水曜日
その日は、結界修正が終わっても、すぐに部屋へ戻らなかった。
結界制御室を出て、回廊へ向かう途中――
いつもなら、そのまま部屋へ戻るだけの流れの中で、クロトが足を止めた。
「サクラ様」
呼ばれて、桜も足を止める。
「この後、もしよろしければ。……少し、庭園を散歩いたしませんか」
部屋へ戻る道は、もう見えている。
私が疲れているときなどに、少し遠回りして戻ってくれることはあったけれど、
散歩に誘われたのは初めてだった。
「え……散歩、ですか」
思わず聞き返してしまう。
本当に驚いたのだと思う。
「はい。今日は天気も良いですし……」
そもそも、すごく忙しい人なのに。
わざわざ私と散歩する時間を割いてもらっていいのだろうか。
クロトからの提案だったが、心配になって一応確認する。
「あの、時間は……本当に大丈夫なんですか」
「ええ。今は、少しだけ余裕があります」
それ以上の説明はない。
桜は、胸の奥が小さく跳ねるのを感じた。
嬉しい。
それだけは、誤魔化しようがなかった。
でも同時に、すぐに遠慮が出る。
私なんかのために、クロトさんの時間を使わせるのは、やはり心苦しい。
本当は、ゆっくり休む時間が必要なはずなのに。
それでも。
結局、
「少し散歩しませんか」と言われてしまえば、断れなかった。
一緒にいられる時間が、嬉しい。
その気持ちのほうが、遠慮より、ほんの少しだけ勝ってしまう。
だから桜は、
これは彼にとって仕事の延長なのだと、自分に言い聞かせる。
それなら、甘えてしまっても許される気がした。
「……じゃあ、よろしくお願いします。
外には自由に出られないので、嬉しいです」
素直な気持ちをそのまま言葉にすると、クロトは小さく頷いた。
そして、部屋へ戻る最短の道は、最初の角で外れた。
王宮の庭へと続く回廊を抜け、
人の少ない遊歩道へ向かう。
クロトは時間を急ぐ様子がない。
歩幅を合わせることにも、無理がない。
並んで歩いているだけなのに、クロトはやはり目に入る。
容姿端麗で、背が高く、姿勢がいい。
動きに無駄がなく、所作がひとつひとつきれいだった。
――ああ、違うな。
一瞬そう思ってしまって、
桜は内心で小さく息を吐いた。
自分とは、土俵が違う。
釣り合うとか、釣り合わないとか、
そういう話ですらない。
そもそも、
最初から同じ場所に立っていない。
そう考えてから、
すぐに自分で自分に突っ込む。
いやいや。
そもそも、比べる対象にすらならないか。
来た時より、はっきりと伸びた髪に、
もし気づいてもらえているなら。
その部分だけは、
女性として判別されているのかもしれない。
それだけで、
今の桜には十分だった。
「今日は、本当に散歩日和ですね」
自分でも無難だと思いながら、そう言う。
「ええ。歩きやすい日です」
クロトも、即座に返してくれる。
歩幅は、自然と揃ったままだ。
不思議と、クロトといるときは沈黙が嫌ではない。
会話が途切れても、気まずくならない。
多少は長い付き合いだから、というのもあるのだろうか。
しばらく歩いてから、桜は思い出したように口を開く。
「そういえば……最近、診療所まで来てくれて、
料理人さんたちに聞かれるんです」
「料理、ですか」
「はい。この前の料理がきっかけで、
“他にも美味しいものはないか”って」
「それで、ラーメンとか、お好み焼きとか。
まだ、いろいろあるんですけど」
「……お好み焼き?」
クロトが、わずかに首を傾げる。
桜はその様子に、少し笑みを浮かべた。
「小麦粉に卵とか、野菜とかを混ぜて焼く料理です。
私は結構好きで」
「ただ、お好み焼きには専用のソースが必要で」
「調味料、ですね」
「はい。ラーメンも作れたらいいんですけど、
麺がパスタとは違うんですよね」
「お好み焼きなら、ソースを持ち込めれば何とかなるかも、
って伝えて。
今度、試してみる予定なんです。
うまくいったら……また、ぜひ味見してください」
「ええ、ぜひ」
クロトの声は落ち着いている。
ただ、聞いてくれる。
「私も、自分の世界の料理をこちらで食べられるとは思っていなかったので。
正直、料理人さんたちには感謝しています」
「彼らも、きっと感謝していますよ」
歩きながら話していると、言葉がすらすらと出てくる。
部屋の中で向かい合って話すより、ずっと。
おそらく、真正面にいないのもあるのだろう。
気づけば、庭の端まで来ていた。
折り返して、別の遊歩道へ入る。
同じ景色を二度三度と眺めるうちに、
「散歩」と呼ぶには十分すぎる時間が過ぎていた。
一時間近く、庭を歩いていた。
「……そうだ」
桜は、少し間を置いてから言った。
「今度の金曜日、いつも通り日本に戻るんですけど」
クロトが、静かに頷く。
「向こうで、夜に忘年会があって」
「ぼうねんかい?」
「一年の終わりに、仕事の人たちで集まる行事です。
こちらにも、似たような集まりはありますか」
「ええ。年の区切りで、労をねぎらう席はあります」
それを聞いて、桜は少しだけ安心した。
伝わらないと思うと、説明が長くなってしまうから。
「……でも、私、あまり得意じゃなくて」
「大人数で話すのが苦手で……恥ずかしい話、
いつも一人になってしまうんです」
桜はそう言って、深いため息をついた。
「仕事の会議とかなら話せるんですけどね」
「本当は、あまり行きたくないですけど。
用事があるって嘘をつくのも、できなくて」
愚痴だ。
自分でも分かる。
「……すみません。完全に愚痴ですね」
「いいえ」
クロトは、即座に否定した。
「構いませんよ」
それ以上、踏み込まない。
励ましすぎもしない。
桜は、その距離感が心地よかった。
歩く速度は、変わらない。
空気も、変わらない。
それなのに、胸の奥だけが、少しだけ忙しい。
――この時間が、続けばいいのに。
そう思って、
また自分で自分に突っ込む。
いやいや。
何を願ってるの。
でも、
こんな時間は、もうないかもしれない。
だったら、今こうしていられることに、
ちゃんと感謝しないと。
________________________________________
ぼうねんかい。
日本に戻る。
それは、遠いというより、
最初から別の場所にあった現実だった。
それでも、
それが彼女の現実であることだけは、
自分が踏み込めないほどの確かさで、そこにあった。
その事実を、
彼は受け止めたまま、
言葉にできるはずがないと知っていた。
散歩に誘った理由を、クロトは言葉にしない。
護衛として必要だったわけでも、
安全確認のためでもない。
ただ、
一緒にいられる時間が欲しかった。
それだけだった。
最近、様々なことで忙しく、
気持ちが少しだけ疲れていた。
ほんの短い時間でもいい。
何も考えずに、彼女の隣を歩きたかった。
言葉にすることは、
許されない。
それ以上を望まない。
望んではいけない。
ただ、
今日は少しだけ、時間に余裕があった。
それだけだ。
その日は、結界修正が終わっても、すぐに部屋へ戻らなかった。
結界制御室を出て、回廊へ向かう途中――
いつもなら、そのまま部屋へ戻るだけの流れの中で、クロトが足を止めた。
「サクラ様」
呼ばれて、桜も足を止める。
「この後、もしよろしければ。……少し、庭園を散歩いたしませんか」
部屋へ戻る道は、もう見えている。
私が疲れているときなどに、少し遠回りして戻ってくれることはあったけれど、
散歩に誘われたのは初めてだった。
「え……散歩、ですか」
思わず聞き返してしまう。
本当に驚いたのだと思う。
「はい。今日は天気も良いですし……」
そもそも、すごく忙しい人なのに。
わざわざ私と散歩する時間を割いてもらっていいのだろうか。
クロトからの提案だったが、心配になって一応確認する。
「あの、時間は……本当に大丈夫なんですか」
「ええ。今は、少しだけ余裕があります」
それ以上の説明はない。
桜は、胸の奥が小さく跳ねるのを感じた。
嬉しい。
それだけは、誤魔化しようがなかった。
でも同時に、すぐに遠慮が出る。
私なんかのために、クロトさんの時間を使わせるのは、やはり心苦しい。
本当は、ゆっくり休む時間が必要なはずなのに。
それでも。
結局、
「少し散歩しませんか」と言われてしまえば、断れなかった。
一緒にいられる時間が、嬉しい。
その気持ちのほうが、遠慮より、ほんの少しだけ勝ってしまう。
だから桜は、
これは彼にとって仕事の延長なのだと、自分に言い聞かせる。
それなら、甘えてしまっても許される気がした。
「……じゃあ、よろしくお願いします。
外には自由に出られないので、嬉しいです」
素直な気持ちをそのまま言葉にすると、クロトは小さく頷いた。
そして、部屋へ戻る最短の道は、最初の角で外れた。
王宮の庭へと続く回廊を抜け、
人の少ない遊歩道へ向かう。
クロトは時間を急ぐ様子がない。
歩幅を合わせることにも、無理がない。
並んで歩いているだけなのに、クロトはやはり目に入る。
容姿端麗で、背が高く、姿勢がいい。
動きに無駄がなく、所作がひとつひとつきれいだった。
――ああ、違うな。
一瞬そう思ってしまって、
桜は内心で小さく息を吐いた。
自分とは、土俵が違う。
釣り合うとか、釣り合わないとか、
そういう話ですらない。
そもそも、
最初から同じ場所に立っていない。
そう考えてから、
すぐに自分で自分に突っ込む。
いやいや。
そもそも、比べる対象にすらならないか。
来た時より、はっきりと伸びた髪に、
もし気づいてもらえているなら。
その部分だけは、
女性として判別されているのかもしれない。
それだけで、
今の桜には十分だった。
「今日は、本当に散歩日和ですね」
自分でも無難だと思いながら、そう言う。
「ええ。歩きやすい日です」
クロトも、即座に返してくれる。
歩幅は、自然と揃ったままだ。
不思議と、クロトといるときは沈黙が嫌ではない。
会話が途切れても、気まずくならない。
多少は長い付き合いだから、というのもあるのだろうか。
しばらく歩いてから、桜は思い出したように口を開く。
「そういえば……最近、診療所まで来てくれて、
料理人さんたちに聞かれるんです」
「料理、ですか」
「はい。この前の料理がきっかけで、
“他にも美味しいものはないか”って」
「それで、ラーメンとか、お好み焼きとか。
まだ、いろいろあるんですけど」
「……お好み焼き?」
クロトが、わずかに首を傾げる。
桜はその様子に、少し笑みを浮かべた。
「小麦粉に卵とか、野菜とかを混ぜて焼く料理です。
私は結構好きで」
「ただ、お好み焼きには専用のソースが必要で」
「調味料、ですね」
「はい。ラーメンも作れたらいいんですけど、
麺がパスタとは違うんですよね」
「お好み焼きなら、ソースを持ち込めれば何とかなるかも、
って伝えて。
今度、試してみる予定なんです。
うまくいったら……また、ぜひ味見してください」
「ええ、ぜひ」
クロトの声は落ち着いている。
ただ、聞いてくれる。
「私も、自分の世界の料理をこちらで食べられるとは思っていなかったので。
正直、料理人さんたちには感謝しています」
「彼らも、きっと感謝していますよ」
歩きながら話していると、言葉がすらすらと出てくる。
部屋の中で向かい合って話すより、ずっと。
おそらく、真正面にいないのもあるのだろう。
気づけば、庭の端まで来ていた。
折り返して、別の遊歩道へ入る。
同じ景色を二度三度と眺めるうちに、
「散歩」と呼ぶには十分すぎる時間が過ぎていた。
一時間近く、庭を歩いていた。
「……そうだ」
桜は、少し間を置いてから言った。
「今度の金曜日、いつも通り日本に戻るんですけど」
クロトが、静かに頷く。
「向こうで、夜に忘年会があって」
「ぼうねんかい?」
「一年の終わりに、仕事の人たちで集まる行事です。
こちらにも、似たような集まりはありますか」
「ええ。年の区切りで、労をねぎらう席はあります」
それを聞いて、桜は少しだけ安心した。
伝わらないと思うと、説明が長くなってしまうから。
「……でも、私、あまり得意じゃなくて」
「大人数で話すのが苦手で……恥ずかしい話、
いつも一人になってしまうんです」
桜はそう言って、深いため息をついた。
「仕事の会議とかなら話せるんですけどね」
「本当は、あまり行きたくないですけど。
用事があるって嘘をつくのも、できなくて」
愚痴だ。
自分でも分かる。
「……すみません。完全に愚痴ですね」
「いいえ」
クロトは、即座に否定した。
「構いませんよ」
それ以上、踏み込まない。
励ましすぎもしない。
桜は、その距離感が心地よかった。
歩く速度は、変わらない。
空気も、変わらない。
それなのに、胸の奥だけが、少しだけ忙しい。
――この時間が、続けばいいのに。
そう思って、
また自分で自分に突っ込む。
いやいや。
何を願ってるの。
でも、
こんな時間は、もうないかもしれない。
だったら、今こうしていられることに、
ちゃんと感謝しないと。
________________________________________
ぼうねんかい。
日本に戻る。
それは、遠いというより、
最初から別の場所にあった現実だった。
それでも、
それが彼女の現実であることだけは、
自分が踏み込めないほどの確かさで、そこにあった。
その事実を、
彼は受け止めたまま、
言葉にできるはずがないと知っていた。
散歩に誘った理由を、クロトは言葉にしない。
護衛として必要だったわけでも、
安全確認のためでもない。
ただ、
一緒にいられる時間が欲しかった。
それだけだった。
最近、様々なことで忙しく、
気持ちが少しだけ疲れていた。
ほんの短い時間でもいい。
何も考えずに、彼女の隣を歩きたかった。
言葉にすることは、
許されない。
それ以上を望まない。
望んではいけない。
ただ、
今日は少しだけ、時間に余裕があった。
それだけだ。

