役目を終えたはずの巫女でした ― 選ばれなかった時間の続き ―

■木曜日 午前(訓練14日目)

エルザは、ベッド脇に立っていた。
今日は、歩行器を使わない。
桜は一本の杖を持ち、エルザの前に立つ。

「右手で持ちましょう」

短くそう言ってから、続けた。

「左の足を出す時に、一緒に前へ」

説明はそれだけだった。
エルザは言われた通り、杖を右手に持ち替える。

歩行器がなくなると、急に足元が広く感じられた。
支えが減った分、身体の重さが、そのまま伝わってくる。

「立つところから、いきましょうか」

桜は、エルザの正面ではなく、少し斜め前に立つ。
すぐ手が出せる位置。だが、触れない距離だった。

エルザは息を整え、右手の杖に体重を預ける。
左足を、慎重に前へ出した。

一歩。
杖と足が、同時に床につく。

「……思ったより、揺れます」

「そうですよね」

桜は、落ち着いた声で返す。

「今ので、大丈夫です。ちゃんと支えられていますよ」

もう一歩。
今度は、少しだけスムーズに足が出た。

介護人は、すぐに支えに入れる位置に立つ。
マルタは、その少し後ろで様子を見ていた。

「今の感じ、どうですか」

「……怖いですね」

エルザは、正直に言った。

「怖いですよね」

桜は頷く。

「杖は、歩行器より頼る場所が少ないですから」

そこで、桜は続けた。

「今日は、ここまでにしましょうね」

距離も、回数も、まだ余裕はある。
だが、ここで止める。

エルザは小さく息を吐き、杖を握ったまま頷いた。
桜がそばに寄り、介護人とともにエルザを椅子へ導いた。

――――――――――

■木曜日 午後

ベッドの間を仕切る白いシーツの向こうから、話し声が聞こえる。
エルザのベッドのそばには、年配の女性と、小さな女の子が立っていた。
祖母と、娘のミーラだ。

「お母さん」

ミーラは、ベッドの縁に寄り、エルザの顔を見上げる。

「きょうは、どう?」

「うん、大丈夫よ」

そう答えながらも、祖母は心配そうに、エルザの足元へと目を向けた。

「歩く練習、しているんでしょう」

「少しずつだけど」

エルザはそう言って、娘の髪をそっと撫でる。

「ねえ、お母さん」

ミーラは、少し声を落として聞いた。

「お母さん、まだ帰れないの?」

エルザは、すぐには答えず、困ったように笑った。

「……もうちょっと、かな」

その様子を見て、桜が静かに声をかけた。

「ミーラ」

名前を呼ばれて、ミーラは振り返る。

「お母さんね、ちゃんと頑張ってるよ。
今日は、新しい歩く練習もできたし」

「ほんと?」

「うん」

ミーラは少し考えてから、またエルザを見る。

「じゃあさ」

小さく息を吸って、聞いた。

「お母さん、頑張ってるから、
もうちょっと待たないといけない?」

「そうね」

エルザは、はっきり頷いた。

「もう少しだけ、待ってくれる?」

「……うん」

ミーラは小さく頷いた。

「ありがとう」

エルザは、娘の手を握った。
祖母はその様子を見て、静かに息を吐く。

「無理はしないで。
ミーラのことは、私がちゃんと見てるから」

「ありがとう、お母さん」

そのやり取りを、桜は少し離れた場所から聞いていた。

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■金曜日(訓練15日目)

この日の訓練も、前日と同じ内容だった。
杖を使った立位と、短い距離の歩行。

桜は、エルザの少し斜め前に立ち、
反対側には介護人が立つ。
ロッテは、その少し後ろで様子を見ている。

エルザは、昨日よりも落ち着いた様子で立ち上がった。
揺れはあるが、足を止めることはない。

「今日は、どうですか」

桜が声をかける。

「……少しだけ、昨日よりは」

エルザはそう答えて、苦笑した。

「でも、やっぱり怖いですね」

「そうですよね」

桜は頷く。

「杖は、支えが少ないですから。
怖いって感じるのは、自然なことですよ」

無理に距離を伸ばすことはしない。
動きの確認を中心に、同じ流れを繰り返す。

「今日は、ここまでにしましょうね」

そう声をかけると、エルザはほっとしたように頷いた。

訓練後、ロッテが簡単に記録をまとめる。
介助量は、前日よりもわずかに減っていた。

土曜日はマルタとエミールが、月曜日はロッテと介護人が訓練を担当した。
内容は同じ杖歩行の訓練だが、動きは日ごとに落ち着き、安定感が増してきている。

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■火曜日(訓練18日目)

午前の訓練前、桜とロッテはクラウスのもとへ向かった。

「杖歩行は、安定してきています」
「恐怖感はまだありますが、動作そのものは落ち着いています」

ロッテが、これまでの経過を簡潔に報告する。

それを受けて、桜が続けた。

「このまま問題なければ、次の段階として、
階段昇降への移行を検討できるかと思います」

クラウスは少し考え、頷いた。

「いいと思う。
無理のない範囲で、進めていこう」

その後、桜は介護人とともにエルザのもとへ戻った。

「今日の練習も、今まで通り行いましょう」

そう前置きしてから、続ける。

「かなり順調ですよ。
この調子なら、木曜日から階段の練習を始めましょうか」

エルザは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに少し嬉しそうに頷いた。

「……はい。お願いします」

水曜日は、エミールと介護人が訓練を担当し、
杖歩行での安定感は、さらに増していた。