■木曜日(訓練20日目)
木曜日の午前、訓練内容が一段階進んだ。
この日から、階段昇降の練習が始まる。
桜はエルザの前に立ち、まず足元を確認した。
装具の固定、杖の長さ、手すりとの距離。
「今日は、新しい動作を確認する日です」
落ち着いた声でそう告げる。
「上るときは、右足から。
下りるときは、杖と左足を先に出します」
言葉は短く、順番だけをはっきり伝える。
「今日は一段ずつ。
怖かったら、すぐ止めましょうね」
エルザは深く息を吸い、頷いた。
最初の一段は、かなり慎重だった。
身体に力が入り、動きが一瞬止まる。
介護人はすぐ横に立ち、
マルタは少し後ろから全体を見ている。
「……思ったより、怖いですね」
「そうですよね」
桜は頷いた。
「階段は、最初は誰でも怖いですから。
今の動きで大丈夫ですよ」
二段目も、同じように確認する。
無理に続けることはしない。
下りはさらに慎重に行い、
この日の訓練は短時間で切り上げられた。
「今日は、ここまでにしましょうね」
エルザは小さく息を吐き、頷いた。
────────────────────
■金曜日(訓練21日目~)
金曜日の訓練も、前日と同じ内容だった。
桜が前に立ち、介護人がすぐ横につく。
ロッテは、少し離れた位置で様子を見ている。
動きはまだ慎重だが、
足を止める場面は、前日よりも少なくなっていた。
「昨日よりは、少し楽です」
「えぇ、すごくいいですよ」
桜は、予想以上に良い動きに、そのまま言葉にして伝える。
それでも、この日は無理に段数を増やすことはせず、
確認を中心に訓練を終えた。
土曜日以降の訓練は、
看護師がローテーションで担当し、介護人が付き添った。
内容は同じ階段昇降と杖歩行。
大きな変化はないが、動きは日ごとに安定していく。
足が止まることは、ほとんどなくなっていた。
────────────────────
■エルザへの相談 (4週目・月曜日 午後)
午後の病棟は、午前よりも少し静かだった。
階段昇降の練習を終え、エルザはベッドに腰掛けて休んでいる。
様子を確かめてから、桜が声をかけた。
「エルザさん、少しお時間いいですか」
「はい?」
「実は……」
桜は、少し言葉を選びながら続けた。
「護衛の騎士が、お礼をしたい相手がいるそうなんです」
エルザは、静かに続きを待つ。
「王妃付きのメイドで、エーファさんという方です」
その名前を聞いて、エルザは小さく頷いた。
「ええ。顔と名前は知っています」
「立場もあって、直接やり取りするのは難しいみたいで」
「連絡を取る方法があるか、相談されまして……」
エルザは少し考えてから、穏やかに答えた。
「でしたら、仲介はできますよ」
「見舞いに来ているメイド仲間に、
親しい関係の子がいますから」
「本当ですか?」
「ええ。その子を通せば、大丈夫だと思います」
「ありがとうございます。助かります」
桜がそう答えた時点で、
エルザはもう、だいたい察していた。
――なるほど、そういうことね。
入院中の、ちょっとした出来事。
訓練で頭がいっぱいになっていたから、
息抜きには、ちょうどよかった。
話がひと段落したところで、
桜はエルザのベッドサイドから、少しだけ離れた。
診療所内に控えていた護衛騎士――ノインに、
軽く手招きをする。
ノインはそれに気づき、静かに近づいてきた。
「……エーファ殿、ですね」
「はい」
そこで、エルザが静かに口を挟む。
「ノインさん」
「先方のご都合もありますから、
いくつか候補を挙げていただけますか」
ノインは少し考え、頷いた。
「来週以降で、四つほど候補を挙げられます」
エルザはその返答を聞き、穏やかに頷く。
「場所は、庭園でいかがでしょう」
「人目も少なく、立ち話もしやすいですから」
「ありがとうございます」
ノインはそう答え、静かに一礼した。
「仲介の者を通して、お伝えします」
エルザは小さく頷いてから、続けた。
「返答は、木曜日あたりの午後にでも。
またこちらに来ていただいても、よろしいかしら」
「承知しました」
ノインはそう答え、その場を離れた。
定位置へと戻ったノインへ、
エルザは何も言わず、
ただ少しだけ、穏やかに目を向ける。
ノインは、気づかないふりをして立っていた。
背筋は伸びている。
視線は正面。
いつもと同じ護衛の姿勢。
だが、内側はまったく落ち着いていなかった。
来週以降。
四つの候補日。
その言葉を口にした瞬間から、
頭の中では、庭園の景色ばかりが浮かんでいる。
任務ではない。
魔物でもない。
命のやり取りでもない。
それなのに――
こんなにも緊張するのか、と。
騎士として前線に立つときとは、まったく違う種類の鼓動だった。
エルザがすべて察していることにも、
薄々気づいている。
だが、それに甘えるつもりはない。
これは、自分の問題だ。
静かに呼吸を整え、
ノインは再び護衛の顔に戻る。
庭園での立ち話など、ただの短い挨拶だ。
――そのはずだ。
────────────────────
■5週目〜6週目
5週目に入ると、訓練内容は大きく変わらなくなった。
階段昇降はすでに一通りできており、
確認と安定化が中心となる。
木曜日のみ、桜が立ち会い、
これまで積み重ねてきた動作の確認を行った。
「今の感じで大丈夫ですよ」
「無理に速くしなくていいです」
桜はそう声をかけ、回数を増やさずに切り上げる。
5週目の後半には、病棟内での一人歩行の許可が出た。
装具と杖は必要だが、付き添いは不要となる。
「最初は廊下だけで」
「疲れたら、すぐ戻ってください。
何かあったら、すぐ呼んでくださいね」
そう説明され、エルザは慎重に頷いた。
6週目に入る頃には、
歩行も階段も、特別な意識をせずに行えるようになっていた。
装具はまだ外せないが、
自宅へ戻れるところまで、回復している。
クラウス、マルタ、桜によるカンファレンスが行われ、
エルザの退院許可が出た。
────────────────────
■他人事のはずなのに
結界修正を終え、部屋へ戻る廊下を歩いていた。
静かな時間帯で、人の気配は少ない。
桜は、いつもより少し足取りが落ち着かない。
(……どうなったかな)
昨日、護衛担当だったノインの顔が浮かぶ。
自分には関係のない話だ。
そう分かっているのに、
ついつい、浮足立つ自分を否定できない。
「……サクラ様」
呼ばれて、桜ははっと顔を上げる。
「はい?」
クロトは、ほんの一瞬だけ桜の表情を確かめるように目を向けた。
「……何でもない、とは言い切れないご様子ですけど」
桜は少し迷い、正直に答えた。
「いえ……本当に、たいしたことではないんです」
「相談、ですか」
「はい。それだけで、ちょっとそわそわしてて」
クロトは短く頷く。
「それほどのことではなさそうで、安心しました」
桜は、うまくいけばいいな、くらいの気持ちに落ち着いた。
────────────────────
■退院当日 木曜日
朝の診療所は、いつもより少しだけ落ち着いていた。
エルザのベッドのそばには、夫と娘、そして祖父の姿がある。
「お母さん、ほんとに帰れるの?」
「ええ。今日は帰れるわ」
エルザは娘の手を握った。
「無理はするなよ」
「分かってる。もう、叱られる前に休むから」
家族の間に小さな笑いが落ちる。
「歩く時は、今まで通りで大丈夫です」
「装具と杖は、しばらく続けてくださいね」
「はい。気をつけます」
扉の前で、エルザが振り返る。
「本当に、お世話になりました」
「お気をつけて」
装具と杖を手に、
エルザは家族とともに診療所を後にした。
完全な回復ではない。
それでも、生活へ戻るための一歩は、
確かに踏み出されていた。
木曜日の午前、訓練内容が一段階進んだ。
この日から、階段昇降の練習が始まる。
桜はエルザの前に立ち、まず足元を確認した。
装具の固定、杖の長さ、手すりとの距離。
「今日は、新しい動作を確認する日です」
落ち着いた声でそう告げる。
「上るときは、右足から。
下りるときは、杖と左足を先に出します」
言葉は短く、順番だけをはっきり伝える。
「今日は一段ずつ。
怖かったら、すぐ止めましょうね」
エルザは深く息を吸い、頷いた。
最初の一段は、かなり慎重だった。
身体に力が入り、動きが一瞬止まる。
介護人はすぐ横に立ち、
マルタは少し後ろから全体を見ている。
「……思ったより、怖いですね」
「そうですよね」
桜は頷いた。
「階段は、最初は誰でも怖いですから。
今の動きで大丈夫ですよ」
二段目も、同じように確認する。
無理に続けることはしない。
下りはさらに慎重に行い、
この日の訓練は短時間で切り上げられた。
「今日は、ここまでにしましょうね」
エルザは小さく息を吐き、頷いた。
────────────────────
■金曜日(訓練21日目~)
金曜日の訓練も、前日と同じ内容だった。
桜が前に立ち、介護人がすぐ横につく。
ロッテは、少し離れた位置で様子を見ている。
動きはまだ慎重だが、
足を止める場面は、前日よりも少なくなっていた。
「昨日よりは、少し楽です」
「えぇ、すごくいいですよ」
桜は、予想以上に良い動きに、そのまま言葉にして伝える。
それでも、この日は無理に段数を増やすことはせず、
確認を中心に訓練を終えた。
土曜日以降の訓練は、
看護師がローテーションで担当し、介護人が付き添った。
内容は同じ階段昇降と杖歩行。
大きな変化はないが、動きは日ごとに安定していく。
足が止まることは、ほとんどなくなっていた。
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■エルザへの相談 (4週目・月曜日 午後)
午後の病棟は、午前よりも少し静かだった。
階段昇降の練習を終え、エルザはベッドに腰掛けて休んでいる。
様子を確かめてから、桜が声をかけた。
「エルザさん、少しお時間いいですか」
「はい?」
「実は……」
桜は、少し言葉を選びながら続けた。
「護衛の騎士が、お礼をしたい相手がいるそうなんです」
エルザは、静かに続きを待つ。
「王妃付きのメイドで、エーファさんという方です」
その名前を聞いて、エルザは小さく頷いた。
「ええ。顔と名前は知っています」
「立場もあって、直接やり取りするのは難しいみたいで」
「連絡を取る方法があるか、相談されまして……」
エルザは少し考えてから、穏やかに答えた。
「でしたら、仲介はできますよ」
「見舞いに来ているメイド仲間に、
親しい関係の子がいますから」
「本当ですか?」
「ええ。その子を通せば、大丈夫だと思います」
「ありがとうございます。助かります」
桜がそう答えた時点で、
エルザはもう、だいたい察していた。
――なるほど、そういうことね。
入院中の、ちょっとした出来事。
訓練で頭がいっぱいになっていたから、
息抜きには、ちょうどよかった。
話がひと段落したところで、
桜はエルザのベッドサイドから、少しだけ離れた。
診療所内に控えていた護衛騎士――ノインに、
軽く手招きをする。
ノインはそれに気づき、静かに近づいてきた。
「……エーファ殿、ですね」
「はい」
そこで、エルザが静かに口を挟む。
「ノインさん」
「先方のご都合もありますから、
いくつか候補を挙げていただけますか」
ノインは少し考え、頷いた。
「来週以降で、四つほど候補を挙げられます」
エルザはその返答を聞き、穏やかに頷く。
「場所は、庭園でいかがでしょう」
「人目も少なく、立ち話もしやすいですから」
「ありがとうございます」
ノインはそう答え、静かに一礼した。
「仲介の者を通して、お伝えします」
エルザは小さく頷いてから、続けた。
「返答は、木曜日あたりの午後にでも。
またこちらに来ていただいても、よろしいかしら」
「承知しました」
ノインはそう答え、その場を離れた。
定位置へと戻ったノインへ、
エルザは何も言わず、
ただ少しだけ、穏やかに目を向ける。
ノインは、気づかないふりをして立っていた。
背筋は伸びている。
視線は正面。
いつもと同じ護衛の姿勢。
だが、内側はまったく落ち着いていなかった。
来週以降。
四つの候補日。
その言葉を口にした瞬間から、
頭の中では、庭園の景色ばかりが浮かんでいる。
任務ではない。
魔物でもない。
命のやり取りでもない。
それなのに――
こんなにも緊張するのか、と。
騎士として前線に立つときとは、まったく違う種類の鼓動だった。
エルザがすべて察していることにも、
薄々気づいている。
だが、それに甘えるつもりはない。
これは、自分の問題だ。
静かに呼吸を整え、
ノインは再び護衛の顔に戻る。
庭園での立ち話など、ただの短い挨拶だ。
――そのはずだ。
────────────────────
■5週目〜6週目
5週目に入ると、訓練内容は大きく変わらなくなった。
階段昇降はすでに一通りできており、
確認と安定化が中心となる。
木曜日のみ、桜が立ち会い、
これまで積み重ねてきた動作の確認を行った。
「今の感じで大丈夫ですよ」
「無理に速くしなくていいです」
桜はそう声をかけ、回数を増やさずに切り上げる。
5週目の後半には、病棟内での一人歩行の許可が出た。
装具と杖は必要だが、付き添いは不要となる。
「最初は廊下だけで」
「疲れたら、すぐ戻ってください。
何かあったら、すぐ呼んでくださいね」
そう説明され、エルザは慎重に頷いた。
6週目に入る頃には、
歩行も階段も、特別な意識をせずに行えるようになっていた。
装具はまだ外せないが、
自宅へ戻れるところまで、回復している。
クラウス、マルタ、桜によるカンファレンスが行われ、
エルザの退院許可が出た。
────────────────────
■他人事のはずなのに
結界修正を終え、部屋へ戻る廊下を歩いていた。
静かな時間帯で、人の気配は少ない。
桜は、いつもより少し足取りが落ち着かない。
(……どうなったかな)
昨日、護衛担当だったノインの顔が浮かぶ。
自分には関係のない話だ。
そう分かっているのに、
ついつい、浮足立つ自分を否定できない。
「……サクラ様」
呼ばれて、桜ははっと顔を上げる。
「はい?」
クロトは、ほんの一瞬だけ桜の表情を確かめるように目を向けた。
「……何でもない、とは言い切れないご様子ですけど」
桜は少し迷い、正直に答えた。
「いえ……本当に、たいしたことではないんです」
「相談、ですか」
「はい。それだけで、ちょっとそわそわしてて」
クロトは短く頷く。
「それほどのことではなさそうで、安心しました」
桜は、うまくいけばいいな、くらいの気持ちに落ち着いた。
────────────────────
■退院当日 木曜日
朝の診療所は、いつもより少しだけ落ち着いていた。
エルザのベッドのそばには、夫と娘、そして祖父の姿がある。
「お母さん、ほんとに帰れるの?」
「ええ。今日は帰れるわ」
エルザは娘の手を握った。
「無理はするなよ」
「分かってる。もう、叱られる前に休むから」
家族の間に小さな笑いが落ちる。
「歩く時は、今まで通りで大丈夫です」
「装具と杖は、しばらく続けてくださいね」
「はい。気をつけます」
扉の前で、エルザが振り返る。
「本当に、お世話になりました」
「お気をつけて」
装具と杖を手に、
エルザは家族とともに診療所を後にした。
完全な回復ではない。
それでも、生活へ戻るための一歩は、
確かに踏み出されていた。

