役目を終えたはずの巫女でした ― 選ばれなかった時間の続き ―

■水曜日の午前――桜への相談事

水曜日は、桜の公休日だ。

今日はたまたま、ノインが部屋の護衛担当になっており、午前中の時間を使って、桜は読み書きと発音の練習につきあってもらっていた。

机の上には、紙とペン。
書きかけの文字と、書き直された行がいくつも並んでいる。

「……ここの音、もう一度お願いします」

「はい。
――その音は、“ル”ではなくて、“ラ”に近いです」

ノインは、口の形を意識しながら、ゆっくりと発音する。
桜はそれを聞き取り、すぐに頷いた。

「今の、分かりやすかったです」

「よかったです」

いつも通りのやり取り。
内容も、進み具合も、特に問題はない。

――けれど。

ノインは、落ち着きがなかった。

視線が、紙と桜の間を行ったり来たりする。
発音の区切りで、妙に間が空く。
言い直す必要のないところで、言葉を切る。

桜は、ペン先を止めた。

「……ノインさん」

「はい」

「今日は、少しそわそわしていませんか?」

一瞬、返事が遅れた。

「……いえ」

否定しかけて、言葉が続かない。

桜は、その様子を見て、深く追及はしなかった。

「何か、困っていることですか?」

ノインは、一度視線を外した。
それから、短く息を吐く。

「……実は」

前置きは短かった。

「この前、怪我をしたときに」

「診療所で、メイドの方から……」

桜の中で、すぐに映像が浮かぶ。
騎士服の血を見て、顔色を失っていた、あのメイド。
あまりにも心配そうで、強く印象に残っていた。

「エーファ、という名前で」

ノインが続ける。

「ハーブティーを、いただいたんです」

「疲れを取って、眠りを助けるものだと」

(……あの方、エーファさん、という名前だったのね)

桜は、内心でそう思う。

「それで……」

「何か、お返しをした方がいいと思っているんですが」

ノインは、言葉を選びながら続けた。

「何がいいのか、分からなくて」

桜は、そこで状況を理解したつもりになった。

「あの時の、メイドさんですね」

「はい」

即答だった。

桜は、少し考えてから、確認するように口にする。

「……恋人の方、なんですよね?」

――次の瞬間。

「ち、違います!」

声が裏返った。

「そういうんじゃなくて」

「その……」

ノインの顔が、みるみる赤くなる。
言葉が続かず、拳をぎゅっと握った。

「……え?」

桜は、素直に困惑した。

「恋人では、ありません」

ノインは、はっきりと言った。

「ただ、その……」

「自分、恋愛経験がないので」

言い切る声は、妙にまっすぐだった。
照れも、卑下もない。
事実を述べているだけ、という調子。

その一言で、桜の中の空気が変わった。

「……」

一瞬、言葉が出ない。
けれど、不思議と居心地の悪さはなかった。

「……私も」

気づいたら、口にしていた。

「そういう経験、なくて」

言ってから、桜は内心で驚く。
言うつもりはなかった。
話すつもりも、なかった。

ただ、
同じ立場の人を初めて目の前にして、
つい、口が先に動いただけだった。

ノインは、少し驚いたように桜を見る。

「……そうなんですか」

「はい」

「なので、正直」

「女性が何を喜ぶかとか、全然分からないです」

桜は、視線を紙に落としたまま続ける。

「しかも、貴族の女性ですよね」

「余計に……分からなくて」

「それでも」

ノインは、間を詰めるように言った。

「他に、相談できる相手がいなくて」

「騎士仲間に聞いたら、冷やかされますし」

少し早口だった。

「……真剣に考えたいんです」

必死さが、隠しきれずに滲んでいた。

桜は、少し迷ってから、言葉を選ぶ。

「ええと……」

「その……」

一度、間を置く。

「……気になっている、感じですか?」

好きなんですか、とは言わない。
桜なりの、精一杯のオブラートだった。

「いえ、その……」

ノインは、顔を真っ赤にしたまま言葉を探し、
最後には、観念したように視線を落とす。

「……はい」

小さく、頷いた。

桜は、しばらく考え込む。

身分差も、貴族の慣習も、
正直よく分からない。

けれど。

「……お菓子、とか」

ぽつりと口にする。

「美味しいお菓子なら」

「嫌いな人、少ないと思います」

「私も、好きですし」

少し照れたように付け足す。

「ハーブティーをいただいたなら」

「同じように、口にするもの、ちょうどいいかも」

ノインは、その言葉を真剣に受け止めた。

「……なるほど」

小さく頷く。

「お礼の気持ちも、伝えやすいですね」

桜は、内心で少しだけ安堵する。
参考になったのなら、それでいい。

「ありがとうございました」

ノインは、深く頭を下げた。

「いえ……」

「私も、あまり詳しくないので」

桜は、少し苦笑した。

相談を終えたノインは、
さっきまでの落ち着きのなさが嘘のように消え、
その後の読み書きと発音の練習は、問題なく進んだ。

――初めて会ったかもしれない。
同じ立場の人。

桜は、そう思いながら、ペンを走らせていた。

勉強の時間が終わり、
ノインが退室しようとした、その直前。

ふと、何かを思い出したように、
ノインが「あっ」という表情を浮かべた。

「どうしましたか」

「……いえ」

一瞬、言いかけてから、
ノインは小さく息を吐く。

「彼女、王妃様付きのメイドさんなので」

「自分、接点がなくて……」

その言葉に、桜は「ああ」と小さく頷いた。

「怪我をしたときは、偶然でしたし」

「この間も、庶務室まで、わざわざ来てくれて」

桜は、少し考える。

(……でも、私も、詳しい動線は分からないな)

一瞬そう思ってから、
別の顔が、頭に浮かんだ。

(そういえば……エルザさんは、メイドだった)

同じメイドで、
いまは診療所に入院している患者。

――あまり、患者さんに私的なお願いをするのは、
本当は、あまり良くない。

けれど、
動作訓練も順調に進んでいるし、
事情を聞くだけなら。

桜は、少しだけ迷ってから、口にした。

「あの……」

「診療所に、今、メイドさんが入院されているんです」

「メイドさん同士でしたら、
お知り合いかもしれませんし」

「一度、聞いてみましょうか」

「本当ですか」

ノインが、思わず身を乗り出す。

その反応を見て、
桜は内心で、小さく息を整えた。

(……これは、ちゃんと段取りを考えないと)

まずは、
エルザさんに、相談してみよう。

桜は、そう心を決めた