切認めない」

「この国は、
 中立を守る」

国王の言葉に、
全員が一礼した。

アルトは、その光景を見ながら思う。

――これで、退路はなくなった。

――――――――――

■決定事項

執務室に入ってきたクロトは、いつも通りだった。

姿勢は正しく、歩調に乱れはない。
副師団長として、呼ばれた理由を問う必要もない、という顔だ。

――この場に至る前のことを、
ヴァルターは一瞬、思い返していた。

会議が終わり、
重臣たちがそれぞれ退出していく中でのことだ。

* * *

「……師団長」

廊下に出たところで、
アルトが、ヴァルターを呼び止めた。

「申し訳ございません。
 私事で」

その言い方に、
ただならぬものを察して、
ヴァルターは足を止める。

「手短に頼む」

「はい」

人の気配が遠ざいたのを確かめてから、
アルトは声を落とした。

「警備の件については、
 先ほどの案で異論はありません」

「お前も、予測していた案だろう」

その言葉に、アルトは苦笑いを浮かべる。

それは、確認にすぎなかった。
問題は、そこではない。

アルトは、ほんの一瞬、言葉を探す。

「……今回の配置に、
 納得するでしょうか」

主語はなかった。
だが、何を指しているかは明白だった。

「職務としては、問題ない」

ヴァルターは即答した。

「感情の部分は?」

短い問いだった。

「……それは、
 兄であるお前が、
 引き受ける領分だろう」

アルトは、静かに息を吐いた。

「ええ。
 分かっています」

それでも、と言いたげな沈黙が落ちる。

「ただ、
 その指示を出すのは、
 あなたですから」

「承知している」

それ以上は、踏み込まなかった。

今まで、互いに触れずにきたことだ。

今日、
初めて――

互いに、同じものを見ていると、
確認しただけだった。

* * *

「座れ」

短く告げると、クロトは一礼し、椅子に腰を下ろした。

「上からの指示だ」

前置きは、それだけで十分だった。

「アグライア帝国の皇族を、療養名目で受け入れる。
 滞在は一時的。
 政治的な活動は一切認められない」

だが、一瞬だけ、クロトの視線がわずかに揺れた。
すぐに戻る。
気づかなければ、それまでの変化だ。

「受け入れは、事実上決定している。
 それに伴い、王宮内の警護体制を見直す必要がある」

「……承知しました」

即答だった。
問い返しもない。

皇族を迎え入れる。
それがどういう意味を持つか、この男はよく分かっている。

ヴァルターは、そこで一拍置いた。

そして、クロトがもっとも拒否感を抱くだろう決定事項を、淡々と続ける。

「今回の件では、
 異世界の巫女と皇族を、同一の動線で管理する」

空気が、ほんのわずかに張り詰めた。

クロトの表情は変わらない。
だが、姿勢が、わずかに硬くなる。

「警備上の合理性と、巫女が看護師である点を踏まえた判断だ。
 個別に切り分けるより、
 統合したほうがリスクは低い」

理屈としては理解できる。
そう判断したことも、察しはついているはずだ。

「この判断には、外務卿――アルト殿も関わっている」

その名が出た瞬間、
室内の魔力の流れが、ほんの一瞬だけ揺れた。

意識しなければ、感じ取れない程度。
だが、ヴァルターには分かる。

クロトは、すぐにそれを抑え込んだ。

「……警備体制の再構築が必要になりますね」

声は平静だった。
感情を挟まない、職務上の応答。

「そうだ」

ヴァルターは頷いた。

「巫女と皇族、双方の安全を確保するため、
 警備配置、結界運用、即応体制を見直せ」

命令は明確だった。
だが、細部までは踏み込まない。

「具体的な設計は、お前に任せる」

クロトは一瞬、思考を巡らせるように視線を落とし、
すぐに顔を上げた。

「現行の運用を基準に、
 負荷が集中しない形で再編します」

今の段階では、これは仕事だ。
感情は、まだ奥に押し込められている。

「それでいい」

ヴァルターは、視線を外さずに続けた。

「この件は、上層部の合意事項だ。
 決して覆ることはない」

「理解しています」

短い返答。
だが、その声には、抑制された硬さが残っていた。

――外務卿のもとへ向かうだろうことは、予測済みだ。

ヴァルターはそう思いながら、
それ以上、何も言わなかった。