役目を終えたはずの巫女でした ― 選ばれなかった時間の続き ―

■ 訓練1日目(木曜日)

 手術翌日の安静を終えた、木曜日の朝。
 桜はエルザのもとを訪れる。
 エルザは、上体を少し起こした状態でベッドにいた。
 顔色は落ち着いている。
 けれど、視線は何度も、布に覆われた左脚へ向かっては戻ってくる。

 桜は、その様子を見てから声をかけた。
「痛みはいかがですか?」

「薬のおかげで、だいぶおさまっています」

「それなら、よかったです」

 桜はうなずいてから続けた。

「今日は、少しだけ体を動かしますね」
「無理はしません」
「できるところから、一緒にやっていきましょうね」

 エルザは小さく息を吸った。

「……動かしても、大丈夫なんでしょうか」

 不安が、そのまま言葉になっていた。

「見たら、怖くなりますよね」

 桜は一度、気持ちを受け止めてから言った。

「骨はちゃんと固定されていますから、大丈夫ですよ」
「今日は、立ったりはしません」

 その説明に、エルザの肩の力が、わずかに抜けた。

 マルタと介護人が、ベッドの左右につく。
 桜はエルザの顔を見ながら、ゆっくり進めた。

「まずは、上体を起こしてみましょう」
「痛かったら、すぐ言ってくださいね」

 慎重に体を起こす。
 左脚には、まだ触れない。

「……怖いです」

「そうですよね」
「でも、今のところ、ちゃんとできていますよ」
「大丈夫ですよ」

 桜は、できていることだけを言葉にした。

 次は、ベッドの縁へ腰を下ろす。
 右脚と腕で体を支える。

「ここまでで、今日は十分です」
「ちゃんと、できていますよ」
「ゆっくりやっていきましょうね」

 エルザは、深く息を吐いた。
 表情には、まだ緊張が残っている。
 それでも、先ほどよりは落ち着いていた。

 この日の動作訓練は、そこで終えた。

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■ 訓練2日目(金曜日・午前)

 金曜日の朝。
 桜は、ロッテと介護人を連れてエルザのもとに訪れた。

 エルザは、前日と同じように、上体を起こした状態でベッドにいた。
 表情に強い痛みはないが、どこか緊張が残っている。

 桜が、まず声をかける。

「今の痛みはいかがですか?」

「……昨日よりは、少し楽です」

「それなら、よかったです」

 桜はうなずいてから続けた。

「今日は、昨日と同じことをしますね」
「新しいことはしません」
「できたことを、もう一度やってみましょう」

 それを聞いて、エルザの肩がわずかに下がった。

 ロッテと介護人が、前日と同じ位置につく。
 桜は、エルザの表情を見ながら進めた。

「では、上体を起こしてみましょう」
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
「痛かったら、すぐ教えてくださいね」

 エルザは、前日と同じ手順で体を起こす。
 左脚には、まだ触れない。
 右脚と腕で、慎重に体を支える。

 途中、エルザが小さく息を詰めた。

「……ちょっと、怖いです」

「そうですよね」

 桜はすぐに応じた。

「でも、昨日と同じところまで、ちゃんとできています」
「大丈夫ですよ」

 無理に先へは進めない。
 同じ動きが再現できているかを、確認する。

 次は、ベッドの縁へ腰を下ろす。
 ロッテが姿勢を支え、
 介護人が転倒しない位置につく。

「めまいはありませんか?」

「……大丈夫です」

「痛みはどうですか?」

「……少しあります」

 桜は、すぐに判断した。

「では、今日はここまでにしましょう」
「痛みが増える前に終えた方がいいですね」

 予定より、少し早い終了だった。

 ベッドに戻ったあと、
 桜はエルザの顔を見て言った。

「昨日と同じことが、ちゃんとできています」
「それで十分ですよ」
「この調子で、ゆっくりやっていきましょうね」

 エルザは、ほっとしたように息を吐いた。

 少し間をおいて、桜が声をかける。

「今日は、このあと、ご家族が来られる予定でしたよね」

「……はい」
「娘が……十歳で」
「私の母と一緒に、初めて来ます」

 エルザは、少し照れたように笑った。

「それは、よかったですね」

 桜は、やわらかく言った。

「はい。でも……これからが心配です」
「一か月以上の入院になるって聞いて……」

 その言葉に、エルザの表情がわずかに曇る。

 桜が一瞬、言葉を探していると、
 ロッテがすぐに引き取った。

「そうですね」
「お見舞いは、面会時間内であれば、いつでも来ていただいて大丈夫ですよ」

 エルザは、小さくうなずいた。

 夫は、昨日、
「なるべく毎日、見舞いに来る」と言っていた。

 この日の動作訓練は、これで終了となった。

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■ 金曜日・午後(桜、帰宅前)

 金曜日の午後。
 桜は、クロトと並んで王宮の廊下を歩いていた。
 行き先は、異世界への転移の結界が設えられた区画だ。

 歩きながら、クロトが口を開く。

「骨折の方の動作訓練をしていると、昨日の護衛担当から聞きましたが」

 業務の延長のような、自然な問いかけだった。

「はい。大腿骨骨折です」

「騎士も、骨折は多い職業です」
「ただ……骨折後の動かし方が、はっきり決まっていなくて」

 クロトは、言葉を選ぶように続ける。

「無理をして、かえって悪くする者も少なくありません」
「決まった目安があれば、助かると思うのですが」

 桜は、歩調を合わせたまま答えた。

「骨折によって、いろいろありますから」
「それぞれに、いつか同じような目安ができるといいかな、とは思うんですけど」

 少し考えるように間を置いてから、
 桜は小さく苦笑して言った。

「……気づいたら、もう時間なくなりそうですね」

 その言葉の重さに気づくことなく、歩き続ける。

 クロトは、一瞬だけ、足を止めそうになった。

 ――時間。

 その言葉だけが、
 思った以上に、胸に残る。

「……そうですね」

 返事は、いつもと変わらない声音だった。
 だが、ほんのわずか、間があった。

 桜は、その変化に気づかない。

 やがて、異世界への転移の結界が設えられた部屋の前に着く。
 扉の脇には、リーゼが立っていた。
 準備は、すでに整っている。

 そこで、会話は自然に途切れた。

 桜は二人に軽く会釈し、結界の中へ進む。
 次の瞬間、
 桜の姿は光の向こうへと消え、
 自宅へと帰宅した。

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■ 訓練3日目 土曜日

 土曜日。
 桜が不在のため、この日の動作訓練はマルタが担当した。

 訓練終了後、
 マルタはエルザの経過をまとめ、クラウスのもとへ向かう。

「大腿骨骨折のエルザ・ミュラーですが」
「今日も、座位まで行っています」
「強い痛みや、めまいはありません」

 クラウスは、記録に目を通しながらうなずいた。

「経過は安定してるね」

 少し考えてから、続ける。

「立位については、桜が戻ってから判断しよう」
「本人の様子を見て、いけそうなら導入でいい」

「わかりました」

「明日は訓練も休みだし」

 確認は、それで十分だった。

 次の段階は、
 月曜日に持ち越されることになった。

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■ 訓練4日目 月曜日

 月曜日の朝。
 桜は、マルタと介護人一名を伴って、エルザのもとを訪れた。

 エルザは、いつもと同じように上体を起こした姿勢でベッドにいた。
 この数日で、起き上がる動作そのものへの緊張は、少しずつ薄れてきている。

「おはようございます。
 今の痛みはいかがですか?」

「……大丈夫です。
 動かさなければ、ほとんど気になりません」

「そうですか」

 桜はうなずき、表情を確認してから続けた。

「今日は、少しだけ新しいことをやってみましょう」
「できそうなら、立つところまで」
「難しそうだったら、今日はやめましょう」

 エルザは、少しだけ息を吸ってから、うなずいた。

「……お願いします」

 ベッドの横に、木製の歩行器が運ばれる。

 マルタはエルザの側に立ち、
 介護人は後方で、転倒に備える位置につく。

 桜はエルザの正面に立ち、落ち着いた声で説明した。

「まずは、立つ“前”の準備からいきましょう」
「右脚と腕で、しっかり体を支えます」
「左脚は、今日は体重をかけません」

 一つずつ、確認する。

「では、いきますね」

 桜の合図で、エルザはゆっくりと体を前に移す。
 一瞬、表情が強張った。

「……怖いです」

「そうですよね」

 桜は、すぐに応じた。

「初めてですし、当たり前です」
「でも、今の動き、すごくいいですよ」

 マルタが足元を支えながら、声をかける。

「大丈夫ですよ」

 数秒の間を置いて、
 エルザの体が、ゆっくりと立位へ移行する。

 完全に立ちきらない。
 歩行器に体を預ける、短い立位。

「……立てています」

 驚いたような声だった。

「はい」

 桜は落ち着いた声で答えた。

「今の立ち方で、十分です」
「ふらつきもありません」

 数呼吸分、立位を保ったところで、桜が判断する。

「では、今日はここまでにしましょう」
「初日は、これで十分です」

 無理に続けない。
 ゆっくりと、再びベッドへ戻る。

「……思ったより、大丈夫でした」

 エルザの声に、少しだけ安堵が混じる。

「よかったですね」

 桜は微笑んだ。

「また、明日、一緒にやっていきましょうね」

 エルザは深く息を吐き、うなずいた。

 この日の立位導入は、
 問題なく終了した。

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■ 火曜日(訓練5日目)/水曜日(訓練6日目)

 火曜日の朝。
 桜は、ロッテと介護人一名とともに、再びエルザの病室を訪れた。

 この日は、前日と同じ内容を確認する日だった。

 歩行器を用いた立位。
 右脚と腕で体を支え、左脚には体重をかけない。

 動作は落ち着いている。
 立位保持も安定しており、ふらつきは見られなかった。

「昨日と同じですね」

 桜はそう確認し、無理に先へ進めることはしなかった。

 水曜日は、桜の公休日だった。

 この日の動作訓練は、マルタとエミール、介護人一名で行われた。
 内容は、前日までと同じ。
 立位の確認と、動作の再現である。

 エミールは、マルタの動きを見ながら、
 声かけの仕方や立ち位置を一つずつ確認していく。

 エルザの状態は、この日も安定していた。
 痛みの訴えは強くなく、立位も問題なく保てている。

 新しい動作の導入は、次回以降。
 その際は、再び桜が主導することが、
 クラウスの指示のもとで共有された。

 こうして、
 大腿骨骨折後の初期動作訓練は、
 大きな問題なく、次の段階へ進む準備が整った